【空へゆく階段】№23
ゆうの言葉
田中裕明
ゆうの言葉
田中裕明
「ゆう」2000年4月号・掲載
龍の玉影を離れてゐたりけり 昭男
龍の玉の微妙な存在をとらえることに成功しました。現実の龍の玉を見れば、別の姿態が見られるのかもしれませんが、読み手にとってはこれ以上のありようは考えられなくなります。それが詩の力でしょう。
水餅や櫻は暮るることはやく 喜代子
日々のくらしに密着した櫻の木のすがたが想像されます。水餅という季語のもたらした世界です。ある意味で世帯じみた季語ですが、そこに澄んだ空間を創りだしたのは、作者ならではの持ち味にほかありません。
子と同じ高さで離す追儺かな 麻
小さい子供の母親が、かがむようにして、子供の耳もとに口を近づけて何か話しかけているのでしょうか。やさしい気持が一句にあふれているようです。場所は追儺寺。子供の興奮した表情も浮かんできます。
寺の子の下校しづかや雪催 明澄
「下校しづかや」とありますが、この作品自体がものしずかな顔つきをしています。いわゆる、けれんみのない俳句と言えます。雪催という季語も、投げ出したようでいて、全体をつつみこむように感じられます。
喪の日々をひらすら乾く干菜かな 敦子
近しい人が亡くなって、喪に服している日常の生活をこのように表現した俳句は、いままでになかったでしょう。
ひたすらに乾く干菜は作者自身の思いをも象徴しています。きびしい抒情があります。
海見えてゐるだけのこと冬櫻 刀根夫
小高いところに冬櫻の木があって、そこから海が見える。それだけのことだと作者は言いますが、なかなかそれだけのことではありません。
昨年、本当にいろいろな角度から冬櫻を詠いつづけた作者ならではの詩情が一句にうかがわれます。寂しい冬櫻の花を描いて、人物の気持にまで及びました。
さまざまな探梅をして逝きし人 満喜子
その人との思い出はいろいろとあります。冬の野に梅を探ったことも。考えてみれば、その人自身、いろいろな探梅をされたことでしょう。さまざまの場所や天候に。
そして、その人もいまはいないと、言いさして言いつぐんだところに、作者の万感あふれる悲しみがつよくひびいています。
振り返るたびに石蓴の色遠く 尚毅
早春の海辺で時間を過ごして、帰ってゆくところでしょうか。海辺の景物に気持が残っていないわけでもないという微妙なところ。
「色遠く」という一句の止め方が、たいへんにうまく、こういう句はなかなかできません。
寒林の影あきらかに延び来たり 朱人
寒林も爽波先生の好きな季語でした。
取合わせでなく、寒林そのもので一句を成すことは爽波先生のお気持によく適うことのように思われます。
もちろん、取合わせの俳句がわるいわけではありませんが。
歌仙絵の屏風のひとり見たらぬ 洋子
この句も、椹木啓子さんを悼む作品。
ゆう作品の中にその名のないことが、たいへん寂しく思われます。
遠出して小さき厄を落しけり 泉
わざわざ遠出をして小さな厄払いをしたというところに面白みがあります。
水仙をもて水仙を挿し替うる 章夫
この句、水仙という季語がうごきません。こういう確かな句づくりが大切に思われます。
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