【週俳9月10月の俳句を読む】
不思議であるという
渡辺天牛子
星飛んでうすき傷ある銀の匙 村上瑠璃甫
なにかしらを食べようと匙を手に取ったのかもしれない。そしてそこで、物としての銀の匙に見入ってしまったのだろう。使い込んだ匙には、細かい傷が無数に入っている。少し動かすと一本一本の傷に光が走り、現れてはすぐに目立たなくなる。なるほどこのときの光は、星が飛ぶときのさまによく似ている。
一枚の夜空に見える星の数と、一本のスプーンにある傷の数では、どちらのほうが多いだろうか。
朝顔に猫の尾ちよつと触れてゆく 村上瑠璃甫
光景が目に見えるようだ。盛りの時期の朝顔はあちこちに蔓を伸ばす。猫の尾が触れたのも、そのような一本で、横向きに伸びていたものにちがいない。猫の尾に引っ張られて蔓が少し曲がる。そして、尾が離れたあと曲がった方と反対側に軽く振れる。さらに反動でゆらゆらと何回か揺れる。こんな時、猫はなにも気にしていないだろうし、朝顔も多分気にしていないだろう、と思う。この句の作者だけが、小さく心を動かされたのだ。
いますこしままこのしりぬぐひをみる 村上瑠璃甫
ただ路傍に生えていただけなのに、ずいぶんと因果な名前を付けられたものだ。作者はこの植物を通して、人間のあらゆる業深さに思いを馳せているのかもしれない。
とはいえ、見続けるのはやはり、興味が続いているからということでもあるだろう。ささやかながら、見所の多い植物なのだ、きっと。形態を見るにしても、まずは名前の由来が気になる。「この棘で、ねえ」などと言いながら棘をまじまじと見る。そのうち、「可愛い花だな」と花に興味が移る。次に、よく似た溝蕎麦なんかを思い出して、「どこが違うのだろう」などと葉の形など確認してみる。例えばそんな感じだろうか。名前の印象を乗り越えて、“ままこのしりぬぐひ”の姿が少しずつ確かなものとなってゆく。
此岸彼岸半狼半蛍(はんろうはんけい)火焔 マブソン青眼
悠久を残り続けた火焔土器とそれに比すれば刹那の命でしかない蛍の邂逅である冒頭句に続いて、二句目。彼岸より狼が現れる。
火焔土器には四足獣らしき意匠が施されてあるので、それを以て狼としたのか。あるいは、装飾的な縁取りの一部が狼の耳や大きく裂けた口のように見えるのかもしれない。もちろんいずれにせよ、一句目の引用元、金子兜太の“おおかみに蛍が一つ付いていた”の反響のうちに現れた狼ではあるだろう。
蛍の出す僅かな光では、土器の全貌は見えない。川岸の草かげのような場所の、ごく小さな範囲で生成した物語なのだ。狼は蛍の存在を祝福するのか、それとも光ごと呑もうとしているのか。静かに此岸と彼岸が入り混じる。
飛び立てば火焔型なり鵠 マブソン青眼
連作中にあって、ハイライトというべき一句。
前の句“陽が射せば鵠(くぐい)の影ぞ狼”における影の主は、この句において土器から実物の鵠へと変化していると見ることが可能だ。すなわち、視線は前句の足下の影へ落ちるかたちから、掲句では鵠を見上げるかたちとなる。そして同時に、静から動へ、死物から生物への飛躍でもある。この場面転換、じつに鮮やか。
鵠とは白鳥の古名であるとのことだ。土器が残り続けてきた時間と同じだけの時間、鵠は命を繋いできたのだろうなあ、と思う。そうであるからこそ、この火焔土器/鵠の二重のイメージが腑に落ちるのである。
鶏頭花ざわめく鋏入れるとき 月野ぽぽな
この句を読んでふと思ったのであった。そういえば鶏頭花に触ったことがない。あの波打つ微細なベルベットは、軟らかな手触りなのか。それとも見た目に反してごわごわとしたものなのか。早速近所に生えている鶏頭を触りに行ってみた。はたしてどうであったか。気になる向きは各自で確認されたし。次の秋になるだろうが。
ところで、植物には微弱な生体電流が流れており、刺激や環境の変化に応じた応答が見られるのだという。鶏頭の茎を切ろうとした作者は、なにかの拍子に植物体の発するそれを受信してしまったのかもしれない。
てのひらが脈打っている銀河かな 月野ぽぽな
永田耕衣の“てのひらというばけものや天の川”を思った。耕衣句からは、夜空を覆う黒く大きな掌、掲句からは、灯下の繊細な掌が思い浮かぶ。いずれの句も、掌というものを客体化して見ていると思う。
脈拍というものは、言わずもがな意思でコントロールできるものではない。自分のことであっても自分のことではないようだ。それを見てすこし奇妙に感じること、それこそが不思議であるという感慨かもしれない。自身の肉体にもまた、夜空の星々と通じているものがあるということだ。そう考えると、今度は夜の暗さを行く天の川にも、どこか血の通うような暖かさを感じるだろう。
■村上瑠璃甫 ままこのしりぬぐひ 10句 ≫読む 第907号 2024年9月8日
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