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2018-09-09

【週俳8月の俳句を読む】気配その他 荻原裕幸

【週俳8月の俳句を読む】
気配その他

荻原裕幸


箱庭の小屋に潜伏切支丹  堀田季何

実際のところその小屋に隠れキリシタンの人形か何かがあったのか、箱庭の中にまぼろしを見ているのか、どちらにも読めそうだけど、私は、前者として読んで、精巧な箱庭をイメージするのが楽しい。潜伏キリシタン、は、たぶん社会的に正しい呼称なのだろう。潜伏切支丹、という表記には、その社会的正しさや呼称の未定着感への揶揄のようなものも少し感じた。

さまざまな星に生まれて昼寝覚  堀田季何

ここ出て来る、星、は、幸運の星の下、というような、運勢にからむ星だと読むのが妥当な気がする。妥当な気がするのに、そう読む気にはならない。星の下に、と言わず、星に、生まれて、と言うから、つい、その語感を真に受けたくなる。三島由紀夫の『美しい星』のようなSF的妄想でもいいし、ハードなSFを考えてもいいんだけど、いずれにしても、星、は惑星であってほしい。

圏外と思ふ水母の体内は  森尾ようこ

圏外とはガラケーやスマホで言うところの圏外か。携帯した端末に電波が中継されない状態で、他者とのコミュニケーションができない領域を、隔絶された淋しい場所だと考えるか、落ち着ける静かな場所だと考えるか、人それぞれだろう。私には後者の印象がやや強いのだけど、この句の世界は、そこをうまく半々に見せているように思うし、電波の届きやすいところはどこかという物理的な理屈を完全に欠いているのにも好感をもった。

龍淵に潜むけはひの空家かな  森尾ようこ

空家にはたしかに色々な気配があると思う。転居して間もないかどうかで、人の気配の残り具合も違って来るし、人間ではない何かが宿りはじめれば、わかる人にはわかるのだろう。この句の場合、感じたのは、龍淵に潜む気配。住人が人生の苦しい時期にいて、機が熟すのを待っての転居だったと考えれば、住んでいた人が残した気配だと読める。本物の龍の気配があると読む方が楽しい気もするけれど。

秋晴やフルスイングの四番打者  池田奈加

秋晴とあるので、たぶんプロ野球ではないのだろう。草野球か、部活か、そんな感じの、アマチュアの、楽しんでする野球だと思う。四番打者と言えば、これはもうフルスイングするものである。いや、ほんとはそんなことは決まってないんだけど、フルスイングの四番打者、というフレーズには、絶対感のようなものがあって、美しい。結果が、ホームランでも空振りでも、美しい。

夕立に消えるファルセットの校歌  池田奈加

夕立が来て、雨音で声が聞こえづらくなったのか、窓が閉められたのか、あるいは、あるいは、あるいは、と、さまざまな風景を探るように読んで、懐かしさにやられそうになるのは、校歌、学校、十代の日々、というような連想によるものだろうか。がちでかしこまって、を感じさせる、ファルセット。そのとき聞こえなくなっただけなのに喪失感をもたらす、消える。等々、ことばの選択が自然でかつ最善だと思う。

ふらここの軋みてここは石の街  浜松鯊月

石の街、が具体的にどこのことを言っているのかはわからない。ググったら宇都宮が出て来たけれど、どうなんだろう。私は、何となくではあるけど、仮想現実的な空間をイメージするのがいいような気がした。一人でブランコを漕ぐと、その場所がスタート地点となる、まずは石の街があらわれる。孤独の中にあって発見する、そんな物語やゲームの幕明け感のようなものかなと思った。

花冷えや道着の帯を締め直し  浜松鯊月

帯を締め直し、とあるので、柔道着系の道着か。ことばの流れが、ちょっと綺麗過ぎるかなとも思う。でもこういう綺麗さは綺麗過ぎてもいいかなとも思う。花冷えの冷えから帯の締め直しに展開する感じは、試合ではなく練習の印象をもたらす。体格も性別もはっきりとは見えないんだけど、花冷えの一語は、この語にふさわしい人物を連想してね、という作者の希望のあらわれでもあるのだろう。


■堀田季何 ニンゲンけダモノ 10句 ≫読む 
■森尾ようこ くらげ 10句 ≫読む
■池田奈加 少年 10句 ≫読む
■浜松鯊月 君の背に 10句 ≫読む

2016-11-20

【週俳500号に寄せて】まさに空気のようなものとして 荻原裕幸

【週俳500号に寄せて】
まさに空気のようなものとして

荻原裕幸



「週刊俳句」が第500号を迎えるという。この数字の重さはものすごいものだと思う。俳句という一つのジャンルに特化した無償のウェブマガジンを、週刊で500号なんて、想像しただけでも気が遠くなる。愛読者としては、感謝してもしてもしたりない感じがある。でも、そう言いながら、私が真に望んでいるのは、そして「週刊俳句」がそれを実現しているのは、重さなんてものを一切感じさせないで、毎週毎週少しずつ、新しい俳句の空気を、まさに空気のようなものとして読者に送り続けてくれることなのである。気づけば500号。そんな感じで第500号は発行されるはずだ。私の考える「週刊俳句」の真骨頂はそこにある。

★

現代の俳句は、混沌としている。むろん、活気があって混沌としていないジャンルなんてものはない。ただ、それにしても、俳句は混沌をきわめていると感じられる。これはたぶん、私が、いずれかの結社の内部にいないからだろうと思う。各結社は、と言うか、主宰の多くは、内部に向けて、俳句の世界を、ひとつの理念に貫かれた風景として見せている。その個々の是非はともかく、俳句の世界にかなり明確な輪郭を与えている。ただし、その輪郭は、仮の輪郭であり、個々に違うわけで、結社の外に立ってしまえば、輪郭の差異の分だけ混沌がきわまるのである。「週刊俳句」を私が好むのは、この混沌を、混沌のまま抱えて、決して明確な輪郭を与えようとはしないところだ。混沌のなかから何かが見えて来るとしたら、それは、混沌を混沌として認識するところからしかはじまらないだろう。

★

そう言えば、以前、私に、「週刊短歌」のようなものを発行する予定はないんですか? と訊いて来る人が何人かいた。やれば面白いのにと言われた。私の企画好きの性格を見て、煽る人がいても不思議はないと感じたけど、まったく食指が動かなかった。俳句でこれほど面白い場が実現できているのだから、短歌で二番煎じをさせてもらってもそれなりの面白さを実現することはできそうなものなのに、なぜか、私のなかにいる誰かが、絶対にやめた方がいい、と言うのである。労力や継続力の問題とは別の理由があるのだと思う。短歌に向かないのか、それとも、私に向かないのか。いまのところうまく説明ができないでいる。


2016-10-09

あとがきの冒険 第11回 ☆☆☆☆☆・ポポポポ・んんんんん 荻原裕幸『あるまじろん』のあとがき 柳本々々

あとがきの冒険 第11回
☆☆☆☆☆・ポポポポ・んんんんん
荻原裕幸『あるまじろん』のあとがき

柳本々々


川柳の久保田紺さんの句の感想を書いたときに、紺さんがこんなふうにわたしに言ってくれたことがある。「句って、旅をするんですね」と。

句は、旅をする。

そのときわたしは、荻原裕幸さんの歌集『あるまじろん』のこんな「あとがき」を思い出していた。
けれども、もつとも素敵なのは、ここに収めた二百六十のフラグメントのどれかが、各章に付した二百字弱のメモや、歌集を全体から見たときの自分の役割などはころつと忘れて、読者がそれぞれに繁らせてゐる青葉の中に紛れこみ、あたかも最初からそこにあつたかのごとく風に吹かれてゐることである。作者の都合なんて構はない。作品が、宿命よりも強い偶然によつて、ふさはしい居場所を見つけ、そこで生きはじめるとすれば、こんな素敵なことは他にないのだから。
「フラグメント」=断片=短歌が、「作者の都合なんて」お構いなしに「読者」と共に旅をすること。そしてその旅先で「あたかも最初からそこにあつたかのごとく風に吹かれてゐること」。ここで語られているのも紺さんが述べた言葉のようなひとつの〈旅〉のかたちだとわたしは思う。

川柳だけでなく、短歌も、旅をする。じゃあ、もちろん、こんな問いかけもしてみたい。俳句は、旅をするのか? すぐに答えてしまおうとおもう。俳句は、旅をする。

わたしは荻原裕幸さんのこの「あとがき」は実は横溝正史の『獄門島』(1971)のそのままの〈解説〉になっているのではないかと思うのだ(『獄門島』のネタバレが入ります)。

探偵・金田一耕助シリーズのひとつである『獄門島』では俳句に見立てられた連続殺人が起きる。わたしはかつてそれについて宮崎駿『天空の城ラピュタ』とセットにして考えてみたことがあった。俳句とバルスはちょっと似ているように思ったのだ(拙稿「獄門島と天空の城ラピュタ」)。

獄門島で起きた殺人事件は俳句が重要なキーワードになっている。というよりも、俳句が殺人の指令書=計画書=伝達書の役割をなしている。《ほんとうに》殺人をおかしたかった殺人者は死んでしまうのだが、その遺志=意志を《俳句》をとおして受け継いだ人間が殺人を実行する。それが獄門島の連続殺人である。

ここで興味深いのは、その俳句が松尾芭蕉や宝井其角などまったく殺人とは無縁の句であった点だ(たとえば「むざんやな冑の下のきりぎりす/松尾芭蕉」)。たとえ「むざん」という言葉があったとしてもこれを殺人の計画書として解読(デコード)することは意味的跳躍がなければ難しい。しかしその意味的跳躍=旅があったのだ。この句をもとに殺人計画を記憶=想起し、実行した人間が獄門島にはいた。

つまり、荻原さんの「あとがき」の言葉を借りるならば、俳句という「フラグメント」が「自分の役割などはころつと忘れて」、殺人犯の「繁らせてゐる青葉の中に紛れこみ」、「宿命よりも強い偶然によつて」「生きはじめ」てしまったのだ。俳句は、〈旅〉をする(ちなみに『獄門島』の殺人事件では「強い偶然」が殺人の実行と非常に深い関わりをみせる。金田一がおもわず口にした謎解きのきっかけとも)。

川柳も、短歌も、俳句も、旅をする。それをこんなふうに言い換えてみてもいいと思う。旅をする川柳/短歌/俳句は、あらかじめ《他者の法》がそこに書き込まれているのだと。だから、それらは、旅をすることで《他者の法》に出会い、はじめて《意味》と遭遇するのだと。

『あるまじろん』の「ウッドストックの憂鬱」の章の頭には荻原さんのこんな散文が置かれている。
この街では、彼(引用者注:ウッドストック)のお喋りも、☆☆☆☆☆とか★★★★★なんて感じになるに違ひない。…でも、…スヌーピーがゐないと、彼のお喋りが「意味」として結晶することはない…。(荻原裕幸「ウッドストックの憂鬱」『あるまじろん』沖積舎、1992年)
スヌーピーという〈他者〉がいなければウッドストックの「☆」という「フラグメント」は「『意味』として結晶することはない」ということ。こうした非意味的立場の喚起は各章頭の散文でたびたび語られていく。たとえば、
書きたい気持ちも不思議だが、もつと不思議なのは、書きたいと思ふことが何もないのに、何かが書けてしまつてゐるといふこと。ぼくは何を書いてゐる?(荻原裕幸「ぶたぶたこぶた 1992」前掲)
「書きたいと思ふことが何もないのに、何かが書けてしまつてゐる」意味の空白=真空。ひとは意味にとり憑かれ、すぐに意味へと駆け上がろうするが、しかしスヌーピーがいないとウッドストックの「☆☆☆☆☆」のお喋りが解読(デコード)できないように、「☆」は〈旅〉をしなければそれそのものの中では〈意味〉を持ち得ないのだ(《☆自体は何もないのに、☆が書けてしまっている》状況)。

もしそれでも性急に「☆」を解読しようとするならば、《ただたんにそこに》「☆」があることに〈がまん〉できなかったとしか言うしかない。あなたは〈旅〉を待てなかったのだ。「世界はもはや意味もないが不条理でもない」ことに、「たんにそこにあるだけ」に、がまんできなかったのだ。
彼(引用者注:マクベス)にとって世界はもはや意味もないが不条理でもない、たんにそこにあるだけだ。そして、彼の最後の闘いにも彼自身は何の意味も認めていない。……マクベスはただうんざりしたのだといってもよい。自縄自縛の自分に、いいかえれば、自己の欠如を埋めようとして一層大きな欠如を見出した自分に。どこに欠如などあろう。世界はたんにここにあるだけではないか。……そもそも理由などというものは不要だ。(柄谷行人「マクベス論-意味に憑かれた人間」『意味という病』講談社文芸文庫、1989年)
「世界はたんにここにあるだけではないか」。「☆」は「たんにここにあるだけ」であり「そもそも理由などというものは不要」なのだ。たぶん、〈わたし〉が認識できるのはそこまでなのだ。その地点から〈わたし〉ではなく、フラグメントが旅をしだすのだ。

だから、『あるまじろん』という歌集はもしかしたらウッドストックの「☆」が「☆」であるとはどういうことか、それが〈わたし〉のなかでだけ完結しない場合、どのように〈旅〉をし、しそこねるのかを探る歌集なのかもしれない。

短歌が、旅をするとはどういうことなのか。この歌集の「ぽ」がずっと《ただたんにそこに》「ぽ」でありながら、あらゆる解釈を受けて、旅をしてきたように。

ぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽぽと生活すポポポポニアの王侯われは  荻原裕幸

非意味的過剰の「ぽ」に埋もれた「ポポポポニアの王侯」はもしかしたら「世界はたんにここにあるだけではないか」と喝破した「マクベス」かもしれない。かれは、「うんざり」と「ぼんやり」によって「意味という病」を克服し、「ぽ」や「☆」を「ぽ」や「☆」として生きようとしていた。「世界は意味もないが不条理でもない」とマクベスはぼんやりと、しかしはっきりと思った。そのときもしマクベスが短歌を詠んだらこんな歌になっていたのではないかと、思う。いや、きっと、そうだ。

んんんんん何もかもんんんんんんんもう何もかもんんんんんんん  荻原裕幸

(荻原裕幸「あとがき」『あるまじろん』沖積舎、1992年 所収)

2015-12-27

週俳2015年3月のオススメ記事 アーカイブ力(りょく) 荻原裕幸

週俳2015年3月のオススメ記事
アーカイブ力(りょく)

荻原裕幸



個人的な問題かも知れないけど、私の場合、年末に向けてまとめる回顧的な原稿のつらさは、資料をきちんと手元に揃えなければ何もはじまらない、ということに尽きる。歴史を変えるんじゃないかと感じたあの本が出奔したとか、今年いちばんと確信するあの作品の掲載誌が逐電したとか、書斎は小ぶりでも迷宮の奥は深く、ミラクルな発見劇があって、ようやくスタートラインに立つことになるからだ。アーカイブの整った「週刊俳句」の目次を眺めながら、この点でまず、神だな、と思う十二月である。

★

おすすめ記事を絞りこむため、二〇一五年三月発行の「週刊俳句」を読んでいて、このメディアには、他誌からの転載記事(改稿を含む)が多いとあらためて感じた。三月分を辿っただけでも、橋本直「子規への遡行」、中嶋憲武「ハイクふぃくしょん」、関悦史「BLな俳句」、今井聖「名句に学び無し、なんだこりゃこそ学びの宝庫」、上田信治「成分表」等がある。このあたり、オリジナル重視の、商業誌との差異がはっきり見える。ネットならではのアーカイブ力を発揮する「週刊俳句」の特長であろう。いくつかは初出誌で読んでいるのだけど、ラベルを追ってまとめ読みができるのもうれしい。

★

話がやや逸れている。「週刊俳句」三月のおすすめ記事、である。前述の転載記事については、むろん上位のおすすめのつもりもあって列挙したので、それらはここでの対象から外れてもらうとして、第一に推しておきたいのは、今井聖「情緒安定派の鬼っ子・岡本眸」(第410号2015年3月1日)である。シナリオ執筆という自身のフィールドにあらわれた岡本眸の姿を追うところから話ははじまるものの、俳人論のセオリーみたいなところを避けて、メリーゴーランド方式に岡本の世界を探索した楽しい文章になっている。ネットにはなじまないかもと思うほどの長文ながら、退屈せずにずんずんと読み進められる。末尾の「岡本眸三十句」は、写実とはまた違う意味での、三次元感の強い作品が多くて興味深い。私には、岡本は、かなり抽象感のある文体の人、という先入観があったので、新鮮だった。

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短い記事では、西村麒麟「八田木枯の一句」(第414号2015年3月29日)がおすすめである。「引鶴のばさつく音の夜陰かな」の一句鑑賞、と言うか、八田木枯の句における「鶴」をめぐってのエッセイと言うべきか。短いながらも示唆に富んだ文章で、全句集に見られる「鶴」が、人物、と言うか、キャラクターの再登場法的に読める、という指摘もおもしろい。引用句を読むと、たしかに、鶴一般ではなく、この鶴あの鶴感がよく出ていて、これはもう、季題と言うよりも、八田木枯の描くキャラのひとつのように感じられた。

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それから、番外的ながら、柳本々々「【川柳訳】Stand by Me - B. E. King」(第410号2015年3月1日)をおすすめしておきたい。一年前の、中山奈々の同趣向をなぞったものだけど、川柳だけでよくまとまっているし、翻訳=選句のクオリティも高い。現代の川柳の小アンソロジーにもなっている。どこか偏愛的ながらも、はっきりとした川柳観につらぬかれているようで快かった。短歌訳もできないかな。やってみようかな。

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あと、三月に掲載された三篇の十句作品。これを散文の記事と同列において考えるのは、何かが違う気がするので、最後に、それぞれの十句から、私の好みの作品を各一句引用して終りにする。

 影の木に人間吊るす冬木立/安西篤

 あざらしの水くぐる間の花の昼/渡辺誠一郎

 母にその兄より手紙蕗の花/山西雅子

2014-05-18

荻原裕幸 世ハ事モ無シ 20句

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週刊俳句 第369号 2014-5-18
荻原裕幸 世ハ事モ無シ
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10句作品テキスト 世ハ事モ無シ  荻原裕幸

世ハ事モ無シ  荻原裕幸

世界征服やめて何する花は葉に
菖蒲湯の次の日の湯の音しづか
この人もむかしはこども蛇苺
卯の花腐し急ぎ百枚名詞刷る
ほととぎす電卓どこに忘れたか
紫陽花に来て止まりをり郵便車
ざくろ咲くひつぎの窓の蝶番
片蔭のこれはマヨネーズの蓋か
地下街を抜けて蝉時雨に戻る
こどもみな足裏見せよ大夕焼
ひぐらしや箪笥の底の新聞紙
お喋りな柿から順に剥いてゆく
珠算塾のふるき看板いわしぐも
読めぬ名のこどもこんなに秋高し
見つからぬリモコン一つ秋の暮
馬車で行く宛なくなりて南瓜煮る
ポスターの鼻孔に画鋲冬ぬくし
迎春や何でも撮つてから食べる
一同皆けむりのごとし去年今年
行きつけの書店なくなる春夕焼


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