【野間幸恵の一句】
両者のさみしさ
鈴木茂雄
ガリレオの渡るさみしいページ数 野間幸恵
野間幸恵のこの句は、彼女の俳句観ーー五・七・五の音数律と切字を基盤に、季語を他の言葉と同等に扱い、抽象的・内省的テーマを追求する姿勢ーーを象徴する一句である。この句では「さみしい」を核に、ガリレオ・ガリレイの科学的探求の孤独と、野間自身の伝統から逸脱した詩的挑戦による孤立を重ね、両者のさみしさを詩的に描く。
ガリレオは、望遠鏡による天体観測や地動説の擁護で近代科学を築いたが、のちに異端審問で有罪となり、晩年を自宅軟禁で過ごした。彼の名は、真理追求の輝きと社会的孤立を象徴する。野間自身もまた、季語を特別視せず、抽象的・知的なテーマを五・七・五で表現する俳句観が、伝統派の規範から外れ、理解されないさみしさを生んだ。この句は、両者の探求の孤独を十七音に凝縮し、詩的に結びつける。
野間の俳句観は、季語を自然描写や伝統的枠組みに縛られず、自由なイメージや内省的テーマに等しく織り込む点にある。たとえば、「雪舟の手よりこぼれる宇宙かな」は、画僧雪舟の創造性とガリレオの天文観測の孤独を響かせ、「さみしさになる永遠のハンモック」は、永遠という抽象概念がさみしさに結びつき、両者の孤高さを映す。「椿ほど時計の針を待てないわ」は、季語「椿」を時間の焦燥と結びつけ、ガリレオの「ページ数」や野間の詩的時間のさみしさと共鳴する。
本句は、「ガリレオの」「渡るさみしい」「ページ数」の三段構成で、五・七・五のリズムを体現。「ガリレオの」は科学的探求と孤立の象徴を導入、「渡るさみしい」は行動と情感を融合、「ページ数」は知識や時間の集積を抽象的に描く。この構成は、硬質な響き、流れる情感、静謐な余白のバランスで、両者のさみしさを効果的に伝える。
「さみしい」は、孤独、切なさ、時間の諦念を含む日本語特有の情緒であり、本句の核となる言葉だ。ガリレオは『星の使者』で木星の衛星を発見したが、教会と衝突し孤立。野間も、季語を自由に扱う姿勢が誤解され、さみしさを抱えた。彼女の句「広島を去る階段が終わらない」は歴史的悲劇と喪失感を、「セザンヌは青い小瓶に潜んでる」は芸術の内省的孤独を捉え、ガリレオの科学的孤独と共鳴する。
「ページ数」は、ガリレオの科学的記録や野間の詩的記録を象徴し、知識の積み重ねがもたらすさみしさを描く。「うつくしい紙の音ならうらぼんえ」は、季語「うらぼんえ」を時間の経過や喪失と結びつけ、「そよそよと知識のあとの聖書かな」は、知識の余韻とガリレオの遺産、野間の詩的遺産の孤独を重ねる。
野間の俳句は、季語を他の言葉と同等に扱う自由なアプローチで、伝統と現代を融合させ、ガリレオのような知の探求者の孤独を詩に昇華する。「ガリレオの渡るさみしいページ数」は、ガリレオの革新の代償と野間の「五・七・五でしか書けない詩」を書く詩的挑戦の孤立を結びつけ、普遍的なさみしさを五・七・五で表現した秀作である。
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