【野間幸恵の一句】
読むこと
鈴木茂雄
読むことは汽笛を見送ることかしら 野間幸恵
野間幸恵のこの一句は読書という静謐な営みを、汽笛の余韻とともに遠ざかる列車を見送る情景に重ね合わせ、時間の不可逆性と内省の微妙な交錯を、極めて繊細に描き出している。この一句は、日常の行為を詩的変容させる力を持ち、読者に静かな問いを投げかける。ここでは、その構造的巧みさ、思想的深み、音韻的魅力、そして現代的含意を、層を重ねて考察したい。
まず、句の構図を解剖すると、「読むこと」と「汽笛を見送ること」が並置され、等価の関係を暗示する形で提示される。末尾の「かしら」は、この等価性を柔らかく疑問視し、断定を避けることで、解釈の余白を広げ、読者の内省を誘う。読書とは、文字を通じて他者の世界に浸り、それを自らの精神に同化させる行為である。一方、汽笛を見送るというのは、離れ去る列車とともに響き渡る音を追い、過ぎゆく瞬間を静かに凝視する所作だ。
これら二つの行為は、表層的に異質に見えつつ、「一過性のものを受け入れ、そこに自らの影を重ねる」という点で、深い共振を成す。読書はページを進めるごとに新たな地平を開く旅立ちであり、同時に、各文が記憶の彼方へ消えゆく儚さを伴う。この二重性こそ、句の核心的な魅力である。思想的背景として、現代の時間観と個人の内省の緊張が浮かび上がる。
汽笛は、蒸気機関車時代を思わせるノスタルジックな象徴であり、旅立ち、別離、時の移ろいを喚起する。野間は、読書による過去の文学や思想への没入を、この汽笛の情景に喩えることで、人間が時間の流れに抗しつつ向き合う姿を詩化する。
読書は、永遠の知識を求める知的探求であると同時に、物語の終わりが近づくごとに失われてゆくものを味わう一瞬の体験だ。この一過性と永遠性のパラドックスが、句に哲学的な深みを付与する。現代社会では、デジタル化された情報洪水の中で、読書は希少な「ゆっくりとした見送り」の時間を提供し、自己の存在を再確認させる儀式となる。
音韻面でも、洗練された技が光る。「読むこと」の「む」の柔らかな母音と「汽笛」の「き」の鋭い子音が、軽やかなリズムを紡ぎ、「見送ること」の「る」が静かな余韻を残す。この音の流れは、列車が遠ざかる軌跡や、読書の没入から覚醒への移行を、音響的に模倣するようだ。「かしら」の軽やかな疑問は、読者の心に小さな波紋を広げ、自身の読書史を振り返らせる触媒となる。
総じて、この句は読書を単なる知的消費ではなく、人生の旅路における出会いと別れのメタファーとして昇華させる。野間幸恵は、日常のささやかな行為を、時間の流動性と人間の内面の繊細な結びつきにまで高め、深い情感を喚起する。まさに、読むことは汽笛を見送るような、儚くも美しい所作なのかもしれない。
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