あえて「俳句2.0」と言ってみよう ……小野裕三
初出:海程神奈川合同句集「碧」第4集(2007年5月)
ご存じの読者も多いと思うが、一昨年くらいから「Web 2.0」(ウェブニーテンゼロ)という言葉が登場して、急速に世の中に普及した。要するに、インターネットの世界が新しい進化の段階に入ったという、そのことを表現するためにあるアメリカ人がそのような命名をしたわけだが、興味深いのはそれが、何か革新的な技術的変革があっての結果というよりは、むしろインターネットを取り巻く生態系(エコシステム)全体の変革を総称した言葉であるという点である。
そして、その後「なんとか2.0」と称するものが雨後の筍のごとく発生し始めた。流行の剽窃と言ってしまえばそれまでだが、既に多くの事象がインターネット上での出来事を無視しては語れなくなりつつある以上、決して全てが無用な剽窃というわけでもなく、それなりの必然性はある。
そのような出来事を見ている時、果たして俳句はどうなのだろう、と思った。「俳句2.0」(ハイクニーテンゼロ)。そのように組み合わせてみた造語を頭の中で転がしてみたとき、いかにも取って付けたような、アンバランスな座りの悪い感じがあった。しかし、そのなんだか不細工な座りの悪さがかえって新鮮にも感じられた。微かな新しい風がその言葉の周りから吹き始めるような気もしてきた。
実際、俳句の世界で長く無風状態、凪状態が言われて久しい。極端に言ってしまえば、あの前衛俳句運動以来、俳句という文芸はたいして運動らしい運動も経験しないまま、数十年の時間を空費してしまったのではないかとも思える。もちろん、それは一面的過ぎる見方なのかも知れない。それを停滞と捉えるか、あるいは成熟と捉えるか、それには両方の見方がありうる。
そして仮にそれが停滞であったとしても、それを俳句のみの責任としてしまうのはやや短絡的すぎるだろう。要は、世の中全体がそういう時代だったのだ。政治も含めた社会のあらゆるジャンルで急速に対立軸が消滅し、それに伴ってさまざまな運動(政治・社会・芸術など)のうねりも影を潜めてしまった。そのことは既に多くの人が体験し、目撃していることだ。
そこに、どうにも久々という感じで「Web 2.0」という言葉が社会の変革に繋がる言葉として登場してきた。面白いことに、そこには極度にと言っていいくらいに思想性がない。「2.0」つまり「バージョンアップしましたよ」と言っているだけで、明確な主張であったり方向であったりといったことがどうにも希薄なのである。であるとすれば、「俳句2.0」という言葉を仮に作ってみたとしても、それはやはり同様に思想性であり主張や方向性に欠けたものになるだけだろう。要するに、「俳句がバージョンアップしますよ」と言っているだけの言葉なのだから。
それでも、である。「俳句2.0」と、ここであえて言ってみようと思った。その理由にはいくつかある。
まずひとつめの理由は単純だがこの語感の悪さだ。この語感の悪さ自体が、そう唱え続けることによっていつのまにか俳句自体に何か良心的な「悪戯」をしてくれるのではないか、という気がした。
そう考えてみるなら、実はこれまでの俳句運動も基本的には時代をリードするような大きな動きが他の領域にあって、その名称が「俳句」にも冠されたというケースが多いことに気づく。
要は、「新興」や「前衛」という言葉が俳句界の中から自然発生したわけではない。内容はともかくとしても少なくとも呼称として見る限り、「新興俳句」運動も「前衛俳句」運動も実は他のジャンルから生じた言葉に「俳句」を繋げることによって成立した運動であった。
おそらくそれらの呼称も、登場してきた当初はやはりそれなりに座りの悪い言葉だったのではないかと想像する。そう思えば、今の時代をリードしているインターネットの世界において生じた「Web 2.0」という呼称が俳句にも流れ込んで来て、なにやら座りの悪い新しい呼称を作ってしまったとしても少しも不思議はない。いやむしろ、今この時代に俳句に携わる我々としてはそのように時代をリードする言葉を積極的に剽窃して新しい風を俳句の体内に送り込む責務があるとさえ言えるかも知れない。
また、単に呼称の問題だけではない本質的な理由もあるように思う。先述したように、「Web 2.0」とは何かの革新的な技術の登場による変化を指した呼称と言うよりは、むしろ全体としての「生態系」が変化しつつあることを指した呼称である。そして、そのような「変化」自体のあり方があるいは今の俳句の世界にも当てはまるようにも思えた。
つまり、「思想」「主義」「主張」といったものが変わることによって全体の変化が起こるのではなく、「生態系」自体の変化によって全体の変化が起こるようになったのではないか、そしてそれはつまりこれまでとは「変化」の仕方自体が変化してしまったことを意味するのではないか、ということだ。
そこには、「思想」「主義」「主張」の変化によってはもはや俳句が変化しなくなったが、実はそのような生態系の変化自体こそが大きな変化なのだ、という逆説がある。俳句における「思想」や「主義」を変えていくことによって新しいものを発見していこうとする、そのような時代自体が実は終わったのではないか、という示唆がそこには潜んでいる。
さらに細かく考えるなら、「Web 2.0」で指摘されているいくつかの細かい現象にも無視できない類似性を感じる。特に気になるのは、「ロングテール」と「集合知」というふたつのキーワードだ。
「ロングテール」はEコマース(オンラインショッピングなどの電子商取引)の領域で主に言われだしたものだが、これまでのリアルな商店などでは売れなかったようなニッチな商品もインターネット上の仮想商店では売れるようになり、それどころかそれが売り上げの大きな割合を占めるようになった、そのような事象を指して「ロングテール」と呼称している。
そのことを俳句に照らして考えると、どうだろう。インターネットでのBBS(掲示板)やブログ、その他の手段を通じて数多くの俳句が自由に生産され、公表されうる環境が整ってきた。また実際に、そのような環境を活用する俳人の数は日に日に増えている。
であるとすれば、例えばこれまでは総合誌や結社誌、さらにはそれに付随するさまざまなヒエラルキー状の「生態系」の中ではなかなか脚光を浴びることのなかったような俳人もしくは俳句が、自由な情報として発信され、検索され、閲覧され、さらには相互に繋がりうる、そんな「ロングテール」的な現象がより強まっていく可能性はないのだろうか。
その結果として、これまでの俳句生態系の中では生き残り得なかったかも知れない俳句表現が、これからは生き残ってより大きな流れを作っていく可能性も出てきたとは言えまいか。あるいは、そんな大きな事象でなくともよい。
卑近な例では、これまでは結社という枠の中に限られがちだった俳人たちの交流が、ネット句会の登場によっていろんな風土の俳人とより自由に句会の場を持てるようになったという現実も実際に存在する。そのようなこともまた、俳句にとって大きな生態系の変化のひとつになりうる。
そしてさらに、そのような「ロングテール」的現象とも繋がるが、「集合知」的なものも俳句にとって大きな変革をもたらしうるのではないかと考えている。「集合知」とは文字どおりインターネットの場を通じて多くの不特定の人たちが参加することによって集合的な知が生成されていくことを意味する。
一方、インターネットなどが登場する遥か以前から、俳句はもともと「座」の文学と言われてきた。それはつまり、小さな形での「集合知」という意味とも言える。「座」の中で題を与えられ、選句され、場合によっては推敲もされていくこと自体がひとつの小さな「集合知」と考えることもできるからだ。そして、そもそも小さな形での「集合知」であった「座」の文学がもっと大きな形でネットを通して繋がり始めた時、やはりそのような生態系自体の変化がさらに大きな変化を俳句にもたらす可能性がないとは言えないだろう。
いずれにせよ、我々の今の時代に「Web2.0」と呼ばれる現象が起き、そのことが社会や知のあり方を少しずつ変えようとしている。俳句も無縁ではありえない。俳人を取り巻く生態系、俳句が生産され評価され淘汰されていく生態系、それがネットを中心に少しずつ変化しようとしているのかも知れない今、そのことをあえて「俳句2.0」と呼んでみよう。ひょっとすると、そうすることから本当に何かが始まるのかも知れないと考えるのは、あまりに楽観的すぎるだろうか。
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2007-06-17
あえて「俳句2.0」と言ってみよう 小野裕三
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