【空へゆく階段】№29
ゆうの言葉
田中裕明
ゆうの言葉
田中裕明
「ゆう」2000年8月号・掲載
虚子の字のふつくらとある茂かな 昭男
今春開館した虚子記念文学館での嘱目句。「虚子の字のふつくらとある」は、とりたてて言うほどの発見ではありませんが、下五の季語で世界がひろがりました。そういう眼で見ると、「ふつくらとある」という形容も、虚子のあの丸い字にふさわしいだけでなく、その為人まで表現しているようです。
讀書子に眞菰は風を送りけり 刀根夫
岩波文庫の奥付の裏には「読書子に寄す」と題して岩波茂雄の発刊の言葉が載せられています。昭和二年のこの小文は実は三木清が書いたといううわさですが、「知識と美とを特権階級の独占より奪い返す」と威勢のいい、なつかしいものです。この句、そんなことも思い出させてくれました。
片栗の咲くてふ小塩山に入る 青鳥花
「片栗は耳のうしろを見せる花 展宏」という句があります。そういうひそやかな感じを、この花はもっています。ならば小塩山という歌枕にもまことにふさわしい。タイムトンネルを通って、王朝時代に戻るような不思議な感覚が楽しく思われます。
精確に雫してゐる茄子の雨 尚毅
この句、「正確に」では駄目です。機械が計る時間ではなくて、人間の感じる時間であることが、「精確に」という言葉に込められています。作者はそういう言葉に対する感受性を自然に身につけています。さらに言えば、「精確に」という言葉を使わずに言えることが俳句としては理想でしょう。
国原のうつくしきとき田を植ゑて 喜代子
夏のはじめ、緑が濃くなるころ田を植えています。すでに田植えの終わった水田を風が吹いてゆきます。
日本という国とその自然がことさらに美しく思われます。なつかしい風景に出会うのも俳句の効用。
朝すでにもの影濃ゆき端午かな 麻
具体的な物の名をあげずに、「もののあはれ」「ものがなし」と感じてきたのが日本人です。こういう句は外国語に翻訳するのがむずかしい。端午という季語の、今まで知らなかった本質を見せてくれました。
子規は文字吾は鶏頭蒔きにけり 満喜子
昭男さんの句は虚子の字でしたが、こちらは子規の文字です。子規と鶏頭では付きすぎと思う人もあるかもしれませんが、付きすぎかそうではないかはあくまで俳句表現の上で判断すべき。この句では作者の工夫がその弊を避けています。
竹皮を脱ぐやはなやぐ人の声 敦子
この世のものではないような人の声。竹藪の中は明るく別天地のようです。
季語との距離感がどうこうという問題ではありません。作者の詩心がこういう宇宙を現前しています。
人選び河鹿は遠く鳴きにけり 喜美子
人は作者自身。遊んでいても心はたのしまないのです。河鹿の声を聞いて、ふっと我にかえると、それに気づきます。
淋しい句ですが、それだけに読み手に深くしみこんでくるのです。
ちよこなんと見慣れなき子や豆の飯 洋子
座敷わらしのような子供が豆飯の膳に坐っています。ちょこなんというユーモラスな措辞が一句の中で生きました。
かしこまった子供が見えてきます。
≫解題:対中いずみ
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