2007-05-13

「十二音技法」が俳句を滅ぼす 遠藤治

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「十二音技法」が俳句を滅ぼす
  ……遠藤 治



最近は漫画『のだめカンタービレ』の影響などもあり、表層的には人気復活著しい西洋クラシック音楽であるが、二十世紀のある時期、十二音技法という作曲手法の影響で、大衆から見向きされなくなってしまったことがある。

十二音技法とは、1オクターブの中にある半音で区切られた十二音すべてを均等に扱うという、理論先行型の手法である。長調や短調を超えた無調の音響構造は、いわゆる「現代音楽」として発展すればするほど大衆の嗜好から大きく乖離していった。その間に録音再生技術が発達したりポピュラー音楽が代わりに大きく幅をきかせたりするのであるが、いずれにしても「十二音技法が西洋クラシック音楽に壊滅的ダメージを与えた」とする言説は大きくはずれてはいない。

さて、俳句の話である。俳句の世界においても、「十二音技法」と名づけて差し支えない手法が、とりわけ初心者指導の現場において、まことしやかに流通している。ひとことでいうと、「五七五のうち十二音だけ考えてあとは適当に季語をあしらう」という作り方である。

例えば、まず十二音分だけ考えて「象の名前のカレー店」というフレーズが思い浮かんだら、それに季語「降る雪や」をあしらうことによって「降る雪や象の名前のカレー店」という一句にするようなやり方である。先に得た十二音と季語は一見関係ないものがよしとされる。また、先にできた十二音のリズムによっては、下五に季語を置く場合もある。「私は最初の異性」というフレーズができたなら、下五に季語「梅の花」をあしらうことにより、「私は最初の異性梅の花」という一句ができる。こんなふうに、まず十二音を作り、それができたら歳時記をぱらぱらめくり適当な季語をくっつけて一句をものにするというのが、今話題にしたい俳句における「十二音技法」である。

かつて芭蕉は、ふたりの門弟に別々のことを言った。「ほ句は汝が如く二つ三つ取集めする物にあらず。こがねを打のべたる如く成べし」および「ほ句は物を合すれば出来せり。其能取合するを上手といひ、悪敷を下手といふ」である。のちの言葉でいうなら前者は一句一章、後者は二句一章に関するものである。

俳句における「十二音技法」は、後者の作句法(取り合わせ=二句一章)を理論的根拠としている。そして、一生かかって体得できるかできないかという「切れ」の概念を、ごく初歩の段階で、それと意識することなしに自動的に句に取り込めるという利点がある。合理的といえば、これほど合理的なシステムはない。

では、「十二音技法」で俳句を始めた人は、その後どうなるのか。刷り込みというならこれほどの刷り込みはない。そうでない方法で書かれた句がぜんぜん読めなくなるのだ。なにしろ、一句一章を完全に切り捨てることによって完結しているシステムなのだから。かくして次のような弊害が生じることになる。

1) 一句一章の句を作ることも鑑賞することもできない。
2) 季語を見れば、遠いとか近いとか言いたがる(季語のことを事実から切り離されたゲームとしか考えていない)。
3) 季語以外で切れることなど、思いもよらない。
4) 無季俳句など、まったく考えられない。

もし初心者指導に「十二音技法」を導入するなら、少なくとも指導者はその功罪を自覚し、適切な時期にそれがすべてではないことを再教育するべきなのだ。それを怠るならば、増殖する「十二音技法」原理主義者によって、現代俳句はやがて現代音楽のように不毛の地となるだろう。

  

【テスト】 以下から一句を選び鑑賞してみよう(答案および感想はコメント欄にどうぞ)。

をりとりてはらりとおもきすゝきかな  飯田蛇笏
鰯雲人に告ぐべきことならず      加藤楸邨
中年や遠くみのれる夜の桃       西東三鬼
たましひのまはりの山の蒼さかな    三橋敏雄

もし歯が立たなかったり、季語を変えてみたくなったりされた方は、「十二音技法」に蝕まれている兆候があります。

27 コメント:

匿名 さんのコメント...

楽しく記事を読ませてもらいました。気になったことを
http://yusukenoniwa.blog81.fc2.com/blog-entry-89.html
に書きましたので、ぜひよろしければ読んでください。

匿名 さんのコメント...

はじめまして。
ちょっと気になったことを。

1.俳句の世界においても、「十二音技法」と名づけて差し支えない手法が、とりわけ初心者指導の現場において、まことしやかに流通している。

筆者が体験したことか。どこの「初心者指導の現場」でもそうなのか。そもそも、「初心者指導の場」とは何か。とにかく具体的例がないと、問題提起にはならず、筆者のイメージもしくは主観に頼ったエッセイにしかならない。

2.弊害について
1) 一句一章の句を作ることも鑑賞することもできない。
2) 季語を見れば、遠いとか近いとか言いたがる(季語のことを事実から切り離されたゲームとしか考えていない)。
3) 季語以外で切れることなど、思いもよらない。
4) 無季俳句など、まったく考えられない。

これは言いすぎなのではないか。完全否定だ。

3.テストをしてみよう?馬鹿にしているとしか思えない。


今まで週刊俳句の記事を楽しみにしてきたのに、今回の文章にはがっかりしました。
今後は、独りよがりではなく、論理的で納得させる技量のある記事を期待します。

天気 さんのコメント...

匿名(その2)さん、こんばんは。

1)>具体的な例がないと

例えばこれ

風潮として存在することに、充分首肯できます。当該記事冒頭部分の「提示」にそれほど説得性がないとは思えませんが、どうなのでしょう? 12音つくって、「ツキスギない」季語を「斡旋」するという手順は一般なものです。

2)>完全否定だ。

弊害の列挙が、なぜ「完全否定」なのでしょうか? 論旨不明。

3)>独りよがりではなく、論理的で

はい、それは大事なことです。この記事は、それほど「独りよがり」でも「非論論理的」でもないと思います。といって、私自身は、同意する部分はあるものの、全面的に、ではありません。そのことは、いずれ自分のブログに書きます。

なお、週刊俳句は、掲載記事への批判ももちろん載せます。よろしければ、匿名(その2)さん、この件に関して記事原稿を御執筆ください(s-tenki@1kw.jp までご連絡)。その場合、当然ですが、「匿名」ではなく。

天気 さんのコメント...

例えば、これ。のリンクが崩れていました。陳謝。

例えばこれ

weekly-haiku さんのコメント...

コメント欄に次のような表示が出ることがあります。

この投稿はブログの管理者によって削除されました。

なんだか怖い文章ですが、これはbloggerさんの文章。

「週刊俳句」は、検閲的な削除はしません。
例えば、この上の方にある削除は、コメントされた御本人からの要請で削除しました。

そうことなので、よろしく、です。

山本★人 さんのコメント...

「今まで週刊俳句の記事を楽しみにしてきたのに、今回の文章にはがっかりしました」

 匿名ってなんだ?何か名前伏せておかなきゃならない、訳ありか?
 匿名とかなんとか言ってないで、筆名でも俳号でも、なんでも勝手に付けて書けばいいじゃない。
 どっかに隠れてるつもりか何か知らんけど、何か変。
 そーゆぅ人は、黙ってこっそり読むんじゃないの?

ほろほろ蛙 さんのコメント...

匿名さんが何故個々まで腹立ちなのかと思いましたが、この文章が作為か不作為か判りませんが暗に俳句甲子園を否定している用に読めるからのようですね。

ただそう言う裏を読まないで素直に読めば真っ当なことを書いているように思います。
大衆化は、滅びの入り口のように思いまが、内にこもって発展しないのも困ったものですので、何処で折り合いを付けるかが大事になってくると思います。

私もこの「十二音技法」は、功罪で言えば罪の方が大きいと思いました。

匿名 さんのコメント...

こんにちは。
感想としては「ほんとにそんな人がいるのか?」ということでした。弊害の1から4に当てはまる人、という意味です。
こういう形で初心者指導をしている人がいることは知っています。ただし、俳句甲子園の現場についてはほとんど知りません。
この指導は(刷り込みという言葉を使っていらっしゃいますが)「それがすべてではない」ことに自分で気づくことができないほど強烈なものなのですか?単純な疑問です。
まだ全然まとまりませんが、「そもそも俳句の指導とは何だ」ということを考えさせられます。

ユースケ さんのコメント...

天気さんに槍玉にあげられた「5分でできる!かんたん俳句の作り方講座」を作りました、THCのユースケです(笑)。

遠藤さんの記事の内容について、一面の当事者として思うところを書かせていただきます(しかもシリーズで!)。コメント等、いただけるとうれしいです。

http://www.thc-haiku.net

秀彦 さんのコメント...

面白くなってきましたね。
みなさんの感想をもっと聞きたいです。
私の感想を以下に少しばかり。
匿名(2)さんはこの話を論争のテーマとされたいのかもしれませんが、論争にあたいするほどのテーマではありませんし、遠藤さんもそんな気はないのでは。
とても面白い皮肉とユーモアを遠藤さんのこの記事で楽しませてもらいました。
一読して爆笑しました。
だってこういう人は身近にかなりいるのですから。
初心者指導という意味でここまではっきりとこうした作句法を指導する人がいるかどうかはわかりませんけど、「弊害」の(1)~(4)まで見事に当てはまる人はいますね。
基本的に俳句の作り方は教えてもらっても参考程度にしかならないので、もしこうした指導を受けて、そんなものだ、と信じて長年疑わずに作句する人がいるなら、残念ながらその人は詩とは無縁の人かもしれません。
そんなことを感じました。

俳句甲子園の否定とのコメントもありましたけれど、そうでしょうか?
特に俳句甲子園がそういう風潮に支配されているようには思わないのですが。

天気 さんのコメント...

みなさん。こんにちは。

ユースケさんを槍玉にあげた天気です。

って、違う違うw

一例として引いたまで、です。

ところで、ユースケさんが、ただいま、ご自分のブログで、凄い勢いでレスポンスを展開中。ここです。

ゆうすけ さんのコメント...

おぉ、匿名が解除できた、と感動しているゆうすけです。最初のコメントにブログのリンクを張りつけた者です。

さて、この記事を読んで僕自身は俳句甲子園を否定されたとは感じません。ただ自分が俳句を作っている環境に触れながら、意見を書いているうちにそうなっただけのことです。

weekly-haiku さんのコメント...

ゆうすけさん、匿名からの脱出、おめでとうございます。

「個人情報を選択 Choose an identity」の箇所で「その他 Other」を選べば、署名欄・リンク欄が出てくるはずです。

匿名さんが何人もいらっしゃると、ややこしくてかないません。

遠藤 治 さんのコメント...

たくさんのコメントありがとうございます。
 ひとつ申し上げたいのは、本記事は特定の組織や個人の指導方法を批判したものではないことです。派生した流れによって「俳句甲子園」様、「青の会」様などにご迷惑が及んでいるとすれば、それは本意ではありません。
 私自身の補足意見は、収束した頃合いをみて述べさせて頂きます。

 引き続きコメントをありがたく頂戴したく存じます。

葉月 さんのコメント...

私も(ちょっとだけ)遠藤さんの記事についてブログで触れているので、自己申告しておきます。
http://93825277.at.webry.info/200705/article_14.html

天気 さんのコメント...

私も(ちょっとだけ)遠藤さんの記事についてブログで触れているので、自己申告しておきます。(コピペ御免なすって)
↓こちら
12+5問題

飛び地 さんのコメント...

当の初心者の飛び地です。
「青の会」他、初心者中心の句会に何度か参加してきました。

確かに「弊害」で思い当たる節はあります。
特に、「 一句一章の句を作ることも鑑賞することもできない。」
は耳が痛いところです。

しかし私自身、一句一章にチャレンジしてみたり
(季語を含む12字)+(関係ない5文字)
で詠んでみたりしていますし、
同じ初心者の友人は一句一章でおもしろい句を詠んでいます。
このような初心者は私たちだけではないはずです。
ご安心ください。


俳句は古臭く小難しいものだというイメージを持っていました。
何も考えずに詠むと
「蝶々がひらひら飛んできれいだな」になりますし。
「十二音技法」でその古臭く小難しいイメージが払拭され、
自分たちにも俳句が詠めるのだと思いました。

地元出身の俳人がいる縁で
小学校では毎月、全校生徒が俳句を作ることになっていました。
その頃は俳句がこんなに楽しいものだとは思いませんでした。
私は「十二音技法」からまた俳句に触れられてよかったと思います。

上田信治 さんのコメント...

本文と、応酬(コメントおよび場外)を見ていると、四童さんのギャグというか韜晦の部分(「弊害」とか「テスト」とか)に、純情な人たちが反応してしまったようですね。食いつきどころはそこじゃないでしょう、と思いつつ、記事本文も「十二音技法」の何がペケなのか、本当のところは言ってくれてないような気もします。一句一章を完全に切り捨てる、っていう部分が、それなんでしょうか。四童さんの、補足意見に期待。

自分の「十二音技法」(っていう言いかたも、定着させていいのかどうか)に対するスタンスは、わりと、どっちでもいい、です。
でも、初回はともかく、二回目もそのやり方で、おもしろいですか?

てっち さんのコメント...

「青の会」のてっちです。
純情にも反応してブログにアップしてみました。

信治さん
>>でも、初回はともかく、二回目もそのやり方で、おもしろいですか?

いや、それが案外面白いんですよ。
僕も最初は不安だったんですけどね。(^^;;
青の会参加者が減らないのもその証左では。

パパパパ さんのコメント...

飛び地さんに続いて、「青の会」常連のパパパパです。ブログの方に「感想」を書かせて頂きましたので自己申告しておきます:
http://papahaiku.exblog.jp/

かわうそ亭 さんのコメント...

遠藤さんの記事とこれに対するコメント、興味深く拝見しております。
「十二音技法」というネーミングではなかったと思いますが、この方法は、たしか藤田湘子が初心者向けの入門書(たぶん『『新・実作俳句入門』』かな)で、ひとつのメソッドとして書いていたような記憶があります。たしか氏がカルチャー・スクールで教えるときのやりかたで、一種のノウハウみたいなものだったのではないでしょうか。
わたしなどはいまでもたいていこれでやってますね。やれやれ。
弊害の(2)季語を見れば遠いとか近いとか言いたがる、というのには爆笑しました。いやまさにおっしゃるとおり。(笑)

ほろほろ蛙 さんのコメント...

秀彦さんの言われるように論争にすべきほどの問題ではないと私も思います。
ですのでただ自分のよりどころを否定された人が一生懸命反論しているのかなと言う感じです。
私自身は、俳句甲子園というものは、名前しか知らず今回初めて少し内容が分かりました。その程度ですから言葉の端々に俳句甲子園を否定された怒りみたいなものを感じたまでですのです。

でもこの 「十二音技法」は、若い人が俳句の世界にはいるのにとても有効な方法だとは思います。でもそれだけでしょうけれど良いところは。
そしてそうして俳句の世界に入ってきた人で長く続くような人は、自然と始めの問題(この記事)を解消しているのではと思います。

それより問題はある一定の年齢に達した人が俳句とはこういうものかと思ってしまうことにあるのではないでしょうか。

遠藤 治 さんのコメント...

googleで「十二音技法」を検索すると、ついにもともとの音楽分野を差し置いて4番目に出てくるまでになってしまった今回の記事ではありますが、発端となる4月23日の私発のメールではこんなものでした。
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 ところで、五七五のうち十二音だけ考えてあとは適当に季語をあしらうという作り方を、シェーンベルクにあやかって「十二音
技法」と呼んだ先例はご存じですか。なければ、「いわゆる十二音技法が二十世紀のクラシック音楽に壊滅的ともいえるダメージを与えたように、現代俳句の世界においても十二音技法は、俳句の進化を停止させる悪魔の囁きであった」のごとき、ふざけた文章を書きます。
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 このあと、連休の終りに一気に書き上げ、編集部と数度のやりとりの末に発表されたのが、皆さんのお目に触れたものです。「テスト」云々は編集部から懸念されましたが、こちらから
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 これはですね、せっかくwebなんで、コメントという形で読者はレスポンスできるわけです。即時性と双方向性を持った読者参加型の総合誌なのです。
 あからさまにそれが伝わる呼びかけに変更するという手はあります。
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と押し切って多少文章を変え最終形に。逆に題はもともと<「十二音技法」は俳句を滅ぼすか>だったのを、編集部の方で過激にしました。

 という経緯で生まれた拙文は、それ以上のものでもそれ以下のものでもありません。思いがけず、皆さんの貴重なご意見に触れられ、また高校生、大学生の方々が熱心に俳句に取り組まれていることを知る機会ともなり、こちらも大いに認識を新たに致しました。ありがとうございました。
 「十二音技法」自体がよいことなのか、悪いことなのかについては、それぞれの俳句への関わり方によって変わるものです。ご反響頂いた皆さんのコメント、ブログ、あるいは皆さんの頭の中で起こっていた考えや感情のひとつひとつが、すべて皆さんにとっての答えなのだと思います。
 これからも「週刊俳句」を温かく見守って下さいませ。よろしくどうぞ。

遠藤 治 さんのコメント...

という、学級委員みたいな挨拶はともかく、書いていてけっこう困ったのは、「十二音技法」を対象とするのか「二句一章」(=取り合わせ=二物衝撃)を対象とするのか、でした。「十二音技法」は「二句一章」の簡易版に他ならないわけですから、「十二音技法」の脆弱性は、「二句一章」が本来持っている脆弱性でもあります(この点、切れの問題とは別、とする天気さんとは立場が異なりま
す。http://tenki00.exblog.jp/5402228/

 「二句一章」で作られた句は、一句として見ているとそうでもないのですが、十句、二十句、五十句、三百句などと、一人の作品を並べてゆくときに、どうも他と共振しだして、変なことになるような気がします。よく句会で、その座の中で放言を許されている先輩格の人が、「こっちの句のこの季語と、あっちの句の季語を入れ替えたら面白いんじゃない」みたいなことを言い出し座が爆笑する場面がありますよね。あれって、どうしてそういうことになるのでしょう。

ユースケ さんのコメント...

ユースケです。

>「二句一章」で作られた句は、一句として見ているとそうでもないのですが、十句、二十句、五十句、三百句などと、一人の作品を並べてゆくときに、どうも他と共振しだして、変なことになるような気がします。

の部分、激しく共感です。

句集などを読んでいても疲れますよね。「この取り合わせはどう?」と絶えず問いかけられている気がして。

遠藤 治 さんのコメント...

ユースケさん、こんばんは。
今お風呂から上がってきたところなのですが、よく俳句の場合、読者=作者という議論がありますでしょう。二句一章の場合、特に、読者の作者性が問われるというか介入してくるというか、そんな気がします。くだんの放言おじさんなど、完全に他人の作品に対して作者気取りになっているわけです。そこに特殊性がありますよね。

遠藤 治 さんのコメント...

あ、「他と共振しだして」というのはお風呂に入る前には別のことを思っていたのでした。吊橋を大勢で渡ると共振して危険なように、二句一章もたくさん並べると、一句一句は丁寧に作ってあるのにどうでもよくなって、「なんだよ、これ、十二音しか作ってないじゃん」というふうに底が見えてしまう臨界点のようなものがあり、それを超えると、読者の作者性が暴走を始める…

という感じがあるのです。