2025-11-30

鈴木茂雄【野間幸恵の一句】跳躍

【野間幸恵の一句】
跳躍

鈴木茂雄


跳躍は義経よりも梅である 野間幸恵

野間幸恵のこの句は、歴史と自然を鮮やかに交錯させ、季語を固定観念から解放する彼女の詩的挑戦を体現する。源義経のダイナミックな跳躍と梅の静かな存在感を対比し、従来の俳句の枠組みを超えた自由なイメージの飛躍を描き出す。この句は、野間幸恵のアンチ季語派としての姿勢を反映し、季語を単なるキーワードとして軽やかに扱うその感性が際立つ。

冒頭の「跳躍は」は、動きとエネルギーを強調する。跳躍とは身体を宙に浮かせる行為であり、瞬間的な力の爆発を象徴する。ここで登場する「義経」は、「八艘飛び」の逸話で知られる源平合戦の英雄であり、彼の跳躍は戦場での果敢な行動や歴史を駆け抜けた人生を想起させる。読者はこの劇的なイメージにまず引き込まれる。

しかし、句は「義経よりも梅である」と一転し、意外な方向へ飛ぶ。梅は日本文化で春の訪れを告げる花として知られ、伝統的な季語では清らかさや忍耐を象徴する。だが、野間幸恵にとって季語は「画鋲で止められた言葉」ではなく、自由なイメージを喚起するキーワードに過ぎない。この句の「梅」は、季語としての固定された意味から解き放たれ、義経の跳躍と対等に競う一つの詩的形象として登場する。梅の「跳躍」は、物理的な動きではなく、生命の萌芽や春の息吹という抽象的な飛躍を表現する。

野間幸恵の俳句観は、X(旧Twitter)での言及に見られるように、「俳句界全体が色褪せていて、アンティークな良さもなく」「俳句は季語という画鋲で止められているみたいで、全く面白くない」という強い批判に根ざす。彼女は季語を伝統の呪縛としてではなく、言葉の一つとして自由に操り、575の形式を詩的表現の場として再定義する。この句では、義経と梅という異質な要素を並列させ、季語「梅」を単なる春の象徴ではなく、歴史の刹那性を超える永続的な力の象徴として再構築する。義経の跳躍が歴史の一瞬を切り取るのに対し、梅の跳躍は自然のサイクルに根ざした普遍性を示唆し、価値観の転換を促す。

句の構造自体が跳躍を体現する。「義経よりも」という比較が、読者の意識を一気に梅へと飛ばし、イメージの転換を体感させる。この軽やかな転換は、野間幸恵の言葉への自由なアプローチを反映する。結句の「梅である」は、断定的でありながら柔らかく、梅の静かな力を強調する。この句は、季語を固定観念から解放し、言葉同士の自由な響き合いを追求する彼女の姿勢を象徴する。

野間幸恵の俳句は、伝統に縛られず、現代的な感性で575の可能性を探る。この句も、義経と梅を並べることで、歴史と自然、動と静、刹那と永遠を対比させ、俳句の枠を超えた詩的飛躍を達成する。ここでもうひとつの伝説、菅原道真の「飛び梅」の伝説が静かに重ねられていることに気づかされる。京を追われた道真を慕って、大宰府まで一夜にして飛んだという、あの梅の木の伝説だ。人の忠義を超えた花の忠義。都を離れても主を忘れず、千キロを一気に翔けたという、途方もない跳躍の物語である。義経の八艘飛びと並ぶ、もう一つの「歴史的跳躍」をそっと差し込み、梅に二重の翼を与えていたのである。

彼女にとって俳句は「575しか書けない詩」の誘惑であり、この句はその誘惑に応えつつ、季語を単なるキーワードとして操る挑戦である。読むたびに新たなイメージを喚起するこの句は、野間幸恵の自由で鋭い詩精神の結晶と言えるだろう。

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