2025-11-23

鈴木茂雄【野間幸恵の一句】不時着

【野間幸恵の一句】
不時着

鈴木茂雄


不時着のあとからあとからあーとから  野間幸恵

この句は、野間幸恵の句業を象徴する一作だ。季語を欠き、定型を逸脱したその表層の下に、言語の崩壊と芸術の原始的叫びが潜む。作者の野間は、一部の人々に知られる俳人だが、俳壇的には無名の存在である。彼女の視線は、日常の断片を詩的断層に変えることに徹し、「575という不自由は言葉の自由」として捉え、季語を「画鋲」のような足枷と見なし、俳句界の色褪せたアンティークさを逃れようとした俳人だ。それでも「575しか書けない詩を書くという誘惑」に乗せられ、言葉の関係性に集中する中で、異質な世界が生まれる偶然の積み重ねを愛する。SF的モチーフを借りつつ存在の不安を抉る本句は、芭蕉の静謐とは対極に立つポストモダンな脱構築を思わせるが、最後の「あーとから」を「アートから」と読み解くとき、句は単なる叫びの反響を超え、芸術の連鎖へと変貌するーーこれは、野間が「言葉の景色」を描く意識の産物だろう。

句の構造を解読すると、冒頭「不時着のあとから」は、航空機の墜落や宇宙船の強制着陸を喚起し、人生の予期せぬ破綻を象徴する。「あと」ーー残骸の散乱、煙の立ち上る荒野ーーは、ハイデッガーの「投げ込まれ」を彷彿とさせるが、野間の語録に照らせば、季語の画鋲から逃れた言葉の「跡」でもある。そこから「あとからあとから」と繰り返される副詞の連鎖は、時間的・空間的残響を表す。「あと」の多義性ーー「後ろ」「跡」「追加」ーーが、物理的追跡、記憶の尾行、死の影を重ね、この反復はベケットの無為なループを連想させ、読者を渦巻くエコーの中に閉じ込める。野間の言葉通り、575の制約から異質な世界が現れる瞬間だ。季語の不在が、こうした言葉の自由を許し、伝統の枠を外すことで、俳句の可能性を試す。

句末の「あーとから」は、頂点の爆発である。「あー」は原始の叫びーー歓喜か絶叫かーーを吐露し、伸ばされた母音が息の切れ端を視覚化する。だが、ここに「アートから」という読みを重ねると、句は一転して芸術の起源を問う。「アートから」とは、芸術の始まり、芸術の外側からの叫びを意味する。不時着の「あとからあとから」続く叫びは、芸術作品の残響であり、創造の連鎖である。野間は、墜落の現場から芸術を呼び起こし、破壊の果てに新たな表現を紡ぐ。ポストヒューマンな文脈で読めば、AIのグリッチや気候変動の余波を思わせるが、核心は芸術の孤独な反響にある。言葉の限界を突き、沈黙の深淵を覗かせるこの句は、芸術の「あとからあとから」続く問いを提示するーー野間の「言葉で景色を書くのではなく、言葉の景色を書く」という意識が、ここに凝縮されている。

この句の洗練は、簡潔さゆえの多層性にある。季語なき自由律が、伝統の枠を外し、現代の断片性を体現する。「残響の詩学」を極限まで推し進めた本句は、「アートから」の視点で読むとき、芸術の永遠の連鎖を浮き彫りにするが、野間の立場からすれば、それは俳句界の「色褪せ」に対するささやかな抵抗だ。読後、耳に残る「あーと」の残音は、芸術の不時着から始まる新たな創造の叫びである。存在の破綻から、芸術の「あとからあとから」を問い直すこの句は、俳句の可能性を再定義し、読者の内なる表現を呼び覚ます。野間のような無名の声が、575の誘惑に抗いながらも言葉の偶然を紡ぐ姿は、俳句の未来を静かに照らす。

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