【空へゆく階段】№66
花照鳥語⑦ 宇佐美魚目『蒔水』
田中裕明
「晨」第73号(1996年5月)
電波天文学という学問の分野がある。遠い星からやってくる電波を、大きな電波望遠鏡で「見る」。地球から最も遠い星を見つけることで宇宙のはじまりを知ろうとしている。
光で星を見る天文学は歴史が古い。人間の歴史そのものとあまり変わりがないくらいです。望遠鏡が発明されてから天文学は進歩した。それも天文学の歴史の中では電波望遠鏡が生まれてからの発見が大きい。
望遠鏡も顕微鏡も肉眼では見ることのできない世界を見せてくれる。その点では同じだけれども望遠鏡のほうが人間の想像力を刺激する。そういう気がします。
俳句はどちらかといえば望遠鏡の世界。無限遠方からのかすかな光を像に結ぶ。自分の心の襞を顕微鏡で見るようなことはしない。短歌とはちがう。
宇佐美魚目さんの第六句集『薪水』を読む。
海中(わたなか)はすでに仲秋戸にもたれ
哄笑の突如月下の大氷柱
一尋といひ手をひろげ月の秋
足音は強くあるべし飾炭
薪水の労秋風に口むすび
これはもう俳句ではない。
そしてまたこれがまさしく俳句なのだという感じがする。
魚目俳句の中で人の姿がいよいよ濃くあらわれてきた。その人物の所作は遠く、はるかになつかしい。望遠鏡で見るように、ありありと浮んでいるのだが、手を伸ばしても届かない。世界がゆたかにひろがっている。
言葉が練りに練られているという意味で、俳句がうまい、姿が美しいと思ってきた。しかし、こたびの集では、もっと自由に、もっと無造作に投げだされいるような印象を受けます。いや、昔からそんなふうに置いてきたよ、と言われそうな気もするが。
荒食ひの真鯛に紅葉おくれをり
葛引の川より山に入りにけり
子安貝にぎりてあれば何故に茂吉
馬冷す戦後の絵なり金ンをつよく
解けてゆく氷象の目鯨の目
句作りのうえで苦心のあとをいかに消すかということに心を砕くのがつねだが、これらの句はそんなことに頓着していない。それでいて読む者の気持ちに添うてくれる。
青空や三河の国の餅の音
巻末の一句が見事にこの句集の宇宙を統べている。
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