【空へゆく階段】№28
簪おとなし 渡辺水巴の俳句
田中裕明
簪おとなし 渡辺水巴の俳句
田中裕明
「晨」1989年 第11号・掲載
毎日新聞社の高浜虚子全集第十巻俳論俳話集一もどちらかと言えば懐かしい本になってしまって、久しぶりに手に取ると一時にいろいろなおもいが迫ってくる。十年以上も前に虚子の俳論研究の勉強会のテキストに使った本だ。明治二十八年の俳話からはじまっているこの巻のページを繰っているとずいぶん一生懸命に虚子の書いたことを読んでいた自分を思い出す。本には書き込みなどしないのだけれども、この一巻だけには、ところどころ余白にメモランダムが残っている。「自然の奥行き=traditionの奥行き」などと書いてあるのを見ると、その時何を考えていたのかはよく覚えていないけれども、俳句に対する共感は必ずしも成長するばかりではないような気がする。
この本の中に「進むべき俳句の道」という俳論が収められている。これは「ホトトギス」大正四年四月号から大正六年八月号まで断続的に掲載されたもので、雑詠欄の有力な作者のひととなりと作品を紹介している。その作者の名前をあげてみると、村上鬼城、飯田蛇笏、長谷川零余子、石島雉子郎、原月舟、前田普羅、原石鼎、西山泊雲などの錚々たるものである。その一番初めに渡辺水巴という名前がある。それだけこの時期の虚子の目からみて有望な作家であったということができる。
たぶん虚子は大正時代の雑詠の作者に対しては、昭和時代の作者家に対してほど冷静に向かい合うことはできなかったのではないだろうか。もちろんこの「進むべき俳句の道」では虚子一流の筆致でそれぞれの作者の横顔をも余裕たっぷりに書いている。しかしながら虚子は俳句作品に対しては自分の全力をあげて批評しようとしているし、またそれに成功している。たとえば渡辺水巴の俳句についてこう書いている。
水無月の木蔭によれば落葉かな 水巴
句意は、六月頃の或木の蔭に立寄つたところがはらはらと落葉がしてきたというのである。が、深く味つて居ると、此句はさういう客観の事実を叙した外にやさしい作者の主観が出ていることを気づくやうになる。(後略)虚子は水無月という季語にも作者の主観があると見ているし、それはまた正しい。渡辺水巴の作品の大きな特色の一つに、作者独特の主情的な季語の使い方がある。
櫛買へば簪がこびる夜寒かな 水巴
簪がこびるという表現は擬人法ではあるけれども少しもいやしいところがないという点で、独自である。この作品の場合も、夜寒という季語が、語ってあまりある作者の思いを表しているだろう。秋の夜寒の店頭に立って櫛を買ったら簪もまた美しく見えるという感興はあるいは女性のものかもしれない。もっと男性的な俳句もある。
落葉して汝も臼になる木かな 水巴
水巴が大木に話しかけている俳句である。これは男性的であるだけでなく、俳句としてもほかにない姿をしている。大正時代の俳句には現代の俳句にはない力強さのようなものがあって、今そこへ立ちかえろうとする動きがあるけれども、この作品など現代俳句が失ったものを多く含んでいる。季語も情景を十全に描いているし、それでいて感情を描くにすこしも無理なところがない。
虚子は「無情のものを有情に見ることは水巴君の句を通じて最も顕著なる特色の一つである。」と評した。いまここにあげた夜寒と落葉の二句はその代表ともいうべきもので、それらの志向を支える季語の働きが大きい。無情のものを有情に見るということを大づかみにアニミズムととらえると、大正時代の俳句の力強さの正体はこれかもしれない。そして虚子が大正時代の作家をある意味で恐れたというのも、その理由はここにあって、昭和の作家はアニミズムをしらずに自然を自分の外側にある景色としてとらえたから、虚子の手のひらの中から出ることができなかった。
花鳥の魂遊ぶ絵師の昼寝かな 水巴
山神の御遊にふれそ月の人
これらの俳句は、ごく直接的なアニミズムの表出と見ることができる。水巴の作品にはこうした傾きがたしかにあって、後年の「白日は我が霊なりし落葉かな」にしても、幻視ともいうべき傾向が現れている。
以前から不思議に感じていたのだけれども渡辺水巴の俳句はほぼ昭和のはじめをもってその輝いていた時期を終わっている。大正作家とも呼ばれる「ホトトギス」の第一期黄金時代に活躍した俳人の中でも、渡辺水巴の場合その作家としての充実した時期があまりにも短いように思われる。昭和七年に「生命の俳句」を提唱したときには、すでに私が水巴の俳句の魅力と考えるところのものはすでに失われていた。その理由は水巴の俳句の魅力の裏返しではないだろうか。アニミズムは俳句にいきいきとした力を与え続ける水源ではあるけれども、俳句にはもともと人間臭いところがあって、それがないと読んでいて面白くない。あまりに直截なアニミズムというのも息苦しくなるのである。たとえば先にあげた「白日は我が霊なりし落葉かな」は水巴の代表句とされているが、読み手にとっての面白みという点では、「落葉して汝も臼になる木かな」に比べれば劣る。
少し先を急ぎ過ぎたかもしれない。もういちど大正期の作品からあげる。
冬山やどこまで上る郵便夫 水巴
先の「進むべき俳句の道」では「あの郵便夫はどこまで上るのであらう。職業とはいひながら僅か一本か二本の郵便を届けるために際限もなく山路を上りつつある郵便夫に同情して、まアどこまで上るのであらう、とその単調な行為の果てしがないやうなところに成る淋しさを覚えた点がこの句の生命となっている。」と書かれている。この時期の作品の季語は現代から見るとあたりまえの言葉が用いられていて、それが非常に新鮮である。この頃から比べて日本の文明が洗練されたようには思えないが、日本人の生活が複雑になってしまっていることはたしかで、俳句の中の季語も細分化されて微妙な色彩を持つものに変質してきている。そういう細かく別れて言葉の根がよわくなってきた季語のなかで安心して、言葉の根を探索することを忘れてしまったのが現代の俳句つくりではないか。逆に言えば、現代俳句の処方箋はこのあたりにあって、大正期の俳句の季語の用法をもっとよく理解することが必要かもしれない。
秋風や机の上の小人形 水巴
牡丹見せて障子しめたる火桶かな
蝶つまめば恐ろしき貌の秋暑し
凍てしものゝ一方に富士の月夜かな
やはり渡辺水巴は振幅の大きい作者であったことが分かる。たいへんにおとなしい俳句の世界と、丈の高い俳句の世界が共存している。虚子の俳句の世界に似通ったところもある。虚子は明治七年生まれで、水巴は明治十五年生まれであるから、同じ時代の雰囲気のなかで育ったということは言えるかもしれない。虚子は水巴の人物を評して「いつも自分を持ち扱いかねてゐるというふうな激しい心の動揺はない」「自分で自分をなぐさめようとするつつましやかな、おとなしい心持」と述べている。それは虚子にも幾分か共通するものであったようだ。
草市のあとかたもなき月夜かな
妹見よや銀河といふも露の水
揺すれども月光放つ一樹かな
白日は我が霊なりし落葉かな
大正の後期から昭和初年に掛けての作品から。「進むべき俳句の道」の渡辺水巴の章の末尾は「特に欠けてゐる枯淡とか、豪壮とかいふ方面に更に一境地を開くことができたならば君の句風はいよいよ大をなすであろうと考へるのである。」と結ばれている。その後の水巴は虚子の指し示した方向には進まなかった。それが水巴の活躍した時期が短かった理由の一つであるように思える。ただ虚子が評したような作家の肖像は現在において貴重であろう。
≫解題:対中いずみ
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