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2009-08-09

〔古誌を読む〕ルイ14世のように 猫髭

〔古誌を読む〕
ルイ14世のように

『俳句』昭和34(1959)年5月号 高浜虚子追悼号

猫髭


高浜虚子は、反ホトトギスを標榜し新興俳句に舞台を提供した改造社の「俳句研究」には作品を寄せなかったが、角川源義が創刊した総合雑誌「俳句」への寄稿は、最初は寄稿を謝絶したが、源義が虚子の父と同じワキ宝生流の謡を嗜むと知り、一転、その縁で挨拶句を寄せている。

親父が応援するのであればと年尾も作品を寄せたから、「俳句」と「ホトトギス」は歩を共にしたと言える。また、「俳句研究」も反ホトトギスの新興俳句を売り物にしていたから、総合的な権威を目指す「俳句」と、反権威(=反ホトトギス)の「俳句研究」は、商売としては扇の表裏のようなコンビだったとも言える。その要にいたのが大御所と目された虚子だった。

西東三鬼は「ホトトギス」をこきおろしていたが、新興俳句の水原秋桜子・吉岡禅寺洞・日野草城(昭和30年「ホトトギス」同人に回帰)・山口誓子という4人の指導者たちが「ホトトギス」出身であるからには、「私達も、つながる縁で、虚子の孫弟子に当る―この考え方にはへこたれた。参った。」と三鬼は述懐し、虚子をすべて読んで自分なりの虚子像を立てている。従うにせよ、叛くにせよ、虚子は俳壇の巨星であった。

巨星堕つ。昭和34年4月8日、脳幹部出血により虚子永眠。85歳。

翌月「俳句」5月号は「高浜虚子追悼号」を編む。印刷が4月25日で発行が5月1日だから、2週間で150ページの特別寄稿を得て編んだわけで、この早業は「俳句」なればこそ、虚子の死なればこそだろう。「俳句研究」が虚子の特集を組んだのは二ヵ月後の7月号であり、それも追悼号ではなく、「高浜虚子研究号」となっている。

わたくしは「俳句」を古本屋で求めたのだが、古本というのは天下の回り持ちなので、いろいろな付録が付いていて面白い。この号もまた、持主が律儀に虚子死亡時の新聞記事の切り抜きを原稿用紙表裏に四紙貼って栞としており、星野立子、山口青邨、山本健吉、久保田万太郎の言葉を伝えていて臨場感があった。特に万太郎は「ぼくは、俳句作家としてのこの人を、子規はもちろん、芭蕉、蕪村以上に高く評価するものである」(「ただひとりの巨匠」4月9日付読売新聞)とまで書いているのに驚く。

本号の追悼記事(註1)、みな傾聴に値する内容だが、「古誌を読む」の趣旨が、その中の一つに限定という条件があるので、割愛。

では、何を取り上げるかというと、「虚子翁をしのぶ」という座談会(富安風生、山口青邨、楠本健吉)の一節「選は創作なり」を取り上げる。

「ホトトギス」創刊100年記念で『ホトトギス雑詠句評会抄』が平成7年に小学館から出版され、その巻頭で監修の稲畑汀子も、本書は「選もまた創作なり」と言った虚子の信念が実践されていると述べているが、この言葉の初出が鼎談の参加者にも曖昧になっているので、最初に付言すると、この言葉は、昭和6年5月から刊行された『ホトトギス雑詠全集第四巻夏の部上』(全12巻の第1回配本)の序に掲げられた。

選と云ふことは一つの創作であると思ふ。少くとも俳句の選と云ふことは一つの創作であると思ふ。此全集に載つた八萬三千の句は一面に於て私の創作であると考へて居るのである。
正岡子規が古俳諧を季題別に分類した『分類俳句全集』に倣って、虚子は大正4年10月『ホトトギス雑詠集』を刊行したのを嚆矢として、生涯に亘って倦むことなく雑詠選集を出し続けた。明治41年10月から昭和23年3月まで五度に渡って、総冊数44巻の再選、精選を繰り返した。中でも昭和6年から刊行された『ホトトギス雑詠全集』(全12巻)と「ホトトギス」500号記念『新選ホトトギス雑詠全集』(全9巻)は圧巻である。袖珍版『ホトトギス雑詠選集』(朝日文庫、全4巻)は、昭和13年から18年の、京大俳句事件、三鬼検挙、新興俳句壊滅、太平洋戦争勃発の世上騒然たる中で編まれたものの再刊で、名著の誉れが高いが、長らく絶版となっている。波多野爽波は、この雑詠選集を更に十二ヶ月に分け、20句づつ精選し、弟子たちに暗誦するよう渡している。

おそらく虚子が生涯に選をした句数は、誇張ではなく百万句をくだるまい。虚子の絶句は、

  独り句の推敲をして遅き日を 昭和35年3月30日

というものだから、最後まで選をしながら死んで行ったことになる。

虚子の選は、その分量だけでなく、その選によって名を成した鬼城、蛇笏、石鼎、普羅、秋桜子、素十、誓子、青畝、立子、久女、多佳女、たかし、風生、茅舎、夜半、不器男、草田男、汀女ら綺羅星の如き俳人たちの作品の素晴らしさゆえに、空前絶後と思われる。『虚子選ホトトギス雑詠選集』は、『芭蕉七部集』に匹敵する現代俳句の古典的名アンソロジーであると朝日文庫の裏表紙に謳われているが、あながち誇張とは思えない骨太の俳句が並ぶ。虚子もまた生涯に膨大な句を詠んだが、わたくしはこの『虚子選ホトトギス雑詠選集』と『虚子編新歳時記』こそが虚子が後世に残した最大の遺産であると考える。

それほど精魂を傾けた「選は創作なり」について、鼎談で富安風生と山口青邨がこういうことを述懐している。
富安 先生がね、どうも僕の記憶違いじやないと思うんだけれども、どの全集かが出されるときに、自分の選をした人の俳句をですね、これは創作なんだから、自分の全集へ入れても・・・・・・というような意見を洩らされたことがあったんです。それは選は創作だということをそこまで堅く信じておられましたね。しかし、全集に入れることは思い直されてやめましたがね。
山口 投句者としても、どれがいいかわからなくて、五句でも十句でも投稿する。その時に先生が玉を発見してやる。玉を発見することは自分のものだとお考えになれば、そこに「選は創作なり」と言えるかもしれませんね。当事者はただ素材を出すものだという・・・・・・。発見者がそれに生命を吹込んだということですね。そこが創作だといえば、いえるかもしれませんね。それはまあ乱暴だと思いますけれどもね。
楠本 ええ、かなり大胆な表現ですね・・・・・・
大学教授が助手の研究を自分名義で発表したり盗作したりする話題は珍しくはないが、実際にやれば、結果的には虚子も盗人猛々しいということになる逸話だが、さすがに、

  啄木鳥や落葉をいそぐ牧の木々 水原秋桜子

  流氷や宗谷の門波荒れやまず 山口誓子

  娘等のうかうかあそびソーダ水 星野立子

  葛城の山懐に寝釈迦かな 阿波野青畝

  朝顔の双葉のどこか濡れゐたる 高野素十

  滝の上に水現はれて落ちにけり 後藤夜半

  金魚大鱗夕焼の空の如くあり 松本たかし

  祖母山も傾山も夕立かな 山口青邨

  降る雪や明治は遠くなりにけり 中村草田男

  金剛の露ひとつぶや石の上 川端茅舎

  とどまればあたりにふゆる蜻蛉かな 中村汀女

  まさをなる空より枝垂桜かな 富安風生

  あなたなる夜雨の葛のあなたかな 芝不器男

  緑蔭や矢を獲ては鳴る白き的 竹下しづの女

これらの句(『ホトトギス雑詠句会抄』より)を自分の作品として全集に入れるには、自分には詠めない句だなと我に帰ったのだろう。

とはいえ、高浜虚子が、自分が選んだ句を、ルイ十四世が国家や女たちを愛したように、自分のものとして所有し愛していたのは間違いない。


(註1)飯田蛇笏を筆頭に、虚子批判の平畑静塔、ホトトギス4Sの阿波野青畝、島崎千秋、金子兜太、西東三鬼、角川源義、大野林火、高浜年尾、山本健吉、石田波郷、山口誓子と続く。「虚子翁をしのぶ」という座談会(富安風生、山口青邨、楠本健吉)と「虚子先生と私」という中村草田男へのインタビューを挟んで、橋本鶏二、野見山朱鳥、森川暁水、伊藤柏翠、長谷川かな女、後藤夜半、上村占魚、阿部みどり女、吉岡禅寺洞、萩原井泉水、石昌子(杉田久女の娘)など、虚子ゆかりの反虚子を含む錚々たる俳人たちが陸続と追悼の辞を述べる。年譜、著作解題作成は、深見けん二と清崎敏郎である。

2009-07-05

〔古誌を読む〕大暴れ、丸出駄目女 さいばら天気

〔古誌を読む〕
大暴れ、丸出駄目女

『俳句研究』昭和53(1978)年1月号

さいばら天気


特集は「新俳壇の中堅」。38人の中堅(註1)が自選15句と短文を寄せ、それぞれの生年とデビュー作を配置した年譜を掲げるなど、行き届いた特集。また「第5回五十句競作の作品をめぐって」は小川双々子と三橋敏雄が執筆。さらに第24回現代俳句協会賞の選考過程サマリーと選考委員全員の「選考言」など、読みどころが多い。

にもかかわらず、今回取り上げるのは、「俳壇春秋」という見開き2ページの業界事情コラム記事。

著者名は「丸出駄目女」とある(「まるでだめじょ」と読むのだろうか)。つまり匿名記事。

ちなみに森田拳次作の漫画「丸出だめ夫」は1964年から1967年まで「週刊少年マガジン」に連載。1978年時点で、このモジリにはかなりの痛々しさが伴うが、それはそれとして、とても威勢がよく、かつ下世話もなんのその、業界ネタはこうでなくっちゃ、という迫力がある。

でも、こういう匿名記事ってどういう読まれかたをしているのかしら。野次馬根性丸だしで読んで、自分のことがちょっとでも書かれていると、たちまちふてくされちゃうのかもしれないわネ。だいたい俳壇って馬耳東風、糠に釘、暖簾に腕おし、蛙の面に小便(あら、はしたなかったかしら)、何を言っても無駄みたいなところがあるでしょ。キレイ事やタテマエ、能書きばかり言ってるくせにサ、その実、やってることをみたら全然なってない人が多いんですもの。
んんん、なんといえばいいのか、まず味わうべきは、この口調だろう。いまどきどこを探してもお目にかかれないが、こういう口調、たしかにあったのだ。昭和の週刊誌・告白モノ文体、とでもいうべきか。

味わいどころをいちいち挙げていたらキリがないが、「ふてくされちゃう」ははずせない。「しれないわネ」は、「ネ」のカタカナがポイント。シモネタを振っておいて、(あら、はしたなかったかしら)と括弧で括るあたりも凄い。「言ってるくせにサ」の「サ」も、昭和を知る世代にはぐぐっと胸に迫るものがある。

なんとなく、今で言うところの「ネカマ」(姿が見えず素性がわからないネットワーク社会の匿名性を利用して、男性が女性を装うこと及び装っている人:Wikipedia)の香りも漂うが、そこを詮索してもしかたがない。

ともかく2ページまるまるこの調子。口調をたどるだけでそうとうに楽しめる。レトロ狙いの娯楽(映画やアミューズメント施設等々)の比ではない。

さて、内容のほうも、紹介しましょう。先の引用部分にある「その実、やってることをみたら全然なってない人」の話の続き。
(…)友達などから聴く話によると想像以上にひどいのよ。現代俳句協会なんか、もう末期的症状らしいわネ。新会員になるために幾らお金を使ったとか、葉書を何百枚ばらまいたとか、そういう話は前から知ってたけど、現代俳句協会賞の候補になるために一部では組織票すら動いてるっていうじゃない。アレ、何票か以上とると自動的に資料を提出できる最終候補者になるらしいのネ。あきれかえっちゃうわ。そんなにしてまでも賞が欲しいのかしら。
あのですね、これはあくまで1978年当時の話で、今の現代俳句協会は、それが良いことか悪いことか知りませんが、簡単に入れます。だから、お金や葉書が飛び交うことはありえないと思います(他の協会のことは知りませんが)。

で、引用の後半は「現代俳句協会賞」の話題。お気づきのように、この一月号では、そのまさに現代俳句協会賞の第24回を大きく取り扱っているわけなので…(笑、と(笑)マークで空気をやわらげたくなるほど、踏み込んでます。打撃に腰が入ってます。
それから、このあいだ聴いた話なんか、もっとひどいわヨ。俳壇では誰知らぬ者もない(このあたりの言い回しがネカマっぽくないでですか:引用者)中堅結社誌なんだけども、同人に推挙されると一年に何人って新会員を入れなくちゃならないノルマがあるそうヨ。まるで、いまはやりのマルチ商法顔負けだわネ。
すべて「聞いた話」というところも無責任で素敵なのですが、ささくれだった感じが、昔のことばでいえば「伝法」というんでしょうか。カタギじゃない、クロウト風の魅力があります。

言ってるネタは、今どきの俳句雑誌ではきっと無理。なかなかお目にかかれないものですが、一方で、句会の二次会の酒席ではしばしば耳にするような話題です。新鮮さはなく、30年前も今も変わらないんだなあ、という感じ。例えば、次の箇所などは典型。
俳壇には批評がないって、事あるたびに言われるけど、俳人ってホメられるのは好きでも、ケナされたり、批評されたりすると目の色を変えちゃうのね。
「批評の不在」は昨日今日に始まったわけではないのですね。歴史を感じます。

さらに当時の『俳句研究』編集人・高柳重信も俎上に載ります。
そうそう、金子兜太センセイと高柳重信センセイのあの座談会記事(「俳句」十一月号)読んだけど、タワシ、じゃなかったワタシ、びっくりしちゃったわ。
「タワシ、じゃなかったワタシ」って……ああ、なんて滋味深い冗談!

引用続けます。
なんであんなささいなことでこじれるのかしら。不思議ネエ。(…)兜太センセイも(…)「断末」とか「肉の草」なんかであんなに頑張らなくったっていいじゃないのサ。(…)重信センセイだってそうヨ。じわじわねちっこく攻めるでしょ。
なるほど、何かやりとりがあったわけだ。こう聞かされると、『俳句』昭和57年11月号をなんとか手に入れて、兜太vs重信の座談会記事を読みたくなってきます。

といった次第で、楽しめる箇所はまだまだたくさんあるのですが、そろそろ終わりましょう。先に書いたように、この手の話、俳人同士の酒席ではめずらしくもないが、この頃は、テンション高いなあ!という感じ。話題は今とそれほど変わらないが、語るテンションがまったく違う。そういえば、現代俳句協会賞の「選考言」にも、口調に熱いものがあった(こちらは署名で熱い)。

念のために申し添えておくと、こうした啖呵記事があったほうがいいと言いたいのではない。30年前は、口調/文体も、冗談の質も、今では考えられないようなトンデモないものが紙の雑誌に堂々と掲載されていたことは興味深いが、それはそれ、今は今。

 *

ところで、この31年前の記事、ちょっと不思議なことがあって、つまり、1978年って、そんなに昔だっけ?というもの。 実はそれほど昔のこととも思わないのだ。ところが、この丸出駄目女さん、はるか遠いところに生息するキャラクターのように思えてくる。

ちなみに1978年は、ピンク・レディーの「UFO」が流行り、サザンオールスターズ「勝手にシンドバッド」でデビュー、映画『未知との遭遇』『スター・ウォーズ』が日本で上映され、池袋にサンシャイン60が完成した年である。そうした1978年と丸出駄目女さんのこの感じ(語り口調)が同じ時代の中にあったとは、どうしても思えない。

それは私の勘違いなのだろうか。あるいは、丸出駄目女さんのこの記事はあえて「アナクロ」を偽装した演出なのか。あるいは、この当時、俳句世間が、一般世間とは別の時間の中にあった、つまり、ずいぶんと昔のままで時間が止まってしまっていたのか。その解釈は、怖ろしいが、ちょっと頭を掠めたりもする。

俳句世間って、ずっとこのかた、世の中から数十年ずつ遅れた時計で動いているのではあるまいな。だとしたら、怖ろしいです。



(註1)
38人のラインナップは、飯島晴子、鷲谷七菜子、轡田進、斎藤美規、貝碧蹄館、森田峠、伊丹公子、岡井省二、杉本雷造、宇佐美魚目、穴井太、飴山實、川崎展宏、中戸川朝人、福田甲子雄、岡本眸、阿部完市、志摩 聡、加藤郁乎、広瀬直人、大峯あきら、宮津昭彦、河原枇杷男、原裕、桜井博道、平井照敏、大井雅人、岡田日郎、杉本零、上田五千石、折笠美秋、矢島渚男、安井浩司、大岡頌司、大串章、福永耕二、酒井弘司、竹中宏と錚々たる顔ぶれ。

2009-06-21

〔古誌を読む〕デタラメの肯定 太田うさぎ

〔古誌を読む〕
デタラメの肯定

「ホトトギス」昭和12(1937)年5月号

太田うさぎ


雑詠欄の巻頭が汀女の「咳の子のなぞなぞあそびきりもなや」 。青畝・茅舎…と続いて5ページも下ったところに素十の「大榾をかへせば裏は一面火」があり、その間に風生、たかし、草田男、水竹居、爽雨等々、素十のあとに素逝、杞陽、とまあすんごいラインナップ。

松本たかしが既刊号の句評をしているのだけれど、これが面白い。

 浪引けば沖高く冬の海凹む 池内友次郎

これを「デタラメ」といいながら、そのデタラメを肯定している。

「もともと僕には俳諧デタラメの説といふのがあるのだ。それは、創作は、その一々の場合が必ず新しい出発を基としなければならず、従つて便るべき何の基準もない、然らば詩人は唯デタラメに詠ふより他に行(ヤ)り方がない、といふやうなものだ。」

「或る句を作つた場合の方法論を、その次の場合にも應用することは出来ないのである。而し何とあり合せの方法論に便つて、小心翼々と或るシステムから外れることを恐れてゐるやうな作品の多いことか!」

「成功してゐるらしい作品でもちつとも尊敬出来ないのがあり、不成功でも大いに興味をそそられるものもある、その不成功に同感し何か云つて見たくなる類のものである。僕は論なく後者に賛成する方だ。僕はほんとの所は真に完成された玉のやうな作品を好むが、一方作者が見事な過程を示しつつ、そして何時も作者の現在居る過程そのものが価値をなしてゐるやうな、未完成の作品も好もしい。」


意外でしたねー。

たかしって自分でも言ってるけど、珠のやうな句を美学としている印象を持っていただけに、デタラメって言葉に驚いた。

でも、言っていることは70年経った今でも句会なんぞでみんなが口にすることで、てえことは、芭蕉なんかの時代でもおんなじことを門弟の誰かが言っていたに違いない。