【週俳9月10月の俳句を読む】
磁石のように
鈴木茂雄
詩としての俳句をテクストとして読むということは、読解以前の問題として、まず作品群から類句類想を一掃するところから始めなければならない。これは俳句という極めて短い詩形の宿命だろう。
誤解をおそれずにいうと、俳句はその発生の起源から定型や季語の恩恵を受ける代償として、常に類型というハンディを背負うことになる。まず575という詩形に収める行為が類句、季語を利用すること自体がある意味で類想、そこからのスタート。そのことを踏まえて俳句を読もうとしている。
星飛んでうすき傷ある銀の匙 村上瑠璃甫
使い込まれた銀食器には必ず傷が付いている。新しくてぴかぴかとしたものより、むしろ傷が付いて鈍い光を帯びた銀食器の方が美しい。しかも上品だ。それが「うすき傷ある銀の匙」というのだから、なおさらその匙は美しかったのだろう。まるでさっき見た流星群のひとつが落として行った切れ端のような銀の匙。中世の闇につつまれた洋館の、夜の卓上に並んだ銀の食器をも彷彿とさせる作品だ。
朝顔に猫の尾ちよつと触れてゆく 村上瑠璃甫
「ちよつと」にリアリティがある。太くて立派な「尾」がクローズアップされる。庭に咲く朝顔の横を過ぎる猫の、その全身が像としてリアルに浮かび上がる。尾だけでなく顔の表情までくっきりと見える。
いますこしままこのしりぬぐひをみる 村上瑠璃甫
一読、「ままこのしりぬぐい」がわからない。「いますこし」のところで立ち止まってしまった。ここで切れているからというのではなく、次にくる「ままこの」が平仮名表記のために「継子の」という言葉が映像として立体化しなかったので、無意識に「まま」という音だけが入ってきて、「いますこしまま」とは、と立ち止まってしまったのだ。が、すぐに「まま」に「この」が「まま/この」と磁石のように引っ付いて、語が句になりその意味を理解することができた。平仮名の表記を読んでいるときは、なんだかわからないけれどかわいい印象だけが残っていたのに、漢字で「継子の尻拭い」と書かれると、なにやら穏やかではないことが書いてあるということだけはわかったのだが、それでもやっぱりわからなかったのは、尻拭いを「他人の失敗などの後始末をつけること」と思って読んでいたからだ。尻拭いは文字通り尻を拭うことだったのだが、ネットで検索すると可憐な花が現れた。が、その由来はこの花の茎に硬い棘があって、それで継母が継子の尻を拭っていじめていたという。もし本当だったとしたらなんとも哀れな話だが、そんな名前を付けられた花も迷惑な話だ。そんなことを考えながら作者は、この花を眺めていたのだろう。「いますこし」と「みる」という言葉からも、そのことが窺い知れよう。
火焔土器に蛍が一つ付いた マブソン青眼
作品の冒頭に「師・金子兜太にささぐ」とある。そうするとこの句は「おおかみに螢が一つ付いていた 金子兜太」のオマージュということになる。「火焔土器」は「縄文時代中期に作られた土器、燃え盛る炎や渦巻く水の流れなどを表現したような独特のフォルムが特徴」だという。まるで兜太句の文体そのものではないか。揚句で注目したいのは「蛍が付いた』という箇所である。師のフォルムのような火焔土器に、目の前に飛んできた蛍が付いた(「付いていた」のではなく)、止まったというのだ。火焔土器=師・金子兜太という構図の中に描かれたこの蛍は、師の魂の記号として長く作者の心に刻まれることだろう。
鶏頭花ざわめく鋏入れるとき 月野ぽぽな
鋏を入れるとき鶏頭は「ざわめく」という。鶏頭の花と言って即座に思い浮かぶのは、正岡子規の代表作のひとつ「鶏頭の十四五本もありぬべし」だろう。花の中でもとくに異彩を放つその色や形とぞろりと立ち並ぶさまには、秋の陽射しの強い日はことに見るものを圧倒するものがある。植物であるはずの鶏頭の花が目の前に鋏を突きつけられた瞬間ざわめいたというのだから、まるで動物の仕草を思わせる表現で、作者は鶏頭の花を写実する。読む者をして「ざわめく」のも当然だと思わしめる力が、この句にはあるからだろう。
■村上瑠璃甫 ままこのしりぬぐひ 10句 ≫読む 第907号 2024年9月8日
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