【空へゆく階段】№31
俳句のレシピ 特別作品評・第五十号より
田中裕明
俳句のレシピ 特別作品評・第五十号より
田中裕明
「晨」1992年9月号・掲載
富山は水のおいしいところ。或る夜、富山のホテルのバーでドライマティーニをたのんだら、これが滅法うまい。そう言ったら「マティーニなどレシピが単純なカクテルほど緊張する。」とバーテン氏。レシピをモチーフと置きかえれば、これがシンプルなほど難しいというのは俳句についても言えるなと納得した。
歳月 宇佐美魚目
特別作品が例月の作品と形式の点でも最も異なるのはタイトルがつけられていることである。タイトルはモチーフの端的な表れで、「歳月」など最もシンプルでかつ重い思想である。『紅爐抄』の「秋燕や高齢にして見ゆるもの」を思い出した。
法然のふくふくの指蝶の空
肉桂の数幹立てる暮春かな
馬冷す大地に基壇のこりたる
ただあると見えて立像瀧殿に
弔問の木を抜けゆくに羽蟻かな
時間が魚目作品の最も重要なテーマだからと言えば、わかったような気になるけれど、問題はそう単純ではない。よけいな事柄を消し去って残るものが、たとえやや奇異な風景であろうと、リアルな相なのだ。世の中にわざわざ奇をてらうような俳句は多いが、真実の相を提示するがために読者に見慣れぬ(そしてまた同時になつかしい)景色として映る作品は少ない。そういう意味でたいへんユニークである。「瀧殿に」の句など非常に魅力を感じますが、それを十分には説明できません。
竹酔日 大峯あきら
魚目さんとあきらさんという、これほど異なる個性の対もないだろう。以前からそう考えていたけれど今回の作品を読んで改めて感じました。それくらい違う。
吾子が嫁く宇田は月夜の蛙かな
惜春の草ただ青し国分寺
苗はこぶのみの山路と思ひけり
ここに來て礎石つめたき暮春かな
竹酔日てふ美しき日のありて
あきら俳句はあくまで現在の景である。かつてあった風景を描いているのではない。しかしながらそのモチーフはたえず蘇り、現前するものとしてある。らせんをえがきながら新しい。永遠の相。
永遠と言っても、固定したもの、不動のものではなく、たえず新しい知恵がある。
そういう目で見れば「竹酔日」というタイトルのもつ意味もわかってきます。現在ただいまの景色でありながら、たえず永遠の相と交信している。
「暮春」の句、「竹酔日」の句それぞれに宇宙の振幅を示していて、読者に予感を与える。
はじめの富山のバーに戻ってみれば、マティーニはまだ冷えたままで、夜は長い。さあゆっくり味わいなさいという感じがした。
≫解題:対中いずみ
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