【週俳9月10月の俳句を読む】
遊びとシバリ
山田耕司
いますこしままこのしりぬぐひをみる 村上瑠璃甫
文字列を、みる。
「いますこし」のうしろにつづいているひらがなを、みる。
「ままこの」が「このまま」に見えてきたりする。
「ぐひ」。ヘンな音。
ひらがなでの表記は、音遊びへと読者を誘い込む。
音で遊ぶためには、文字が示している意味をいったん横に置くことになる。
意味を横に置くのは、言葉の役割をひとつはぎとってしまうふるまいでもある。言葉の意味の前で、こうやってよそ見をする。そうすると、言葉にちょっと重みがつくような気がする。日常のやり取りの中で「伝わることで消えていってしまう」言葉に、別の役割を与えてあげたような気分になるから。
この句が意味として伝えることは、あまり深みを持たないように思う。
とはいえ、言葉の遊びの前で立ち止まっているような感情の揺れを読み取るとしたら、日常からはみ出しつつある作者の姿を横から目撃しているような読後感を味わうことができるかもしれない。
不死鳥を踊らせて土器吹雪く マブソン青眼
「火焔土器に蛍」という題がついている。
作品群のモチーフそのものだ。
おどろおどろしい単語が示されていたり、松尾芭蕉の作品を下敷きにしているフレーズがあったりする。Tシャツにしたら、カッコいいかも。
それはそうと、タイトルの横に(五七三)とある。
これは、作者が自らに課したシバリ。(五七五)の定型ではなく(五七三)で行きますぞ、という宣言。
自分にシバリを与えながら俳句を書く。与えられたシバリではなく、自ら選びとったシバリを貫く。好きですよ、そういうの。
「不死鳥を」「踊らせて土器」「吹雪く」
シバリのことが頭になければ、土器が吹雪いているように読むのがスジなのかもしれない。吹雪くように激しい動きを火焔土器の造形に見届けているということか。ともあれ、そうなると、土器のありさまを示すと思われる「不死鳥を」「踊らせて」という表現と「吹雪く」とがカブってしまうようにも思える。
ここで、キレの出番。
「不死鳥を踊らせて土器」。ここまでは、土器の様子。
ここで、大きく切ってみる。(五七三)の三、ここに、キレを感じてみる。
「吹雪く」。この動詞の主語を「土器」から解放してみる。
となると、いうまでもなく、主語として「空」「大気」などが想定される。グンと世界が広がる。感じ取った広い世界に対して、あらためて「不死鳥を踊らせて土器」を配置してみる。イメージが、かなり深くなる。
キレを感じる。飛躍を読み取る。
それは、散文では表現できないような感覚をもたらす。
こういう作用は、俳句ならではの魅力。
「師・金子兜太にささぐ」とある。
俳句でしか示すことができない感覚。それこそが、師へのささげものなのかもしれない。
長き夜の高きを灯し機体ゆく 月野ぽぽな
飛行機。夜を高く飛んでいるのである。ジェット機のような大きな飛行機なのだろう。
飛行機と書いてしまえば、意味は分かりやすくなる。「長き夜の高きを灯し飛行機は」、たとえばこんな風に。
意味がわかりやすい。でも、これって、言葉がものごとの報告に奉仕する方向に傾くことでもある。
「機体ゆく」。
モノとしてのつかまえかたが、クール。
「ゆく」という表現があることで、句の中にさらりと時間が取り込まれている。
時間だけではない。空間の広さも、読者にもたらされる。
「飛行機は」より「機体ゆく」の方が、しっかり面白い。
そもそも、この句の焦点は「長き夜」にある。
「夜長」「長い夜」。秋を示す季語。
なんとなく添え物のように使われがちな言葉なんだけど、この句においてはそれそのものの存在を示そうとしている。
「高きを灯し機体ゆく」。「機体」を「飛行機」だと理解する読者なら、ここでの「高さ」にも想像が働くことだろう。「灯し」という言葉だけで、時刻や天候や「機体」が進んでゆくスピードや見上げるものとの距離感などまで一挙に味わうことができるだろう。
季語に血をめぐらす。それは、忘れがたい俳句作品を仕上げるための道でもある。
■村上瑠璃甫 ままこのしりぬぐひ 10句 ≫読む 第907号 2024年9月8日
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