わがままなるままに
有瀬こうこの独断帖
田中目八
『豆の木』第28号(2024年6月)より転載
第13回百年俳句賞最優秀賞の受賞、及び句集『磁石』の上梓おめでとうございます。と、挨拶と前置は短いほうがよい、早速読んでゆこうと思う。
1 こうこさんは倦んでいる
囀りや右回転で遊びませう
薬局の白梅を嗅ぎすぐ帰る
雨音と暮らす金魚に飽きるまで
タピオカに飽きて八月十五日
たけなはと言ふ退屈を踊りけり
いつまでも好きと思ふな胡桃割る
一句目。巻頭句である。右回転は時計回り。ごく一般的な回転と言えようか。「遊びませう」と優しく提案しているが、以下の句を見ていけばきっとすぐに飽きるだろうと思うこと間違いなし。
二句目。薬局を出て「お、咲いてる」と気づいて鼻を近づける。が、しばし心を遊ばせる、なんてことはない。
三句目。「雨音と暮らす」なんて素敵なことを言ってはいるが、金魚に飽きるのを待つまでもなくすぐに飽きそうだ。
四句目。タピオカブームに飽きたとも取れるが、おそらくタピオカドリンクを飲み切る前に飽きた。ふと八月十五日、終戦の日だと気づく。気づくが特に興味もなくまた飲んでぼんやりしてそう。
五句目。たけなは(闌)は物事の一番の盛りだが、盛り上がるまでが愉しいわけだ。闌を過ぎたことをみんな感じてるけれど誰も言わず、変わってないように振る舞う。それこそ退屈だということかもしれない。
六句目。この章では一物として読む。殻胡桃という拘り、割ることも儀式めいて愉しそうだが、たぶんすぐに面倒になって剥き胡桃を買うようになる。そもそも健康やダイエットによいとかで食べはじめ、そんな好きでもなかったな、と飽きてしまいそうなのである。
2 こうこさんは否定する
こうこ俳句の特色として否定的、批判的、消極的などネガティヴな措辞の多さがあると思われる。
伊予柑や丸い眼鏡が似合はない
糸屑と言へぬ長さや春の風邪
春昼の万年筆が太すぎる
いつまでも好きと思ふな胡桃割る
鳩の首嫌ひ毛糸のパンツ履く
ねだるならもらったことのない狐火
カトレアはどの星座にも属さない
一句目。伊予柑の丸さと丸い眼鏡が近い。しかし丸い眼鏡が似合わないことで伊予柑をも否定しお前のせいだと責めているようにも思えてくる。
二句目。回りくどい言い方ではあるが、糸屑より短いものをなんと言うのか、言えばよいのか、春の風邪と相まって少し苛立っているように感じる。
三句目。万年筆の太さは変わらないものだが、原稿の捗りそうな春昼故に手に合わない万年筆の太さが気になってくる。お下がりか貰い物だろう。よいものらしいのに何故私の手に合わないのかと不満そうである。
四句目。前章では一物として読んだがここでは取合せで読む。物事、交友、恋愛、としても読めるだろう。自分の好きかもしれないし相手の好きかもしれない。感情なんてそんなもんでしょ、とクールに言っているように思えるがほんとは固い胡桃の殻を割って欲しいのだ。
五句目。鳩そのものではなく首が嫌いだという。しかし「だから鳩は嫌い」なのだろう。首の色が嫌なのか歩くときに前後するのが嫌なのか。生理的なもので想像するだけでも鳥肌が立つのだろうか鳩だけに。
六句目。もらったことのないのは狐火そのものなのか、それとも狐火の中で、ということだろうか。素直に読めば前者、しかし素直ではないのがこうこ俳句だ。ねだるなら狐火、で済むことを「もらったことのない」と回りくどい言い方をしてしまう。しかも狐火という無茶振り。かぐや姫か。
七句目。意外なことに植物で星座になっているものはない(かつてはあったらしい)。カトレアは恒星ではなくて植物なのだから星座に属さないのは当然だ。別にカトレアでなくても薔薇でもなんでも植物なら星座には属していない。つまりここでは属していないのではなくあくまでも属さない、言い換えれば与しないと宣言しているのではないか。何故ならカトレアは花の女王だからである。
3 こうこさんはぶっ飛ばす
最後にこうこ俳句におけるイメージの飛躍を見てゆく。章題にぶっ飛ばすと書いたがこの『磁石』は読者投票によって選ばれているだけあってか比較的におとなしいようには思える。
イオン行く日は佐保姫のオーガンジー
大魔王にさらはれさうな兜虫
宛先を書けば水母の生まれけり
タピオカに飽きて八月十五日
とんぼうのブラック企業めく正面
梟や奇数はさらに怖くなる
遺伝子は半透明の冬林檎
一句目。佐保姫とオーガンジーはあり得るがイオンと佐保姫は出てこないだろう。そもそもイオン行くのにそんなお洒落をすると誰が思うだろう。
二句目。普通(?)大魔王に攫われるのはお姫様のような存在で、兜虫はどちらかといえば勇者のイメージではないだろうか。その納得のゆかなさ、イメージの裏切りにイメージが膨らむわけだ。虫が嫌いだから攫われて欲しいのかも。
三句目。水母に驚く。宛先を書かなければ郵便物、荷物は届かない。例えば懸賞ハガキや賞に応募する原稿だったりをイメージするのがわかりやすい。結果が出るまでは波に身を委ねる水母のようだと。しかしこういう理屈で読むよりも言葉そのままのイメージを味わうほうが愉しい。宛先を書いたのに届きそうにない。
四句目。一章でも取り上げたが取合せとして八月十五日、終戦記念日とタピオカはすごい。
五句目。書き方は一物仕立てだが内容はトンボの正面とブラック企業の取合せと言ってもよいだろう。切字を用いないこと、力業の「めく」の働きによって心地よい混乱を感じないか。
六句目。梟と怖いは近いが、怖いのが奇数というよくわからなさ、そこに「さらに」の主観、「怖くなる」の言い切りを重ねることによって意味の伝達ではないイメージの形成への発展がある。下五から上五に循環してさらに怖くなるさらに怖くなるさらにさらに…と何処かへ連れてゆかれる。
七句目。蜜林檎だろうか。イメージとしては遺伝子そのものより細胞核が近いかもしれないが、すべての遺伝子が半透明の冬林檎に置き換わってる景をイメージしたい。禁断の果実を連想してイヴの遺伝子、原罪の遺伝子と読むのもありだがトリビアルに読むよりもイメージに身を重ねたい。
以上、拙いながらも私なりに好き勝手に書かせてもらった。ご指摘、批判大いに請うところであるが、少しでもこうこ俳句の魅力が伝わったのなら嬉しい。
最後に作者へ。この句集はほんの小さな半歩に過ぎず、ここからだろうと思う。私は満足しない。独断を飼い馴らさず、わがままに乗りこなし、口語俳句という荒地の生態系をこそ遊べと願い筆を擱く。
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