伊舎堂仁の「処理落ち」理論について
上田信治
「素晴らしきローソンを得よ」>>note
伊舎堂さんのこの記事を、11月に目にして以来、なんども読み返して、そのたび、やっぱりすごいと思う。
すべての行とイメージに、霊感がビカビカ走っているような、すごいテキストだ。
この短いテキストは、短詩形という形式の、ある大きな力の源泉を指し示していて、それは「処理落ち」理論と、呼んでしまっていいほど完成度の高いアイデアだという気がする。
世界の一瞬が(…)一行に格納され、読み手の一瞬へ凝縮/読了されるときーーーー〈体に入ってくる〉速さこそ短歌定型が我々にくれる最大の恩寵
という部分がその中核だ。そして、それを支えるイメージが三つあって。
一つは、
「人間」に「人間(いきもの)」みたいなルビのつく感じ
自分が解釈するに、日々を生きることは、「人間」として、言語から、あるいは自分から出られずにいることだけれど、その自分が(いきもの)であることを、呼びさまされるような経験がある。
たとえば短歌による「全身が震えるような喜び」がそれだけれど、そういうものに「襲われる」能力をもつのは「人間」ではなく(いきもの)のほうなのだ。
二つめは、
おおむねの名歌への感動は、いまは自分のいない別室、への感傷のようなものが微量、へばりついたもの
じつは、2018年に「週刊俳句」に自分が書いた文章があって、
https://weekly-haiku.blogspot.com/2014/01/86.html
【週刊俳句時評86】
まれびとの価値論と、句集2冊
この時評の、パート4.澤好摩句集『光源』について、書いているところ
ことばの圧縮度が高いことは、句の読みはじめと読み終わりの0.3秒ほどの間に、強い位置エネルギーを生みます(…)その心像の全質量がどーんと一気に受容されるのです。
そして当然、受けとめきれずあふれる思いは、ウウッとこみあげるように喉をふさぐのですが、それはすでに(位置エネルギー的にはるかに遠い)0.3秒前の思い出であり、だからこそ強力に懐かしいのではないか。
これは『光源』の句について、山田耕司さんと関悦史さんが口を揃えて「名状しがたい感情」「セツナサ」(山田)「悲哀とは違う名状しがたい情動」「非在の大きな涙」(関)と書いていることに寄せて、考えたことで。
伊舎堂さんが「いまは自分のいない別室、への感傷」と言い当てていることは、まさにそのことだと思う。
どうやら、私たちはここで一つのことを話している。
そして三つめ
ここにあるのは、3つの点が顔に見えてしまうような、巨大なさみしさだと思う
3つの点に顔を見ること、それを「さみしさ」と呼ぶことは、おぼつかない視覚で世界から顔のパターンを探そうとする(いきもの)のとしての生に対するなつかしさ、とかそういったものではないだろうか。
それは、この生に限界づけられた感情としてのたましいが、共同性に触れて懐かしさを発動している状態のように、自分は思ってしまう。
けれど、短歌は(そして俳句も)よくもわるくも共同性のようなものに出会いやすい形式らしいので、そこは、そう簡単に言ってしまわない方がいいのだろう。
○
伊舎堂さんのnoteも、いつも含蓄と驚きにみちているので、ぜひぜひ。 >>伊舎堂さんnote
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