2020-04-12

僕の愛する俳人・第3回 木枯ワールド 西村麒麟

僕の愛する俳人・第3回
木枯ワールド

西村麒麟

初出:「ににん」第75号

1八田木枯

今さらながら八田木枯の紹介をごく簡単にさせていただきます。初めは長谷川素逝、橋本鶏二に師事し、後に山口誓子の「天狼」に参加。その年に厳選の遠星集でいきなり巻頭を取り(三度目の投句)周囲を驚かせる。誓子にその才能を愛されつつも家業に専念するため、昭和三十六年からい十六年の活動停止(木枯三十六歳時)。昭和五十二年にうさみとしおと二人誌「晩紅」を創刊し俳壇復帰(木枯五十二歳)、その後は独特な魅力を持つ俳人として活躍。「洗ひ髪身におぼえなき光ばかり」が塚本邦雄の『百句燦燦』で取り上げられたことも有名です。

よく知られた句をいくつか挙げます。どれも憧れの句ばかりです。

汗の馬なほ汗をかくしづかなり

春を待つこころに鳥がゐてうごく

むさし野は男の闇ぞ歌留多翔ぶ

冬ふかし柱が柱よびあふも

2僕と木枯さんと鶉

友人の太田うさぎさんが、四谷で開かれていた木枯さんを中心とした超結社句会に誘って下さったおかげで、句座をご一緒する事が出来ました。僕が初めてお目にかかってから、亡くなるまで(二〇一二年三月十九日)約一年ほどの短い期間でしたが、大事な事をたくさん教えていただきました。

唐突ですが、僕が二〇一三年に出した第一句集『鶉』の句を並べます。ちょっと多いですが我慢して見ていただけたら助かります。

へうたんの中より手紙届きけり
へうたんの中に見事な山河あり
へうたんの中へ再び帰らんと
すぐそこが見えざる夜や下り鮎
落鮎や大きな月を感じつつ
お見合ひの真つ最中や松手入
よろよろや松の手入に口出して
すぐ乾く母の怒りや大根干す
父親に力ありけり蓮根掘る
凩やうどんがぽんと明るくて
人知れず冬の淡海を飲み干さん
玉子酒持つて廊下が細長し
仏壇の大きく黒し狩の宿
鎌倉に来て不確かな夜着の中
手をついて針よと探す冬至かな
冬至の日墨で描かれし人動く
墨汁が大河のごとし蕪村の忌
ぜんざいやふくら雀がすぐそこに
草城忌水玉もまた男傘
佐保姫が寄席に入つて来たりしよ
うつかりや鶯笛を忘れたる
紙箱に鶯餅やちよんちよんと
花石榴父のお客はみな怖し
かたつむり大きくなつてゆく嘘よ
玉葱を疑つてゐる赤ん坊

二十代(当時)の句にしては、少々季語や言葉の選択(瓢箪や墨、仏壇等)が渋いとは思いませんか?実際、若いのに老人のふりをしていると言うような意見も多少は言われました。僕自身はどれも気に入っている句ばかりですが、若々しいフレッシュな句集であるという、若手の句集にありがちな感想は少なかったように思います。

実は、先ほどの僕の句は全て八田木枯さんの入選句です。僕自身が大人びていたわけでも老成していたわけでもなく、木枯さんに強く惹かれていたため、ちょっと背伸びしたような渋い季語選びや、奇想幻想に憧れたような詠み方をしていたのかもしれません。僕の句の出来というよりも、最晩年の八田木枯の選として、木枯さんの好みを探る手掛かりになればと思い、思いきってここに載せました。

3宿題

幸運な事に、句会に参加していた数人が木枯さんにファックスで句を見ていただけるようになりました。これは僕らの間では「宿題」と呼んでいました。その内容は、木枯さんがいくつか季語を選び、期日までにその季語で三句づつ作り、木枯さんへファックスで送る。しばらくすると、句の上に棒(入選)や丸棒(特選)が付き、コメントが書き足された状態で返送されるというもので、その返事が楽しみで、毎月そわそわしながらファックスを待っていました。

よく覚えているのがその宿題の一回目(確か句会の二次会)の話。木枯さんが宿題の季語を選ぶため、近くに座っていた僕が歳時記をお貸しすると、パラパラっとめくったあとに困ったようなお顔で、うーん、季語がないなぁと。いやいや、季語しか載ってないですからと思い、大変驚きました。しかもその時の歳時記は平井照敏編の割合詳しいものでした。それを季語がないって…。それから数ヶ月の間に、木枯さんが出してくれた季語が以下のものです。

冬至 空つ風 大根干す 達磨忌 冬眠 夜着 ラグビー 枯蟷螂 蕪村忌 秋湿り 冬ざれ 狩 玉子酒 石榴 夜長 松手入 落鮎 草城忌

難しいなぁと悩みながらも、珍しい季語を使う分、いつもとは違う俳句を作る事が出来、とても楽しい時間でした。僕の句集『鶉』に入れた、冬至、大根干す、夜着 、蕪村忌 、狩 、玉子酒 、石榴 、松手入 、落鮎 、草城忌は、この宿題によって出来た句でした。僕の第一句集の季語選びが渋いのはこういうわけです。あの夢のような宿題の時間は、大切な思い出です。亡くなる約三ヶ月前にいただいた年賀状には次のように書かれていました。
題詠続けられる限り、私の力の尽きるまで。
4木枯さんの句評から

木枯さんが書き込んでくれた短い句評が、実に八田木枯らしい感じがしますので、ほんの一部だけ紹介させていただきます。

以下は木枯さんの句評です。
厄介な事です。面白く拝見。ありきたり。この発想は気に入りました。どの句も今一つイメージが広がらない。理が入っているのが気になる。もう少し煮詰める。ちょっと遊び過ぎかも。もう少し巧く言えればよくなります。下句の不安定が効いている。季語平易。発想は面白い。この句、面白し。堂々とした句になりました。さり気なく。
厄介、理、遊び過ぎ、不安定が効いている、発想は良い。堂々とした句、等のコメントは短いながらも特に木枯さんらしいと感じます。

5執着

僕が木枯さんから学んだのは、言葉や題材を偏愛、執着し、自分の世界に深く潜るという事かも知れません。木枯さんが好む題材や言い回しを、密かに「木枯好み」と呼んでいます。阿波野青畝の季語別全句集を開くと、季語の選択の広さに驚かされます、青畝一人の全句集で、十分歳時記として成り立つはずです。木枯さんの場合はその逆で、好きな題材や季語を繰り返し使用するところに特徴があります。言葉や題材を絞る事で、全句集からは木枯という作家の個性が強烈に匂ってきます、とてもディープな。

6好みの季語

全句集一九八五句のうちいくつか木枯さんの好んだ季語を挙げてみます。

「踊」は十三句あります。よく知られている通り、佃の念仏踊を特に好みました。盆踊りからは、死、老い、闇というイメージを貰っていたのではないかと思います。佃の盆踊りはそれに加えて、海、波、佃、念仏踊り、舟唄という要素が加わるところがお気に入りだったのかも知れません。

盆踊佃はいまも水まみれ

盆唄は舟唄にして嗄れし

生者死者入りまじりたる踊かな

「月」は三十五句、美しい、怖ろしいような光、太古から変わらぬ姿、眩しさ、月光が走る、冷えた闇、というイメージでしょうか。

とことはに月ぶらさがる物ならむ

おほぞらがひろくて月を古びさす

月光はすばやし刃物探しあて

誰もが思い付く、木枯さんが一番好んだ題材は「鶴」です。「鶴」二十八句、「鶴渡る」五句、「引鶴」八句があります。美、愛するもの、幻想、憧れ、木枯さんは鶴を様々な象徴で詠み続けました。木枯ファンにとっては、鶴と言えば木枯というような、最も執着した題材です。

滅ぶるかわが旅鶴の手をひいて

鶴の手をひいてよこぎる奥座敷

逢坂や微熱の鶴は夜遊びに

鶴わたるみ空に合せ鏡して

変わったところだと「六月」は二十五句もあります。これは割合としてはかなり多いのではないでしょうか。そしてその二十五句全ての句は「ろくぐわつ」との表記になっています。読み方はもちろん「ろくがつ」ですが、「ろくぐわつ」の表記が生き物のように目に飛び込んできます。なぜ、「ろくぐわつ」だったのですか、と聞いておけば良かったです。

ろくぐわつや古典さながら帆を上げて

あはあはとろくぐわつがある皿小鉢

ろくぐわつのうすきてのひら素甘食べ

今回調べて驚いたのは、全句集に収録されている季語の中で最も使用されているのは「雪」であるという事です。その数は七十二句にもなります。

花は雪におよばざるもの老いにけり

夜に降る雪こそ雪と思はるる

誰の忌ぞ雪の匂ひがしてならぬ

昼に降る綺麗な雪、というよりも、暗い空、凍りつきそうな冷たさ、死等のイメージがあるのかもしれません。雪ではありませんが次のような句もあります。

貫く光さまよふ光凍死体

他にはあやめ、梅、牡丹、母、障子、鏡、光、死、戦争、手毬うた、歌留多、チンドン屋など好んだ題材がたくさんあります。光と闇、幻や淡いもの、もしくはどろりとしたもの、この世ならざるものに強く詩心が湧くように見えました。

7晩年の句から

毒消しゃあいらんかねぇと素通りす

水の上に水ちらかして鯰捕

寒中の蛇屋は壜をかがやかす

雁わたし落款滲みたるままに

どれも晩年の作品。いくつかは句会で拝見したものもあります。さすがに毒消売りはもう歩いていなかったとは思いますが、きっと題材としてお好きだったんだと思います。古い時代を思い出すという懐古趣味というよりは、その題材が「木枯好み」に合うかどうかを大事にされていたように思います。思い出、またはフィクションというよりは、木枯ワールドの中では、毒消売も歩いているし、蛇屋や鯰取もその辺で見かけるような身近な存在なのでしょう。

雁わたし落款滲みたるままに

この句は僕が特選にいただきましたが、今よりもさらに未熟だった当時の僕は、句評が大変下手でした。えー、雁わたしがよく合っていて、美しいような…、とか何とかその場を誤魔化したように思います。木枯さんは確か「この句なんかは皆の共感を得られるのではないかと」というような事を仰って、あ、この句は自信句だったんだなと強く印象に残っています。

8新年

亡くなる数ヶ月前、四谷ルノアールでの句会の話です。体調が辛そうな木枯さんが急に僕の方を向き、次のように仰いました。
君らの時代では、たとえば新年、正月の感じなんかは大分違うのだろうけれど…。
言葉はここでふっと止まりました。長く話すことは体力的辛かったのだと思います。

正月がすとんと冥し皿小鉢

ひとりでにひらくことあり歌留多函

木偶回しいまはのきはもやつてみせ

とこしへに数を捨てゆく手毬うた

木枯さんの新年の句は、おめでたいというよりは少し妖しい。古くて、美しくて妖しい、そんな楽しい世界を教えてくれようとしたのでしょうか。

9『鏡騒』以降

句会で次のように仰った事があります。
私の句なんかも、もう少し変わりそうな気がして…。
その時に、あ、木枯さんはもう『鏡騒』(第六句集)の次を考えているんだと思いました。八十六歳(当時)で作風を変化させようとしている姿は、感動的でした。

以下は『鏡騒』以降の句です。

ややこしく作つてありぬ雀の巣

酢牡蠣たべ嘘をほんまにしてしまふ

インバネス戀のていをんやけどかな

そして僕の手元にある晩年の句会報には

恋猫は夜のどん底を知りつくす

鉦を打ちそこねて空也上人忌

十二月八日パチンコ総攻撃

等があります。最後の三句は全句集未収録の句。『鏡騒』の次の句集は想像するしかないけれど、きっとさらなる変化があったはずです。木枯さんは三月一九日に亡くなりました。僕がそれを知ったのは数日経ってからで、木枯さんに見てもらうのを楽しみにして、確か鶯笛の句をたくさん作っていた頃でした。見ていただけたなら、丸に棒(特選の印)は貰えたか、やっぱり駄目だったか、もう自分で考えるしかありません。

木枯忌の前後は、毎年鶴に乗った木枯さんの事を想像します。「鶴帰る」の宿題はなかなか厄介です。

天国にもファックスはあるだろうか。

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