2007-05-27

『俳句界』2007年6月号を読む 五十嵐秀彦

『俳句界』2007年6月号を読む ……五十嵐秀彦

せっかく沢山の新作俳句が載っているのだが、今回も散文に面白いものが多かったので、そちらが中心になってしまう。ただひとつぐらいは触れておこう。

●坪内稔典 特別作品50句「ががんぼへ行こう」

 行き先はかもめ食堂風光る

 悪友にヒポポタマス氏桜咲く

 ナメクジのクに日がさしている午前

 松の芯すんすん大江健三郎

 ががんぼへ行こう青葉の雨あがる

どの句も稔典的で、口語句としてかなりのレベルで成功している。やや自己模倣は感じられるが、それとの闘いもまた伝わってくる。
ただ、次のような句が多数あるのはどういうわけだろう。

 猫が来て犬が来なくて蜆汁
 黒ぶちの太い眼鏡と草餅と
 まっすぐな人の孤独とたんぽぽと
 出雲崎車庫行きバスと黄の蝶と
 片かげを選ぶカント氏デカルト氏
 
対句的表現の多用に手癖を感じてしまった。

●「俳句界への提言」

今月は大西泰世の「自句への提言」。これがなかなか。

俳句と川柳の境界ということが今もよく言われるが、多くは川柳を作ったことのない人達からの声で、反論したくなるけれど最近、どうでもいいや、と思うことが多くなってきた。というのも分かっている人はちゃんと分かっていると思えるようになったからと大西は言う。そして例として橋閒石の言葉が引用されていて、それがちょっと素晴らしいので孫引きになるけれど、書いておこう。

近来俳句と川柳とが錯綜してその境界の模糊たることが、両陣営に於いて問題となっているようであるが、これは実に枝葉末節のことである。等しい形式なるが故に根本の本質をも等しくする両者が、時に入り乱れることが生じて何の不思議があろうか。この間に截然たる一線を引こうとするのは、いずれも自己の本質を自覚しないからである。

ずいぶん昔の発言だが、枝葉末節にこだわり本質を自覚していない状況はいよいよ深まっているなぁ、とあらためて感じている。

●特集「花嫁を詠む・十七音のドラマ」

6月→ジューンブライド→花嫁俳句。というあまりに陳腐すぎてかえって意外なような企画。「花嫁八十八句撰」に並ぶ俳句も不思議と読み応えがあった。

 嫁ぐ日の青きパパイヤ空に鳴る    岸本マチ子
 僕らの十月花嫁を見つツルハシ振る  坂本蒼郷
 神に嫁す妻が枯野の沖にあり     角川春樹
 七生七たび君を娶らん 吹雪くとも  折笠美秋
 きみ嫁けり遠き一つの訃に似たり   高柳重信

そして八人の俳人による花嫁をテーマとした「四百字手書きエッセイ」も、手書き文字の力を教えられる趣向で好感を持って読めた。

●栗林浩「言葉の狩人・寺山修司の句を考える」

前号の「修司忌に寄せて」を前編とする寺山俳句論の後編。寺山俳句に興味を持つ者にとって有名な人物である京武久美を取材して書かれた寺山論であり、前後編を非常に高い関心を持ち読んだ。五月号の前編について言えば、寺山のオリジナリティの問題について多くの論者がすでに取り上げているので、あまり書きたくはないとしながら、寺山の短歌

   蛮声をあげて九月の森にいれりハイネのために学をあざむき

が、昭和27年の宗内数雄という俳人の

 蛮声をあげて晩夏の森に入る

と、寺山句の

 学あざむきハイネを愛しスミレ濃し

とから作られた作品であることを指摘していることに注目した。

宗内数雄は寺山の友人・宗内敦の兄であり、この剽窃は仲間うちではすぐに露見するものであるのに寺山はそれを発表したのである。この例に限らず寺山にはその手の作品が多く、栗林はそれをこれまで確信犯ととらえていたが、京武を取材することで、当時の寺山自身がそれを犯罪行為の如く恥じていたことを知り驚くこととなる。これは私も寺山を確信犯と信じていただけに驚きをもって読んだ。

寺山の行動は常人に理解しがたいところがある。すぐにそれとわかるような剽窃句を堂々と発表しながら、それを内心恥じていたという奇妙な行動と心理に関係するエピソードとして、寺山が主催者となり実施された全国高校生俳句コンクールでの飯田龍太の逸話が後編では紹介されている。

それは龍太が寺山から直接選者を依頼され、一度は諒解したものの、送られて来た投句一覧に既発表の寺山句が何句もあることに気づき、主催者自身、禁を破るのは感心しない。その旨したためて、選者はお断りすると返信し、原稿を送り返した(飯田龍太)というのである。
こうした行動の奇怪な矛盾への指摘は今更の感もないわけではないが、彼の文学の謎を考える場合、まだまだ語り足りないものかもしれない。

そして筆者は、俳壇がもっと龍太のごとく厳しく追及すべきであったという。そのことによって寺山を俳句と格闘させるべきであった。しかしときの俳壇はいっとき激しく批判し、その後は、彼の才能を褒め殺し、あるいは傍観することに徹しすぎたのではないか。そのとおりである。この指摘は鋭い。

筆者は、寺山の高校時代の盟友・京武久美と語り合うことで、高校時代の寺山俳句を考え、晩年に再び俳句に帰ろうとしていた寺山が、もし死による中断がなければどのような俳句を作ったのだろうかと想像する。

京武は筆者に問われ、いやあ、昔の言葉先行の句づくりの延長線上だと思いますよ。成田(千空)さんも言っていますが、寺山は、従来の俳句雑誌という爺むさいもんでなく、もっと斬新でしかも日本の詩歌のもうひとつの新しい原点になるものを出そうとしたんだと思いますと語ったそうだ。

筆者自身は、死の淵を彷徨う句が詠まれるはずである。自分のことか、父や母や、あるいは他人のことかもしれない。舞台はおどろおどろしい煉獄だ。風土も彼のモチーフだったから、あるいは恐山のようなところか。表現方法は、生れ持った性癖=言葉狩が徹底する。だが、その語源の海は格段に拡がっているだろうと想像する。

寺山が三橋敏雄らと発行を考えていた俳誌「雷帝」に、どのような寺山俳句が展開されたかは、もはや想像するしか術はなくなった。しかし、それゆえ寺山の俳句世界は未完のまま今に生きつづけているのだろう。京武久美は、現在金子兜太の「海程」に属し、宮城で句作を続けている。

今回、栗林が京武に取材するにあたり、平成15年に発表した私の「寺山修司俳句論」を資料として読んでいたことが文中に触れられていた。拙論が多少は人の役に立ったらしい。ありがたいことである。