【空へゆく階段】№27
ゆうの言葉
田中裕明
ゆうの言葉
田中裕明
「ゆう」2000年6月号・掲載
あたたかく見上げて欅櫟かな 敦子
欅や櫟の大樹をみあげるまなざしがあたたかいのです。それは作者が、この世のものすべてに注ぐまなざしそのものでしょう。長い冬のあいだ枯木の姿をさらしてきた落葉樹にも新しい季節がめぐってきました。芽吹きも感じられます。作者のまなざしは、作者自身の内なるものへも注がれるようです。
首ほそく入学式にならびゐる 喜代子
中学校の入学式でしょうか。はじめて制服を着て緊張しているのです。制服の襟から細い首すじがのぞいています。大人の側から言えば、あそこに並んで坐っているのは自分自身なのです。子供のころの私が、あなたが、いまあそこに坐っているのです。首が細いというのも作者とだぶって見えます。
妻やがて睡りに入りし落花かな 昭男
妻なる人が寝入ってしまいました。男はその寝顔を見るともなしに眺めています。背景にドラマの感じられるような作品です。しかし、俳句は妻が睡りに入ったという事実を示すのみ。夜に入っても、しきりに落花がつづいています。
鳥の巣の柔らかにして虚ろなる 尚毅
鳥の巣を描くのにいろいろと細かくスケッチすることもできるでしょう。また鳥の巣のまわりの景を詠うことによって、鳥の巣をくっきりと浮き立たせることもできます。しかしこの句はどちらの道もとらずに鳥の巣そのものを描くことに成功しました。俳句という詩の力を感じます。
白梅の蕾といふは黄を帯びて 定生
ふだん気づかないことに、あらためて出会わせてくれる。俳句はそういう詩でもあります。じっくりと白梅の枝を見つめた末に、白梅の蕾がうすく黄色味を帯びていることを発見しました。この作品の場合、それがただの発見の報告にとどまらずに、しらべをもっているところに手柄があります。
桃の日の攩網に鮃のぱたぱたす 晶子
港の風景でしょうか。作者の行動範囲のなかでは、こういう景にも出会うことができるのかと羨ましく思われます。鮃のうごきをリアルにとらえることも手柄ですが、その世界を桃の日という季語でつつむことで詩情がふくらみました。
仏滅といふ日おだやか雛納 文子
暦には、大安、仏滅と書かれていますが、現代生活の中で意識するのは冠婚葬祭の時くらい。そのように思っていましたが、作者はあたりまえの暮しの中でも、今日は仏滅だ、友引だと考えておられるようです。そういう心ばえがゆかしく、一句そのものがおだやかな風貌を見せてくれます。
音立てて袋より出る目刺かな 容子
季語を詠うのが俳句という詩型の大切なしごとですが、掲出句の目刺は春の季語というよりも、モノ自体が読み手に伝わってきます。普通の句とは一味ちがった面白さがあります。「二三日枡に小豆を盛りしまま 爽波」に似た無機質の詩の面白さです。
草染の草摘みゐたり卒業歌 久栄
現実に卒業歌が流れていたかどうかは問題ではありません。その時期に、草染のための草を摘んでいたのです。作者は新しくめぐってきた季節をつよくうけとめています。
季語との配合が新鮮です。
花持てば彼岸の人と思ひけり 公子
角川源義の「花あれば西行の日と思ひけり」と同じ形をしていますが、これは偶然でしょう。しかし、結果として似てしまったのは作者も無念のところ。一句の境地は源義の西行の日とは遠く離れて、やさしい抒情的なものです。
≫解題:対中いずみ
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