竹岡一郎
(Ⅰ.のみ『We』第9号より転載)
Ⅰ.髙田獄舎「瘴気の子」
艇庫に寝れば燃える哺乳類くだらん夢 髙田獄舎(以下同)
陽炎賛美の眼にゴキブリは乱れる虫
金星下に便所を崇め酒宴凍る
俺を嘲る中年の眼に孔雀が棲む
箱のなかに妊る王子らだれも燃えず
「瘴気の子」(2019年7月24日)から、五句挙げてみた。皮肉、嫌悪、嘲笑の句だが、言葉の結びつきは緊密である。ごつごつした細い鉄の、彫像というにはあまりに惨いものが佇んでいる。
しかし、世界が惨くなかったことなど一度も無かった。ならば、これらの句が、昆虫の複眼のような視点から描いた客観写生でない、と言い得る俳人はいるだろうか。
これらの句を一々解析しようとすると、その悪意に疲れる。疲れる、とは誉め言葉だ。これらの惨さと悪意の発するエネルギーを只満喫すればよいと思う。堪能するに足る緊迫感を蔵している事は、誰にも否定できまい。しかし、どうしても解析したくなる句はある。次に試みよう。
天上へ繭のつらなり濡れながら
これが連作の冒頭である。何と美しい句だろう。繭は余剰の糸によって互いにつらなり合っているように見える。濡れているのは雨意を含んだ高空の大気によるのか。それなら、天は雲を蓄えて、鈍く重いだろう。それとも繭自身が羽化直前の蠢動により、体液を滲ませるのだろうか。
繭はつらなり濡れることにより、天から雨を誘い出そうとしているのかもしれぬ。どうも夕づく空を繭たちは昇りゆくように見える。白い繭には茜色が良く映えるからだ。
蒸発した地に孔雀が売られ棺照る
「孔雀が売られ」は判る。生には華美が好まれる。「棺照る」も判る。立派な棺は、死者の一生を讃えて艶良く輝く。問題は「蒸発した地」で、核爆発か隕石の衝突で、地ごと抉られ気化したと読むのが妥当だ。では、売買や葬りの営みは何だ。人々が己の死に気付かず、商ったり、今一度死んで棺を得たりしているのか。土地自体が霊で、そこに忙しく有る一切は、実は土地の記憶だ、と観る事も出来よう。
熱い花と泥がみだらな朝の交番
カルメンとホセの逢瀬を思う。身近な権力を誘惑する者の、その熱い念だけを、花と泥に仮託して描き出す。朝だから、一層良い。清澄な明るさにたじろがぬ誘惑者の大胆さが見えるからだ。「朝の交番」の寂しさが、微かな憂愁を与えている。憂愁といえば、次の三句もそうだ。
旅の髪に蝶語りかけ銀の谷
苦しむまえ夏鳥くび振る暗い学園
群衆疲れ時雨が青馬のみを濡らす
先に挙げた交番の句と比べれば、一読、情景は明白である。作者には珍しく、言葉の配列が柔らかいからだろう。だが、作者の真骨頂は次に挙げてゆく句群である。
楽器砕かれ天明の窯に蛇の静止
天明といえば、浅間山の大噴火、みちのくの大飢饉、江戸や大坂の打ちこわし、京都大火と、まさに祟りの時代であった。この「天明」が最大の手掛かりである。
蛇を、地のエネルギーがそのように観えたという意味で、地祇と読んでみる。窯が何を焼くか明示されていないが、句の様を見るに、江戸の陶磁器の綺麗さではなかろう。炭か。炭の硬い黒色なら、この句に相応しい。焼成や溶錬の為の、結界の場を窯と呼ぶなら、窯の前後の語である「天明」「蛇」とあいまって、窯は霊的なもの、天明の怨みや古よりの祟りを、精錬し実体化する場とも読める。
燃える窯に、蛇、即ち地祇が、抜刀の如く動かんとする間際の「溜め」を、「静止」と、緊張感を以て詠う。楽器は、うたうものである作者自身だろう。砕かれる今際、楽器の発する音は、炭を撃ち合わせた如く鋭く澄むか。その音色に、蛇は静止するのか。
花つばき流民か磐を断つものは
この句の要は「磐」だろう。磐とは磐座であり、磐州即ち磐城国(今の福島県東部)である。いわき市は、福島原発事故から約四十キロの地点。「流民」を原発事故からの避難民と読む事も出来ようが、強大な呪術を携え東北へ遁れた物部の民と読むも可能だ。そう読んだ時、「磐を断つ」に「磐座を断つ」の意が生ずる。断たれるのは、物部の磐座ではなく、大和以前の縄文の神、地祇神の磐座か。
では、「花つばき」を如何に解するか。椿は常緑であるため、榊や松と同じく、めでたい木、繁栄の木、邪を祓う木とされた。一方で、首が落ちることから、武家では不吉とされるという。(落馬を連想させることから、馬の名には用いない。)ここに椿は、背反しながらも実は表裏一体である吉凶を含む。例えば、技術による繁栄とその暴走による壊滅。更に掲句の椿は、真っ赤と想像する。福島原発事故を思えば、死の放射能を放つ燃料デブリを想起するからだ。ここに、国土千年の連綿たる惨たらしさを読み得よう。
白い草が不要な抵抗のための三列
白い草とは、惨い陽に灼け、乾いたまま、尚も地にしがみつく草だろう。「三列」が何を示すか判らないし、「不要な抵抗」も概念的過ぎて解らない。だが、語の置き方が緊密なせいで、概念語が、判らないなりにも実体を持つ語のように見えてくる。(3とは堅固にして最少の神秘数だ。)
この句の要は「抵抗」である。他の語は全て「抵抗」という概念を、その概念のままで、或る判別不能な手触りを生じさせる為、実体の重さを持たせる為にあるようだ。
自転する肺に万暗黒の種ふたたび
この作家の句は頑なに、往々にして概念的になるのだが、奇妙なのは、その概念語が、様々な語の緊密なコラージュの中に置かれると、概念ではなく或る実体を持った語のように錯覚され出すことだろう。この句など、その最も顕著な例で、「万暗黒」(ばんあんこく、と読むのだろうか、その方がリズムに強さが生じる)とは、何とも意味不明な概念語である。だが、惑星のように自転する肺の中にあって、更には「種ふたたび」と置かれる事により、万暗黒は繰り返す宇宙生滅の流れ全体を指し示すように思われてくる。それが「肺」の中で行われるのであれば、この肺は(恐らく作者の肺であろうが、)宇宙を内包する肺だ。
「怒濤岩を嚙む我を神かと朧の夜」と若き頃、虚子は詠った。これを自意識過剰と笑うのは簡単だが、それで終らせる者は、決して己が身の大きさ以上の句は出来まい。
火が雪となり枯草からは弱い歌
雪が火となる事はあるかもしれないが、火が雪となる事は先ず無いだろう。敢えて想像するなら、火の熱が地の水分を蒸気と化せしめて空に昇らせ、その蒸気がやがて雪となって降り来る景だろうか。火が生ずるとすれば、枯草からではないか。作者自身が火をつけるのか。「弱い歌」とは、雪が枯草を滑る音かも知れぬし、枯草がそよぎ抗しつつも徐々に雪に拉がれる音かも知れぬ。
枯草を、或いは枯草の昇る魂である火を、作者と読むなら、己が火の、悉く雪と変ずる様を仰ぐ絶望を、「弱い歌」と客観的に、または自嘲として詠ったとも取れよう。「火が雪となり」のフレーズ自体は力強い。この強さを逆説的に観て、再生のイメージを思い描くことは出来る。
晶晶と町黙契のため蟻を濡らし
「黙契」とは、無言の内に互いの意志が一致する事だから、町と蟻は互いに良く知り、互いに認め合っているのだろう。町が濡らすのだから、雨ではないように思う。町自体の液体であるなら、それが上水であれ下水であれ、町はもはや肉化している。たとえ雨であったとしても、それは町に降った時点で、町の所有に属する。堅固な領域を持つ町なのだろう。晶晶と、きらきらと、鉱物の結晶の如く濡れているのは、黒光る蟻でもあり、町でもある。
蟻は一匹だろうか、群れだろうか。いずれにしても、或る特別な一匹だけが、町と黙契しているなら、作者は自身をその蟻と重ねている筈だ。黙契を「沈黙の内に行われる契約」と拡大して解釈すれば、蟻は契約の為の生贄とも見え、だからこそ、町の晶晶たる様と趣を同じくする。濡れる蟻は、硬質に光る町の鏡像ではないかとも読める。
わが鼻欠け隕石のみが香る荒野
鼻が欠けているなら、香りを把握することは出来まい。つまり、ここに香るものは、作者が実際には嗅ぐことの出来ない匂いだ。隕石とは地球外から来たもので、その主成分がたとえ地球にありふれた鉄であっても(隕石は圧倒的に鉄隕石が多い)、やはり地球の鉄とは違う異質なエネルギーを放つものだ。(鉱物マニアなら納得されよう。)
そして「荒野」には「隕石のみが香る」、隕石以外の香りは死滅しているのである。しかもその香りを、鼻の欠けた作者は、嗅ぐことが出来ない。知覚できないものしかない荒野にあって、知覚から隔絶されている地獄を、嗅覚に特化して表現しているのだ。嗅覚は、脳の記憶の場と密接に関わっているという。作者は記憶においても隔絶されている、そう読めば、作者の孤絶感は如何ばかりか。
ビルに角笛燃えみなしごの悪さよなら
「角笛燃え」は、燃えるが如く高らかに響く、と読んだ。「悪」とは概念である。だが、「みなしごの」とつけたことにより、みなしごが生きのびる為に成さなければならなかった、ありとあらゆる行為を逆説的に「悪」と呼び、愛おしむようにも見える。次に来る「さよなら」の語が、哀切に句を締めるからだ。「さよなら」と、悪に、それとも、みなしごの人生に呼びかけているのだろうか。身無し子、身寄り無き児、属する処なく無力なる者とは誰か。その命終において寄る辺なく暗冥に流れゆく様を観るまでもなく、浮き草の世に生を営む殆どが、本来、身無し子ではないか。
己が無力さと対峙する時、抑え難い滾りが、無機質なビルに角笛となって燃え響く。寄る辺なき生が罪であるか、罰であるか、そんな裁定を遥かに超えて、燃え轟くその瞬間は遍く街を統べ、天をおびやかす。かつて悪魔は角を聳やかせ、「時よ止まれ、お前は美しい、と言った時、魂を貰う」と言った。角笛に凱歌は昇り、時を止めるだろう。魂は角笛として、世界に訣れを告げるだろう。
誰の忌か天上の鹿雨をもとめ
「瘴気の子」は、この句に締めくくられる。天上へと向かう繭に始まり、天上の鹿に終わる。繭が孵化して鹿となったのか。鹿が神の眷属なら、天上にあっても不思議ではない。雨をもとめるのは、「忌」であるからで、鹿は、自らの代わりに涙こぼすものをもとめているのかも知れぬ。
誰の忌か、と問われれば、数多の忌を想定し、なお作者の眼にしか見えぬだろう鹿が、天上に、嘆きの、慰撫の雨を求めるのであれば、作者にとっての世界の忌か。
全篇通じ、地獄を書き表さんとした句が多い。最初と最後に天上が顕われる事に、或る言葉を思い出す。あれはニーチェだったか。「梢が天に届く樹は、根は地獄に届いている」だが、根が地獄を貫くからこそ、梢は天にそよぐ。
将来、鉄塊の如き句を成し得る作家だと思う。騒がしく移ろう世間に目を遣らず、自らの地獄を観照し、孤独を豊饒と感ずるまで沈潜し、錬成し、蛇笏と鬼城の重さを学んで自家薬籠中の物とすれば、今よりも更に、類のない句を起ち上げる事が出来よう。獄舎よ大樹となれ、と祈る。
Ⅱ.髙田獄舎「日本喜劇」「灰燼乃地」「毒存在紀」
私はもう評論を書くのを止めようと思っていたのだ。俳人だから、句だけを書けば良いと思っていた。だが、令和元年の師走に、髙田獄舎の句群を発見した時、一年半振りに、論じたい思いを抑えられなかった。「瘴気の子」論は三時間で草稿を書いた。完成稿まで三日掛からなかった。それくらい昂った。
「獄舎よ大樹となれ」と「瘴気の子」論を〆たのが、年の瀬二十五日、これで終わりにしようと思ったが、「瘴気の子」前後の獄舎の連作について書きたい気持ちがどうしても収まらぬ。
髙田獄舎の「現代鳥葬」(「週刊俳句」第467号、2016年4月3日号)及び「機械逸脱」(「現代俳句協会青年部」ホームページ2016年10月)から挙げる。
瞑想戒律無限にガラス製の故郷 「現代鳥葬」
ここに作者の理想が示されているとも思う。何もかも透き通り、無限の鏡像を映し出す。ここに生ずる眼差しは一つでありながら一つではない。無限の交錯する眼差しがあり、しかもそれらが脳に信号として識別される際には、同時多方面の情報として受け取るような。それを「故郷」として識別するなら、あらゆる場所は故郷であり、同時に何処も故郷ではありえない。それが「瞑想戒律」だと言っているように思える。
故郷点在の拡声器を蔑む暗緑の鳥 「機械逸脱」
この句は、先の「瞑想戒律」の句と対照をなす。現在の故郷だが、あるべきでない故郷だろう。
現代鳥葬 到達できぬ惑星を滅ぼし 「現代鳥葬」
到達できぬ惑星をどうやって滅ぼすのか。手段があるとすれば、いま居る次元の裏にでも回るより他はない。鳥葬とは、人体の各部分を複数の鳥が啄み飛び去る事によって成立する。惑星を滅ぼす不可能性を可能にしてこそ、現代の鳥葬が成立するなら、滅ぼしたいのは作者の観る惑星であろうから、鳥葬の対象は、作者の知覚それ自体である筈だ。その知覚を滅ぼす事が、次元の裏に回る方法なのか。
連作「日本喜劇」(2016年)、「灰燼乃地」(2017年12月24日)、「毒存在紀」(2018年4月24日)を見てゆく。硬質の苦い憂いの句を「日本喜劇」より挙げる。
朝焼を採集しつつ辞書を焼く
全員無言コンクリートに鷲を描き
風薫る手描きの箱舟わがノートに
耳の発光不可能な蘇生を語る村に
「上海の橋に」から始まる日記月の雨
深夜やさしい灯りの軍艦の写真を売る市場
真黒な折鶴 放課後優等な学生の机の上に
言葉を定義するものである辞書は、作者の採る暁光に焼かれる。堅牢な人工の無機質さに、鳥の王の羽搏く強さを描く全員は言葉無い。脱出のための箱舟は、青春期の手描きに過ぎぬ。「不可能な蘇生」(これは村の蘇生だろうか)を聞く耳は、灯るほど応じる。行った事の無い上海の橋を、他者の記録によって、茫漠と月に雨降る如き昔の映画のように追憶する。戦争の為に有る軍艦の写真が優しく照らし出される深夜の矛盾。折鶴に込められた優等生への思慕と呪い。
懐かしいものを懐かしんでいるのではない。懐かしみたいと思いつつ、懐かしむものを何処にも持てぬ寂しさを詠っている。実は、あらゆる懐かしさと、懐かしく思う自身の優しさを疑え、と作者は思っているのかもしれぬ。「灰燼乃地」より二句挙げる。
疑う街で手をつなぎ光の畳へ飛ぶ
感動部隊の俺もあんたも生きぬくビル
手をつなぐ事も嘘だと思っていて、それでも尚、光へ飛びたいと思うのか。それが畳の光のような慎ましさに過ぎぬとしても。徒労に感動し、その感動を是とする作者に、私は感動する。ビルは勿論、無機質なものであり、便利なものであり、都市を形成する最大の要素だ。感動部隊とは、その無機質に便利な都市の核において感動を任務とする部隊か。ならば、私もまた部隊の一員である。任務のために我が身を投げ打とう。
「もはや戦後ではない」高度成長期から更に遠く離れて、尚も次のような句群を書かざるを得ない動機は何だろう。再び「灰燼乃地」から挙げる。
アパート内に静かな勅を知らないか
汁に肉多く陰口は1945について
近未来へ神風のサラリーマンと雨にうたれる
火炎となる午前靖国神社の柔らかいベンチに
戦争は1945年に終わった筈なのだ。だが、終わってない。沖縄で終わってないとか、広島や長崎で終わってないとか、東京、名古屋、大阪の大空襲の遺物である不発弾が今でも掘り出されるとか、そういう話ではない。日本人の精神の奥底の瀞として、戦争はずっと淀んでいる。
繰り返し戦争をなぞる念が湧き、念は言葉となり行動となり社会の規範や流行となって、いつまでも繰り返している。戦後の若者たちを育んだアパートに人知れず流れる幻の玉音に、米国式肉食を謳歌する現在の我々に、近未来に至るまで続くだろうサラリーマンのずぶ濡れの滅私奉公の生態に、未だ遺族と死者の割り切れぬ思い燃え上がる靖国神社と、その境内に置かれたベンチの感触に。更に戦争の句を「日本喜劇」から二句挙げる。
白椿戦死者を模倣し横たわる父
「父」とは現実の父のみならず、「父なる」と称される全ての役割を指すのだろう。それは家長制度の頂点をも表わすかもしれぬ。この父には顔が無いだろうか。小早川秋聲の描いた「國之盾」の如く、軍装に身を包み、顔には寄書された日の丸が被せられているかもしれぬ。
小早川は長男をモデルに「國之盾」のデッサンを描いたと聞く。掲句では息子が父をモデルに、白椿の孤独な落ち様に重ね、戦死者を描こうと試みるのだ。
小早川の絵には当初、死者に花が降り注いでいたという。軍から受け取りを拒否された後、小早川は背景を黒く塗り潰した。暗黒の中に置かれた死者、という容赦ない現実を見ざるを得なかった画家は、しかし、死者の頭から差す微かな後光だけは消すことが出来なかった。その後光が、掲句の場合、白椿である。
陸軍記念日期間工の宿舎にチューリップ咲き
3月10日の陸軍記念日は、明治38年(1905年)日露戦争の奉天会戦に日本軍が勝利し、奉天に入城した日。戦勝により、日本は満州の権益を手に入れ、非白人国としては唯一、列強諸国の仲間入りをした。日露戦争は、ロシアにおいて共産主義革命の呼び水となり、アメリカにおいて黄禍論の動機となり、当時植民地であったインド等の非白人国にとっては希望となった。
このような経緯で定められた陸軍記念日だが、奉天会戦の四十年後(1945年)の同日3月10日、東京大空襲により、帝都は灰燼の地と化した。
つまり、「陸軍記念日」と句中に置いた時、日本にとっては勝利に開かれ地獄に閉じる円環、四十年を要してユーラシア大陸と北米大陸を包んだ戦争の円環が、句中に置かれるに等しい。
期間工の日々が兵役のように自由無く単調で苦しいか、それとも住みかと食事が保証され手っ取り早く金が稼げる良い仕事か、人により感想は様々だ。一般には自動車工場や電子部品工場等、日本の高度成長を培い、今なお日本経済の主幹である産業の期間工だろう。
その宿舎にチューリップが咲く。呑気な、あけっぴろげな花だ。その花を見る期間工の指先から生み出された一つの部品が、どんな使われ方をし、どんな風に世界地図を変えるか、誰にも分らない。確かな事は、戦争ほど科学技術を発達させてきたものは無い。それが善であるか悪であるか、チューリップにとってはどうでも良い事のようだ。恐らくチューリップが正しいのだろう。空っぽに口を開け、その生殖機能である蕊を陽光にあからさまに晒しているのは、無敵のようだ。
明治でも平成でも、良くも悪しくも、百年経っても、戦争に勝っても負けても変わらない人間の根幹を、チューリップは笑うのか。
上質の喜劇が密かに悲劇を背負っているなら、連作「日本喜劇」の圧巻は、次の二句であろう。一句は終戦という近代の終わりを、一句は明治という近代の始まりを良く捉えている。
予想に忠実にオルゴール停止し八月十五日
七十年を超えて繰り返される八月十五日を、「終戦日」でも「敗戦忌」でもなく、こんな風に詠う。終戦日と呼ぶか、敗戦忌と呼ぶか、それは生きている者の勝手だ。生きている者達が、自分達の陣営に都合の良いように呼ぶだけだ。オルゴールは設定された通りに曲を終える。「予想に忠実に」繰り返し同じ時間の幅で終わる。死者は蘇らない。生きている者はオルゴールが奏で終わるまで見ているしかない。或いは死者の心情から目を背けるように、オルゴールの旋律から耳を塞ぐしかない。
ただ一語「明治天皇」とだけ言うオウム
この句は、近代の始まりの功罪の原点を良く捉えていると思う。実に日本の近代は明治天皇に始まったのだ。国家の枠組のみならず、思想の枠組も形作られた。宗教の統制もあった事は、国家神道の成立や廃仏毀釈によっても知れる。明治政府の最大の過ちは、招魂社(靖國神社)に幕府側の志士を祀らなかった事だ。
大正期に書かれた久米正雄の「父の死」という短編を思い出す。当時校長を務めていた父が校舎の火事に伴い、天皇陛下の御真影をも焼失した責任を取って切腹する話だ。その切腹の意義の可否は永遠に判らぬ。近代日本の目覚ましい発展とそれに伴う数多の犠牲が、明治天皇に始まる事を思うばかりだ。
だから、オウムは同じ言葉ばかり繰り返すに見えて、実は「原点を見よ」とひたすら示唆しているのかもしれぬ。
日本の近代の始まりと終りを引き摺り、作者はどう行動するのか、それが次の句に示されている。「日本喜劇」中の自画像である。
大学は暗闇にわれは複数の吉良上野介を追う
若い閉鎖空間の中で誰が本当の仇なのか、何処に仇討ちを仕掛ければ良いのか。ただ仇を討ちたいという情熱だけは溢れかえってやまないのだ。
複数の仇を討つためには早急に分裂しなければならず、仇討のつもりがドタバタ喜劇になる様を敢えて呑んでいる。青年の思いつめ方は、滑稽であるからこそ、胸打たれるのだ。その滑稽さを客観視しつつ止めないなら、尚更である。
作者は猶予された暗闇を走り回った挙句、もしかしたら母なるものの仇は見つけたのかもしれぬ。「灰燼乃地」より、次に挙げる。
コンビニの世紀コンビニで母殺され
「コンビニの世紀」とは良く言ったもの。これほど現代の利便さの悲しさを示す言葉もあまり無いだろう。会社と家の往復の間にコンビニにさえ行けば、最低限の生活は出来る。そこで母が殺される。この句を倒置と読めば、コンビニで母が殺される事によりコンビニの世紀が始まる、とも読める。
この母が何であるか、実際の母なのか、母と称された数多の他人なのか、母性という象徴なのか。兎も角、母なる者は一個人にとって概ね一回性のものだ。
コンビニという場、日常のもの(かつては「母」が日々揃えていたもの)が最も手っ取り早く一通り、果てしなく互換性を以て揃う場において、母が殺される時、その母はもう蘇らない。蘇ったとしても、コンビニに蘇るそれは、既に果てしない互換性を持つ便利な母に過ぎない。「子宮回帰」という言葉があるが、コンビニで母が殺された場合、その母から生まれた一個人はどこにも回帰しないだけではない。その存在の始まりをも、手っ取り早い互換性として、否定され得るかもしれぬ。
きれいなコンビニの皮一枚剝がせば、母が殺される景は日常としてあるだろう。コンビニの便利さが、世界中のどんな犠牲によって成立しているかを考える。
私は夢想する。コンビニでお茶でも買おうと思い、ずらりと並ぶお茶の緑のペットボトルを手に取り、何の気なしにボトルに印刷されている俳句を読む。真っ赤な字で「コンビニの世紀コンビニで母殺され」と記されている。窓からも自動ドアからも床からも沸き上がる叫喚が、叫喚の背後に韻く地母神の呻吟が、新たな惨たらしい世紀の開く音だ。だが、その音は人間の可聴範囲外で、コンビニに買物する人々は理由も判らず苛々するだけだ。
「コンビニ」が季語として認められる時が来れば、掲句は歳時記に掲載されるだろう。それほどにコンビニの本質を抉っている句だが、悲しいかな、「コンビニ」は無季のみならず、季を粉砕する語としての代表格だ。
この「コンビニ」の句と対照的な句が、「毒存在紀」にある次の二句だ。
船蹴るな船蹴るほどの豊かさだが
作者には珍しく、妙な明るさのある句だ。「蹴るな」と言ってるのだから、生活に直結した大切な船なのだろう。漁船か。しかし、本気で怒っているように見えないのは、中七下五による。一番良い読みをするなら、大漁だったのだろうか。どうも嬉しくて蹴ってしまったような感もある。
俎板に愚千夜虞血耶の鯛朝はじまる
※「愚千夜虞血耶」に「ぐちゃぐちゃ」とルビ
なめろうやつくねを作っているとか、みそ汁の具を刻んでいるとか、料理は色々思いつくが、まるで暴走族の特攻服の背に記されているような「ぐちゃぐちゃ」の当て字から、やけっぱちさを思う。となると、刺身を作るのに失敗したと見た。
鯛は皮を剥ぐのが難しい。皮を下にして、手で皮を押さえ、包丁で身と皮を剝がすのだが、刃が上手い具合に入らないと、包丁に身の部分が押されて、鋸で押し切ったようになってしまう。
随分豪華なぐちゃぐちゃっぷりである事は、当てられた漢字からも、対象が鯛である事からも窺える。「千の愚かな夜の果の血まみれ美女」を、鯛に思ったりもする。下五が良い。「朝はじまる」、特に、「はじまる」という字余りの言い切りに、開き直った感が出る。
花咲く邦画の遅いリズムよ金無い日
楽しい思い出の数減る錆びた殺虫剤のある便所
「灰燼乃地」より二句挙げた。こんな風な行き処無い長閑さは懐かしい。特に二句目など、呻きたくなる気持ちを押さえて、「懐かしい」としか言いようがない。こんな懐かしさを抱えて、遂に懐かしさ全てを破壊し、禁忌を犯したいと思う。
黒土に手を入れ蛇との交尾は咎 「灰燼乃地」
公園に自由なく大きい蟻を口に入れる 同
この二句はまだわかる。禁忌への誘惑を詠っているのだと思う。だが、同じく「灰燼乃地」中の、恐ろしく気になる次の句を、どう解釈すればよいのだろう。
蝗に生まれて同じ陸地があるだろうか
いわゆる「蝗」は遠距離を集団で飛行し、全ての穀物を喰い尽くし、餓鬼地獄を作り出す。中国では蝗災、水災、旱災と、三大自然災害の一つに数えられる程だ。
(但し、中国や中東で恐れられてきた蝗は、日本における蝗ではなく、バッタの変異である。中国の蝗害も、黙示録に出て来る蠍の尾を持つ蝗も、正確にはバッタの害、蠍の尾を持つバッタという事になる。更に言うと、蝗の佃煮は美味だが、バッタは不味い。)
掲句の蝗はもちろん、古代から蝗害を起こし、世の終わりには蠍の尾を持つに至る方の蝗である。この句の悲しさは、「同じ陸地があるだろうか」にある。
蝗はいつも違う陸地を目指し、出来れば海をも越えたいと思っているだろう。何のために。果てなく喰い尽くしたいからだ。孤独を虚しく埋めるベく、喰い尽くしたいのか。ならば蝗は、地上全てを喰い尽くすヒトであり、作者であり、私も含めた読者自身だ。孤独であると言わずして、孤独を表す三句を「毒存在紀」から引こう。
手のひらのような色の花だな何度も殺す
「手のひらのような色の花」とは不気味だ。人肌の色でこちらに向かって花弁を広げている。それを何度も殺せば、孤立する事は目に見えているが、絆という絆を殺さざるを得ない激情。
暗雲から落ちた鎖を撮りにゆく
落ちた鎖は何を繋いでいたのか、その証拠を写真に残すために行くという事は、鎖は消えるか回収されるのか。鎖を撮りたいのではなく、暗雲から堕天使のように失墜した鎖が地上に叩きつけられた時の、一瞬の、既に聴くことの出来ぬ硬質の音を確かめたいのか。
生死ではなく稲妻思え夜の家出は
生死を思うとは、未来と過去を思うのだ。稲妻を思うとは、現在の光と轟音を思うのだ。そんな家出が惨憺たるものに果てるのは解り切った事だ。夜が明けなければ誰にも知られず終わる。夜が明ける保証など何処にもない。せめて雲が切れ、月が射すなら。
だが、月が射したところで、月光は別の孤絶を指し示す。「毒存在紀」より更に二句引く。
届かない月光お前ごときは孤独飼うな
「お前」は相手でもあり、自身でもあろう。「孤独」という言葉は難しい。どう使っても我が「孤独」を認めろ、という強制になる。だが、掲句では、「飼うな」という。「愛玩するな」とも取れる。ここでは相手の、そして自分の「孤独」に大した価値を認めていない。「孤独」なぞと言っているから、月光が届かないのだ、と断じているようにも読める。月光とは、死を蔵する光、黄泉へ通ずる条線だ。
月光が病院の壁「不可」というな
※「不可」に「物語」とルビ
まともに読めば、月光自体が病院の壁なのだ。病院は月光で構築されていると読める。存在しない病院と言えば簡単だが、そうでは無くて、存在はするが不可触の病院である。
「不可」に「物語」とルビを振っている。「不」は「物」で、「可」は「語」である。語ることだけが許されていて、物は「不」、即ち、否定されている。月光は物ではない。病院は物ではない。
病者は、或いは病者に、「いうな」と禁じているのか。物は語られ得るが、それは物でなく、語りであり、物は存在するが、月光の如く、死の如く、黄泉の如く不可触である。
語りによって壁あるいは月光は知覚し得るが、その知覚は病者にとってのみなのか、或いは病者だけが壁を知覚しないのか。
では、そもそも知覚とは何か。「毒存在紀」中から、知覚に関する理想と信条を示している句を挙げる。
虫ども複眼でとらえているか糞と教会
※「教会」に「church」とルビ
複眼、それは世界を様々な方向から同時に視る手段だ。先に挙げた「瞑想戒律無限にガラス製の故郷」と同様である。教会はルビを振っている処から、西洋の教会だろう。虫は糞と、唯一神のいる教会を同時に視て、複数の視覚情報を統合して認識する。ボスの絵のありようを思い出す。悪魔も聖者もみな同一の空間に有る絵を。
複眼を持つのは虫だけだが、虫は脳を持たない、つまり認識された情報は思考に昇華されない。地獄でもあり祝祭でもある世界を正確に認識できるのは虫だけであり、人間は只想像の内に複眼を以って思考するより他ない。
どのように書けば、地獄でもあり祝祭でもある世界を表現できるか、その方法を模索して、例えば、「灰燼乃地」中の次のような句に結実するのか。
尿で毛虫殺し真夏の孤児は今日を飛ぶ
掲句の舞台は、まさしく灰燼の地であり、孤児はまるで1945年の国土の灰燼の只中に居るかのように、「今日を飛ぶ」。だからこそ、祝祭なのだ。この孤児にとっては、昨日は既に無きが如く遠く、明日もまた幻の如く遥かであろう。尿で毛虫殺すのは、今日という祝祭の始まりの憂さ晴らしか。祝祭を祝祭たらしめるための、孤児なりの儀式かもしれぬ。
炎のような春を全身鹿の角 「毒存在紀」
春という季の横溢する力を全身に受けているのは作者だろう。同時に春の力を己が身から放っているようにも感じているのか。
鹿の角は眼前にあり、鹿は角だけではなく、全身があるのだろうが、ここでは角が、鹿の最も純化された核のように置かれている。
春の力は鹿の角に凝縮され、角から天を目指して噴出する。春という祝祭の力である。一瞬たりとも形をとどめない炎のような力を、全身を複眼と化すが如くあらゆる角度から受け止め、認識しようとする。「鹿の角」と己が身を、鏡像関係と読むなら、我が身は全身これ鹿の角であり、春という祝祭の具現化である。
Ⅲ.髙田獄舎「ふるさと」「LOVE」
「ふるさと」(2018年8月24日)、「LOVE」(2018年12月24日)から、句は深化したように思われる。
だれが骸でだれが身籠る銀屏風 「LOVE」
銀屏風の前で、或いは銀屏風に囲まれて隠されてある群像。誕生と、死と、誰が何を司るのかも不明な景の基盤として銀屏風は立っている。それら営み全てが銀屏風に描かれる景として行われているのかもしれぬ。銀屏風だから、金屏風とは違い、只豪奢なだけではない。豪奢さの内に秘めた幽玄がやがて溢れ出す。
万暗黒に聡明な蛾いて勃つ市民 「LOVE」
※「万暗黒」に「ばんあんこく」とルビ
市民生活のあちこちで、ブラウン運動のように無規則に動いている魂たち、その動きが広がるにつれて増加してゆくエントロピー、万暗黒とはそのような状態ではないか。
聡明な蛾は恐らく白蛾だろう。万暗黒の中で、際立って白いだろう。それは知性の光でもある。勃起し、勃興する市民は、今はまだ一人かもしれぬが。
この「蛾」は何を表すのだろう。仮に今、知性の光としてみたが、万暗黒の中で、その暗黒に吸収されない魂として見ることも出来よう。「ふるさと」中から、次に二句挙げる。
朽ちながら蛾に近づけば蛾も朽ちる
果汁つく眼鏡寝室の蛾を今日は潰すな
一句目においては、蛾は作者のくずおれるドッペルゲンガーまたは鏡像であると見ることが出来る。二句目においては、蛾は、もし潰すなら果汁のような芳香の体液を滴らすものとして暗示される。
今日の眼鏡に付く果汁は、明日は蛾の体液として付くと予測され、今日潰さないなら明日も明後日も潰さないだろう。眼鏡は勿論、物をよく見るための道具である。知性を演出する物でもあろう。果汁または体液がつけば、眼鏡は曇るのだ。だが、果汁とは馥郁たる栄養でもある。
ここで果汁、蛾、眼鏡、どれが本当の知性か。或いはこの三つは絶えず変換するものか、生と死と生死の認識が絶えず変換するように。
暗礁の蟹さわがしく庶民の葬 「LOVE」
暑い寒村毒蛇ひからび家具産まれ 「ふるさと」
夏の深夜に怒れば燃える壁となる家族 同
土塊数えて俺らを〈ぼくら〉などと言わない 同
先に出た「市民」を、更に「庶民」と身近に置き換えた時、これらの描写となるのか。暗礁に群れる蟹の如き、暑さの中で滅びつつもなお毒を凝縮し明日への生活を作る村の如き、「燃える壁」という拒絶の血族の繋がりの如き、「ぼくら」という都会的な繋がりを拒む土塊の如き、遠くから聞こえるような呟きの怒りが、じっと見ている或る市場。
嘔吐後の晩鐘双頭の豚の市の始まり 「ふるさと」
「晩鐘」といえば、有名なミレーの「晩鐘」を思い起こさせる。仕事を終えた農夫と農婦が夕暮れの中で向かい合って祈りを捧げている図。現代の資本主義とは対極にあるような、あの敬虔な絵は祈りによって成り立っているのだが、その祈りの対象を神ではなく金に変えるとどうなるか、というのが掲句の主題であろう。
嘔吐の後に夜を告げる鐘が鳴り、鐘は夜を告げるというよりも地獄の祝祭を告げるかのようだ。
双頭の鷲なら二つの権威を一つの体に有する事を象徴する。双頭の蛇は、伏羲と女媧に表されるように万物を創造する。双頭とは、強大な遍き力を表すものであろう。豚は何でも喰い、ひたすら太るものとして、人を罵るのによく使われる言葉だ。それが万能である世界とは、勿論、富の為なら何でもありの世界だ。
飽食の豚は搾取者であろうが、豚は市で売られる。豚は被搾取者でもある。全てが搾取者であり、被搾取者である。豚の市で豚を売る者は豚であり、買う者も豚である。夜が告げられると同時に、全てが豚である闇が始まる。闇に安住する者、敵対する者、抵抗する者、全て豚である。
嘔吐とは嫌悪に留まらず、拒食の手段でもある。では、唯一、嘔吐だけが豚の世界に反抗する手段なのか。だが、古代ローマ貴族は飽食を繰り返すために、嘔吐という手段を見出したのだ。ここで嘔吐さえも豚の世界に取り込まれてしまうのみならず、嘔吐こそは豚の世界を際限なく繰り返す手段と見なされてしまう。暁の鐘は何によってもたらされるのか。
黒い薔薇落ち聖核兵器の実験空間 「LOVE」
「実験空間」というと閉鎖的な印象があるが、実際の核実験は、地上で地下で海上で海底で何百回と行われてきた。だから、「実験空間」とは実際にはこの世の事だが、同時にこの世を閉じられた空間として、この世の外から眺めている印象も生じる。
眼を閉じれば、核爆発は、霊的に黒い薔薇が天より落ち来たるが如く、リルケの墓碑銘にある如く「数多の瞼の下で何者の眠りでもない」ならば、「純粋な矛盾」であるならば。
掲句は「聖」と修飾したところ、そこが出色である。聖なる訳はない、それは有り得ない、そこを敢えて「聖」と呼ばざるを得ない、強大な遍き力を持つ豚の市への絶望を思え。
鯛の血臭う真黒墓石 雨季の山 「LOVE」
漁民の墓なのか、墓前に鯛を供えたのか。真黒なのは、石の元々の色とも取れるが、石錆と雨に染まっていると取りたい。「雨季の山」とあるからだ。
景として墓は山を背負っているが、一字明けにより、「真黒墓石」と「雨季の山」は等価であるように見える。雨季の黒ずんだ山もまた墓石、と作者は観ているのか。ならば、雨季の山全体にも、目出度い筈の鯛の血は臭っている。ここに漁の業(カルマン)を観ても良いし、この景全体を地獄的祝祭と観ても良い。
鮭は群れ枕かがやき腐敗の夢 「LOVE」
月光に彩られて上る鮭の大群を夢見ているのだ。枕の輝きは、月に荘厳される鱗の銀であろう。鮭たちの開けた口の赤が跳ねるだろう。「腐敗の」が痛ましい。産卵と射精の後に死して腐敗する鮭たちと作者自身を重ねているのか。
秘法があり蕃茄千個が臓腑の教室 「LOVE」
トマトを臓腑と化す秘法があるとは、その臓腑によって形作られ生を吹き込まれる人間がいるという事で、つまり、教室に授業を受けている生徒たち全てが、トマトを内部に詰め込まれた人型であり、一種の反魂の法によって生を仮に吹き込まれたに過ぎない。そのようにしか作者には見えないという事でもある。
仮に教室中の生徒が一斉に窓より飛んだなら、地上にはトマト千個が壊乱するだろう。「バンカセンコ」という跳ねるリズムが暗に、飛び散る赤塊を思わせる。学校生活を呪う句であると読んだが、如何。
濃紺電車に新米喰って殉ぬ 「LOVE」
※「殉」に「ともにし」とルビ
白川静の「字通」に、「旬は徇の省文。徇に徇服の意があり、死を以て徇(したが)うことを殉という。」とある。句中のルビ、「ともにし」は「共に死」ぬか、「友に死」ぬか。志の為に、或いは志を同じくする友と共に、又はその友の為に、犠牲となるのだ。濃紺は志の深い青さであろうし、新米の白さは電車の窓硝子を突き抜ける陽に輝いているだろう。そして「電車」とは此処ではない何処かに、もしかしたら彼の世まで、身を任せ、身を揺らされて乗るものなのだ。
「濃紺」を「ノーコン」に掛けているなら、電車は制御不能(ノーコントロール)であり、新米を食う者は人生の試合を終えている(ノーコンティニュー)。何もかもが「無効試合」(ノーコンテスト)だったと、電車の心地良い振動の中で気づくのか。電車は海まで行くだろう。電車の濃紺は海の深い青に溶け込み、新米は白日の、潔白なる色を得るだろう。
煙る、水が、鷹は霊撫で去るだろう 「LOVE」
秘儀のような句だ。鷹が水面ぎりぎりを掠めて飛び去った景だろう。先ず「煙る、」と置き、次に「水が、」と置く事により水が煙るのではなく、煙るという事象が先に認識される。「霊」という語を具体的に見せる技法だ。水という肉から離れた霊の部分だけを、鷹は、その速度によって撫で得る。鷹は如来(タターガタ)のように、風の如く来たりて風の如く去るように、霊を撫でる。
「LOVE」において自在な鷹は、「ふるさと」においては次の句の如き贄であった。
黄金の鷹地に埋めてから孤独な着火
黄金の鷹を埋める事と、それに続く「着火」という行為は、一連の秘儀のように見える。「孤独」とは、秘儀の場合にのみ輝くのである。リズムの効果もあろう。「黄金」と「孤独」、「鷹」と「着火」が句の前後で微妙な韻を踏むために、孤独即ち黄金、鷹即ち着火との認識が滑り込むせいだ。
稼働する蝉金庫にも忌日があれば 「ふるさと」
この蝉が機械仕掛けであるように見えるのは、「稼働する」の語に因る。実際、蝉とは生きている発声機械のようなもので、その証拠に蝉を輪切りにしてみるがよい。その胴体は空っぽだ。
一方で、財産を蔵するための金庫に忌日がある訳はない。忌む事や悼む事が金庫の如き堅牢にして空っぽの箱にある訳はないが、ここで地上に生きる間、空っぽの胴体を共振させて恋歌を繰り出す蝉と、心空洞なる金庫が共鳴するのだ。蝉の行動と金庫の思いとの関係は、人間と銭との関係に似ているかもしれぬ。
連作「ふるさと」の句は惨たらしい句が多い。ふるさと、とは惨たらしい場に決まっているのだが。その中に、作者は如何に立っているか。「ふるさと」から三句挙げる。
電子地獄の雪に全身振れば歯が落ちる
世界中、電子機器に満ち、電波の溢れている現状が生物の体に良いわけはないが、そこしか生きる場所が無いのだから仕方ない。雪の中にも電子機器の発する呪いは含まれているとも取れるし、電子機器の呪い自体が雪のように逃げ場なく降り積もると読んでも良い。
その呪いを振り落とそうと全身を振れば、物を噛み砕くに必要な、言葉を発するに必要な、歯が落ちるとは惨たらしくも滑稽だ。このようにして思考する力を無くし、頭部を失くしつつ生きてゆくのだ。
頭部みながら虫殺し捨て午後のパレード
「頭部」は虫のそれだろう。パレードの華やかさを眺めながら、同時にパレードの観客をも見ている。パレードの列に並ぶ頭部と、群がる観客の黒い頭部とを。それら頭部は虫の頭でもあり、人々の頭でもある。
午後の翳り始めた光の中で作者が見ているのは、パレードでも観客でも足許に転がっている虫でもない。己が内にあまた頭をもたげる暗い衝動だ。
真冬の身体うごめき人皮の浮き輪がある
この身体がどうしても赤剝けであるようにしか思えぬのは、「人皮の浮き輪」なる言葉が続くからだ。更に「浮き輪」からの連想で、この身体は「真冬の」川か海で溺れかけているのではないかとさえ思う。
溺れかけているのなら、その体が縋るのは自らの皮で作られた浮き輪である。自らの皮にしがみついて、極寒の只中に得られるが如き、僅かな息を得るのだ。となると、もはや溺れているか否かは問題ではなく、得られる息の困難さにこそ焦点が当たっているのか。
この「真冬の」寒さが如何なるものか、もしも身体が赤剝けであるなら、紅蓮地獄の寒さであろう。極寒の為に皮膚が裂け落ち、肉はあらわに、遂には全身赤剝けとなり、遠目には真紅の蓮咲く如く見えるから、紅蓮地獄というのだ。
塚本邦雄の「日本人靈歌」に次の歌がある。
鞣革工場に生の皮積まれ傲然たり 死より出發するもの
※「鞣革」に「なめしがは」とルビ
掲句も「死より出発するもの」として、自らの魂の状況を見据えたものと読む。
Ⅳ.髙田獄舎「赤面物語」「美と秩序」
連作「赤面物語」(2019年8月1日)から、次に四句挙げる。これらは伝統俳人にも充分理解できる句であろう。
蚊で汚れた電球捨てる真昼の海女
海女小屋に長い間吊るされていた電球なのだろう。海に冷やされた体を火に温める海女たちの血を吸っては、昼なお薄暗い小屋の低い天井に吊るされた光へと盲目的に踊って力尽きる蚊たちの骸。ついに光を失った電球を捨てる海女は、同時に自分たちの血の名残を捨てに行くのだ。
秋の微光は淵をゆくこの黒髪に
黒髪の主は生きているのか死んでいるのか。生きているなら山の精の如く淵に溶けるが如く泳ぎゆくだろうし、入水した果ての髪なら流れゆく事により淵を黄泉へと変えゆくだろう。いずれにせよ、淵は暗い。
微光は昼のそれだろうが、淵のさざ波をわずかに可視化する事により、却って淵の暗さを際立たせるように見える。季は「秋」で動かない。この世かの世の境の寂しさに思いを馳せる季節だからだ。
更に中七で切れると読むなら、淵は黒髪であり、黒髪は淵である。豊かに深く揺れ動く情念へ、寂しい微光が差しているのだ。
朝にも霧でて猿が少女を噛む話も
上五の「も」と末尾の「も」から読み取れるのは、夜にも霧が出ていた事、猿と少女の話も霧のような感触という事だ。猿は野猿である方が趣がある。ましらが乙女をさらう話があちこちの民話に見られるが、この猿もまたそのような心があったのか。この朝は人影の無い朝だろう。霧が出ているからだ。霧は空間だけではなく、時間をも数百年歪めている感がある。
教師のくちびる露に近づく怒りの日
「怒りの日」(ディエス・イレ)とは、最後の審判、此の世の終わりの日だ。「教師」を実際の職業と取れば、生徒を憂いつつ唇を露に近づける行為が、この世の終わりの日に行なわれる哀しさだが、露を人類の命の象徴と捉えるなら、この教師は、人類の教師、人でありながら人を超えた者、人と神を繋ぐ者という事になろう。
髙田獄舎名義の最後の連作、「美と秩序」(2019年、「誌」vol.2掲載)には、例えば「倫理」「争点」「正論」等のような、具体的な姿が無い概念語を具現化させようとする試みがある。「美と秩序」から句を挙げる。
病んだ蒲公英倫理をかたる真昼の蔵
病気の蒲公英が真昼の蔵の中か又は前で、語る、或いは騙るのが「倫理」である、という定義である。ここに「倫理」という概念の奇妙な明るさと危うさを現出させようとしている。
争点となる者鰯のまえで汗を削り
「鰯のまえで汗を削り」とは、生臭くも苦しい状況だろう。弱い魚と書いて、鰯である。「争点」は弱者の眼前にある。「汗を削り」とは、先ずしとどに汗は溢れ、次に汗は細り、最後には体内の水分を削るようにして、しかも句の末尾は「り」であるから、その状況はずっと続いている。或る事が是であるか非であるか、その鍵となる一点が「争点」であるが、掲句は「争点」そのものの、いつまでも継続する苦しさを具現化したのだ。
青蔦のみが正論の夜の重い脊
※「脊」に「せぼね」とルビ
青蔦のみが「正論」とまず定義づけ、次に脊椎を表す「脊」に「せぼね」とルビを振る。背骨は重い。そして夜である。青蔦が茂っている夜の情景とは何か。窓々の灯る煉瓦造りの洋館の壁一面に、古い太い枝を縦横に巡らせた景を思うだろう。青蔦の太い枝々が「脊」(せぼね)であると解釈すれば、古い堅牢な壁に依存して神経組織のように張り巡らされ茂るものを「正論」の具象化としているのだ。
仏蘭西を泳ぐ朝の闘魚に拒絶をみる
※「闘魚」に「ベタ」とルビ
「仏蘭西」と「朝の闘魚(ベタ)」の組合せが良い。同族同士闘う事を宿命づけられた魚に、フランスの闘争の歴史、即ち十八世紀のフランス革命、十九世紀の七月革命と二月革命、1968年の五月革命を重ね、一日の始まりの光の中で決して闘いを止めないさまに、革命の常の動機である、従来の権威に対する「拒絶」を見たのだ。掲句は「拒絶」という概念を視覚化する試みである。
ただ「拒絶」とは、従来の権威に対するものだけではない。むしろ「従来の権威に対する拒絶」などは、拒絶の対象を「自分以外の外界」に限定し、ともすれば問題の本質をすり替える事になり兼ねない。
真の「拒絶」とは、社会情勢に関わらず自らの運命に対する拒絶なのだ。もっと言うならば、「自らの無意識の最奥に於いて、他ならぬ自らが選択する運命」への拒絶なのだ。運命を超えるとはそういう事だ。それが人間を超える事でもある。人間を超えるとは、常人は避ける苦闘の果に垣間見る可能性であろう。
犬買う日全身冴えて花束蹴る
ここに「拒絶」の動作を見る。称賛の為、慰めの為に括られた花束を蹴る。悔しさだったり悲しみだったりするものが、「蹴る」という拒絶の行為になるのだが、同時にそれは「全身冴えて」いる、全身油断なく覚めているからこそ出来るのだ。この日は寂しさに対しても敏感で、なぜなら今日は犬を買う日、言葉無くとも気持ちの通ずる友と出会うかもしれぬ日だ。
ここで「犬飼う日」と置けば、多勢の共感は得られるかもしれぬ。そこを敢えて「買う」と言い放ち、ペットショップで金を出して友を買うのだ、と主張する。共感への「拒絶」である。金出して友買う自分だ、と言い聞かせている。自身の甘やかな心情に対する拒絶でもある。
負の月光晩夏の笛のあなあなへ
月光が笛の穴に差している。一見美しい句である。上五の「負」という語が唯一不可解だ。上五を「月光が」としてしまえば、従来の句として鑑賞出来よう。だから、掲句を鑑賞する肝は、なぜ冒頭に「負の」を持ってきたかである。
「月光」は夜に属し、陰性の光だ。「晩夏」は夏の終わり即ち夏の滅びであり、陰性だ。穴が陰性である事は明らかだろう。笛の吹き口も当然、穴の一つであり、月光はそこからも入る、つまり、笛は月光によって奏でられる。
掲句は「負」という概念語を、陰性のものの組合せによって具体的に表す試みだろう。光という本来陽性のものでありながら「負」の一面をも背負う月光が、「晩夏」という「本来明るい筈の夏が持つ負性」の中に置かれた笛の、(吹き口も含めた)数多の「穴」という陰性へ入る時、その笛が奏でる(月光によって奏でられるのであるから耳には聞こえない、即ち負性の)調べは、「負」という概念を具体的に表す調べであろう。
その調べは、生者にとっては可聴外だろうが、死者にとっては可聴範囲内かも知れぬ。死者は陰性のものだからだ。
海に牙花野にも牙暗い護送
海を越え、花野を越えて、「暗い護送」が行われる。海にも花野にも牙を落としてゆくのは、護送するもの、護送されるものか。海も、花野も、過ぎ行く護送のために暗く感じられる。海には波が立ち、花野には花が咲く。護送するもの、護送されるものが、その波頭を、その花弁を、牙と観たのか。
牙は攻撃するものであり刃向かうものだ。或いは護送を追い護送を破る者の為に、ヘンゼルとグレーテルのパン屑のように牙を落とし行かんとして、波に、花弁に、牙を観想するのか。
花ほどに狼餓えて橋震える
俳句で単に「花」と言えば、桜、日本の魂の花だ。掲句は、狼の餓えを花と観たのか。そう観たのなら、良い覚悟だ。うつし世に花は満ち、狼はうつし世の果に広がる至高を仰ぎ、その餓えはとどまることを知らぬ。
なぜならば、橋が架かっているからだ。橋は向こう岸へ掛かり、或いは谷を越えて架かり、または海峡を越え、時には掛かる事の不可能性を超えて彼方へと架かるがゆえに、その艱難に震えるからだ。
花、狼、橋の三つの内、実際に最も震えるものは花だろう。では、花は本当は橋であり、橋は魂の花なのか。花であり狼であり橋であるものとは一体何か。
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