ラベル 新延拳 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 新延拳 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2013-03-03

新延拳 我を呼ぶこゑ 10句

画像をクリックすると大きくなります。

週刊俳句 第306号 2013-3-3
新延 拳 我を呼ぶこゑ
クリックすると大きくなります
テキストはこちら
第305号の表紙に戻る

2013-02-10

【週俳1月の俳句を読む】新延拳 もう千年も

【週俳1月の俳句を読む】 
もう千年も

新延 拳



世界史をねむらせ雌雄の鷹めぐる   宇井十間

リルケの時祷詩集の第一部「僧院生活の書」のという詩に、「物の上にひろがって大きくなる/輪のような生を私は生きている。/おそらく最後の輪を完成することはないだろう。/しかし私は試みようと思っている。/私は神のまわりを、太古の塔のまわりを廻っている。/そしてもう千年も廻っている。/しかも私はまだ知らないのだ、自分が一羽の鷹であるか、一つの嵐であるか、/それとも一つの大きな歌であるかを。」という一節がある。ヘーゲル流の「理性が世界を支配し,したがって世界の歴史も理性的に進行する」という直線状に進んでゆく歴史観とは別の、いわば輪廻のような歴史観、時間概念をリルケは持っていたのであろうか。掲句もリルケの当該詩を彷彿とさせる。
眠りの中の鷹であるから、まさに正月に相応しいめでたい鷹であるとも読める。しかし、宇井氏は季語としての鷹はあまり意識していない、というだろうか。なにしろ従来の俳句や季題趣味の俳句の否定が彼の真骨頂であるから。しかし、ここは新年詠。ゆったりとした気持ちが味わえればよい、ではご不満でしょうね。なにしろ気宇壮大な世界史なので。


初夢の一筆書きのやうなもの   津川絵里子

初夢といえども夢は夢。漠としたものであるのが普通。目が覚めてからだんだんと解釈され、脚色されていくのだろう。そのあたりの機微を、一筆書きということばでうまく現わした。


雪達磨みんな男で融けており   鳴戸奈々

雪達磨というと、

  雪達磨青空ひろくなりきたる  下村槐太

  雪達磨動かんとして崩れけり  竹岡一郎

のような句を思い出すが、掲句は不思議な句である。「雪達磨はみんな男であって、かつ融けている状態にある」というように解するのか、あるいは「雪達磨は男が原因で融けてしまっている」と理解するのか。
雪達磨という存在感はあるけれど儚いものを、読者に「そこに一歩とどまれ、そしてよく見よ。融けたっていいじゃないか」といっているようでもある。


すずなすずしろ姉妹で眉を剃りおとす   鳥居真里子

「鼬の姉妹」の鳥居さんが、今度は眉を剃り落とした。なぜ、姉妹で眉を剃ったはわからない。すずなすずしろとの取り合わせも効いているのかどうか。このあたりは、まさに鼬のようにすばしこく、いたずらっぽい真里子ワールド全開。でもこの取り合わせ、近すぎず、遠すぎず、悪くないと思うのだが。サ行もくどくなく。


脱がさずに乱すが愉し春着の子   澤田和弥

「の子」を「かな」にすると相当エロい句ともとれる。作者は百も承知だろうけれど。


第298号 2013年1月6日
新年詠 2013 ≫読む
第299号 2013年1月13日
鈴木牛後 蛇笑まじ  干支回文俳句12句 ≫読む

2012-02-19

〔週俳1月の俳句を読む〕新延拳 人間に与えられた唯一の装飾

〔週俳1月の俳句を読む〕
人間に与えられた唯一の装飾

新延拳


西脇順三郎はいう、「詩はもう真理の探求ではない。感情の芸術でもない。宗教や倫理の代用品でもない。人間の記録でもない。人間に与えられた唯一の装飾である」と。「たかが俳句、されど俳句」もこのようにー唯一の装飾―と考えると、また新たな展開があるような気がする。そのような気分をひきずりながら、週俳一月号を読んでいきたい。


第246号(2012年1月8日)新年詠2012より

初鏡見覚えのなき指の跡   川崎益太郎

初鏡母が後ろに立つてゐる   北川美美

前句。大掃除で鏡もよく拭いたはずなのに、初日がさしている鏡に指紋の跡が付いている。いやだな、なんか清浄な気持ちが少し汚された気がする。誰の指だ、これは。でも考えてみれば自分がどんな指紋だったかなんて覚えてないや。もちろん妻のも。ま、いいか。忘れよう、もう一度拭こう。拭こうは、不幸か不孝。馬鹿言ってるんじゃないよ、縁起でもない。今年も、アホはアホか(作者のことではありません)。
後句。年の初め、きちんと化粧をしよう。まだあんまり慣れていないからつい真剣になる。なんか気配がすると思ったら、お母さんが見ている。全部お見通しだ。あの秘密もひょっとしたら…。


ものの影ものをはなれてゆく初日    仲 寒蟬

マクベスの「人生は歩く影だ。あわれな役者だ。舞台の上を自分の時間だけ、のさばり歩いたり、じれじれしたりするけれども、やがては人に忘られてしまう」というフレーズを思い浮かべた。ものの影も離れてゆく。確実にそばに寄り添うべきもの、そのはずのものであっても。絶対的な孤独感…。


元日の入日に我を晒し居る   鳴戸奈菜

大晦日から元日にかけて、人々は衣裳だけでなく、なんとなく心も普段とは違い着飾ったようになる。まさにハレの日である。ところが、元日も夕方になると心の張りも少し緩み、茫とした気持ちになる。折りしも、見るともなく眺めていた夕日に照らされている自分。今までのハレの気持ちがなんとなく気恥ずかしいような、若干の疲れを覚える。そう、こうやって自分を晒してもいいや、今年もいろいろと頑張るにしても。


象に乗る飯島晴子初夢は   藤本る衣

「月光の象番にならぬかといふ 晴子」を踏まえているのだろう。また、「初夢のなかをどんなに走ったやら 同」の気分もいくらか揺曳している。ダブルで示されたからには、晴子好きな私など、すぐ目が行ってしまうのが当然だ。しかし、そんなに都合よくこのような晴子の初夢が見られるものだろうかとも思ってしまう。「夢の中で象に乗っている人がいた。目が覚めてあれは晴子だったのだと思った」というくらいにしておこう。象番も餌を与えて面倒をみているだけではつまらない。たまにはその背に乗っていろいろなところに出没したい。人の夢の中にも。



第247号(2012年1月15日)より

声はいつ言葉となるや鳰くぐる   小林千史

赤ん坊の声、いわゆる喃語が意味をなす言葉になる時という解釈も成り立つが、むしろ感動してあるいは苦しくて(快楽の極みで)言葉にならない、「あー」とか「うー」とかいう呻きが、脳が一定の落ち着きや客観性を取り戻したときにはじめて出る言葉のことであろう。言葉は意思疎通のツールであり、自己確認のためのものであるとすれば、クライマックスでは言葉にならないのは当然。理屈っぽいが、俳句ではあまりみないような気がする。ただし、「鳰くぐる」が最善かどうか。



第245号 2012年1月1日
生駒大祐 うしなはれ 5句  ≫読む
村田 篠 水鳥 5句  ≫読む
上田信治 ご町内 6句  ≫読む
西原天気 胸ふかく 5句  ≫読む

第246号 2012年1月8日
特集・新年詠2012  ≫読む  ≫読む  ≫読む  ≫読む  ≫読む  ≫読む

第247号 2012年1月15日
谷口智行 初 暦 7句 ≫読む
小林千史  7句 ≫読む

第248号 2012年1月22日
雪我狂流 日向ぼこ 7句 ≫読む
依光陽子 涯 hate 7句 ≫読む
矢口 晃 蝌蚪は雲 7句 ≫読む
山下つばさ ぱみゆぱみゆ 7句 ≫読む
福田若之 既製品たちと歌ううた 7句 ≫読む

第249号 2012年1月29日
望月 周 冬ゆやけ 7句 ≫読む
林 雅樹 紛糾 7句 ≫読む
松本てふこ 遊具 7句 ≫読む
野口る理 留守番 7句 ≫読む