【空へゆく階段】№33
特別作品評 第三十号より
田中裕明
特別作品評 第三十号より
田中裕明
「晨」1989年5月号・掲載
第三十号は発行同人の特別作品揃踏。三人の俳句を二十句ずつ読むということで、評する側もある緊張を強いられた。
宇佐美魚目氏の作品をまるで手紙を読むように読んだ。見ることと表現が一つになっている幸福を感じる。
刈りしもの舟で運ぶや初氷
葉の上の菜虫太陽うごきけり
鴛鴦の束の間の日に流れをり
叢をなす紫蘭の冷気長子生る
鴛鴦に霰打つ日もありぬべし
紅唇も時には氷光りけり
一句の中で完結する世界の困難さをもっとも良く知っているのは魚目氏だろう。それだけに読者に対するいざないに心がくだかれている。ある様式美にぴったりはまっている部分と非常にヴィヴィッドに動いている部分とがあって、今回の作品でも両者の平衡を楽しむことができた。それが作品にここちよい律動を生み出している。
大峯あきら氏の作品には、さきの俳句研究年鑑に書かれていた言語空間の水平化に対するアンチテーゼをつよく感じた。一方に水平化と呼ばれるような動きがあるときにどのような場所に身を置いて俳句を作るべきか、そのあたりが非常に明確に定まってまわりのものにもわかりやすくなってきたように思う。
裏白や灯を消してあるよき座敷
兎消え竹内峠初景色
元日の式台にある龍の玉
川せみも山せみも來し三日かな
茶畠をまはつてゆくや寒見舞
藪入はうれしき淵の蒼さかな
よき俳句の味とは反覆可能なみずみずしさのことだと作者はいう。その原稿空間の広がりが豊かであることは読者にとって喜びである。
最後に岡井省二氏。詞にあやをなして観念の具象化に専心する。俳句はもちろん道具ではないがそれだけではなくて、交換可能ななにものかであってはつまらない。
もし手毬つづいてころげくるならば
だんだんにあつまつてゐし春の鴨
野焼の手はたいて三輪の山仰ぐ
昼からや涅槃の松に馴れてをり
花みちて河原の空をおぼえけり
作者の非常に厳しい戒律の中から生まれ出てくる俳句はもともと虚を盛るものである。その覚悟は次第にあきらかになり、読者もまたその階梯を進まねばならない。出来上がった作品の素顔は穏やかでくつろげるものなのだから、プロセスにもっと直截なものを求めたい。
≫解題:対中いずみ
0 件のコメント:
コメントを投稿