2020-06-21

エスエフの蜜を吸うセキエツ 11の皿でたどる関悦史の世界 小津夜景

エスエフの蜜を吸うセキエツ
11の皿でたどる関悦史の世界

小津夜景

『翻車魚』vol.3(2019年11月16日)より転載
若干の加筆・修正があります

0 皿目【料理の前に】

関悦史の一〇〇句を選んでそれについて論ぜよ、との依頼が来た。いったいなんで来たのか。どうかんがえても筆者の手にあまる。しかし引き受けたからには責任を果たさなければならないので、句論という形ではなく、「関悦史の一〇〇句を素材ごとに盛り分け、読者に少しずつ試食してもらう」といったキュレーション方式で対応したい。また枚数の制限もあるため「黙って食えばわかる」的な句は無視して、読者がとっつきにくそうなものを中心に解説する。

なお関の作風については、まずもって『六十億本の回転する曲がつた棒』『花咲く機械状独身者たちの活造り』といった句集のタイトルがその特質をはっきりと物語っている。箇条書きにすると、次の4点だ。

①SF

②生命の変形

③語の束ね技

④笑い

ここから供する11の皿は、これらの特質をたっぷりと味わうコースになっている。ではどうぞよろしく。


1 皿目【古典文学】 5句

虚空イマ蝶ガワガ名ヲ書キヰタリ

カササギト撞着語法(おくしもろん)ノ夜(ヨル)ニ耽ル

深宇宙ノ漁火ニ蟹ニホヒケル

詩ニ老イユキ秋ノ草木モ怪物(べむ)ノ風

アハレ冪乗(ベキジヨウ)尾モ身ニ生リテ咆(ホ)エハジム

※括弧内はルビ。これ以降の引用句も同様。

1皿目の素材は古典文学。百人一首のパロディ「百人斬首」より選んだ。「百人斬首」は不条理世界、宇宙、変身、憑依といったSF系脱人間中心主義のモチーフで全句をぴしりと揃えた連作で、見た目がこってりしているので尻ごみする人が多いにちがいない。が、実はこれ、往年の『SFマガジン』をめくる気分で読めてしまう。

カササギト撞着語法(おくしもろん)ノ夜(ヨル)ニ耽(フケ)〉の本歌は大伴家持の〈かささぎのわたせる橋におく霜のしろきをみれば夜ぞふけにける〉。「おく霜の」をオクシモロンにひねることで生まれるポップな幻想性に、物語のイメージと古来近しい〈カササギ〉を添えて、ボルヘス的な雰囲気に仕立てた一句だ。

深宇宙(シンウチウ)ノ漁火(イサリビ)ニ蟹ニホヒケル〉の本歌は紀貫之〈人はいさ心も知らずふるさとは花ぞ昔の香ににほひける〉。平安の春昼の景色から〈深宇宙〉という音を引き出すセンスが関らしい。また〈深宇宙〉と〈蟹ニホイケル〉を橋渡しする語として、銀河とみまがう〈漁火〉をもってきたのも見事である。

虚空イマ蝶ガワガ名ヲ書キヰタリ〉の本歌は壬生忠見〈恋すてふわが名はまだき立ちにけり人知れずこそ思ひそめしか〉。さっぱりとした調理で、俳句としても正統派。

アハレ冪乗(ベキジヨウ)尾モ身ニ生リテ咆(ホ)エハジム〉の本歌は藤原伊尹〈あはれともいふべき人は思ほえで身のいたづらになりぬべきかな〉。人を恋い待つうちに妖怪と化してしまったこの変身譚は本歌の後日篇としても読める。異世界の時空の有無をいわせぬ暴力性を演出する〈アハレ冪乗〉が、フランシス・ベーコンの絵画のように壮絶だ。

詩ニ老イユキ秋ノ草木モ怪物(べむ)ノ風〉の本歌は文屋康秀〈吹くからに秋の草木のしをるればむべ山風を嵐といふらむ〉。大意は「詩を志すうちにこんなにも老いた私よ。いまや妖怪の匂いを秋の野に漂わせるほどだ」。「むべ」から〈怪物(べむ)〉をみちびく機転がいい。〈詩ニ老イユキ〉は「死、匂いゆき」の掛詞で、加藤郁乎〈天命は詩に老いてけり秋の暮〉および李賀〈雨冷香魂弔書客/秋墳鬼唱鮑家詩〉(冷たい雨。亡き詩人の香しき魂が私を弔う。秋の墓原。亡霊たちが葬送の詩を唱う。)が意識されている。


2 皿目【現代文学】 5句

テクストや梨のしづくに蟻溺れ

ロブ=グリエ的明るさや蟻地獄

縛り棄てなる『ノルウェイの森』田に白鷺

少年の括約筋と嚏かな

カフカかの虫の遊びをせむといふ

2皿目は、現代文学を素材とした濃口のエロティシズムである。〈テクストや梨のしづくに蟻溺れ〉は吉岡実〈秋ひらく詩集の余白夜ふかみ蟻のあしおとふとききにけり〉と正岡子規〈梨むくや甘き雫の刃を垂るる〉とがオーバーラップする観念の濡れ場のようだ。〈ロブ=グリエ的明るさや蟻地獄〉は倒錯的エロスを描いて戦後文学および映画の最前線に立ったロブ=グリエという固有名に〈蟻地獄〉の花を添えた、淫らで毒々しい一品である。村上春樹〈縛り棄てなる『ノルウェイの森』田に白鷺〉と稲垣足穂〈少年の括約筋と嚏かな〉は緊縛や肛門を介したフェティッシュを感じさせる。〈カフカかの虫の遊びをせむといふ〉はフランツ・カフカの『変身』を中村苑子〈翁かの桃の遊びをせむといふ〉の鍋に放り込んで、毛色の変わった幽玄を香らせるに至った。


3 皿目【芸術】 5句

皿皿皿皿皿血皿皿皿皿

白蝶に国家(モロク)と市場(ヘル)の翳りかな

死にきらぬゴキブリが聴くクセナキス

二〇世紀の美術はじまる泉かな

ダ・ヴィンチよ真夏なるわが外接円

3皿目の素材は芸術である。〈皿皿皿皿皿血皿皿皿皿〉は新國誠一「血と皿」、高橋新吉「皿」、川上三太郎〈恐山 石石石石 死死死〉につらなるファンキーな挨拶句。血が一つだけ、ちょこん、と混じっているところがキューティー・ホラーだ。

白蝶に国家(モロク)と市場(ヘル)の翳りかな〉はドイツ表現主義の大家フリッツ・ラング『メトロポリス』を借景とし、壊れやすい白蝶の羽にかがよう陰影に、国家と資本の暴力が吹き荒れるディストピアを幻視してみせた。

死にきらぬゴキブリが聴くクセナキス〉は瀕死のいきものにコンピュータ演算の世界(SFの文脈では宇宙精神=絶対的理性を意味する)を表象するクセナキスをあしらい、人間と権力の相克するサイバーパンクな光景を描いた。

二〇世紀の美術はじまる泉かな〉〈ダ・ヴィンチよ真夏なるわが外接円〉はどちらも下五の着地があざやか。デュシャンの句は知的で涼しげ。ダ・ヴィンチの句はウィトルウィウス的人体図の黄金率からの連想で、〈外接円〉が黄金の満月のイメージを装う。


4 皿目【記号】 5句

π(パイ)の字のみな歩み去る秋の暮

人界窺ふ√(へいほうこん)か蝮蛇草

冷えて浮く∫(インテグラル)のかたちかな

我に∈(げんとしてふくまるる)枯野かな 

Ω(おはり)からまたI(われ)を出す尺蠖よ

4皿目の素材は記号。数学イベント「MATH POWER 2016」への出演をきっかけとして作品の数が増えたようだ。数学記号を異星人に見立てたものや、その意味をそのまま利用したものなど手法はさまざま。


5 皿目【BL】 10句

「あいつ綺麗な顔して何食つたらあんな巨根に」風光る

ヤベエ勃つたと屈むお前と春の暮

春水なる汝(な)を抱かんとす大気我(われ)

阿修羅いまさらはれて夜の花吹雪

野郎が何で俺に抱きつく更衣

美少年に水かけて虹生みにけり

アナル既に縦割れの兄紺浴衣

来ちやつたと立つ青年や葱など提げ

フィギュアスケート男子回転(スピン)し肉の花器

万のペニスに一美童投げ冬至とす

5皿目の素材はBL。ご覧のとおりエンターテイナーとしての関の挙動には一ミリのためらいもない。肩の力が抜けきっているのかアホらしいことこの上なく、しかも名句が多い。


6 皿目【暮らし】 10句

逢ひたき人以外とは遇ふ祭かな

赤とんぼ手配写真みな友の如し

昨日ここはセブンイレブン秋茜

木造アパート和姦の悲鳴漏れて秋

「うちの姉です食べてください」袋に柿

防空壕埋まりし庭に冬日の猫

ニンゲンニモドシテと言ふ鸚鵡冬

まだ夢を見てゐる牡蠣を食ひにけり

春の異人よ鳥居は絞首台ではない

くらげに「おーい」と手を振る浪速の女学生

6皿目の素材は暮らし。心象と物象のまじわるところに生じる情趣があふれる、随筆のような句を盛りつけた。ささやかだけれど胸にのこる一コマから香る、ユーモアやペーソスのさじ加減がちょうどいい。


7 皿目【日本景】 10句

女子五人根性焼きの手に氷菓

夏うぐひす廃墟の便器かはきたる

うすごろも落つる高層団地かな

エロイエロイレマサバクタニと冷蔵庫に書かれ

ホーロー看板灼けゐて由美かおるが素足

わが前に立つヤンママの背が裸

空室のいつせいに透く花火かな

ドラえもんうつぶせに浮き秋の雨

AVの自販機ほかは冬の闇

蝋製のパスタ立ち昇りフォーク宙に凍つ

7皿目の素材は日本景。すべて連作「日本景」から選んだ。森山大道のスナップ写真さながら、路上を撮影する感覚でつぎつぎ被写体をとらえてゆくこの皿は、日常にひそむ虚無がえぐり出されつつも、対象との距離の取り方が冷静なために、陰にこもらず、読後感もけっして難解にならない。関が対象を観念的に操作せず、ありのままに写生する眼と技術をもつことがよくわかる。


8 皿目【家族】 15句

ヘルパーと風呂より祖母を引き抜くなり

入歯ビニールに包まれ俺の鞄の中

祖母がベッドに這ひ上がらんともがき深夜

便始末されゐて夏がかなしからう

死なす話卓をとんぼの影群れゆき

俺のうしろの秋麗を指し誰といふ

起きあがる祖母に深夜の窓紅蓮

祖母やいま帰心の秋蝉となりもがく

亡霊のごとくに筑波秋の暮

世話しぬけば枯木がア・リ・ガ・タ・ウと言ふ

人死ねば書類の多さ十二月

灯らぬ家は寒月に浮くそこへ帰る

春の天界背より吾へとあふれ入る

抱へて遺骨の祖母躁(はしや)ぎつつバス待つ春

寺からもらつた瓦せんべいで一日生きる

8皿目の素材は家族。関の唯一の家族だった祖母の介護句から選んだ。なにげない日々をスケッチするそぶりで、死に向かうにつれて異物と化してゆく祖母の中の異界をじわじわと明るみに晒し、ラストは死後晴れて他界の異物となった祖母が姿を変えて関のかたわらにいる光景が描かれる。つまりこの皿もまた、日常詠でありつつも〈生命の変形〉という関の句の特質をもっている。

またここで描かれた異界が、斎藤史が実母と夫とを介護した折の歌集『ひたくれなゐ』で描いたそれと類似していることにも筆者は注目したい。おそらく介護を詠むときは、俳句側からすると語り手と作者の一致が高まらざるをえず、短歌側からすると私性では片づかない異物と化しつつある他人を描かざるをえないので、それぞれ逆方向から接近することになるのではないかと思う。参考として、両作をいくつかならべる(左が関悦史の句、右が斎藤史の歌)。

起きあがる祖母に深夜の窓紅蓮〉〈鬼火よりさびしきいろに眼を燃せば夜のほどろにひらくゆふがほ

祖母やいま帰心の秋蝉となりもがく〉〈生きものはとり殘されて秋終り熱き焰の舌・水を欲る

亡霊のごとくに筑波秋の暮〉〈つゆしぐれ信濃は秋の姥捨のわれを置きさり過ぎしものたち

抱へて遺骨の祖母躁(はしや)ぎつつバス待つ春〉〈おどろなるものあたたかき草枯れの此處に憩ひて行きしものあり


9 皿目【震災】 10句

永き日の家のかけらを掃きにけり

春の日や泥からフィギュア出て無傷

テラベクレルの霾る我が家の瓦礫を食へ

出日本記書かるることなし立葵

全国の線量計の御慶かな

うつろへば花かホモ・サピエンスの忌

夢に奇なるトイレが春や原子炉溶け

シテの如立つ百合あまた津波跡

秋やこの将棋倒しの鳥居の赤

月光がガソリンスタンド跡地にゐる

9皿目の素材は震災。2011年、東日本大震災の被災者となった関は、自宅の惨状を句にするとともに、東北被災地への訪問をくりかえしている。被害はおおむね淡々と詠まれ、詩的カタルシスや感情のスペクタクル化といった疎外論的文脈へおちいることを可能なかぎり回避しようとする意思が感じられる。


10 皿目【政治】 5句

安全富裕地帯(グリーンゾーン)に危険貧困地帯(レッドゾーン)接す旱かな

あらゆる夜を書物ら点りつぎ銀浪

抗議の文言投影(プロジェクション)されビルが夜涼

議事堂前秋霖ホモ・サケルとして犇(ひしめ)

マスメディアがchoros(ころす)四万人スマホ灯し

10皿目の素材は政治。〈安全富裕地帯(グリーンゾーン)に危険貧困地帯(レッドゾーン)接す旱かな〉はナオミ・クライン『ショック・ドクトリン』から。〈あらゆる夜を書物ら点りつぎ銀浪〉は、まず書物が灯し火になるという着想が素晴らしく、しかもその燃える書物が焚書と啓蒙、あるいは弾圧と連帯といった相反するイメージを奇策のようにかがよわせながら〈銀浪〉すなわち天の川へと止揚するようすが圧巻である。〈抗議の文言投影(プロジェクション)されビルが夜涼〉〈議事堂前秋霖ホモ・サケルとして犇(ひしめ)〉〈マスメディアがchoros(ころす)四万人スマホ灯し〉は関が参加したデモの光景のようだ。光と闇の対置、張りのある長律が生みだすドラマチックな臨場感、言葉の大胆なとりあわせなどをていねいに味わいつつ、これらの特徴を一句に束ね上げる力強い技を堪能したい。


11 皿目【SF】 8+7+5=20句

11皿目の素材はSF。これは関の創作のメインにあたり、またすべての皿を包みこむ原型でもある。最も影響の色が濃いのは日本SF第一世代、とりわけ少年時代に洗礼を受けたと予想される小松左京、筒井康隆、眉村卓の三人だ。具体的にいうと、小松の主体の問題と管理への抵抗という政治的主題は関の中でサイバーパンクを中心とした社会派ロマンへと発展し、筒井の超虚構宣言(1974年)に始まるスペクタクル理論、メタフィクション、ヌーヴォー・ロマン、マジック・リアリズムなどをふまえた諸作品は関の認識的異化作用を求める態度となり、そして眉村の日常を基盤とした不条理、寂寥感、異物との共生は、関の内省的な心臓部分を涵養したのではないかと思われる。

〔a〕

小UFOが家通り抜け春と思ふ

うすらひやさはられてゐるうらおもて

はつなつといふものうすく目をひらく

水母が分母の仮分数にて憩ふかな

無我いまやアンドロメダは冷索麺

シュレディンガー音頭は夏を「Ψ(プサイ)にΦ(ファイ)

小鳥来て姉と名乗りぬ飼ひにけり

カットグラスに信長のやうなものけむり

〔a〕には関の十八番であるショートショート風の作品を盛りつけた。屈指のハチャハチャ句〈シュレディンガー音頭は夏を「Ψ(プサイ)にΦ(ファイ)〉はアホらしすぎて胸が熱くなる。


〔b〕

カミアツテ螺旋ニ透ケル生者死者

弦樂四重奏團(クワルテット)互ヒノ肉ヲ裂ク調ベ

軍需産業ノ商品ノ僕ラ空ヲ翔ケル

不死ノ僕ニ魂ノアル夕立カナ

汝ガ遺書ノ如ク首都アリ黴ビ始ム

国境越えクチャ地区に昼の変形菌

転生後の皮膚秋風として来たる

〔b〕には混成主体(クレオール)のモチーフを盛りつけてみた。念のために書き添えると、今回別の皿にした「古典文学」および「記号」は、この混成主体の範疇に入る。

カミアツテ螺旋ニ透ケル生者死者〉〈弦樂四重奏團(クワルテット)互ヒノ肉ヲ裂ク調ベ〉は連作「マクデブルクの館」より。腐った生気が魅力的なこの連作は、ミステリ系語彙で土台を固めたSFスラップスティック・ホラーで、作品の始めから終わりまで登場人物たちの血やら手足やら正体不明のなにやらが時空を越えて飛びまくる。他作品からの引用も随所に織りこまれ、あえもの感きわまる怪作である。

軍需産業ノ商品ノ僕ラ空ヲ翔ケル〉〈不死ノ僕ニ魂ノアル夕立カナ〉〈汝ガ遺書ノ如ク首都アリ黴ビ始ム〉は連作「飛ぶ影、歩く影」より。学徒出陣にサイバーパンクの文脈におけるポスト・ヒューマニズムの世界を接合し、死の美化と命に対する責任放棄との響きあいを描く。


〔c〕

 WTCビル崩落
かの《至高》見てゐしときの虫の声

プラハにカフカの何から何までを知りし笑ひ

人類に空爆のある雑煮かな

多くの死苦の引掻傷(エクリチュール)のある夏天

注意すれど注意すれど字の読めぬものにほかならず

〔c〕はアメリカ同時多発テロ事件からイラク侵攻までの流れをあつかった連作部分より選んだ。エンタメ性のきわだつ先ほどの(b)に対して(c)は思弁性が高い。

かの《至高》見てゐしときの虫の声〉は《至高》の目撃者である語り手に、じーんと耳をしびれさせるような虫の声が貼りついている光景である。この《至高》はアメリカ或いはイスラムのイデオロギーのみならず至高存在、特にカバラ的文脈でいう無限性=無性が暗示されているのだけれど、面白いのはこの感覚が〈プラハにカフカの何から何までを知りし笑ひ〉でも反復されることだ。すなわち、前の句では無限と無を同時に見てしまった語り手が難聴に陥るのに対し、後の句では全知という空虚に達した語り手がついに狂気の笑いに溺れるのである。

多くの死苦の引掻傷(エクリチュール)のある夏天〉では初期のデリダがフロイトを援用して根源的(無意識的)エクリチュールが引っ掻き傷であると述べたことを背景に、〈死苦の引掻傷〉と「詩句のエクリチュール」が掛詞となる。そして落書きじみたその傷をまぶしい夏空に眺めるのだが、そのとき語り手は何も理解していない。まさに〈注意すれど注意すれど字の読めぬものにほかならず〉との告白どおり、語り手は「死苦=詩句の引っ掻き傷」を読むことができないのだ。

人類に空爆のある雑煮かな〉は関の代表句とされ、人類の危機と平凡な日常との屈託なき同居を描いたと評されることが多い。しかしこの評は関の俳句の特質を考慮していない上に、連作の流れとも噛み合っていない。では他にどう読めるかというと、筆者はこの句の〈雑煮〉を〈空爆〉で伸び爛れてしまった人類の姿だと思って読んでいる。そう思う理由はシンプルで、関には餅を変幻自在のエイリアンとして描いた連作「餅」のほか〈餅の事故や無人爆撃機や孤死待つ〉〈銀河と銀河の衝突思ふ餅雑炊〉〈鏡餅は人撲ち終へし天女のさま〉〈「ルクス・エテルナ」聴き餅食へば吾も切餅〉〈レンジの餅ら伸び来て綾波レイの声〉といった餅の句があるのだけれど、ご覧のとおりいつでも平凡な日常とは真逆の、不条理・事故・破損・死といった連想を含んでいるからだ。そんなわけで掲句も、ふだんの関の調理法にしたがって読めば、空爆をきっかけとして日常を死が侵蝕するイメージ、もっといえば触れえないはずの世界が主体に食い込んでしまったイメージが〈雑煮〉によって暗示されていると考えるのが自然である。


【おわりに】

セキエツを味わうための11のメニュウはいかがだったろうか。質・量ともにひとかたならぬ力量をもつこの作家の味が少しでも伝わったなら案内役としてこれほどうれしいことはない。

さて最後に語りたいのが8皿目「家族」の中の〈世話しぬけば枯木がア・リ・ガ・タ・ウと言ふ〉という句のことだ。実は筆者は、この句を初めて読んだとき、死にゆく老人を〈枯木〉に喩える手法に批評を拒絶するたぐいのロマン主義を感じて全く良い印象をもたなかった。ところが関の作品をすべて読み終え、あたらめてこの句に戻ってくると、「ア・リ・ガ・タ・ウ」という書きぶりが露骨にSF的であることに気がついた。そしてこの「ア・リ・ガ・タ・ウ」は異界のものへと成り果てつつある祖母がかろうじて発したさいごの人間の言葉であり、つまり関が見ていたのは比喩ではなく本物の枯木=エイリアンだったことを理解したのだ。

かつて関はテレビのインタビューで「祖母の介護を終えたあとこの世界すべてが異界となった」と語ったことがある。たしかに関が心に抱く人間への渇望は、この世の異界性を描くことによって逆説的に語られ、また歪んだ、だが時空を超えうる生命を描くことによっても追い求められているようだ。とはいえこの興味をそそる話は、今日のメニュウとはまた別のコース。いつかまた別の機会に提供することにしよう。


  ガイコツノ    見よ!骸骨どもだ
ウエヲヨソーテ  祝日の晴着をきて
サクラカナ    花を眺めているぞ
鬼貫(1661~1738)
ソムトウ・スチャリトクル『スターシップと俳句』(早川書房)より


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