2020-02-02

鴨と玉虫 西村麒麟を読む 竹岡一郎

鴨と玉虫 西村麒麟を読む

竹岡一郎


西村麒麟が角川俳句賞を受賞したのを聞いて、句集「鴨」を一年も前に恵贈されていたことを思い出した。全く読んでいなかった事も。

私事だが、あの当時、母の死からまだ二か月足らずで、とても本など読んでいる暇は無かった。遅まきながら読んでみた。

景の見せ方に特色がある。平易に景を読ませるようでいて、実は巧みに認識させていない。

見えてゐて京都が遠し絵双六  西村麒麟(以下同)

遠くはないだろう、絵双六なのだから。それを遠いと知覚するとは、作者は絵双六の平面世界に立っているという事だ。もしも見えているのが実際の京都なら、作者は、江戸と京の距離が絵双六のようにしか感じられぬ上空から、鳥瞰している事になる。知覚し認識する立ち位置がはっきりしないという、ズレが面白い。

鳥帰る縄の如きを連れ立ちて

長く連なる鳥の群の、先頭の一羽以外は、何か判らぬ縄の如きものとして認識されている。なぜ先頭の一羽のみが、鳥として認識されるのか。群れを導いてゆく意志を以って飛ぶからだろう。その意志の力が、鳥を鳥として、地上からの眼にも認識させるのだ。

無き如く小さき川や飛ぶ螢

暗闇の中で、川は地面と区別がつかない。螢は川によって生きるから、川と地面の判別がついているのだろうが、人間には判別がつかない。無い、と思えば無い。だが川は確かに有る、との主張を、飛ぶ螢から漸く知る。

古草として半分は食はれずに

何が古草を食べているのか、はっきりとしない。牛や馬だろうが、物凄く変なモノが食べているのかもしれぬ。古草は季語であるから、作者自身の暗喩と読む事も可能だ。そうなると、食べるものと食べられるものとの関係がもはや収拾つかず、あとはただ半分残された、古いふわりとした塊があるばかり。

けふの月下からぽんと押され出て

「けふの」は「今日只今」の意を負っていると見た。押され出た只今の瞬間を表している。押され出たのは作者だろうが、どこに押され出たのだろう。そして誰に、何に押し出されたのだろう。自分の意志と関わりなく、いきなり普段の場ではない何処かに出てしまった感を抱いている作者だ。「ぽんと」が良い。長閑な不安感、を良く表現している。

露の世の全ての露が落ちる時

小林一茶の「露の世は露の世ながらさりながら」を踏まえ、一茶の句が亡き子と嘆く妻を詠うのに対し、掲句はこの儚い世全ての終わり、生きとし生けるもの一切の知覚と認識が滅びる時を暗示している。恐ろしい句だ。

金魚死後だらだらとある暑さかな

いつまでも惜別の情を引き摺っている自分を「暑さ」と突き放していると思う。これは妙に泣ける句。「たかが金魚」といわれかねない世にあって、金魚の死を夏中引き摺っている作者は、優しいのか。金魚の死にさえも折れそうになる心を何とか支えて、敢えてだらだらと暑がっている、そうしないと生きて行けぬ。そんな気持ちなら、良く解る。

寒鯛のどこを切つても美しき

仄かに桜色の肉と白い骨の断面が、金太郎飴のようにどこまでも続く。素十の「甘草の芽のとびとびのひとならび」の魚バージョンか。掲句は言葉をリフレインさせずして、景をリフレインさせている。「美しき」と言われれば、成程そうも見えようが、同時に生臭くもある。美とは生臭いものだ、と言われているようだ。

箱一杯に蟷螂の怒り満つ

螳螂の斧、なる言葉を思う。季語は作者である、と読むなら、箱は作者の生きている範囲だろう。「一杯」と言っても、所詮は螳螂を容れるに足る箱だ。ここに作者の諦観を読み、それはそれで立派だと思うのだ。

雛納め肌ある場所を撫でてをり

普通、雛人形の肌の部分は絶対に触らない。汚れると取り返しがつかないからだ。その肌の部分をわざわざ撫でている。雛との今年の別れを惜しんでいるのだろうが、一寸したタブーである。肌といっても体温がある訳ではない。冷たく硬い肌なのだ。撫でて人肌に成り得ない事を、繰り返し知覚している。幽かに人形愛の匂いがする。

蔵一つ凍らせて行く雪女

小泉八雲の短編では、雪女は我が子を哀れんで、男を許す。情が薄いように見えて、恐ろしく濃い。その雪女が蔵一つを凍らせるとなれば、これは男女の密会に使われてきた蔵だと読みたい。もしかすると蔵の中には、固く抱き合ったまま息絶えた男女が、人形のように白い。初め、雪女は彼方から来て蔵を凍らせて去った、と読んだが、雪女自体が蔵に籠る情念から生まれた、あるいは人間であった女が蔵の中で生まれ変わった、との読みもある。

冬の鳥一生降りて来ぬ如く

腹さえ空かぬなら、翼が動く限り、一生降りて来たくない、とは作者の感慨で、地上の煩わしさを厭うているのだろう。季が冬なのが良い。高空は地上より遥かに寒く、そこにとどまり続けるのも、また辛いからだ。中島みゆきの名曲「かもめはかもめ」も思う。ここで上五の鳥の名を明示せず、何の鳥ともわからぬ鳥としているのは、名とは、地上からの眼差、人間の眼差に属するものだからだ。


角川俳句賞受賞作「玉虫」を読んだが、平易なる方へあまりに傾き過ぎている気がした。

家の中少し歩きて豆をまく

鯛焼をかたかた焼いて忙しき

共に選考委員が取っている句だが、このような句を読むと、作者はとにかく空っぽになりたいのだろうか、長閑な無力さを体現したいのだろうか、と、なぜか茫洋とした悲しさを感じる。この感じは何処かで覚えがあった、と思い出す。

青木亮人氏がBLOG俳句新空間の2017年8月4日【西村麒麟・北斗賞受賞作を読む8】「火花よりも柿の葉寿司を開きたし 北斗賞受賞作「思ひ出帳」評」において述べた文章だ。次に引用する。

架空線は相変鋭い火花を放つてゐた。彼は人生を見渡しても、何も特に欲しいものはなかつた。が、この紫色の火花だけは、――凄まじい空中の火花だけは命と取り換へてもつかまへたかつた。(芥川龍之介「或阿呆の一生」

俳人たちの眼には「鋭い火花」が燃えさかり、その火花を一句に宿らせるのがあるべき姿と信じられ、おびただしい実践と失敗が積み重なった末に錬金術のような絶品が生まれた時代が、かつてあったのだ。

しかし、平成期の西村麒麟氏はもはや「紫色の火花」を一句に招こうとは考えていない。

というより、火花を素手で掴むには彼はすでに冷静で、自身の丈が分かっているのだし、何より「俳句」を壊すほどの「火花」は不要である。」

この「自身の丈」とは、魂の「身の丈」を意味するのだと思った時、やはり茫洋とした悲しみを覚えた。呪いの人形の髪や歯が伸びるのは、水ではないが魂は方円の器に従う事の証明だろう。ならば、なぜ魂は、市松人形ではなく、大仏やスフィンクスに憑依しないのか。

同じ論に引用されている、青木氏が西村麒麟の第一句集「鶉」に寄せた「古き良き「月並」」中の一文を挙げる。

「戦後という間延びした「日常」に埋もれることなく「自分を失わないでいる」ためには血を流し、傷付きつつ努力を続けることで「精神の鎖国制度」を打破するしかないと拳を握りしめる姿は、平成年間においては郷愁とともに現れる幻影に近くなった。

崩落のはるかな響きを聞き届けつつ無表情に小さなディスプレイをタップし続ける私たちは、むしろ「固定した日常性」と「鎖国」に浸りつつ甘やかで索漠とした快楽に身を委ねるのみだ。

しかし、それは忌避すべきことなのだろうか。

私たちは天才ではありえない。取るにたらない喜びや不満を味わいつつ、小さな幸せや不幸せが交互に訪れる市井の日々を何とか生きる他ない凡人がささやかに何かを表現したいと願った時、慈しむべき詩形として昔から連綿と愛でられたのは俳句であった。」

慧眼である。これがまさに俳句にとっては、平成が進むにつれて、霧のようにあらゆる間隙から入り込んでいった細やかな呪縛、緩やかに穏やかに生暖かくまとわりつき、にこやかに絶え間なく囁き続け、時に権威や衆に彩られた正しさを謳い、時に網の目のような友情を謳い、時に冷笑と見紛うばかりの「高次の」認知を謳いつつ、骨髄にまで沁み渡るかと思える三十年間の惑わしであった。

その惑わしの呪縛の来たる処を、青木氏は身を呈して暗示してくれている。「私たちは天才ではありえない。」ここでなぜ「私たち」という横並びの代名詞なのか、なぜ「ありえない」という断定なのか、なぜ「私は天才ではない」とは書かれ得なかったのかを、注意深く観る必要があろう。

漸く平成は終わった。やっと終わってくれた。平成と共に、爛熟した果実が音もなく密やかに落ちるように終わった呪縛があるだろう。時間を、鳥瞰された螺旋階段として観るなら、或る一周は終わりを告げ、次の時間が始まりつつある。江戸は漸く終わり、新たな近代が始まる。

整備された舗道ではなく有るか無きかの獣道に臨むあなたへ、堅牢な井戸の底ではなく日本海溝を覗き込むあなたへ、私は言いたいのだ、「あなたは天才でしかありえない」と。この言葉が自分に向けられていると、あなたが胸底わずかにでも思うなら、犀の角のように、天才である事を覚悟せよ。

私が茫洋とした悲しみを覚えたのは、麒麟の句に対してではなく、麒麟の句の周囲から立ち昇る、生ぬるい呪縛の匂いに対してだと思いたい。その匂いもやがて霧散するだろう。

ここが麒麟の過渡期であり、素十のような質実の強靭さへ向かおうとしている途上か、と信じたい。

だから、先ほどあなたに向けた言葉を、私は麒麟にも言いたい。この論の前半で取り上げた「鴨」中の諸々の佳句を書き得た麒麟に、優しくとも犀の角のように在る覚悟をせよ、と言いたいのだ。

「玉虫」から三句挙げる。

炬燵より出て丁寧なご挨拶

あまりにもゆっくりとした動作を思い、そんな風な無力さ、慎ましさ、融通の利かなさに対する、作者の深い愛を感じたりもする。穏やかな老婆の描写だろうか。ほんのりと可笑しい句である。

月光を浴びて膨らむ金魚かな

月光に映えて金魚の赤が膨れ上がるように輝いている、と読めば美しい句だ。月光が黄泉に通じると観て、死んだ金魚が水面に浮いて膨らんでいると読めば、これは惨い句だ。金魚の生死は永遠に判然としない。

いつまでも蝶の切手や冬ごもり

冬ごもりする蝶はいる。凍蝶なら、寒さに削られて、ただでさえ薄い身はどんどん薄くなる。切手の如く薄くなるだろう。切手とは便りに貼る物だ。越冬と閉塞と、凍てに削られる事と、便りへの思いが、「いつまでも」ある。あたかも「冬ごもり」という行為の中で、時間がループするように。

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