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2019-06-30

BLな俳句 第23回(最終回) 関悦史

BLな俳句 第23回(最終回)

関 悦史
『ふらんす堂通信』第158号より転載

秋かぎりといふ守衛ゐる画廊かな  能村登四郎『長嘯』

『長嘯』は登四郎が八十一歳のときの第十一句集となる。このあたりまで来ると、艶っぽさに富んだ登四郎の句も、さすがに淡々たるものになってくるようだ。

この句はべつだん性愛の要素はないのだが、この守衛もそれなりの年齢を迎えての退職なのだろうし、「秋かぎり」というからには、顔なじみになってから少なからぬ歳月を閲しているわけで、寂しさというより、人恋しさが強い。

辞めてしまって、いなくなったところを描いているわけではなく、近々辞めることはわかっているが、まだ当人は目の前に現前している点が肝なのだろう。「秋」という季語も、もの寂しさばかりではなく、守衛の現前する肉体と相俟って、どこか、定年まで勤め上げたという稔りを感じさせるところもある。

もう一つ「画廊」という要素も効いていて、これが老人二人の別れという侘しい素材に、肩の力の抜けた華やかさを添えている。

二人の人生と、淡い交流が、何やら清遊じみたものに見えてくるのである。


滝行のひとりをりけり見るもひとり  能村登四郎『易水』

滝に身を打たせている者と、それを見守る者、どちらも一人となると、両者の精神に何か通いあうものが出てくる気がする。いや、滝行をしている者はまわりなど見えていないだろうから、両者の交流は片恋に近い一方通行のものとなるだろう。

片恋というほど心理としてまとまったものではなく、たまたま滝行の現場にでくわした者が、それに捉えられ、見入らざるを得なくなってしまったという局面のみが、不意打ちのように形成されているというだけかもしれない。この二人にもともと何らかの繋がりがあったわけではあるまい。

しかし無関係なもの同士とはいえ、テクスト上で隣り合わせにされたものには、必ず説話論的な関係が生じてしまう。ましてその両者がともに「ひとり」であるという事実が句のなかで繰り返されているのだ。この出会いは、それだけでもはやのっぴきならないものとなっているのである。


滝垢離の童貞も透く白行衣  能村登四郎『易水』

こちらも滝行の句だが、両者の交流よりは、行者への関心に句が集中している。

若い男であるらしい。

「滝垢離」「白行衣」の間に「透」いている「童貞」は、極めて清冽なものとして捉えられている。

しかしこうした素材で精神的な志向を打ち出す場合、ふつうならばもっと力んだ、その清冽さへの同調をこれでもかと押しつけがましく読者に訴える句になってしまってもおかしくはないはずなのだ。

登四郎句にはそうしたケースは、この句に限らずほとんど見当たらない。

この句の場合も、宗教的求道性への賛嘆という要素が皆無ではないにせよ、「透く」「白行衣」といった切り取り方からは、むしろ外見的な美しさに関心が向いているようにも見える。

求道性への賛嘆も、内面的にではなく、外見をなめるようにまつわりつく視線として現れるのが登四郎句のひとつの特徴なので、登四郎句の奇妙な色気もそこから来る。いわば内面性をともなったコスプレとして相手を愛でているのであり、したがって相手の顔や個性が固有のものとして際立ってくるケースはほぼない。


翔ぶ男ばかり見てをり春炬燵  能村登四郎『羽化』

「冬季オリンピック」の前書きあり。

競技の成績や勝ち負けに関心があるわけではなさそうだが、それでも何となく見なければならない気がしたり、テレビをつけるとやっているので、ついついつきあったりと、そのくらいの興味で見ているといった雰囲気を、ぬくぬくとした「春炬燵」が感じさせる。ときどき居眠りくらいしていてもおかしくない。

「翔ぶ男ばかり見てをり」はナンセンス味もあるが、若い男性選手の躍動する肉体美にばかり惹きつけられているとも取れる。一流選手の卓越したプレイそのものに惹かれるということのほうが、スポーツ観戦の本道であるともいえて、点数とか何かは二次的なものだから、その意味では真っ当な観戦だが、どうも卓越したプレイに興奮しているといった風情でもない。この句にあるのは、安楽な春炬燵から眺める、翔ぶ男ばかりなのである。ヒトという生物を代表するかのように次々にくり広げられる男たちの身体の最高のパフォーマンスを、神様や仙人の類が空からさほど気を入れるでもなく鑑賞しているような、ゆるやかな華やぎがある。

登四郎句ではおよそありそうにない話だが、これがもし「翔ぶ女」であったら、この浮遊感はたちまち消える。

第十二句集『易水』、第十三句集『芒種』、そしてこの没後刊行となった第十四句集『羽化』あたりまで来ると、さすがに男性を愛でている句も、あまり多くはなくなってくる。

というよりも『羽化』にはこの一句しか、とりあげたい句が見当たらなかったのだが、いわゆる枯淡や円熟の境地とも少し違う、安楽ながらなまめかしさの残る最後の「男」句となっている。


泳ぎ来し青年臥してくぼます砂  能村登四郎『欧州紀行』

序数句集とは別に、登四郎にはヨーロッパでの旅吟を収めた『欧州紀行』という本がある。

一九九五年刊行だから、本としてまとまったのは第十一句集『長嘯』(一九九二年)と第十二句集『易水』(一九九六年)の間のこととなるが、「馬酔木」に連載されていたのは一九六七年、登四郎五十六歳のときのこと。つまり第三句集『枯野の沖』(一九七〇年)の準備期間にあたっている。

全句集の著書解題によると、心象風景を志した『枯野の沖』に、リアルな海外詠はそぐわないので外され、以後二十八年間眠ったままになっていたということらしい。

この句は「ギリシヤの琴」という章題の一連に入っている。

五十代のこの作を後からふり返ると、肉体のあらわれ方に重みや張りがあり、なまなましく、輝かしい。

「臥してくぼます砂」の、寝そべった姿勢での密着がそうした印象をもたらすのだが、この句の力感はそこにさらに「泳ぎ来し」の運動と停止の要素が重なっていることから来る。この青年の肉体は、「泳ぎ来し」の膂力と、海そのものの質量エネルギーを担いつつ臥せているのである。その肉体に押しひしがれた「砂」への、羨望や憧れにも似た感覚もちらつく。

先に「滝垢離」の句の鑑賞で、「求道性」という言葉を持ち出したが、登四郎が反応するのは、そうした精神的な要素というよりは、個人の身体のスケールを超えた力や運動を帯びたものとしての男性の肉体であるとした方が適切なのだろう。

この「ギリシヤの琴」なる一連には、〈裸像あまた見し夕なり泳ぎたし〉という句も含まれている。

〈泳ぎ来し青年臥してくぼます砂〉では泳いできたことによって他者のエネルギーがあらわされるが、この〈裸像あまた見し夕なり泳ぎたし〉では裸像の持つ力感にあてられて、語り手の側が泳ぎへと指嗾される。

登四郎にとって「見る」ということは、そうした力の交換の場でもあったようだ。


泳ぐ青年アポロの裔の胸毛濡れ  能村登四郎『欧州紀行』

海の水の重量をエネルギーそのものとして身にまつわらせる「泳ぐ青年」の身体は、ここでは二つの方向にそのエネルギーを同時に放出する。ひとつは「アポロの裔」の大理石の彫刻を思わせる均整と神性であり、もうひとつは「胸毛濡れ」という、体毛のしつこい描写としてあらわされる過剰な肉体性の色気である。

そしてその二つの方向は句のなかで、静止即運動、運動即静止といった格好で、あらかじめまとめ上げられている。この句のあり方自体が、よくできた彫刻を模しているかのようだ。

句のなかにおいて、BL用語でいえば「受け」キャラというよりも、むしろ読者として妄想を膨らませる立場に過ぎない「腐男子」として、もっぱら身を処してきた登四郎の目は、男体のイメージを通して自然や神性を引き出しつつ、その境界面たる男体の官能に踏みとどまり続けるための装置として働きつづけていたのではないか。


長々と能村登四郎につきあい続けて、沼から出られぬような状態になっていたこの連載も、全句集をともかく通覧し終えたのと同時に、今回をもって終わる。

*

関悦史 



阿修羅いまさらはれて夜の花吹雪

磯巾着に捕られ青年めく魚よ

美童の双子口使ひあひ夏至の日なり

水鉄砲局部狙はれ狙ひかへす

少年の口のみの笑み鳥兜

天しづかに稚児競るごとし鰯雲

白き秋鶏姦は歯を食ひしばる

受け攻め入り乱るるや黄に紫に菊

ランボーをヴェルレーヌ撃ち鵙の贄

襖開ければ男らつるみをりすぐ閉む

2019-06-23

BLな俳句 第22回 関悦史

BLな俳句 第22回

関 悦史
『ふらんす堂通信』第157号より転載

藪巻や美童攫はれたるはなし  能村登四郎『長嘯』

「藪巻」が冬の季語で、「雪折れのおそれのある低木や竹などを,むしろや縄で巻いて損傷を防ぐもの」(『大辞林』)。

「美童攫はれたるはなし」の「はなし」は「話」とも「は無し」とも読めるが、後者は特に詩趣を形成することもなさそうなので「話」と取っておく。

この「話」がどういうものかは詳らかでないので、美童が天狗や何か怪力乱神の類に攫われたのか、それとも単なる稚児趣味をめぐるトラブルかも判然としないが、伝聞の「話」であるという間接性を挟んだ美童消失の悲劇とだけわかれば、さしあたり用は足りる。間接的でしかも断片的で唐突であるがゆえに、美童消失のイメージは淡くもなり、また一面鮮やかにもなるのである。

目の前にあるのは藪巻である。木の本体が隠された状態であることが、「攫はれた」の消失のイメージに通底する。また冬の季語であることから、攫われた美童がどことも知れぬ場所で凍えている可憐な図を連想することもできる。藪巻そのもののように、美童が縄で縛められている図まで連想するとなると、少々意味に引きつけた読み過ぎということになろうか。

ただ縄やむしろで巻かれただけの木が、「美童攫はれたるはなし」という一見実のないフレーズと取り合わされると、たしかにそういうことがあったのだと証言している謎めいた物件のように見えるところが面白い。


坊主めくりの引き当てし僧うつくしき  能村登四郎『長嘯』

百人一首を諳んじていない人でも、簡単にできる遊び方が坊主めくりである。

絵札の山を囲んで座り、順番に札を取っていって、坊主が出たら持ち札を全て捨て、姫が出たらそれをまとめてもらえるというだけのもので、最終的に持ち札の枚数がもっとも多かった者が勝ちとなる。

つまり坊主の札はハズレで、せっかくそれまで溜め込んだ札を手放さなければならないのだから、普通ならば顔をしかめるところなのだが、登四郎の句では、なぜか絵札の僧の美貌に見とれるということになるのだ。

うつくしいとはいっても百人一首の絵札の肖像は、かなり簡略化された描き方なので、たかが知れているはずだが、そんなところにも登四郎の美男センサーは反応してしまうのである。

もともと登四郎は僧形が好みらしくて、知られた句〈青滝や来世があらば僧として〉では、自分もそうなりたいという憧れが示されているし、『長嘯』のひとつ前の句集『菊塵』には〈よき僧となり紅顔の冬も失せず〉という句もある。こちらには「大畑善昭」という前書きがついている。「沖」同人の俳人である。「紅顔」は少年によく使われる形容で、それが僧に使われるという意外性が生気を生んでいる。

登四郎の僧形への関心は、熾烈な求道といったものではなく、まず外見が好みだということであり、その向こうに清冽な精神性がほの見えるのがエロティックであるということのようだ。この嗜好性は、現在のコスプレ文化に近いところがあるのではないか。


男顔完璧なりし神輿舁き  能村登四郎『長嘯』

こちらも和モノの句。

「神輿舁き」というと、神輿を担ぐ人と見物から成る群衆全体の騒々しい活気に注意が行きそうなものだが、ここでも登四郎の視線は、担ぎ手の一人の「男顔」にただちに釘づけになっている。周りの騒がしさなどもはや「男顔」の背景に過ぎない。文字通りのモブである。

中七の「完璧なりし」というのが句としては工夫のしどころか。

「美しかりし」では神輿舁きの活気が消えてしまって、スタティックになる。「完璧」はこの場合、周りの活気も背景として有機的に巻き込み、それと互いに照らし合うようにして「男顔」を際立たせる措辞となっている。


澄める夜の澄みの極みに男坐す  能村登四郎『長嘯』

一連の僧侶ものなどの延長線上というべきか、人格的なものを伴う格好よさが描かれた句で、男が坐っているだけでほれぼれとしている感じが伝わってくる。

言葉の並び順としては「澄める夜」が先に来て、そこから次第にクローズアップしていくように「男」が現れている。「澄み」を煮詰めていった結果「男」が出現するという順番で、「男」が澄む秋そのものの精のように見え、それが「男」のキャラクターをも規定していくのだが、実際の認識の順番としては、まず坐っている男が真ん中に来て、それから周りの秋の「澄み」へと注意が広がっていくはずで、ここでも「神輿舁き」の句と同様、男とその周囲との照らし合いがかたちづくられている。

この「男」も、キャラクターの方向ははっきりしていて、高倉健か誰かのような寡黙で重みのある、絵になる人物であることはわかるが、一方、登四郎句に現れる男のつねとして、内面性は希薄である。

内面とは発語されなかった言葉である。この「男」がものを言うことがあるとしても、それが句の語り手との間に決定的な摩擦を起こすことはおよそあり得そうになく、「男」は句の語り手の理想のうちにとどまるのである。その意味で、この「男」には内面はあまりない。

早くいえば「男」は美少女ゲームのキャラに近い、ご都合主義の空想によって成り立っているものとも見えるのだが、にもかかわらず登四郎句が平板な閉域をかたちづくってしまわないのは、その奥行に、季語によって形成される審美的に整えられた自然があるからなのではないか。

登四郎句の場合、単に好もしい男と季語が組み合わせられているということではなく、「男」そのものも、季語の宇宙と相互に浸透しあっているとでもいうべきか、内面が希薄であることで、季節、季語の美を体現する存在になることが可能になっているようだ。

これは季語そのものの萌えキャラ化といったこととは違う。季語と「男」とが、それぞれ違うものでありながら相互浸透を起こす、そのはざまの領域に登四郎句のエロスがあるのだろう。


竹皮をきのふ脱ぎたる男肌  能村登四郎『長嘯』

「竹の皮脱ぐ」が夏の季語。「男肌」は皮を脱いだばかりの竹のみずみずしい精悍な肌に対するものの喩えであるらしい。男のような肌というわけである。連体形の「脱ぎたる」に「男肌」が直に続いているのだから、そう取るのが自然だ。

客観写生であるかはともかく、一応写生句の枠内で鑑賞できる句ではある。

しかし「男」の一字の介入が、何やら読者の心をざわめかせる。べつに「男」の一字を入れなくても、例えば下五を「素肌なり」などと変えてしまっても、「肌」だけですでに暗喩になってしまうので、人体じみた色気は出てしまうはずなのだ。竹から女性の容姿を連想する人は少ないだろうから、それだけでも一応用は足りるのである。

それでも、この句には「男」が入った。

俳句には、連体形で繋がっていても、意味上の切れが入るというタイプの作品もあるので、〈竹皮をきのふ脱ぎたる/男肌〉と切ってみることも可能である。この場合、介入してきた「男」は喩えではなく本物となる。代わりに「竹皮をきのふ脱ぎたる」の方が「脱いだような」という暗喩的な位置にしりぞくことになる。

とはいうものの、この句の言葉のバランスから見て、「竹皮をきのふ脱ぎたる」が全て「男肌」を修飾するためだけの、ものの喩えと取るのは少々無理がある。季語が実物ではなくなってしまう点も、句を弱らせる。

昨日皮が脱がれたばかりの竹のイメージと男肌のイメージは、どちらがどちらの喩えなのかを曖昧に揺れ動かす余地を残しつつ、皮を脱いだ竹の真新しい幹を立ち上がらせる。いやむしろ、その真新しい竹の幹の両側に、皮を脱ぐ所作と、男肌がまつわる。この両側にまつわる二つのイメージのたゆたいこそを、この句の魅力と取るべきだろう。


白褌の一団に締る海開き  能村登四郎『易水』

褌である。

何というか、ここまでつき合ってくると、いつもの登四郎の世界という気がする。

大磯などで、海開きの際に、神輿の海中渡御という行事があるので、それを詠んでいるのかもしれないのだが、さしあたり目が行っているのは神輿や神事ではなく、「白褌の一団」であり「締る」である。

いつもの登四郎の世界とはいうものの、この前の句集『長嘯』には〈すさまじや肉体枯れてなほ男〉〈真裸の瘦てゐるだけ耶蘇に似て〉といった、自分のものらしい身体の老いと衰弱にかえって男性性を見出す句も収められているので、その後にこうした句が詠まれている辺り、好みのものへの執心が生の支えと華やぎになっているようだ。

*

関悦史 
カルナヴァル忌


夏草が踝に触れ男子と知る

姫と呼ばれて男子の細さ更衣

水かけまくるは賛美ぞプールの男子同士

カルナヴァル忌の聖セバスチャンこそ夏料理
  カルナヴァル忌=金原まさ子の命日 六月二十七日

梅雨雷夢魔の青年らに拉がる

照り返す汗の胸板パソコン点け

アナル既に縦割れの兄紺浴衣

片割れすでに歯磨く裸身青年らの後朝

運動会のダンス照れあひ男児同士

少年やラガーの体見つめゐる

2018-12-16

BLな俳句 第21回 関悦史

BLな俳句 第21回

関 悦史
『ふらんす堂通信』第156号より転載

ひとり身は老いも恋めく白絣  能村登四郎『寒九』

何やら妖しい境地に入ってきた。

「恋めく」とは書かれているものの、誰か対象となる人物がいるわけではない。恋めいているのは、「ひとり身」の「老い」それ自体である。自分の身体への関心が同性のそれへの関心へ横滑りすることは、珍しくないだろうし、そこから恋に似た感情が発生してもおかしくはない。思春期ならば普通にいくらでも起こり得ることだ。

ただしこの句の人物はそんな年頃ではない。「老い」ているのだ。

「白絣」を着た瞬間の、自身の姿と肌触りの変化から引き起こされた艶めいた感情は、自愛を含むものでありこそすれ、自己愛とはややずれている。気に入った服や、新しい服を着てみたときの姿の変化は、気分に華やぎをもたらす。それが「恋めく」というところまでは、ある程度誰にでも共通するのだろう。

その華やぎは、しかしこの句では「ひとり身」であると明示されることで、どこへもさまよい出ることなく、「老い」た身体自体に帰着する。ところがそれが、一向に鈍重でもなく、閉塞感もない。「白絣」の着脱にともなって、自身までもが位相を変え、揺らぎ続ける身軽さを「老い」ゆえに手に入れたようであり、その揺らぐ身体を透して、恋の対象たりうる幻の男の像も見え隠れしているのだ。

同じ『寒九』に収録されている〈夏果ての男は乳首のみ老いず〉も、男の身体と老いの句だが、こちらは逆に乳首一点にのみ注意した格好。男性にとっては特に使い道もない器官である乳首のみが老いないという滑稽味もあるが、こちらの句でも乳首と自身との間に微妙な隔たりと揺れ動きがある。性愛の要素を含みながら、生殖とは関係しないという点でも同性愛に通じるところがある。

〈昔ほど男は佳けれ白絣〉(これも『寒九』)でふたたび「白絣」が出てくる。こちらは昔の映画俳優の類を懐かしんでいる風情だが、一般論的な「男」の抽象性を「白絣」が突如具体的に肌身に添わせることとなっている。


鷹の眼をもつ若者とひとつ湯に  能村登四郎『寒九』

以前にも〈曙色となり若者の初湯出づ〉(『冬の音楽』)という句があったが、今度ははっきり一緒に入浴している。「ひとつ湯に」である。この言い方にも、何やら心の弾みがうかがえる。

若者のキャラクターをあらわすのに「鷹の眼をもつ」と猛禽類を引きあいに出していることから、語り手側が視線に射すくめられかねないようにも見えるし、若者のほうが攻めキャラと一見思えてしまうのだが、その辺は意外と含みがありそうだ。

普通ならば当の若者は、自分が登四郎的視線にまつわられていることなど感知せず、湯船につかっているだけになるはずなのだが、「鷹の眼をもつ」となると、そこまで何の注意力もなく、無防備にかまえてばかりいるとも思えない。目つきの強烈さを思えば、正面から睨み合っているとは考えにくいが、一瞥を交した瞬間には、句の語り手の関心、欲望のありどころくらいは直ちに見抜いていてもおかしくはない。はたして語り手側の関心は、若者に見抜かれているのか、いないのか。

仮に見抜いていたとしても「鷹」たる若者の側からすれば、相手がもし不埒なふるまいに及べば、瞬時に簡単に退けることができるろうから、気付いた上で黙っており、相手の視線が自分の裸身にまつわるのを、余裕をもって放置しているということもあり得る。

そしてその場合、若者はさしあたり、相手の欲望を受け入れ、受け流していることとなるので、その包容性を考えれば、猛禽類的キャラだからといって、必ずしも「攻め」とばかりは決めつけがたくなってくるのだ。

といった、どちらが何を欲望しているのか、いないのか、その探り合いと妄想が生むサスペンスが色気に転じつつも、実際にはともに大人しく湯船につかっているだけという句で、何も起きていない二人から、さまざまな妄想を引き出せるあたりから、文学理論用語でいう「内在する作者」ならぬ「内在する腐女子」といった言葉まで思いついてしまったが、これは閑話休題とするほかはない。


もはや脱ぐものなき竹の照し合ふ  能村登四郎『寒九』

単なる植物同士の話である。

夏の季語「竹の皮脱ぐ」の時期の竹を描いているだけである。

作者として能村登四郎の名が付されているとはいえ、本来は同性愛に引き寄せた鑑賞などせずとも済む句ではあるはずである。

しかしこの色気は何なのか。

まず「もはや脱ぐものなき」なる言い方である。「全裸だ」という言い方をしても指示内容はさして変わらないはずだが、こちらのほうが気合が漲った、堂々たる脱ぎ捨て方による裸身というふうに見える。「もはや」で、一枚一枚順に脱いでいき、ついに身にまとうものが何もなくなったという不可逆の経過が示されている点も見逃せない。

そして最後に、垂直に力強く伸び、「照し合ふ」ほどに張りつめた色艶を持つ竹同士の関係が詠まれることになる。どちらも皮を脱いだばかりの、みずみずしく繊細な皮膚感覚を持ち、しかし触れ合うところまでは接近していない。それがなおのこと竹たちの若さと充実ぶりを強調するのである。

強いて暗喩的な、鈍重な読み方(ラカンが登場する以前の通俗的なフロイト解釈のような)をしてしまえば、棒状に伸びた竹は男性器以外の何ものでもなくなってしまうのだが(皮まで脱いでいる)、そうした、似ているもの同士を暗喩的に密着させてしまう読み方は、俳句においては退けておいたほうがよいという読解上の規範をも、竹たちは触れあわないまま「照し合ふ」ことで体現しているかのようである。

この句は遠回しに書かれたバレ句などではいささかもない。だからこそ堂々たる健やかな裸身の誇示に色気が宿るのだ。


麦秋の野にもつこりと男神山  能村登四郎『菊塵』

男神山と呼ばれる山は佐渡島にもあるらしく、全国に何ヶ所か同じ呼び名の山があるのかもしれないのだが、これは秋田県の山らしい。昭和六十二年の句だが、年譜を見るとこの年、登四郎は俳句大会に招かれて、秋田県横手市に赴いている。そのときにでも男神山を目にしたのではないか。地図を検索してみると横手市からは車で二時間ほどの距離にあるようだ。

というような話が、ほとんどどうでもよくなってしまう詠みぶりの句である。

男神山の近くには当然のごとく女神山もあって、二つを一緒にした二神山という呼び方もあるようなのだが、登四郎は女神山のほうはあっさり句から削ってしまって、男神山のほうのみをクローズアップする。

たしかに「もつこりと女神山」では互いに打ち消しあってしまうので「男神山」のほうが、麦秋の野に不意に立ちあがった山影がすんなりとイメージできはするのだが、問題はもはやそこでもなくて、よりにもよって「男」に付けられた形容が「もつこりと」であることである。

暗喩的とか何とか考える間も与えないようなダイレクトな男性性指示としか見えなくなってしまうのだが、景色としてはあくまで鄙びた、明るいものである。それがまた素朴で壮健な、自分の魅力に無自覚な男性というキャラクター性を立ちあがらせてしまう。

無情のはずの木石や山河までをも有情として描くこと。それは下手をすると陳腐な擬人法的共感や、理念の先走った公式的なアニミズムに陥りかねないのだが、登四郎の写生の仕方はそうではなく、竹や山の形姿を身体感覚によって取り込み、なぞるといった回路で行われているらしい。


白地着て帯締め男濃くなれり  能村登四郎『菊塵』

白地着て白き褌も思ひ立つ

「白絣」「白地」と白い和服への偏愛が続く。二句並べてみると、「帯」「褌」という締める要素も入っている。白の清潔感やノイズのなさと、帯などによる引き締めが「男」を意識させるポイントであるらしい。

実際に普段着ではあったのだろうから、その意味では服装倒錯でもコスプレでも何でもないのだが、この皮膚感覚、身体感覚が「恋めく」老いや、皮を脱いだ竹や、男神山の「もっこり」に通じて拡張されていくわけで、着替えることが持つ官能や変身の要素は登四郎の句にとって、思いのほか重要なのものであったのかもしれない。


去勢後の司馬遷のゐる桃林  能村登四郎『菊塵』

武田泰淳の『司馬遷』では、刑罰として去勢された「生き恥」から『史記』の非人間的スケールの歴史認識に至るダイナミズムが語られていたが、登四郎の関心はそこにはない。性器を奪われた、言い換えれば、性器から自由になった賢才と「桃林」との取り合わせである。

固定された性別からの解放が、一種のユートピアとして捉えられているのではないか。


*

関悦史 明易


総受けの細腰のごと春兆す

少年未明微光の四肢も春愁

兄弟喧嘩馬乗りに春の内股よ

金髪の奴と目が合ふ入学式

恋には非ず春宵上司に肩を揉まれ

友を泊めひとり覚めゐて明易き

美味さうと囃され日焼男子なる

水飯やみめよき貧乏神侍り

石油王こそ攫へ汗きらめく青年

迢空忌布団にはかに重くなりぬ

2018-12-09

BLな俳句 第20回 関悦史

BLな俳句 第20回

関 悦史
『ふらんす堂通信』第155号より転載

牡丹焚く男姿も絵になりて  能村登四郎『天上華』

季語「牡丹焚く」の句で男の姿を配したものがどれだけあるのかはわからないのだが、少なくともそれが主流とはなっていないはずで、この素材と置き方だけで、作者を知らなくとも登四郎ではないかと見当がつく。

「男姿」は辞書では「男の身なり・振る舞い」をまず指すが、同時に「男装」をも意味している。ただの「男」ではなく「姿」まで付けたことで、下五「絵になりて」の審美的な視線までスムーズに導き出されることになるのだが、逆に「姿」や「絵」などビジュアルに特化することで、かえって人物の内面的厚みに感応している気配もある。今たまたまそういう姿、そういうシーンになっているという流動性が句に入ってくることにより、「牡丹焚く」との間にまで、人と植物の境を越えて通い合うものがあらわれてくるのである。

とはいうものの、供養の意をこめて焚かれる枯れた牡丹の木をことさら擬人化して、男と牡丹の精の死別といった物語をでっちあげる必要はない。

一句はさながら、登四郎当人が萌えるBL本の表紙絵といった趣きを呈しており、いかにも絵になりそうな事物をぬけぬけと「絵になる」といって句にしてしまう手際に見るべきものはあるものの、すべては登四郎の審美化の欲望から成り立っていて、「男姿」も焚かれる「牡丹」ももともと同列の構成要素に過ぎないのだが、バランスからいえば「牡丹焚く」は「男姿」を際立たせるための背景に近いからである。牡丹と男に通い合うものがあるとしても、それはどちらも「絵」のうちであるという、登四郎的視線のなかに取り込まれ、均されていることによる。

むしろこの句で面白いのは「絵になる」という枠を提示してしまったことで、画中のキャラクターと化した「男姿」と、それに魅入られて萌える作者という関係までが入ってしまっているところなのではないか。


その太き氷柱の中の美童かな  能村登四郎『天上華』

氷柱の透明さに見入るうちに、その内部の複雑な光の屈曲にまで目が分け入り、ありえざるものを見る。どちらかといえば、現に目の前にある氷柱というよりは、記憶のなかの氷柱によるものなのかもしれない。目の前にある現物はときにその視覚的な情報量の多さからかえって句への集約を妨げるからである。

氷柱のなかに封じ込められた美しいイメージの句としては鷹羽狩行に〈みちのくの星入り氷柱われに呉れよ〉があるが、こちらは性的な含意はない形で、東北の風土と、澄んだ空気を通して見える星、そして「呉れよ」と呼びかけられる、おそらくは子供が呼び出される。この子供は、氷柱のなかに封じ込められたみちのくの星というファンタジー的なイメージを語り手がひそかに共有できる相手であり、いわば天界を通じた共犯関係を結んでいる。

登四郎の句も、氷柱のなかの美童という、あきらかにこの世のものではないイメージを引き出してはいるものの、それを共有すべき相手は、さしあたり句のなかには一人もいない。すべては語り手と氷柱の間でのみ起こった、一種の理想化である。自分と、自分が見る美童とのみがあればよい。

その美童の位置なのだが、「太き氷柱」そのものが美童のようだと喩えられているわけではなく、氷柱の外に美童が浮遊しているわけでもない。美童は氷柱のなかにいる。凍りつき、眠っているのかもしれない。あるいは、氷柱のなかの世界でのみ、美童は自在に動けるのかもしれない。

「太き氷柱」が形状的には男根を想起させてもおかしくはないのだが、しかしこの「太き氷柱」は、むしろ霊威に満ちた大自然の運行そのものとして現前している。美童はその大きな力とともにある。その気になれば人などただちに凍死させることもできそうだ。「太き氷柱」は美童に従えられる巨大な龍のようなものといえようか。

そう考えるとこの美童は、氷のなかに閉じ込められた可憐な存在であると同時に、大きな力を揮いうる、しかも人界の規範に従わない存在ともいえる。

語り手との関係を「受け」、「攻め」で分類するならば、どちらに転んでもおかしくはない。


まつすぐに眼見てもの言ふ春童  能村登四郎『天上華』

「春童」は季語ではなさそうで、辞書にもなく、造語らしい。そのまま春の子供ととればよさそうだし、妖精や魑魅魍魎の類でもなく、ふつうの人の子に見える。

「まつすぐに眼見てもの言ふ」は、一方的に窃視的な視線をまといつかせることも少なくない登四郎的主体が、相手からも見られている点でやや珍しい。一見、文字通り邪気のない句である。

しかしまっすぐに眼を見ることで、不意打ち的に語り手を関係のなかに巻き込んでしまうこの子供に「春童」という造語が用いられているところは、ただの子供のように見えて、じつは春の到来を擬人化的に担いつつ顕現している子供のようでもある。見られることで安定しきった地盤が揺るがされていることを思えば、語り手の側は子供の形をとった春そのものに取り巻かれていることに、今気付いたという風情の句ともいえる。ただの子供と甘く見ていると、あっさり春のただなかへと引き倒されかねないのである。

この「春童」も、あえてBL用語で分類してしまえば、「誘い受け」か「攻め」のいずれかなのではないか。


賀の客の若きあぐらはよかりけり  能村登四郎『天上華』

年始のあいさつに来た客がかしこまって正座などせず、あぐらを組む。それ自体はとりたてて珍しくもない動作、光景であるはずなのだが、そこに登四郎の眼が介在し、「よい」とされると途端に妙な色気があらわれる。

問題は「若き」と「あぐら」の組み合わせにある。季語の「賀客」も年始のめでたい華やぎを演出しているには違いないが、これはどちらかといえば舞台装置にとどまる。また、あぐらを組んでいることも、語り手との気の置けない仲をうかがわせるが、それだけのことでしかない。

ところがこれが「若き」の一語と組み合わせられたとき、「あぐら」は不意に対人間の距離やその場の雰囲気といったものから外れて、こちらに向かって広げられた青年のしなやかな下半身という肉感を際立たせることになってしまうのだ。単なる親しい年少者への慈しみと片付けるには「あぐら」の「よさ」が目立ちすぎている。

相手はおそらくそのようなことは意識しないまま、年賀と若さを響きあわせている。そこが句としてのめでたさにもなっている。

句集『天上華』にはほかにも〈板前は短髪がよし叩き鰺〉〈独活食べてゐるなかなかの美髯かな〉といった、「よし」という判断を前面に出した句があるが、この二句は「板前」「短髪」「美髯」と、BLというよりはむしろ男性同性愛者向けの漫画・小説に近い美意識でできている。この「よし」「よき」という言葉は俳句のなかで使うと、作者が大自然や造化の神に対してお墨付きを与えているようで、妙に尊大、鈍感に見えることもあるのだが、登四郎の場合は男性にひそかに目を細めていることが多いせいか、そうしたきらいはあまりないようだ。


うす墨にさくらが見えて男かな  能村登四郎『天上華』

ウィキペディアによると「淡(うす)墨(ずみ)桜(ざくら)」と呼ばれる、樹齢千五百年以上のエドヒガンザクラの古木が岐阜県本巣市の淡墨公園にあり、散りぎわに淡い墨色になるという。つまり「淡墨桜」となると特定の一本の木の固有名になるのだ。

この句の場合、「うす墨にさくらが見えて」と分散させた言い方になっているので、場所まで特定する必要はさほどなさそうだが、この桜がイメージの元となっているのだろう。

知らずに読んでも「うす墨」に無彩色化してしまった桜は、やや異様な世界への突然の切り替わりを思わせ、そこから唐突にあらわれる「男」との出会いも充分世の常のものではないと見えるのだが、散りぎわに変色するという淡墨桜の伝承を踏まえると、黄泉に接した辺りでの出来事めいてくる。

その意味では、BLというよりも怪奇幻想小説に近い内容の句なのかもしれないのだが、「さくら」がそれを耽美方向へ引き戻す。ほかにひと気のありそうにないこの句の世界において、桜のイメージをまつわらせた「男」との出会いは、語り手当人の知らぬ間に定められていた運命的な密会のようにも見えるのだ。

一方、この「男」、他者ではなくて、語り手自身のことと取れないこともない。

その場合大意は、うす墨にさくらが見えたとき、私は不意に自分が男性であることを再認識した、ということになる。

無彩色の世界への衰えがかえって自身の性を意識させるということは普通にありうる話だが、句を読み下したとき自然に出る解釈は男=他者とするものだろう。しかしその他者と見えた男がじつは自身の分身であったり、過去や未来の自分であったりということもありうる。この「男」は自身が身元不明であるだけではなく、語り手のアイデンティティをもひそかに溶解させてしまうのだ。

一句が単なる写生として読みうる体勢を崩してはいないところが、かえってさまざまな連想を誘い、世界を重層化する。


*

関悦史 夜桜


初詣混めば手つなぐ少年たち

カラオケの友の手見つめゐて春夜

淫夢は校舎に裸(ら)少年百春の月

千の青年めく夜桜へ歩むなり

桜の夜S字結腸まで入る

メス堕ちの青年の身ぞ春の雷

間欠泉を受けと思へば春の汗

父を恋ふ息子の如く薔薇は雨

地球×月が月蝕 月果てたり

正座解きし少年悶えゐる襖

2018-12-02

BLな俳句 第19回 関悦史

BLな俳句 第19回

関 悦史
『ふらんす堂通信』第154号より転載

黄泉も又暖かならむ君ありて  能村登四郎『有為の山』

「相馬遷子逝く」の前書きを持つ四句のうちの一句目で、この「君」とは相馬遷子のこと。

相馬遷子は長野の医師で俳人。登四郎と同じく水原秋櫻子に師事した「馬酔木」同人で、石田波郷の「鶴」同人でもあった。〈冬麗の微塵となりて去らんとす〉が辞世の句として知られる。

この頃、登四郎自身も胃潰瘍で手術、入院しており、句集のなかではこの四句後に退院したらしい句〈人の世に戻りての息また白し〉が出てくる。遷子が死んだのが一九七六年一月十九日。登四郎が退院したのが二月なので、病床から詠まれた追悼句であったようだ。

相当に気がめいる状況での訃報だったことになるが、句の言葉は美しい。言葉にしていく際に、認識を変えていくことによってしか得られない豊かさを実現することが詩的言語の役割なので、この句もその一例であるといえる。

寒いさかりであるはずの一月に「冬麗の微塵」となって消えた遷子に寄り添うに、「黄泉も又暖かならむ」と暖かさをもってし、その理由が「君」がいるからだという。ただ故人を慰めているというよりは、もっと踏み込んで、登四郎自身も遷子のいる黄泉にいずれ行くであろうことを思い、そこでの清らかな再会を期待しているようである。

『蒼穹のファフナー』というアニメが十年以上前にあり、そこでは少年たちの肉体が結晶化し、砕け散って死ぬという特異な死に方のビジョンが示されていた。

遷子の「冬麗の微塵」や、それを介しての登四郎との想像上の再会のビジョンに少し通じるところがあるが、アニメ作品での破砕死が、とりかえしのつかない痛切な出来事の表象であったのに比べ、遷子の「冬麗の微塵」は浄化の色が濃い。その浄化され、消滅した遷子に、ふたたび人の身体のイメージを取り戻させるのが登四郎の句で、光そのものになりはてたような遷子に「君」として認知できるまとまりを与え、暖かい黄泉へと誘いこむ。かなり親密な、人臭い幸福さのイメージにまで引き戻されているあたり、残された登四郎側の、まだ整理がつききるには程遠い心情というふうにも取れる。

なお、この連作四句の二句目には〈死顔の紅顔信ず冬つばき〉という句が並ぶ。

「紅顔」といえばまず「美少年」に結びつく形容だが、実年齢がいくつであれ、登四郎にとって遷子は「紅顔」であった、というより「冬つばき」のような「紅顔」でなければならない存在だったのだろう。「信ず」の一語が、登四郎のそうした思いを担っている。


男壮りのすぎし気配の雲の峯  能村登四郎『冬の音楽』

「男壮りのすぎし」は自分のこととも、「雲の峯」のこととも取れる。

伝記的にはこの句が詠まれた一九七九年には登四郎は六八歳を迎えていることもあり、まずは前者と取りたくなる。盛んな雲の峯を見上げながら、自分にもかつてあのような時期があったと、やや淋しく懐かしんでいる自愛の風情となる。ただし、そう取った場合でも、ありきたりの回想や郷愁の句とはやや異なる。自分の体験ではなく、身体に執しているからであり、またその身体への顧慮も具体的な体の部分などではなくて、精気において捉えられているからである。

この場合、男壮りのすぎたらしい語り手の身体を、精気みなぎる雲の峯が圧倒するような力関係となる。BL用語でいえば「下剋上」風ということにもなる。

強いて性愛的なものに結びつけなくともよい、自分の身の衰えと自然の運行を取り合わせて対照させただけの句ではないかと取ることももちろんできるのだが、例えば芭蕉の〈この秋は何で年寄る雲に鳥〉が直截に「年寄る」という認識を詠んでいるのと見比べるとき、加齢からすらもまず「男壮り」なる語を引き出し、しかもそれがすぎたことすらも断定はせず「気配」なる語と結びつけてしまうあたり、登四郎句ならではの色気へと大きく重心が移っていることは隠しようもない事実なのだ。

衰えきっているわけではない。いまだ、さかりをすぎた「気配」のうちに留まる身体は「雲の峯」に迫られることで、まだふんだんに残る色香を引き出されもするのである。この「雲の峯」は芭蕉句の「雲に鳥」のような、老いをつきつける冷厳な自然の運行といったことには主眼がない。「男壮りのすぎ」た身体との間に照り、艶を組織するために現れているのである。まさに男壮りであり、羨望をそそる「雲の峯」に迫られるという力関係を形成することになるのであれば、「男壮りのすぎ」ることも決して悪くはない。そうした理路がひそんでいることが、この句の自愛の雰囲気につながるのである。

では逆に「男壮りのすぎし気配」が自分ではなく、「雲の峯」にかかる形容であるとしたらどうか。

この場合も「男壮り」は決して「すぎ」きったわけではない。むしろ、わずかな衰えに着目されることで、まだまださかんであるという面のほうが強調されることになる。何といっても季語「雲の峯」なのだ。

壮年たるべき「雲の峯」に兆したわずかな衰えは、圧倒されるような一方的な関係から、親しく手をさしのべられるような関係へと力の配分を変えてしまう。この場合も、衰えた「気配」が語り手と雲の峯を、より親密な関係へと引き込んでしまうのだ。

そう取ると隠微な関係性ばかりを探った句と見えてしまいかねないが、衰えているのが語り手と取るにしても「雲の峯」と取るにしても、全ては夏のまばゆいばかりの空気のなかでのことある。


高階に青年と見る涼夜景  能村登四郎『冬の音楽』

「高階」は念のための辞書を引くと、姓の高階氏と、あとは地名くらいしか出てこないのだが、俳句では単なる高層階の意味で使われることが多いようだ。

その意味であれば句意は明瞭で、高層階から涼しい夜に青年と夜景を見ているという、それだけのこととなる。

それだけのこととはいうものの、やはり何か違和感のようなものは残る。登場人物としては、語り手と「青年」の二人だけしかいないらしい。女性と見ているならばともかく、若い男性と二人きりで夜景を眺めるという事態がそうあるものなのか。

いや、そういう事態は、べつにあってもいい。

しかしそれが「友人」でも「部下」でもなく、そうした社会的関係から引きはがされたただの「青年」として現れたとき、わずかながら登四郎句特有の色気がさしこんでくるのである。「青年」とはまず何よりも外見上、実年齢上の若さを示す語であり、そこからは、語り手といかなる関係を持っているとも知ることのできない、若々しい身体のみが立ち現れるのだ。二人きりで夜景を見るというドラマじみた状況が、相手を「青年」にしてしまったというべきか。

その関係の不明瞭さはそれとして放置したまま、二人は地上を離れた高みに涼しく夜景を愛でている。

人の身のままでありながら、半ば天界に入っているような風情でもある。

ことによったらこの青年と語り手の間には何の関係もなく、たまたまマンションのベランダに夜景を見に出てみたら、別室からも知らない若い男が出てきていて、青年のほうは全く気付いてすらいないのを、妄想的に句のなかに巻き込んでしまったといった程度のことなのかもしれないのだが。


曙色となり若者の初湯出づ  能村登四郎『冬の音楽』

これまでに取り上げた登四郎句のなかに〈夕焼けや濡れ緊りたる海士の褌〉とか、〈シヤワー浴ぶ若き火照りの身をもがき〉とか、〈月ありて若さを洗ふ冬の僧〉というものがあり、裸詣りの一連もあった。

海であれ、シャワーであれ、行水であれ、男の体が濡れたら詠まずにはいられなくなるようである。

さてここでは「初湯」である。

今まで水は何度も出てきたが、意外なことに、温かい風呂というのは初めてなのではないか。

「褌」とか「裸」とかいったフェティッシュで断片的な肉体の捉え方ではなく、「若者」というキャラクター付けで、一人の人間まるごとのまま描かれるケースも、水と絡めた句においては、あまり見られなかったのではないか。

温まって初湯からその身を出した「若者」は、「赤く」でも「ピンク」でもなく、「曙色」となる。

これは温まって赤らんだ皮膚の形容ではなく、大浴場における朝湯で、浴槽から出るなり、若者の身が、射し入る朝日に包まれ、染め上げられたということなのかもしれない。「曙色」がただの比喩的な言い方であった場合、「初湯」と少々近すぎ、どちらもある時間の枠の初めをあらわす言葉であることから、「若者」の若々しさとまでハレーションを起こしてしまって、一句全体の像がややぼやけ気味になる。

そう取ったとしても、この句が若々しく、めでたいイメージが並べられることから成っているという事情にはさほど変わりがない。湯のなかにたゆたって、その屈折率ゆえにぼやけていた「若者」が、不意に立ちあがり、足を踏みしめた、はっきりした肉体として、その全てを視点人物の前にさらした、液体から固体に相変化したかのような瞬間は、初日そのもののように輝かしい。

*

関悦史 インスタグラム


夕立に取り込むお前のトランクスも

インスタグラムは麦秋か美童の顔顔顔

美少年の自撮りに涼気 多分「攻め」

おのが美貌知りぬけるガキ船遊び

新涼の青年よ手も性感帯

 定番ネタ「天井と床」にて
冷ゆるかな床に念はれ血天井

ピンクTシャツ男子満つるや文化祭

おとうとの脚うつくしき月夜かな

 ある男子高生、居眠りののち教室を見て
ふと覚めてなぜ男のみ冬の昼

牡蠣互(かたみ)に味見しスーツの男たち

2018-11-18

BLな俳句 第18回 関悦史

BLな俳句 第18回

関 悦史
『ふらんす堂通信』第153号より転載

男ゐる遠景に未だ冬去らず   能村登四郎『幻山水』

男は遠景として眺められている。登四郎句にしばしばあらわれる、一方的に視るだけの関係である。登四郎句をある程度読みつけてしまうと、この視線のあり方が出てきただけで、ゾクリとする。

さらに「未だ冬去らず」という。冬の寒さはまだ遠景を満たしていて、男は全方位から冬に囲い込まれているのだ。自身に向けられている視線に気付くこともない男は、寒気のなかにその身をおいているというよりは、寒気に圧迫され、固くやせ細るようでありながら、しかしむしろ逆に、荒野のなかの一点の華ででもあるかのように、まわりの風景を身にまとう。無論、当人のあずかり知るところではない。登四郎的な視線のなかでのみ成り立つ華である。

硬質で厳しい絵柄の句でありながら、一方、冬と登四郎の視線が触手のように男めがけて充満しているような気配もある。

「未だ冬去らず」には、男を早く春のあたたかさのなかに置いてやりたいという気づかいと、逆に、このまま冬のなかに置いてじっくり鑑賞したいという願望がいりまじっている気がするが、この句では、手を触れず、気付かれもせずにじっくり堪能したいという腐女子的な欲望が勝っているようだ。「未だ冬去らず」の冬が、分厚いガラスのように男と視線の主を隔てているからである。いや、視姦を堪能したいというよりは、触れることができないという事態へのマゾヒスティックな自足が冬景色へと放散され、清らかに昇華されていると取るべきか。


燕来てより艶めける橋の反り   能村登四郎『幻山水』

男なり少年なり同性愛的な何らかの要素なりが全く詠まれていない句を、むりやりいわゆる「BL読み」してしまうということは基本的にやらないことにしているのだが、それでもこの句には少々立ち止まってしまった。

べつに「燕」を年下の男性愛人の隠語として取ったわけではない(俳句の読み方としてその手の寓意はもっともつまらないものだろう)。燕は燕である。

しかし「橋の反り」が「艶め」いてしまったのは、その燕の到来によってであると、句のなかで両者の関係が明示されてしまっているのだ。

あえてこれを禁欲的に、ただの修辞と取れば、燕との照応によって「橋の反り」が異化され、不意に新鮮に見えたというだけのことに過ぎなくなるのだが、それで済ますには「艶めける」に色気がありすぎる。だいたい「反り」が怪しい。なぜこの橋は直線ではないのだ。ふしだらな。

この句の燕と反り橋の照応は、必ずしもアニミズムや擬人法、BL的な意味での擬人化といった回路を必要としていない。燕と反り橋それぞれがもたらす視覚的心理効果、形態と質感同士のみから成り立つ無機的なエロティシズムに、この句は足を踏み入れつつある。無論、一方が燕という紛れもない温血動物である以上、無機物性に特化した句ではない。「橋の反り」に潜んでいた艶めきは燕の一閃を得て、不意に顕在化し、生きたものとなったのだ。この無機物が不意にあらわにしてしまった艶めきは、擬人化的なものというよりは、身体を延長したところから得られる感覚的なものである。燕との出会いと、登四郎の視線によって、「橋の反り」はあたかも男性器のような充溢を不意に見せる。ただしそれは「橋の反り」が男根の隠喩だという意味ではない。ここには寓意性も隠喩性もない。そうした鈍重さを身軽にすりぬけることによって初めて、「橋の反り」は句中において艶めきを得ることができるのである。


月ありて若さを洗ふ冬の僧   能村登四郎『幻山水』

清冽であでやかな句で、なおかつ関心のありどころが極めて直接的に詠まれている。この辺になるともう鑑賞文の類も要らず、何も言わずに黙って句だけ見て、溜息をついていればそれでいいのではないかといった気になってくる。

燕と反り橋の句のように、視線や認識で意想外なエロスを引き出したという句では、一見ない。僧が冬の月のもと、その若い身を洗っている、その素材だけで充分に美しいという句に見えてしまうのだが、むしろこうした句にこそ措辞の精妙さが必要なのだ。

精妙さとはまず中七の「若さを洗ふ」である。普通に叙述すれば「若き身を洗ふ」としかならないところで、俳句に特有の微妙に飛躍した捉え方でありながら、それがしなやかで悪目立ちしていない。全体の語順、言葉の配列も非常に注意深くなされている。季語分類的にはこの句は「冬の月」の句となるはずなのだ。その「冬」と「月」を割って用いている。敢えて同じ題材による改悪例を出せば、この句は「冬の月僧若き身を洗ひけり」といった、ごくつまらない句になってしまう可能性もあったのである。この場合、「冬の月」や「若き身」は粗大な既製品であり、題材となった光景がどうであれ、句はほとんどただ事と化してしまう。

この句はそうではなく、「月ありて」と空や空間全体にゆきわたるものとして「月」を「あ」らしめ、そのなかに「若さを洗ふ」という、使いようによっては臭みを帯びかねないひねりによって対象を絞りこみ、最後に「冬の僧」と「僧」に帰着させる。ことさらに身とか裸とか言わなくともよいというよりも、そうした常識的な即物性をつきぬけたところに句の言葉が届いているのだ。「冬の僧」とは、単に「冬の月」を分解した結果「冬」がこちらについてしまったというものではない。「冬」という属性が総身に浸透した結果、ただの人ではない光や澄明さを帯びた、やや妖しげな存在なのである。

洗っているにもかかわらず、「水」の一語が句中に登場しないことにも注意すべきだろう。

「月ありて若さを洗ふ」という語順には、月でもって身を洗うというイメージが忍びこんでいるし、「身」ではなく「若さ」が洗われているとなれば、そこに現れるのは、月に透けるような非実体感と聖性を持ちつつも、確かに若々しい肌を持った、エロスの体現者のような「僧」なのである。


美男にて白丁雨と花まみれ   能村登四郎『有為の山』

「やすらひ傘 京都今宮神社にて安良居祭を見る」と前書きのある、九句ほどの連作のうちの一句。

安良居祭とはいかなるものかを『大辞林』から引くと以下のごとし。
《京都市北区の今宮神社で4月第2日曜日(もと陰暦3月10日)に行われる、疫病の神を鎮める祭礼。桜や椿で飾った風流傘を中心に、羯(かっ)鼓(こ)を持った少年と鬼が「やすらい花や」の囃子(はやし)詞(ことば)に合わせて踊りながら町を練る》
白丁(はくちょう)は白布の狩衣を着た仕丁で、傘持、沓持、馬丁などを務める。

祭のなかでは白丁は脇役であるはずなのだが、登四郎はこれにも目をとめる。登四郎が見た日は雨が降っていたらしい。白丁は雨と落花にまみれている。そして、この白丁は「美男」である。目をとめないわけにはいくまい。

格助詞「にて」は場所、時、手段などいろいろなものを表すが、この句の場合は理由・原因である。美男だから雨と花にまみれているというのだ。むかし『ザ・ベスト』という雑誌が表紙で女性モデルに毎号、水をぶっかけていたが、同じ水をかけるにしても、あの暴力性はなく、こちらはごく静かな濡れ方。無理に水をかけたりしたら登四郎句の性質が変わってしまう。

この句には暴力性はないとはいえ、他の参加者も同じく「雨と花まみれ」になっているはずなのに、ことさら「美男」だけに目が行ってしまう選別性はある。そうした俗気をも雨や花と同じく「白」が吸い取り、鎮めている。


菊慈童さめし瞼も菊の中   能村登四郎『有為の山』

「菊慈童」は中国の伝説上の存在で、不老不死の童子。能の演目にもなっているが、観世流以外では枕慈童と呼ばれるらしい。ついでにいえば円地文子に『菊慈童』という長篇小説があり、老いと芸道を絡めた傑作だった。

この菊慈童、七百年も生きているにもかかわらず、見た目は少年のままなのである。

能の解説や事典などを検索すると、元は周の穆王に使えていたが、誤って王の枕を跨いでしまった咎により、酈縣山というところに流される。穆王が慈童を哀れんで普門品にある二句の偈を与え、慈童がこれを菊の葉に書きつけて毎朝唱えていたところ、そこから滴った露が不老長寿の霊薬となった。魏の文帝がその術を受け(周から三国時代になって慈童はまだ生きているのだ)、宴を催したと、大筋そういった話になっている。

一応、不老長寿の術を授かるめでたい話となっているのだが、それを授ける慈童の方は流刑先の深山で人間にはふつう味わうこともできない長年月にわたる孤独を閲している。単なる美少年の類ではなく、元は人でありながら、その限界を超えて長生することになってしまった神仙なのである。

句はそうした慈童を描くにあたり、覚醒と眠りが分かたれる目覚めの瞬間に、「瞼も菊の中」と身体性と植物特有の永生性を添わせることでもって、人の意識と神仙の法外な時間感覚を共存させている。菊の香気に埋もれた「瞼」の柔らかい生々しさが素晴らしい。

*

関悦史 記憶


押入や兄弟籠り春の汗

イソギンチャクとクマノミ 俺を食はぬお前

絵筆あり初夏少年ら肌撫ぜあふ

玩具種々青年に挿(い)り七変化

とめどなくあふれまつはりところてん
 ※ところてん=性器に触れない前立腺への刺激のみによる射精

六月の相棒不在なる一日

寝る子らの膝すべりあひ光琳忌

美少年に水かけて虹生みにけり

炎帝の性具のやうに飛行船

二少年の声記憶せり夏館

2018-11-11

BLな俳句 第17回 関悦史

BLな俳句 第17回

関 悦史
『ふらんす堂通信』第152号より転載

ここ三回ほど能村登四郎ばかりが続いているのだが、これで終わりという気配が全然ない。この先もまだまだ果てしなく続くのだが、今回はその登四郎のBL句のなかでも最大の連作「西大寺会陽」を取り上げる。いわゆる裸まつりである。

西大寺(観音院)は岡山市の寺。そこのホームページに詳細が載っていて、それによるとまつりの起源は奈良時代にさかのぼる。実(じっ)忠(ちゅう)上人が創始した修正会(新年の大祈禱)が、永正7年(一五一〇年)忠阿(ちゅうあ)上人の時、参詣の信者に守護札を出したところ奪い合いにあったのが始まりなのだそうだ。もとは揉みあいのなかで体の自由を得るために服を脱いだだけのことが、のちに水垢離と結びつき、裸まつりとなったらしい。

「西大寺会陽」は十五句ほどの連作であり、登四郎がどこに興奮していたかが経時的にわかる実況中継的なつくりとなっている。褌、壮年を多く含む裸と、BL的には少々マイナーな萌えポイントが揃うが、BL食らわば褌までである。

裸詣りしばらくを沿ふ夜の河   『幻山水』

まつりは昼のうちから行われる。現在の日程では午後に子供たちの裸まつりがあり、宵から宝木の争奪戦に参加できない女性たちが太鼓を打ち鳴らす。だが目当ての裸があらわれる宝木投下は夜十時からである。「夜の河」の水気、しずけさ、量感が、これから盛り上がる裸詣りの色気や充溢への期待感を担う。

裸詣りひとり走りてみづみづし   『幻山水』

始まりは、秩序の破れとして不意に来る。目はおのずと走りだした一人の肉体に吸いつけられる。「みづみづし」さはひとつの身体だけではなく、直ちにまつり全体に波及する。

裸詣り食ひ込む褌(ふどし)あなましろ   『幻山水』

このあたりから登四郎の食い入るようなまなざしが浮上しはじめる。褌に対する「食ひ込む」と「あなましろ」である。「食ひ込む」は褌の形状、線形性を舐めるように目でたどり、絞められる皮膚感覚までも追体験しているようだ。下五の「あな」も趣き深い。「真白なる」などとあっさり流してしまってはいけないのである。古語の感動詞「あな」を用いた全てひらがな(ということは音数と一対一対応)の「あなましろ」は、まつわるまなざしのしつこさと同調して、それ自体皮膚に食い入ろうとしている。

裸詣り波立てて待つ禊(みそぎ)(いけ)   『幻山水』

一読して景のわかる句だが、よく見るとやや不思議な作りである。「波立てて」とあるから、すでに禊の一団が足を踏み入れてはいるらしいのだが、なお「待つ」と重ねて、この後本隊が来ることを予感させる時間的に錯綜気味な表現もさることながら、「待つ」主体が「禊池」自体になってしまっているように読めて、さらに波を立てられているのではなく、自主的に立てていると見える辺りがその原因である。登四郎その人が、まつりに見入っている間に、踏み荒らされ、波立つ池の歓喜に感情移入してしまっているのだ。

裸詣り濡れ身走れば湯気はしる   『幻山水』

次第にまつりは高潮してきた。禊を済ませて濡れた身体は、寒中に湯気を立てて走る。裸詣りは二月の行事である。参加者にとっては相当に厳しい冷たさとなるはずだが、その温度差から生じる湯気は、登四郎から見れば、男たちの裸を荘厳する後光のようなものだったのではないか。「走れば~はしる」のリフレインが「濡れ身」と「湯気」の不即不離の力強さに呼応している。

裸詣り陸続裸海嘯(つなみ)来る   『幻山水』

先ほどの「濡れ身」にもその気配は見られたが、まつりの盛り上がりは作者にもうつり、二つの語を圧着した造語を呼び寄せる。「裸海嘯」である。それも「陸続と」「来る」裸海嘯。逆からいえば、作者の感興はこうした表現の仕方からこそうかがい知ることができる。こうした句材は往々にして、言葉の上で力んでいるだけの句になってしまいがちなものだが、この句は「来る」の一語で登四郎が裸海嘯に身をあけわたし、ブランクをなしていることで、かえって裸の大群の充溢が伝わってくる。

裸詣り遂に濡れ身の遮二無二押し   『幻山水』

この「遮二無二押し」も一種の造語といえるだろう。本堂前の押し合いが「遂に」始まり、「濡れ身」(とはしかしこの場合、全身が性器と化したかのような言い方だ)が、視界の限りぶつかりあう。しかし「遂に」の事態を俯瞰する視線が、みずからはその肉弾戦の渦中からは遠ざけられていることを示している。これが登四郎の基本的な立ち位置である。

水かけてすぐ湯気となる裸押し   『幻山水』

句を順番に見ていくと、前の句の「裸詣り」と「遮二無二押し」がさらに圧着され、「裸押し」になる局面まで至ったとも見えるが、「裸押」はこれだけで西大寺の「会陽」の傍題として季語になっているらしい。

この句の「湯気」、熱気と興奮をあらわす単なる物理現象としてよりも、「若い人のエキスを…」などというときどき見かける妙な言い回しの「エキス」のように見つめられている気がしなくもない。

曳声と熱気にくもる裸押し   『幻山水』

「曳声」というのが辞書を引いても載っていないのだが、泉鏡花「貝の穴に河童の居る事」や三田村鳶魚「相撲の話」の用例を見ると、大魚を運んだり、相撲で相手を打ち倒したりしている場面でこの語が出てくるので、要するに力を揮う際に発する気合のようなものを指すらしい。

そうした力と裸のぶつかり合う声とも合わさり、先の句の「湯気」は視野一面を「くも」らせるまでに広がった。いや「湯気」から「熱気」への変化で汲みとるべきはそうした単なる量的拡大ではなくて、むしろ視覚にとどまっていた「湯気」が肌で感じられる触覚的な「熱気」にまで接近してきたということだろうか。

神木降下待つ裸男の梁にゐる   『幻山水』

神木降下一斉に伸びし手の林

神木目がけ裸落花す次から次

神木奪ひし刺青一瞬睥睨(へいげい)

神木争ふ裸雪崩(なだれ)の階を墜つ

裸押し高潮に翔つ簷の鳩

連作のクライマックスであり、いよいよ神木が投げられる。一句目、神木を待つ男のうち一人あるいは何人かは梁にのぼっている。これまで「裸」と群れで表現されてきた者たちが「裸男」と個別化されたのは、そうした少数者の立ち位置の変化に対応している。一瞬だが、個別の肉体への注視が復活したのである。待ち受ける肉体の緊張がそこに宿る。

二句目、ついに神木が投げられ、一斉に蠢く肉体はふたたび群として捉えられる。「一斉に伸びし手の林」とは裸の男たちを群として捉えると同時に、身体を断片化し「手」のみに縮減した見方だ。この句に限って、性的なまなざしを投げかけられるべきは、男たちの裸体よりもむしろ降ってくる「神木」のほうではないかと思える。男たちの手の林はさながら触手となって殺到するからである。神木が「総受け」の立場になっているのだ。

三句目は、ふたたび男たちの裸体のほうが関心の的となる。神木を目がけて集まる裸の男たちを「裸落花す次から次」と散る花に見立てた表現は、落ちていくゆえに花と見る回路が、情に走りすぎて概念的ということになりかねないのだが、それを「次から次」と重ねて押しきられるとここで改めて、裸の男たちの重量が即物的に感じられてくる。神木を目がけて殺到する動きのなかで、見ている側だけが酔っているような美化と、具体としての身体がめまぐるしく入れ替わっているのだ。

四句目、勝者の地位についたのは刺青の男だった。彼はその異形ならではの力感を誇示してあたりを睥睨するが、それも一瞬のことに過ぎない。投じられる神木は一本ではなく、混乱はまだ続くからだ。とはいうものの、手に入れた神木を奪われまいとして反射的に取ったのであろう、この役者が見得を切ったようなポーズは「一瞬」だからこそかえって強烈である。なお現在は西大寺ホームページによると「イレズミをした人、地下足袋、トビ足袋での参加は絶対禁止」とされており、イレズミをした人が宝木を取得しても福男にはなれず、宝木は没収されるという。

五句目、またも造語の「裸雪崩」があらわれ、群の力への魅了ぶりが示されるが、最後はやはり「階を墜つ」の目くるめく失墜となり、ことは終わっていく。六句目の、高潮をよそ目に簷を発つ鳩という視点の転換は、ことを終えた後の虚脱をすでに暗示しているようだ。

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関悦史 春野


冬帝のツンのデレ初めたる日差し

春はすぐそこだけど性別が同じ

   カフカ 二句
オドラデクに迫られ抱かる春の父

「掟の門」即男の肛門(アナル)春疾風

君の亀頭ほど敏感に石鹸玉

水と温みて眼鏡の兄に見つかりぬ

俺を急に押し倒すバカを春野へ蹴る

脚のばすと友のふぐりや春ごたつ

夜の桜非在の少年たち絡む

落城のやうに僕たち落花の中

性差無く受け攻めありて蓮の花