2023-12-10

三島ゆかり【句集を読む】宮本佳世乃句集『三〇一号室』を読む

【句集を読む】
宮本佳世乃句集『三〇一号室』を読む

三島ゆかり
『みしみし』第6号(2020年晩夏)より転載

『三〇一号室』(港の人、二〇一九年)は、宮本佳世乃の第二句集である。第一句集『鳥飛ぶ仕組み』(二〇一二年、現代俳句協会)からどのように変化を遂げたのか。第一句集を読んだときには、特徴的な要素をグルーピングして述べたが、今回は頭から章ごとに見ていきたい。

1.片側の

一ページに三句ずつ配列された句集の最初のページは、【取扱注意】の宣言として置かれている。

来る勿れ露草は空映したる  宮本佳世乃(以下同)

わざわざ「勿」の字を使っているからには、「勿来の関」を踏まえたものだろう。「どうか~しないでください」の意の「な~そ」に「禁止」の意味の「勿」を当てた「勿来の関」は、東北の関所としての実在性はともかく、歌枕として異界の入口であったり、恋の障害であったりしたようである。それを句集の冒頭に置くということは、私の句集を普通の句集だと思っているならどうか来ないで下さいという表明だろう。

キツネノカミソリ金網の向うは水

キツネノカミソリはヒガンバナ科(旧分類ではユリ科)の植物だが、その名の妖しさによって選ばれたものだろう。金網によってここでも世界が区切られている。

からすうり里の朝から母を逃がす

大罪を犯すと決意したように肉親を逃がしている。この句集は最初のページからして、そのように始まるのだ。句から作者の現実的な生活を思い浮かべて解釈するような読みは通じない。

ここまでの三句のうちの二句は句尾が助動詞や動詞である。特に「たる」で終わる句は句集全体で二十句以上に及びかなり多い。単に一句として見れば、重厚感、安定感の点で体言止めや「かな」「けり」などの切れ字に分があるが、配列として見渡した場合、動詞終止形による進行感、連体止めによる浮遊感などが適切に組み合わされてこそ、それぞれが互いに効果を発揮する。

六階のあたりに今日の月が居る

配列への配慮という点では、「転じ」による変化も著しい。宮本が編集する『オルガン』誌では連句が継続的に取り上げられているが、そこからのフィードバックもあるのだろう。「片側の」の章は秋・冬の句からなる。冒頭から季語だけ拾うと露草、キツネノカミソリ、からすうり、七夕笹、秋祭、と続く。どこか林に隣り合った集落のイメージが立ち上がってくるが、それを裏切るように置かれるのが掲句である。この「六階」のようにして、以後「スーパーの袋」「真空管」「透明な傘」「トランプ」「ナイロンテグス」「患者」「鍵盤」などが現れては転じ、気がつくと生死の境に連れて行かれている。転じつつも概して静謐にして空気の薄い世界…。佳世乃ワールドとはそんなところである。

かなかなに血の集まつてゐるばかり

「に」が独特である。移動を表す動詞とともに使われているととれば、血がかなかなに集まっているともとれるし、動作・作用の起こる原因ととれば、かなかなのせいで私に血が集まっているともとれる。が、韻文のことばなので、どちらかに断定してそこから論理的に現実を説明しようとするのは、あまり意味のあることではないだろう。かなかなの鳴き声は、種を保存するための哀切な求愛行動である。それを万感で受け止めて得られたのが、本句の措辞だろう。

ざぶざぶと芒掻き分けあなた鍵

鍵を忘れて出勤した夫を駅まで追ったことがあるのかも知れない。そんな「あなた鍵」であるが、記憶を塗り替えて悪い夢にうなされるような「ざぶざぶと芒掻き分け」が凄まじい。とりわけ「ざぶざぶと」がオノマトペとして尋常ではない。

冬の点描みな健康の紐を曳く

点描といえばスーラに代表される新印象派の、光を捉えるために輪郭を失った絵画が思い浮かぶ。意図的に曖昧にした「健康の紐」は、ある人にとっては綱引きの綱かも知れないし、ある人にとっては生命維持装置の管かも知れないし、ある人にとっては祭りのひもくじかも知れない。句全体のイメージはつかの間の幸福のように儚い。

佳世乃句の多くは、もののかたちや作者の意思を明確に伝えるために書かれているものではない。まさに「点描」のように、句の世界全体が輪郭の曖昧な光の現象のようなものとしてそこにあり、読者に問いかけている。


2.あをき石

次の章は春と夏の句が並ぶ。

貝寄風に顔出す穴のありにけり 

「顔出す穴」でまず思い浮かぶのは観光地にある記念撮影用のボードである。その地に縁のあるドラマの主人公や歌手が描かれ、顔だけが穴になっていて、訪れた観光客が自分の顔を出しては恋人や家族に写真を撮ってもらう、あれである。しかし取り合わされる季語は「貝寄風」なのである。その地に誰も訪れなくなって、ただ風が吹いているのか。それとも、崖の巣穴から様子をうかがうために鳥か小動物が顔を出すのか。気がつくと、顔の不在について考えている。

さつきから三羽さんかく鳥の恋

一転しておどけた句である。「さつき」「三羽」「さんかく」とsa音で調べを整え、ひらがなの表記も楽しい。「鳥の恋」にも三角関係ってあるのかなあなどと眺めているのだろう。

目はひばり教はり雲雀好きになる

同語反復の片側をひらがなにするのは鉄則ではあるが、ここではもともと知識として知っていたものについて、あれがそれだと教わったのだろう。「ひばり」があれであり、「雲雀」が知識である。

クリアそれから川べりの芽吹かな

クリアは、ゲームなどの中間目標の達成のことだろう。精神集中がほどけ周囲にも気が回るようになる感じを、十七音着地の破調で巧みに表現している。

ボールペンごと春服の掛かりをり

仕事で使うボールペンを胸ポケットに挿している人の上着が、そのままハンガーに掛けられているのだろう。忘れたのではなく今は仕事中ではないのである。

木漏れ日がくちなはを動かしてゆく

リモコンの赤外線の類推だろうか。一筋の木漏れ日の光から不思議な感じ止め方をしている。

うつすらと背中の透けてゐる泉

「からだ」でも「下着」でもなく「背中」であることによって、より官能的な句に仕上がっていると感じる。泉が光をまとった神のすがたをしているようでさえある。

沖すこしゆるんでゐたる黒揚羽

近景の黒揚羽の出現により遠景への観察は一瞬途切れる訳だが、人は経験的に遠景にはなにも発生していないことを知っていて無視している。その無視をやめて俳句の二物衝撃のフォーマットに落とし込むと、遠景は弛緩しこんなことになる。ひとつ前の「うつすらと」にしても本句の「すこし」にしても、微妙な差異によって佳世乃ワールドでは異常を検知して振り切れる。


3.その他は

この章は東日本大震災の被災地を訪ねたのであろう十五句からなっている。

その他はブルーシートで覆はるる

最後に置かれた一句である。震災から何年も経つのにじつは圧倒的大多数が放置され、「その他」として目隠しされているのだろう。


4.かうかうと

この章はふたたび秋と冬の句からなる。「片側の」の章とどのように句を振り分けているのかは、あとがきに書いてない。が、こちらの章はできるがままに即吟したものを極力無加工のまま伝えようとしたものではないかと思う。「片側の」が書かれた曲だとしたら、「かうかうと」は即興演奏なのではないか。言い方を変えると、この第二句集では、一冊の句集の中でふたつの面があるのではないか。

満月の歩く速さでくるメール

子どもの頃、どれだけ歩いても月が後ろに行かないことを不思議に感じたものだった。月が自分と同じ速さで動いているように感じるのと同じ違和感を、すぐメールを返してくる相手の速さに感じているのではないか。

水澄んであとはバドミントンでいい

秋の爽やかさを万感で受け止めての一句だろう。この場合のバドミントンはもちろんオグシオとかタカマツとかの高度な競技ではない、もっとも手っ取り早い娯楽としてのそれである。

日脚伸ぶいまらふそくのらのあたり

表記と発音が異なる歴史的仮名遣いの盲点をつき興じて見せた一句だろう。句会で出されたのであれば、披講者は困ったに違いない。

この章では「ニュータウンの短き坂よ木の実降る」の八ページ後に「十一月坂の短き団地かな」があったり、「音は動いて冬の欅の虚となる」の四ページ後に「ふくろふのまんなかに木の虚がある」があったりするが、日々の即吟の中で同じモチーフが姿を変えて現れているのではないだろうか。


5.ひかる絃

この章は、「あをき石」と同じく春と夏の句からなる。ふたつの章の関係は前章で述べたことと同様だろう。

魚のゐる昼のきはより芽吹きたる

「きは」とは水と大地の境界だろうか、夜と昼の境界だろうか。「魚のゐる昼の」という連体修飾が意味を弛緩させており、得体の知れぬところから芽吹きが始まっている。

末黒野と菜の花の空隣り合ふ

書かれた通りに読むと「末黒野」と「菜の花の空」が隣り合っているように読めるが、すると末黒野には空がないのだろうか。末黒野が隣り合っているのは「菜の花の空」ではなく菜の花が広がる大地ではないのか。という意味上の弛緩を敢えて作り込むことにより、末黒野の黒さと、隣り合った視界の明るさを詠み上げているのではないか。技術として弛緩を作り込んでいるのだとしたら、「ゆるい」とか「意味が分からない」という指摘は当たらない。

空蟬の摑む時間のやうなもの

脱皮する前の蝉は枝を掴んでいたが、それがそのままになっているだけで、空蝉が意思をもって何かを掴んでいるわけではない。しかし眼前の空蝉は確かに何かを掴んでいる。俳人の直観で詠み上げた「時間のやうなもの」という直喩に舌を巻く。


6.フリスク

最後の章は『三〇一号室』で暮らした人の思い出が季節に関係なく集められている。

二階建てバスの二階にゐるおはやう

句集の最後を飾る句である。「来る勿れ」で始まった句集は「おはやう」という挨拶で終わる。もしかすると、宮本にとってふたたび「おはやう」と言うために、この第二句集が必要だったのかも知れない。そんなことを感じる。

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