2007-05-27

『俳句研究』2007年6月号を読む(続) 佐山哲郎

『俳句研究』2007年6月号を読む(続) ……佐山哲郎


さて格調高い本文紙扉を捲ると18~19の見開き、俳句研究本誌と自分との関わりを書いた的野雄氏の「『三鬼館のこと』ども」。「天狼」創刊時の思い出。西東三鬼の「神戸」に関する興味深い検証。明治村に移築された「ブルム邸」が「三鬼館」ではなかったのか、という疑問を解く過程で、例の露人ワシコフの住んでいたワシコフ邸などとの位置関係が判明していく記事を要約してある。

あ、ここで突然思い出したが、前回の記事中、雑誌の表1、表4に刷ってある極小文字(第3種認可など)を「公示」と書いたが、あれは確か「法定文字」などと呼んでいたものであった。ここに謹んで訂正させていただきます。

と、いうわけで、本文に戻るが、続く20~21の見開きは深見けん二、今井杏太郎による「日々風月抄」。「ほのぼのと暗くて夏の欅の木 今井杏太郎」に、ぼーっと感心した。次は特別作品33句、黒田杏子の「梅雨の月」。「宗左近白川静除夜の鐘」。むむむ。ふと気づいたが、ここまでのさまざまな俳人の作品が何故か死者でいっぱいである。次ページの、星野石雀「くだらねえと湘子の声や明易し」その次の橋本美代子の十句も抹香臭いし、次、澁谷道「春の雲ふむ閒石の蹠みゆ」

もしかして、この号には句霊俳霊のごときものが降りてきているのではないだろうか。あわてて頁を捲ると「古茶旨し猫をあるじと決めてより 手塚美佐」「桜桃忌あきらめがたき古書のあり 波のごと夏の下着を畳み置く 友岡子郷」「道一つ違へて戻る夕桜 西嶋あさ子」などの「あっさり普通」句もあり、それらをいい気持で鑑賞しつつ少し気を取り直した。だがしかし「南無といふそれだけを言ふ雪に言ふ 見えてゐて影も我が身も朧なる 深谷雄大」「前世は徳利なるぞ桜狩 辻桃子」でまた我に返り、これはただごとではないかもしれぬ、と思った次第なのであった。

連載なのであろう「田んぼの一年⑥」「師資相承⑫」「自句の周辺③」「おとなの文学⑫」「詩歌のなかの飲食」「一句萬象」「俳句とわたし」「リレー・エッセイ」「全国カバ図鑑」「わが愛唱句」それぞれ滋味深い。文章についての一々の感想は差し控えるが、文中引用句で印象に残ったものを記せば「縮むだけちぢみて海鼠売られけり 棚山波朗」「不二を見てゐれば塵なき心哉 春秋庵幹雄」「ひよこ売りについてゆきたいあたたかい 一階に母二階ときどき緑雨かな」の二句はこしのゆみこ作品。「春眠や後付したる河馬の耳 行方克己」

ここで私はついに82頁からの「飯田龍太追悼特集」へと深々と分け入ることになるのであった。冒頭は詩人の大岡信。さすがの目配りで大正8年9年生まれの時代背景、世代的特徴。父蛇笏との関係、家族構成、郷土、最晩年15年の沈黙の謎、年表を使った略歴など過不足ない解説を入れながら、個人的な交際も独自の見解も示している。まずは達意の文章といってよい。

次は国文学者尾形仂。金子兜太の「大前田英五郎の村黄落す」の句を龍太が「俗だ」と言下に切り捨てたエピソードは面白い。歌人では三枝昂之。彼が学生の頃、福島泰樹らとの同人誌「反措定」をやっていたことなど思い出して、しみじみしながら読んだ。牧水賞を受賞した彼は龍太とは同郷である。詩人高橋睦郎は龍太の最終発表九句を深読みし、その後の沈黙の内実を推理している(この推理はピンポーンであろうと思う)。

代表句をあげて語る短文でも岡本眸、有馬朗人、大木あまり、筑紫磐井、正木ゆう子、小澤實、金子兜太、岡井隆、佐佐木幸綱、中原道夫、片山由美子、櫂未知子など、質量ともに圧巻といえる誌面が構成されている。続いて鼎談「飯田龍太を偲ぶ」、廣瀬直人、宇多喜代子、長谷川櫂が「戦後最大の俳人」について語り合う。井上康明選による「龍太二百句」も力強いし、瀧澤和治編による「龍太俳言録」も一読の価値がある。一言でいうと、編集のリキの入った、もの凄い追悼号である。

私などは蛇笏、龍太の一読者にすぎなかったが、俳句史上この類まれな父子の、作品と郷土について関心をもったことがある。此の追悼号の書き手たちが触れていないことを少しだけ語ろう。

井伏鱒二はこう書いている。「南側が山で塞がつてゐるので雪をかぶつた富士山は見えないにしても、衝立のかげに巨大なる氷柱を置いてゐるのと同じことになる。実地に見るこの村の往還は、全部が坂だから上るか下るかのいづれかである。一本の坂をのぼつて行つて、その途中から脇道に下ると細い谷川に沿つてゐる邸が山廬であつた」

山廬は蛇笏の別号。だから八代郡境川(現在は笛吹市)の彼の家がまさに山廬邸である。山廬邸へも屡々通った鱒二は蛇笏に心酔していた。蛇笏の父は清水氏。飯田には養子として入った。代々農、名字帯刀の飯田家は大きな山林田畑を持った地主である。蛇笏は早熟、家出を繰り返し、ついに東京遊学(早稲田)を実現させる。虚子より十一歳年下。若山牧水との交流もあった。「酸くあまき甲斐の村々の酒を飲み富士のふもとの山越えありく」は山廬邸への旅の途中の作品である。龍太はその四男。兄三人は戦死、病死、戦病死でうしなわれ、家を継がざるをえなかった。国学院を出て、戦死した兄の妻と結婚。兄の子がひとり託された。蛇笏から大結社「雲母」も引き継いだ。

蛇笏、龍太。いずれ譲らぬ大俳人である。私は最初、蛇笏の巌のような屹立や変化球に惚れたが、後年、龍太の清廉、直球を愛しく思うようになった。虚子、年尾の関係とは大きく違って、俳論を仲良く激しく闘わせた。龍太はガンガン言い返すことができたが、年尾は五十を越しても父に叱られるとわあわあ泣いて言い返すことなどできなかったという。ま、このあたり、句会で聞きたくも無い昔話を教えてくれる俳壇古老からの仄聞であるから鵜呑みにしないように。ところで、龍太は晩年、結社こそ俳壇の諸悪の根源と断じて「雲母」解散を決定した。まさに快挙。思い残すところの無い素晴しい人生だったと思う。ところで「ホトトギス」はまだ延々と続くのでしょうなあ。なんか辛いね。

枯れ果てて誰か火を焚く子の墓域
雪の日暮れはいくたびも読む文のごとし
大鯉の屍見にゆく凍のなか
なにはともあれ山に雨山は春
眠り覚めたる悪相の山ひとつ

あまりひとのとらない龍太句を選んでみた。こうしてみると、いいですねえ、龍太。

さて、俳句研究6月号は、この追悼特集のうしろにも、まだまだ俳句作品、エッセイが並び控えている。しかし私の俳句誌読み用のスタミナはぶっつりと切れています。もはや限界を遥かに超えている。俳句総合誌なんてものを読むということが、これほど疲れるとは夢にも思わなかった。この追悼号に途中降りてきた句霊俳霊の影響もありそうだ。障りってやつですな。ま、それはまあ皆悉回向、丁寧に御供養するとしてと。はい、体力が尽きました。しばらくは表紙を見るだけでもゲップが出るかもしれない。鈴木鷹夫さん、鍵和田紬子さんほか沢山の方々、ごめんなさい。それからこの稿の読者諸氏、ここで筆を擱くことをどうか許してほしいと願う。完読できず、ごめん。