2024-11-23

田中目八【週俳9月10月の俳句を読む】水平性と垂直性

【週俳9月10月の俳句を読む】
水平性と垂直性

田中目八


いつから俳句の発表形式が連作のかたちを取るようになったのだろう。
調べればある程度はわかるかもしれないが、それはここでは置くとして。
私が気になっているのはひとつに俳句の一句独立ということと、連作という形式との矛盾である。
矛盾とまで書いてしまったが、恐らく連作にすることによって読みを補完するものではなく、あくまでも読みの多様性のその一プランを作者側から提案している、ということなのかもしれないといま書きながら気づいた。
とはいえ、賞などの選評を読むと、取った句、秀句の鑑賞を述べるに留まることが多々あることは周知のことと思われる。
斯くいう私も連作をどう読めばよいのかわからないまま一句一句についての鑑賞を書くに留まってしまっているわけだが、そもそもが一句をすらどう読めばよいのかわかってないのであった。
それは恐らく、作者それぞれにも、一人の作者による一句にも色んなバリエーションとグラデーションがあるように、連作のかたち、作され方もまた様々にあるからだろう。
ということを今回鑑賞を書かせてもらった三者の連作を読んであらためて感じたのである。

次に俳句の垂直性と水平性について。
俳諧の連歌や連句など、いわゆる座の文芸で句を並べてゆくこと、またその間に時間の流れがあることを水平性とすれば、一句独立であること、そして一行棒書きであることは垂直性を帯びていると言えないだろうか。
つまり連作という形式は垂直性から水平性への回帰とも言えるのではないか、というのが私の気になっていることである。

俳句もまた座の文芸、文学と言われる。
しかし思うに、俳人に限らず、詩人がまず立つべきところこそ一句独立、つまり一個独立であり、またそれが詩の最小単位でもあるのではないだろうか。
座というのはあくまでもその一個の人間同士の集まりによって生まれるものを言うのだと、そう思うのである。

さて今回も鑑賞文にかこつけて取り留めもないことを書かせてもらったが、ここまで読んでくださった方に感謝。
以上は後書きという前書きで本編はここからであることを詫びて筆を擱く。


村上瑠璃甫 ままこのしりぬぐひ

星飛んでうすき傷ある銀の匙  村上瑠璃甫

銀の匙に何を想起するかは人それぞれであるし、必ずしも銀製と限らなくてもよいかもしれない。
流星や流れ星ではなく「星飛んで」からはメタルマークと言われる無数の擦り傷ではなく、一筋際立つ傷がイメージされる。
星と銀に銀河を見るならばメタルマークは無数の星、傷は流星。匙の中の小宇宙。
お食い初めの傷ではないだろうか。
 
朝顔に猫の尾ちよつと触れてゆく  同

さて問題です。
1.猫は朝顔を横切りましたか、それとも潜りましたか。
2.その場合の朝顔の花の高さを求めよ。
 
いますこしままこのしりぬぐひをみる  同

漢字で書くと継子の尻拭い、棘のある葉や茎で継子のお尻を拭いたことに因むらしい。
それを踏まえれば「いますこし」「みる」ことが意味深になってくる。
ひらがなのみで書かれていることも恐らくはそういうことだと感じさせる。
 
なにかもの言ひだしさうな真葛原  同

言うとしたらなんと言うだろう。
葛といえば裏見転じて恨み…やはり恨みごとのように思われる。
しかも真葛原であるからにはひと言では終わらなさそうな圧がある。
 
蜻蛉の風に凭れてゐたりけり  同

蜻蛉がホバリングしているときの様子だろうか。
蜻蛉の胸と後脚のなんとなくだらんとした感じが、例えば橋の欄干や人の背中に寄りかかっているような雰囲気が確かにある。
 
イーゼルの脚の展がり野分晴  同

野の草を吹分けてゆく野分とイーゼルの脚が展開することが呼応している。
イーゼルといえばまず絵を描くときにキャンバスを置くそれをイメージするが、野分晴を考慮に入れるとこれは店頭看板用のものだろう。
風で倒れないように畳んで店内に入れてあったと思われる。
 
秋繭のたゆたふほどの恋であり  同

秋繭は春のそれよりも小粒で収量も少なく品質も劣る、とのこと。
その小粒の繭を煮ているのだろう。
「たゆたふ」には気持ちが定まらない、ためらうなどの意味もあることから、そういうことなのだ。
繭だけに煮え切らない…ということか(いや、そうではない)

腥き辞書の匂ひも無月かな  同

辞書にはそれぞれ違う匂いがあるが、相当に古く状態が悪いのだろうか。
加齢臭が古書の匂いだという話も浮かべるが、紙であるから匂いを吸着しやすいので腥い場所、環境に置かれてあったのかもしれない。
無月であるから雨が降っていてその湿気で匂いが増したとするなら、ずっと窓を開けて辞書を側に月を待っていたのだろう。
無月とは本来それもよしというのが本意ではあるが、この匂ひ「も」にはそれも無月の原因であるかのように感じる。

大学に忘れものして草虱  同

講義のあと、或いはサボタージュして何処かへ気晴らしにでも行ったのだろうか。
或いはフィールドワークかもしれない。とにかく忘れものはしたがお土産はばっちり、服に草虱をくっつけて帰って来たのだろう。

しん/\と菊人形の肩に水  同

しんしんと、であるから肩に水が着いてるというよりは肩から水が染み込んでゆくイメージを浮かべる。
菊人形を作ったあとも萎れないように、根巻きという苔玉の部分に水を差すらしいのでその作業を目にしたのだろうか。
恐らく普段見ることのない景色だろう。


マブソン青眼 火焔土器に蛍(五七三)

火焔土器に蛍が一つ付いた  マブソン青眼

言うまでもなく「おおかみに螢が一つ付いていた 金子兜太」を踏まえているわけであるがそれは置かせてもらう。
縄文びとたちが煮炊きし命を繋いだ火焔土器。
長い眠りから掘り起こされて、いま蛍が種火となって新たな命を吹き込むかのようだ。

此岸彼岸半狼半蛍(はんろうはんけい)火焔  同

絶滅した狼は彼岸にいて、蛍は此岸にいる。
蛍を亡くなった人の魂だと言うことを思えば、半分は彼岸に半分は此岸に存在すると言えるのかもしれない。
いや、この蛍とは狼の魂なのか。
火焔とは熱と光であるが、それはつまり肉体と魂と言えるのではないだろうか。

陽が射せば鵠(くぐい)の影ぞ狼  同

鵠は白鳥の古名である。
その姿は見えないが影だけが地上に降りて来たようなイメージを感じる。
白鳥は縄文時代辺りから日本へ飛来していたとする説があり、狼も縄文時代のはじめ頃に渡来したと言われる。
今我々の目にする白鳥ではなく、縄文びとが仰いだ鵠なのだろう。
鵠の影をまぼろしの狼が追いかける。

飛び立てば火焔型なり鵠  同

飛ぶ姿ではなく飛び立たつときの翼を広げた姿だろう。
火焔型は火焔そのものでもあり火焔土器の形でもあろうか。
逆に火焔土器は鵠の姿をかたどったものであったのかもしれない。

火焔土器の鶏冠(とり)啼き魚(うお)は泪  同

言うまでもなく芭蕉の「行く春や鳥啼き魚の目は泪」を踏まえている。
鶏冠は火焔の尖端のような四つの突起の部分のことだが、一説には飛び跳ねる魚を表しているとも言われている。
その鳥と魚が惜しむのは何だろうか。
縄文びとたちだろうか、過ぎし縄文の世か。

魔物死んで天使も死んで焚火  同

現代日本では人は死ねば火葬されるのが通常であろう。
魔物も天使も実体があるのかどうか、焚火にそれらの遺骸を焚べるのか。
灰は灰……を思えば魔物も天使も本来火なのかもしれない。
連作のなかで読めば魔物とは狼、天使とは鵠の意かとも思えもする。
また現代において魔物も天使も滅びたとすれば、未だ絶えざる火というものを思いもする。

焚火跡踏めば浅間のけむり  同

焚火の火を消した後も完全に灰になるまで待たねばならない。
そろそろ燃え尽きたかと踏んでみたところ意外にも煙が上がり、その火がまだ絶えていないことを知る。
縄文びとたちがその麓から見上げたであろう浅間は今も噴煙を上げている。

不死鳥を踊らせて土器吹雪く  同

不死鳥は古代における火そのものと言ってもよいだろう。
縄文時代は厳しい寒さだったという。
火焔土器のひとつに縄文雪炎(ゆきほむら)というものがあるが、雪炎とは山に積もった雪が風に舞って真っ白に、また陽光で光ることを言うとか、又は地吹雪などを言うらしい。
土器の炎と煮炊きの煙が吹雪くようなほどの勢いと強さ。

残酷なほど輝くや氷柱  同

氷柱が輝くのは日の光によってだろう。
日の光が強ければ強いほど氷柱は光を増すが、当然溶ける速度も速まるだろう。
日の光が残酷なほど輝くのであり、残酷なほどまでに氷柱が輝く、それは過酷さのなかに生きる、生きた命さながらだということだ。

逆さなる火焔(どき)に凍土と死児と  同

火焔土器は突起の方を地面に突き刺して使用されたらしい。
恐らく突起の間から木などを焚べ、また空気が入るようにしているのだと想像できる。
その地面は凍てていたことだろうし、土器もその凍土から作られたことだろう。
縄文時代は屈葬だったらしいが、子どもの場合は普段使用していた土器に納めたらしい。
更に言えば創世記のアダムともリンクして、土より生まれ土に還ると考えていたのではないかとさえ思えてくる。
そして火焔土器が火そのものになり火葬の様相も帯びてくれば八句目の不死鳥が現れる。

月野ぽぽな ピアニシモ

ワッフルに足すシロップと秋日差  月野ぽぽな

黄金色のワッフルに黄金色のメープルシロップ、そして秋の日差しの黄金色の三位一体。
なんとも美味しそうだし、なんとなく祝祭めいても来るが、彩りとしては単一であるとも言える。
足す、という措辞にどこか過剰さへの視線を感じてしまうのは連作を読み終えたからである。

人声の途絶えて秋の薔薇匂う  同

薔薇の香りはずっとそこにあったのだが、ひとりになった瞬間に気づいたのだ。
五感には活用する優先順位があるそうなで、聴覚は嗅覚よりも優先順位が上になる。
人の五感の不思議。

鶏頭花ざわめく鋏入れるとき  同

擬人法として鶏頭花がざわめくと読むのだろう。
しかし鋏を入れる人物がざわめく可能性もないだろうか。
確かに鶏頭花がざわめくと感じたのだろう、しかしそれは本当には鋏を入れる人物の心のざわめきでもあるのだとも思う。

白菊の白に屈めば街消える  同

町と違って街というものは訪れる人の目線を意識して作られている。
近年ではアイレベルという言葉もあるようだ。
植込みだと思うが屈んで白菊の高さに目線を合わせば当然立っているときに見えていたもの、街の街たる顔、情報は目線の外に出る。 
街の装飾性に対しての白であるかもしれないし、漂白の感覚かもしれない。
また、街のビル群に墓標を視ることは割合普遍的な感覚であるが、街が消えるということは人も消えるということでもある。

遥かなるものに従い鳥渡る  同

我々から見れば遥かより鳥は渡ってくるわけだが、鳥にとってはそうではなく、遥かへ向かって渡ってゆくわけだ。
渡りには諸説あって必ずしも本能とも言えないらしく、最近ではメリットは特にないという説もある。
しかしそういうメリットデメリットや生物学的な理解を越えた何かがあっても不思議ではない。
遥かなるなにものかに従って渡り、帰る。
我々もかつてはその遥かなるものの声を聴いていたのではないだろうか。

流れゆく釣瓶落しの人くるま  同

人くるま、は人と車ということだろう。
瞬く間に日が落ちてゆく、釣瓶落しの垂直性に対して移動する人と車の水平性が見て取れる。
流れるには地下水のイメージも重なるだろうか。
人も車も足早に釣瓶落しさながら帰路を急いでいるような感覚がある。

長き夜の高きを灯し機体ゆく  同

天高しと言うが秋の夜空も澄んで高いことに変わりはないだろう。
その高きところを灯しつつ飛行機が飛んでゆく。
一句で読めば旅客機とも読めるが、次句を踏まえると戦闘機のように思えてくる。

月あかりシナゴーグにもモスクにも  同

シナゴーグはユダヤ教の会堂、モスクはイスラム教の礼拝堂である。
宗教の違いに係わらず月あかりは同じく差すものだが、シナゴーグのそれとモスクのそれとは残念ながら違って見えるのではないだろうか。
或いは照らされるものが違っているのではないだろうか。
このモスクは瓦解している可能性がある。

てのひらが脈打っている銀河かな  同

てのひらにも血管は通っているが脈を感じるほどではないのでは?と思って試してみたところ、手首に比べるとだいぶと弱いが確かに脈を感じることができて驚いた。
てのひらの中の血の流れと銀河=天の川とが呼応している。
微かではあるが確かに感じ、確かに流れている血液と、確かにあるはずだが遠く感じることのできない銀河。
我々は星の欠片で出来ている。

秋気澄むピアノのピアノピアニシモ  同

一読言葉遊びのようにも見えるが、ピアノは弱く、ピアニッシモは極めて弱くを指示する強弱標語だ。
小さい音を出す、演奏をするのは実は非常に難しい。
もちろんピアノのコンディションもあるだろうが、ここでは人の手によってであることを前の句からも感じる。
一句で読めば、澄んだ秋気のようにピアノ、ピアニッシモが出せたなら素晴らしいことだろう、と読めるだろう。
しかし連作を読んで来たなかで読むと違ってくる。
ピアノやピアニッシモは小さい音だが、実は弱い音ではない。
それはしっかりと"ある"音なのだ。
てのひらの脈然り。
そして我々はその音に耳を傾け、脈を感じなければならない。
人声が途絶えないように、街が消えないように。


村上瑠璃甫 ままこのしりぬぐひ 10句 ≫読む 第907号 2024年9月8日

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