ブラジル俳句留学記〔18〕
神よ
中矢温
11月17日から20日にかけて、三泊四日でブラジル北東部のフォルタレーザを訪ね、友人の友人(ジェニー)の家に宿泊させていただいた。
フォルタレーザの美しい海について書いてもいいが、ここはやはり「ブラジル俳句留学記」らしく、言葉について思ったことを書きたいと思う。
ジェニーは近所の方と協力しながら、80歳の女性(サレッチ)を介護している。具体的には毎日サレッチのアパートを三~四回訪ね、すりつぶした食事を口に運び、栄養満点の自家製フルーツジュースを持って行き、お風呂を介助し、祈りを捧げている。私もこの四日間都度ご一緒して、簡単なお手伝いをした。
ジェニーもサレッチも含め、この地区の方々は皆カトリック教徒である。サレッチは覚醒と半覚醒のさなかを彷徨いながら、「オー・メウ・デウス(ああ、我が父よ)」とうわごとのように繰り返していた。その声のかたちごと、今でも私の頭のなかに谺している。
サレッチは混とんとする意識のなかでも、祈りの言葉を覚えており、横になったまま諳んじてジェニーと共に祈ることができていた。私はこの光景を見ながら、第二次世界大戦に従軍した元日本兵のドキュメンタリーを思い出した。番組名も定かではなく恐縮だが、認知症になった彼は、最期まで軍歌だけは力強く歌うことができた。
「オー・メウ・デウス」。英語でいうなら、「オー・マイ・ゴッド」である。これは定型表現として、落胆したときや感謝したときに使う言葉かと思う。しかしサレッチたちの口からこの言葉が零れるとき、それは単なる定型表現としてではなく、正に言葉通りの意味を帯びている。ここに神はいるのだと思った。
サレッチに最後別れを告げたとき、彼女の意識は明瞭で「また今度(アテ・ア・プロッシマ)」と言ってくれた。私が次にフォルタレーザに来られるのは、そもそもブラジルに来られるのはいつになるだろうか。「また今度」という言葉は私の心を締め付けると同時に、いつまでも温めている。
Na minha viagem de Fortaleza, fiquei na casa da amiga católica. Essa comunidade é composta por quilombos. Demais, visitei à casa onda uma mulher doente mora sozinha. Na cada manhã e antes da tomar comida, elas rezam. As palavras das “graças a deus”, “meu deus” e “meu pai” são importantes literalmente para elas. Sinto a alma da palavra. Especialmente, amo e respeito a aliança na sua comunidade. Acho que a vida na cidade está esquecendo a importância de ajudar uns aos outros. Finalmente, estou rezando a saúde e felicidade da Salete e vocês. Graças a Deus, estou com vocês mesmo que depois da volta.
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