成分表97
エロさ
上田信治
エロさは自分のためにある──という言葉を思いついた。
あるとき、自然食品カフェのような店に、たいへんいいかんじの女性店員の人がいて、蒼井優をもっと地味にしたようなその人のよさを、自分は「エロさ」と認識した。
エプロン姿のその人のことは、いっしゅん見ただけなので、ほんとうは「エロく」なんかなかったのかもしれないし、だいいちそれを人に言われて、いやな人は多いだろう。
そんなことを人に勝手に思われること自体、気持ちの悪いことであるに違いない。
人を見て「エロい」とか思ってるやつは○ね、という意見はもっともである。すいません。
ただ、それは、その人の生命力のあらわれであって、その内的な力を、その人はここちよく思っているはずだ。
それは、ただ、食欲に似た、健康な可能性としてある。
だから、エロい人は、自分のエロさを楽しんでくれればいい、そういうことを思ったのだ。
だいぶ以前、男性の友人に娘が生まれて、彼は「この子がたくさん恋をしてくれればいいと思った」と言っていて、いい意見だと思った。娘に、誰のものにもなってほしくないと思う父親の話も、よく聞くので。
自分は子供がいないけれど、すべての赤ん坊がたくさん恋をすればいいと思う。
いっぽう、最近、また別の男性の友人と話したのだけれど、もうすぐ会社も定年だというその人は、何年か前に離婚していて、いまはマッチングアプリで、結婚相手を探しているそうだ。じっさい何人かの人と会ったりしているらしい。
その人も、自分の「愚かさ」に、一生つきあっていて、えらいと思う。
「愚かさ」も「エロさ」も、自分のためにある。
だから、わざわざ相手を探して、理解してもらわなくてもいいのでは、とも思うけれど、それを誰かに分かってもらい、許してもらうことで、得られる喜びもあるのだろう。
妻抱かな春昼の砂利踏みて帰る 中村草田男
この句の主人公は「愚か」で「エロい」自分に満足しきっている。
というか、そういう自画像を描くことが、生命力の発露であると信じきっていて、それを認めよ、と言っている。
人によってはご迷惑かも知れませんが、こういう犬のような若い男性の「エロさ」も、いとしく思えるのが年齢というものかもしれませんね。
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