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2026-08-30

小野裕三 韓国ソウルにて西洋人と日本人で語った俳句とアートのこと

韓国ソウルにて西洋人と日本人で語った俳句とアートのこと

ラファエル・ローゼンダール+小野裕三


今年の6月、韓国のソウルを訪れた。俳句をテーマとしたトークショーに登壇するため、現地よりの招待を受けての訪問で、対話の相手はラファエル・ローゼンダール。オランダにルーツを持つNY在住のアーティストで、インターネットアートの先駆者として世界的にも知名度が高い。そんな彼が、ある機会に来日した際に俳句のことを知って興味を抱き、やがて彼自身が多くの俳句を作るようになる。そして今年、彼の句集が韓国で刊行されることになり、僕がその句集での解説文執筆および彼の句の日本語訳の依頼を受けた(この句集での俳句は英語・韓国語・日本語の3カ国語で表記)。その刊行記念のトークショーに僕が呼ばれた、というのが事の経緯になる。異言語・異文化・異ジャンルを出自とする彼のhaiku観は、日本の俳人たちにも興味深いものではないかと考え、当日のトークショーの要点をここに文章の形で和訳掲載する。(小野)




















▲当日の会場の様子


芭蕉の句に人が見るのは、三百年前の池ではなく常に新しい池

小野: (冒頭にて、俳句にあまり詳しくない韓国の聴衆に対して俳句のルールや歴史を簡単に説明したあとで、本題に入る)ラファエルの俳句は、五七五や季語のルールに従わない独特のスタイルです。例えば「悲しかった / ステーキを食べた / いい気分だ」などの句で、放哉や山頭火などの自由律俳句を思わせます。それでは最初の質問ですが、あなたが俳句と出会ったとき、俳句の何があなたを魅了したのでしょう?

ローゼンダール: 私は視覚芸術の作家なので、視覚によるイメージの作品をたくさん作ってきました。そして芭蕉の句に初めて出会ったときに思ったのは、それが非常に視覚的であるということです。ただしそれは読み手の心の中で生じるものです。物理的な絵に描かれた色は時間が経てば褪せていきます。でも俳句は、あらゆる世代が新しい解釈をしていき、それは決して色褪せることはありません。

小野: あなたは、例えば電車を待っている時間など、移動や旅行の合間の時間が俳句を作るきっかけになる、と言っています。俳句はいつもそんなふうに作っているのですか?

ローゼンダール: 映画監督のスピルバーグは、「世界は叫ぶが、インスピレーションは囁く」と言っています。つまり、インスピレーションを受け取るには静かである必要があります。でも、コンピューターを使っていると、次々とメッセージや通知が来たりして静かな環境にはなれませんね。電車の中というのは、そういう意味で雑事や雑念に邪魔されずにインスピレーションを得やすい環境の、ひとつの象徴みたいなものです。

小野: 俳句を作ることは、あなたに何をもたらしますか?

ローゼンダール: 私にとって、何かを作ることはとても神秘的なことです。椅子に座って、そこには何もないのに、そこから何かが生み出される。それが俳句であれ絵画であれ、何かを生み出すというその感覚が私は好きなのです。あるときは、アート作品のタイトルを考えているかも知れません。でも、そのタイトルが俳句になることもあるし、逆に俳句がタイトルになることもあります。アートというものは錬金術に近いものです。無から何かを生み出す感覚は、何かから金を生み出す錬金術に近いもので、まさに魔術です。一般に創作というのは、自分の内側にあるものを捉えて外の世界から見えるように外側に出すことですが、俳句とはまさに他の人の心の中で何が動きだす瞬間を作る装置ですからね。

小野: あなたの俳句は季語も五七五も取り入れていないので、「短さ」という俳句の特徴に特化しているかのようです。私の考えでは、俳句の「短さ」にはいくつかの利点があります。例えば、俳句は特別な準備、例えば機材・材料、資金、スタッフ、などがなくても作れますので、初心者でも俳句を始めようとするのは簡単です。また、いろんな場面で即興的に俳句を作るのも容易です。俳句には「吟行」という習慣がありますが、屋外を歩きながらその場で俳句を作ることはとても一般的なことです。一方で、例えば長い詩や小説などは通常は机に座って書かれるでしょうから、その点は俳句との大きな違いです。

ローゼンダール: アートはなぜ存在するのか、これは美術家にとって大きな問いです。例えば音楽は人々がダンスや結婚式をするために必要ですが、アートはそういう意味での実用性はありません。でも、世界が混沌とすればするほど、何かの焦点が必要になります。アートはその焦点を作るのです。そして俳句もまさにいろいろなことの中から集約的なひとつの焦点を見つけ出すもので、その意味で俳句の簡潔さはアートに似ています。俳句は常に、記憶ではなく瞬間なのです。例えば、芭蕉の古池の句を読んだとき、そこに私が見るのは三百年前の池ではなく、新しい池です。俳句を読むたびにその人の中で新しい池が生まれるのです。俳句を何度読み返しても、その印象は新鮮です。このように時間に縛られないという特性が、俳句にはあります。


俳句もアートも虫眼鏡のように、ありふれたものへの光を変える

小野: その意味では、俳句は他のさまざまな文学形式とは異なる特徴を持っているということになりますか?

ローゼンダール: 俳句より長い他の文学形式には、始めと終わりがあります。でも俳句には始めも終わりもなくて、ひとつの瞬間しかないですね。

小野: そうです。始めと終わりがないことこそが、俳句の大きな特徴です。

ローゼンダール: 一般的に、美術家の捉え方として、チューブから絵の具を絞り出すようなもの、と捉えることもできます。その場合、いつかは描くべきものが尽きてしまいますね。ですが、美術家を虫眼鏡のようなものと捉えることもできます。外界にある何かに太陽の光を集めて独自の焦点を当てるということです。その場合、美術家にとって描くことが尽きることはありません。私は虫眼鏡の比喩が正しいと思っています。つまり太陽の光自体はどこにもあるありふれたものですが、美術家がレンズとなって独自の焦点を作り、そこから見る者へとエネルギーが生じます。それが美術家の役割なのです。俳句もまさにそうで、どこかの場所に行くと、そこでの光はありふれたものですが、俳句はその光を変えるのです。

小野: その虫眼鏡の比喩は面白いですね。

ローゼンダール: 美術家への比喩として、ワニもあります。つまり、ワニは大きな口と鋭い歯で貪欲に食べます。それは美術家の好奇心を表します。それで、たくさん食べると尻尾が伸びていきますので、人々はその尻尾のことを称賛するわけです。それが作品ですね。でも、美術家自身にはその尻尾は見えないんです。彼らはただ好奇心のままに何かを食べ続けるだけです。私の俳句もそうですよ。自分では何をしているのかもわからず、ただ好奇心のままに作っているのです。「楽しさ」というのが私の仕事では大切で、あることを選びとって私が何かをやるのはそれがもっとも「楽しい」からなのです。アート作品でも俳句でもそうです。

小野: 俳句の「短さ」のもうひとつの特徴は、何かを簡潔に明確に伝えられることです。ですが、その簡潔さは、作者と読者が正確に同じ意味やイメージを共有できることを意味はしません。俳句は簡潔さゆえに逆に、多義的になりえます。特にその言語に内在する固有の仕掛けのようなものを使うと、そうなります。英語で書かれたあなたの俳句にもそういう例が多くあり、日本語に訳すのに私は大変に苦労しました。

ローゼンダール: そうですね。でも、それは詩の翻訳にはつきもののことでしょう。そこは、小説などの翻訳とは違う点です。翻訳というのはどうやったところで、完璧にはなりません。芭蕉の句は、やはり日本語で読まれるべきだと思う人はいるでしょう。言語の持つ文化的背景の違いによって、文学作品への理解は変わってきます。それは絵画でも同じです。私自身はオランダに文化的背景を持ちますが、例えばフェルメールの絵への理解は、オランダの風土を知っていることで、より体感的なものになります。そのように、文化や言語の壁は必ずあります。でも、こうやって私の俳句が日本語や韓国語に翻訳されて、それが人のつながりを広げているのはいいことです。それに、私は誤訳は悪いものだとは思っていません。誤訳は、作者の意図の可能性を拡大してくれます。

小野: 俳句の「短さ」に話を戻すと、それは短いがゆえに、読者に大きな想像力の余地を残します。これは一般によく指摘されることで、あなたが俳句をデジタルのコード(=プログラミングの言語で書かれたコンピューターに指示をする文章のこと)に喩えるのもそれに近いことだと思います。それともうひとつ、俳句はその短さゆえに容易に記憶して暗唱できます。日本の俳人の中には、暗唱できるという俳句のこの特性を重視する人もいます。それらの特性も踏まえると、俳句を読むことで読み手の中ではどのようなものが動き出すと思いますか?

ローゼンダール: 私がインターネット上で作品を発表し始めたとき、作品を置くURLに作品のタイトルを埋め込んでいました。例えば「すごくすごくごめんなさい.com (https://www.iamveryverysorry.com/)」みたいに。つまり、俳句を作り始める前から、私はテキストをアート作品のソフトウェアの出発点と捉えていました。そこでは、テキストがアート作品を受け手の心の中に展開させるのであり、それは俳句も同じです。


創作への恐れを止めるのは大切で、俳句はそのよい手段になりうる

小野: さきほど、俳句には始めと終わりがないという話がありましたが、それではあなたは俳句を作るときにそれを言葉としていかに切り取るかということを、どう考えていますか?

ローゼンダール: 私にとって、いい作品というのはさっと出来上がるものです。あれこれといじくり回すものは、だいたいいいものにはなりません。だから、俳句もスマートフォン上に4つくらいのバージョンをさっと書き出して、翌日にはその中からいいものを選ぶ、という感じです。それはどういうことかというと、人の脳の中にはふたつの違う部分があって、ひとつは編集者であり、もうひとつは創作者です。あなたが何かを創作するときには、編集者はそこにいるべきではないのです。それで翌日になって、編集者が戻ってくる。つまり、創作をしている過程では、あれやこれやと評価を下す編集者の言うことに耳を貸すべきではありません。

小野: その視点は俳句を考える上で示唆に富むと思います。つまり、俳句はとても短いから、創作者と編集者を分けるのが容易なのです。例えば私が長い文章を書くとき、しばしば私の中の編集者的な側面が動き出して、干渉を始めます。しかし、俳句は短いので、そのような干渉が始まる前にはもう書き終えているのです。

ローゼンダール: 創作に自分の中で優劣をつけ始めると、それが創作を続けることへの恐れになりますからね。絵画でも俳句でも、誰でもが大きな可能性を持っているのに。だから、創作にとって大切なのは、そのような恐れを取り除くことです。

小野: なるほど。そのように考えれば、俳句はその創作への恐れを取り除くためのとてもいい方法かも知れませんね。ところで、俳句は日常生活を重視します。つまり芸術はわれわれの生活から離れたところにはなく我々の生活の中にこそある、という考え方です。

ローゼンダール: それは私のルーツであるオランダの文化でも同じように考えます。というのも、西洋の絵画史を振り返ると、例えばイタリアの絵画はとてもドラマティックな内容のものでした。でも、オランダでは静物画が盛んでした。それは日常のものを描き、静かで、ドラマはありません。オランダの文化は、ものごとをあるがままに見るものが多くて、その意味では俳句に似てますよ。私は、アートというものは作家の個性と作品の素材とのぶつかり合いだと思っています。素材というのは、コンピューターだったり、キャンバスだったり、言語だったりするわけです。

小野: 俳句の場合は、素材が言語ということですか?

ローゼンダール: 人類の歴史においては、言語というのは最近の発明です。言語以前の層があるのです。言語は何かを理解する手段として必要ですが、人間には言語以前の何かの感情があるのです。言語というものは面白いもので、思考の一部でもあるので、純粋な素材とは呼べません。例えば、私がオランダ語を話すときと、英語を話すときでは、そこに現れる私の個性は変わります。でも一方で、言語は思考そのものでもないのです。


俳句もアートも、物語や論理を離れることで言語を超える

小野: 言語で個性が変わるとすれば、例えば俳句という形式で言語を使うとき、あなたは自分の中の別の個性を見つけているのですか?

ローゼンダール: どうでしょうか。俳句を作るとき、私は私自身の思考を観察していますが、でも結局、私が見つけているのは、みんなの個性だと思います。誰もが自分の解釈ができますからね。

小野: そうですね。俳句はオープンで結論を持たないのが特徴だ、とあなたも以前に述べていました。私もそのことが、俳句の大きな特徴だと思います。例えば、世界中を見渡せば、各言語や文化に最短の詩型があります。英語ならリメリックがあります。韓国でも時調というものがあり、長い歴史を持っています。ですが、リメリックも時調も、だいたい俳句の三倍近い情報量があります。だから、そこには物語、つまり起承転結が入ります。でも、俳句には起承転結がなく、だから結論というものもないのです。俳句は世界で一番短い詩だと言われますが、それゆえに、他の多くの詩型のような起承転結がそこには入らない。そのことによって、俳句は物語とか論理といったもの、つまり言語が持っているとても本質的な何かを超えようとしているのだと私は思います。

ローゼンダール: 私は、いろいろな文学形式の間に優劣をつけるつもりはありません。ただ、私自身のことで言えば、小説を書こうとしたことはありません。それが私の個性なのでしょう。物語を持たないという俳句の性質が私に合っていた、ということです。

小野: 私の見方では、言語を超える、という俳句の潜在的な欲望は、アート全般にも共通する欲望だと思います。俳句はそのことを短さによって達成しようとしているわけです。そのことをあなたはどう思いますか? 例えば、作品を最小化、シンプル化することによってアート作品を作ることがあなたの方法論のひとつだと思いますが、その姿勢は俳句にも通じている気がします。

ローゼンダール: 例えばカメラを考えてください。その性能は年々上がって画像は精細になっています。でもどれだけ精細になっても、それは現実の「写し」でしかなく、現実そのものにはなりません。その意味では、結局、どんな表現手段も現実の要素を何らかの形で取捨するものでしかないのです。そして例えばビデオゲームを考えてください。初期のビデオゲームが抽象的だったのは、技術的な制約がそれを強いたからです。そしてそのような圧縮は、情報を失うことになりますが、初期のビデオゲームではそれが創造につながり、見る人の想像力を刺激しました。つまり、制約がまったく新しい文化を生み出したのです。マリオなど、初期のものはものすごくシンプルで、でもそのキャラクターはとても印象的で力がありますよね。どんなジャンルでも、例えばアニメーションの歴史を見ても、初期のものは技術上の制約からとてもシンプルになりますが、そこにすべてを込めなくてはならないため、そこに力が生まれるのです。

小野: それは俳句にも通じることですね。

ローゼンダール: そうです。それが私の言いたいポイントです。線や色に制約のあった日本の浮世絵でも同じことが起きたと思います。制約は、アーティストにエネルギーを生み出すのです。これしかできないのだ、と思うと、そのことがたくさんのアイデアを生み出すのです。

小野: アートと俳句とのつながりということでは、あなたは俳句を作るだけでなく、それを展覧会にビジュアル作品にして展示してきました。これは私から見てとても興味深いことです。そして今回、あなたは自分の俳句を本として出版しましたが、それはあなたにとってどのような意味を持ちますか?

ローゼンダール: 私のインターネットアートの作品は、家でも公共空間でも美術館でもどこでも楽しむことができます。それは時間や場所を選びません。私は、俳句もそれに似ていると思います。俳句は本の形式にすると時間を超えて読み手と一緒に旅をします。一方で私の展覧会では、ふだんは絵や写真を展示する場所に俳句があります。そのような場所で俳句に向き合うと、絵を見るのと同じような感覚でイメージが浮かんでくるのです。まさに絵と同じように機能するのが、とても興味深いと思っています。


俳句は、世界のさまざまな文化の感性を受け止める扉を開く

小野: 今や、世界の多くの国々で俳句の愛好者が増えています。そのように俳句を作る行為や、そこにある美学が人々に浸透していくことは、どのような影響を持つと思いますか?

ローゼンダール: 私はデジタルアートに加えて二年前に絵画も始めたのですが、そうすると美術館に行くと、全然違った見方ができますね。それは俳句だけに限りませんが、俳句であったり写真や音楽であったり、そういったものを始めると、物事を違った見方で見られるようになります。それは俳句だけが特別ということではありません。でも、私の場合は俳句がとても肌に合ったということです。

小野: 私はこれまで、国際俳句コンテストの審査員や選者をやってきました。本当にいろんな国から投稿があって、インドとかアフリカとかインドネシアとか、本当に多様です。そしてそんな俳句のひとつひとつに、それぞれの文化や風土が持つ独特の感性を感じます。短いがゆえの俳句のとっつきやすさが、そのように異なる感性を受け止める受け皿になっていると感じます。

ローゼンダール: それは、私がまさにいい例ですね(笑)。俳句はシンプルなので、「これなら自分にも作れそう」と思えるところがよさです。そんなことが世界中で起きているのでしょう。それはいいことですよ。芸術家や詩人の役割は、他の人に扉を開き、その関わりを促すことだと私は思っていますから。だから、今日はこうやって韓国のみなさんの前で話すことができて、とても感謝していますし光栄です。

小野: 私は、韓国の詩の本をいくつか読んだことがあり、どれも俳句に劣らず素晴らしいものでした。また、韓国がとても詩を書いたり読んだりすることが盛んな国であることも知っています。そんな国のみなさんの前でこのように詩とアートの話ができたことをとても光栄に思います。

(2026年6月18日、韓国ソウル市のイベント施設「Red11」にて開催)


【参考リンク】
・本句集を紹介するウェブページ(韓国語)
・本イベントを紹介するウェブページ(韓国語)                https://dive.hyundaicard.com/web/content/contentView.hdc?contentId=20441




◀︎韓国で刊行されたラファエルの句集


















◀︎2018年、十和田市現代美術館で開催された展覧会のリーフレット














ラファエル・ローゼンダール(Rafaël Rozendaal)
ニューヨーク市在住のオランダ系ブラジル人ビジュアルアーティスト。インターネットアートの先駆者として知られ、彼の作品を展示するウェブサイトは年間6,000万人の訪問者があり、その他に、絵画、インスタレーション、タペストリー、俳句も手がける。これまでの主な展示として、ポンピドゥーセンター、ホイットニー美術館、フォルクヴァング美術館、フランクフルト美術館、メディアアート研究所、アムステルダム市立美術館などがある。
ウェブサイト: https://www.newrafael.com/

小野裕三(おのゆうぞう)
大分県生まれ、神奈川県在住。「海原」「豆の木」所属。英国王立芸術大学(Royal College of Art)修士課程修了。句集(共著含む)に『メキシコ料理店』『超新撰21』『12 Untitled / 12 Haiku』。国際俳句協会評議員および英国俳句協会会員。
ウェブサイト: https://yuzo-ono.com/





2026-08-23

小野裕三 ロンドンで刊行した写真×俳句の作品集

ロンドン刊行の写真×俳句作品集『12 Untitled / 12 Haiku』

マリサ・クラット+小野裕三






背景説明(小野)

マリサ・クラットは英国在住のビジュアル・アート作家。2023年にロンドンのギャラリーで開催された、haikuをテーマとしたアート展に共に参加したのを契機に、僕と彼女は知り合った。それからzoomやeメールを通して会話を続けてきたが、そんな彼女からある日、彼女の撮った写真と僕の作った俳句とのコラボレーションによる作品集をロンドンで刊行しないか、と誘われた。まったく想像もしたこともない未知の、そしてものすごく魅力的な、この誘いに乗った。

「Untitled」と題された彼女の12枚の写真作品に呼応するように、既発表も含めた24句を僕は用意した。最終的に彼女がその中から12句を選び、写真一枚に俳句一句が呼応する形での作品集『12 Untitled / 12 Haiku』が今年の春に完成した。彼女がその作品集についての短文を書いてくれたので、それを翻訳紹介しつつ、加えて末尾に僕自身の所感も記す。


本作品集について(クラット)

本書に掲載された作品群「12 Untitled」は、もともとMOCAロンドンが開催したウェブ展覧会プログラム「2020 WE(Web Exhibitions)」のために依頼されたものです。このウェブ展覧会はウェブサイトとインスタグラムの両方での公開となるため、個々の作品としても、さらには3枚組の組み合わせとしても成り立つ作品群を制作したいと考えました。その目的を達成するために、すべての作品は同一の自律的な構成に従っています。画像は、風雨にさらされ劣化した人工物の細部を捉えたもので、画面内には必ず、左部分には白の背景、右部分には黒の背景が配置されています。これらの作品では、私が初期の頃から関心を抱いていたテーマである、衰えゆくものの美学、そして凡庸で見過ごされたものの美しさに立ち返りました。

MOCAロンドンからの依頼を受ける1年前から、私は写真を使って四季それぞれの風景を捉え、俳句のルールをヴィジュアル作品に取り入れるプロジェクトに取り組んでいました。その実践の成果がまさに「Haiku」と題された72点の作品群で、それらは春夏秋冬の四つに分類されています。

そのような経緯もあったので、「Untitled」の制作にあたっては、自然という主題から離れ、風化した建築物の細部に集中できることに私は胸を躍らせていました。当時は気づいていなかったのですが、ある意味ではやはり私は俳句を作っていたのでしょう。というのも、「Untitled」の作品群もまた、三つの部分、いわば三つの詩的要素によって成り立っているからです。つまり、左部分に白、右部分に黒があり、そして中央にある写真的イメージが、左右の二つの要素を結びつける役割を果たしています。

数年後、日本人キュレーターが主催するロンドンのギャラリーで、ビジュアル・アートと俳句の展覧会に参加を誘われました。小野裕三は、展覧会に展示されたビジュアル作品に呼応して俳句を詠む詩人の一人として招かれており、それがきっかけで私たちは知り合いました。その後、私たちは会話を重ねたのです。その展覧会には「Untitled」の作品は展示されていなかったものの、彼は私の他の作品にも目を向ける中で、それらに興味を示しました。そうして、彼が12の写真に呼応する12の俳句を詠むという、本書の構想が生まれたのです。

ひとつひとつの写真作品が三つの要素から構成されているという事実が、三つの要素(訳者註: 俳句における五・七・五という三つの部分のこと)からなる俳句を作る詩人にとっては魅力的に映ったのではないかと、今になって思うのです。


本作品集について(小野)

彼女の上記の短文にも書かれているが、彼女はもともと「Haiku」と題した写真作品のシリーズを発表していた。それ以前における、彼女とのhaikuとの出会いは、秋桜子の俳句だったという。

 わがいのち菊にむかひてしづかなる 秋桜子

彼女の展覧会に解説を寄せた批評家(日本人でもなければ俳人でもない)が、この句を引用して彼女の作品を紹介したのだと言う。それ以来、彼女はhaikuという存在に魅了されてきたようだ。とは言っても、自身でhaikuを作るわけでもなく、haikuをあくまでインスピレーションの源として見てきたらしいことが興味深い。

俳句と写真は似ている、とは一般的にもわりとよく指摘されることだ。瞬間を捉える、フレーミングの重要性、など確かに似た面も多い。しかしながら、写真と俳句のコラボレーションによる作品集というのは、逆にほとんど見かけたことがない。にも関わらず、いささか自画自賛で恐縮ながら、このユニークな作品集においては写真と俳句がうまく響き合うようにも感じた。なぜそうなのかを考えるうちに、抽象性と具体性、というテーマに行き着いた。

僕は、彼女のいろいろな作品群の中でも特にこの「Untitled」という写真シリーズが好きになった。それはなぜか。一見すると、このシリーズの写真は、抽象画のような印象を与える。そこにある色彩や形は、現実世界からは切り離されたものと映る。だが仔細に見ると、それらは実際には窓や扉や壁の一部であることがすぐにわかる。つまりごくありふれた日常的なものであり、しかも多くは少し汚れたり剥げたりしている。だからこの写真シリーズを見ていると、抽象性の極度と具体的の極度を絶えず行き来しているような感覚になる。

僕が気に入ったのはこの二つの極を揺れるような感覚だし、そして実はこの感覚は俳句にも似ている。表面的に見れば、俳句は常に何かの具体的なものを指し示している。抽象的な概念やイメージばかりを並べて一句を成立させることは困難だ。そして多くの場合、そこで描かれる具体的なものはきわめて日常的なもので平凡なものでもある。しかし、俳句のパラドックスは、その具体性ゆえにこそ、そこにとんでもなく大きな抽象性を浮かび上がらせることがあることだ。ある日本の小説家が、俳句はその簡潔さゆえに宇宙的だ、との旨の発言をしていたと記憶するが、まさにそういうことだ。

僕自身、そのような俳句の持つスリリングな感覚に魅了されてきたのだけれど、この「Untitled」の写真シリーズも同じ感覚を見る者に与える。彼女も無意識にせよそのような類似性に気づいていたからこそ、今回のコラボレーションを着想したのかも知れないとも思う。





※本書紹介のウェブページはこちら(英国のオンラインショッピングサイト)

https://www.booksaboutart.co.uk/products/marisa-culatto-yuzo-ono-12-untitled-12-haiku



マリサ・クラット(Marisa Culatto)

カナリア諸島で生まれ、英国在住のマルチメディアアーティスト。自然、制約、家庭と日々の儀式、物質性、そして現実は構築物であるという概念、を作品の核にする。また、写真というメディアとのアンビバレントな関係のため、写真そのものを主題としてしばしば探究する。多くの個展やグループ展で国際的に作品を発表し、賞や表彰を受け、世界中の多くの個人コレクションに収蔵される。著書に「 Flora: A Frozen English Garden」(Black Dog Press、2023年)。

ウェブサイト: https://marisaculatto.com/


小野裕三(おのゆうぞう)

大分県生まれ、神奈川県在住。「海原」「豆の木」所属。英国王立芸術大学(Royal College of Art)修士課程修了。句集に『メキシコ料理店』『超新撰21』(共著)。国際俳句協会評議員および英国俳句協会会員。

ウェブサイト: https://yuzo-ono.com/


2026-01-11

小野裕三【句集を読む】マブソン青眼句集『ドリームタイム』評 根源にある、ごりごりとした肉感性

 【句集を読む】

根源にある、ごりごりとした肉感性
マブソン青眼句集『ドリームタイム』評
 
小野裕三

※海原 2025年10月号より転載。


この句集では、五七五という我々が親しんできたものではない、新しい韻律の展開がひとつのテーマとなる。それは、五七三という形で規定され、作者の第八句集・第九句集でも取り組んできたものだ。本句集は第十句集となるが、一冊を通して読んでみて、体の中で奇妙なスパークが起きるのを感じた。俳句の韻律を踏まえつつも、俳句の韻律ではない。字余り、字足らず、というものとも違っていて、五七五とは明確な距離を取る独特のオルタナティブになっている。

冬の蜘蛛餓死を楽しむ正午

例えばこの句を五七五にするのは簡単だ。「冬の蜘蛛餓死を楽しむ正午かな」とすれば、定型としての収まりはいい。

石と石が交尾し合って西日

この句も、そもそも上五がすでに字余りではあるものの、「石と石が交尾し合って西日射す」「石と石が交尾し合って西日照る」などなど、いくらでも五(六)七五にする方法はある。あるいは、どうせ頭が字余りなのだから、最後も字余りで収めるやり方だってある。「石と石が交尾し合って西日の照らす」みたいな形でも、それはそれで面白い。それでもこれらの二句で作者は、最後の二文字に至る地点までは正確に俳句の韻律を踏襲しつつ、その最後の二文字をあえて外した。字足らずとも違う確かな意思として。

これらの句を五七三にした効果として、五七五という鉄板の形の、その残像のようなものがどうしても体の中にむずむずと湧いてきて、それゆえに文字通り途中でふっと宙空に自分の鉄板の感覚が立ち消えてしまったあとに、ごりごりとした肉感性を持つ不安感のようなものがそこに残る。そしてその肉感性や不安感は、今の私たちの体の中にある根源的な何かにとってとても迫真性のあるものにも感じられる。

もちろん、五七五ではない新しい韻律を模索しようという動きは、これまでも小規模ながら俳句界になかったわけではない。とは言いつつも、今までのところで、五七五に取って代わるオルタナティブの韻律形式が広く公認された事実はない。五七五を離れた韻律、ということになると、その組み合わせにはほぼ無限に近いような組み合わせが考えられる。その中でひとつだけを選び取るのは決して容易な選択ではないし、仮に誰かがひとつを選び取って多くの人に向かってそれを提言したとして、難しいのは、そのオルタナティブな形の裏付けとなる正当性を、多くの人に納得してもらうことだ。そのようなことはほとんど不可能に近いと言えそうだ。それはなぜかというと、そもそも五七五についても、その正当性を裏付ける論理は何も存在しないからだ。もしもそういう論理があれば、その論理からなにがしか派生する延長上の論理によって五七五以外の何かを正当化することも手続き論としては可能になる。だが、参照先となる大元の正当性がない以上、派生するものの正当性もありえなくなる。

唯一、五七五に対するオルタナティブが正当化されうる裏付けがありうるとするなら、それは肉感性だろう。五七五は詩であるから、それが詩である以上、理屈っぽい論拠が不在であったとしても、肉感性のみで大きな根拠になりうる。ある人が「この新しい韻律は、詩としての肉感的に特殊な効果をもたらす」と提言して、そしてそれが多くの俳人の肉体に共有されうるなら、それはそれでひとつの論拠になりうる。

おおよそ、自由律俳句は意識的にせよ無意識にせよ、この論拠だろう。そこでは、破調で作られるひとつひとつの自由律俳句からつどつど肉感性が立ち上がる。俳人それぞれに、いやもっと言えば各句それぞれに、個別の肉感性が現れる。それはそれでひとつのやり方だ。「墓のうらに廻る」の肉感性、「鉄鉢の中へも霰」の肉感性。そのようにそれぞれにポップアップに成立する肉感性を愉しむやり方はありうる。

このやり方は、詩にとっての肉感性ということを至上命題とするなら、間違っていない。なのだが、問題はあまりにも個別対処になりすぎて、普遍化しづらいことだろうか。つまり、多くの人がその手法を踏襲しようとしても汎用化が難しい。放哉や山頭火のような強い個性がなければ、ひとつひとつの自由律に確かな肉感性を見出していくことは難しい。

その観点から五七三の試みを見てみると、無秩序な自由律とも違う、ある意味で知略に基づいた独自性を作ったと言える。鍵は、九割は五七五の形を踏襲していること、そして破調を一番最後に持ってきたこと、の二点だろう。冒頭から続く五七は、読み手の肉体の中に間違いなく五七五の潜在的な規範を呼び起こす。そうしておいて、最後は寸足らずで終わる。ここが字の多い破調ではないことも鍵で、例えば五七七などであれば、読み手の肉体は五七五のバリエーションとしての字余りとして感知し処理しうる。五七で始まりながら、やや唐突に寸足らずに終わることで、五七五という韻律が築いてきた時空間の感覚を基準として、それに対して明確な距離を取る別の肉感的韻律を作り出す。

たいていはかぜをみているペンギン

この句もそうだ。頭から始まった九割は五七五を踏襲するように見えるがゆえに、結末ではいかにも座りが悪い感が残る。しかし、その寸足らずの間の悪さこそが、逆に何かの始原的な荒々しい力のようなものを感じさせる。それも、あくまで五七五という確立された時空に対する距離において成立するものなのだ。

第八句集で着手した五七三という実験を続けてきて、作者はそのような始原性を掴むコツみたいなものを会得したのだろうか、この句集の中ではその五七三の枠組みをすらも離れたとしても、どこかその面影を残しつつ、始原性の深みに嵌っていくような句をものにする。それは作者自身が「この世とあの世の二重写し」と呼んだものにもつながりそうだ。

滝の声に消される滝の声

鵜潜って水に輪と輪と無と無

鳩の交尾短し胡桃苦し

荒々しさの洗練性(洗練された荒々しさ、ではないので、念のため)みたいなものを感じるこれらの句は、作者のひとつの到達点かも知れない。これらの句では、言葉やリズムの反復がきわめて効果的であることにも注目したい。一句めでは、「滝の声」という言葉がそのままに頭と最後で繰り返される。二句めでも、「輪」や「無」が反復されるだけでなく、「と」が三回も出てくる。三句めも、「交尾」と「胡桃」の語感がどこか似ている上に、「し」という語尾も反復される。これらのどこか複雑な仕掛けのような言葉やリズムの反復は、やはりごりごりした肉感性を感じさせ、五七三という実験を続けた先に作者が掴み出した何かのようにも思える。

最後にやや蛇足ながら触れておくと、この始原性の探求がぐるっと一周回って現世に戻ってきたかのように、五七三俳句がきわめて世俗的な様相をときに見せるのも面白い。

間違い電話来て火焔土器怒る

夫婦喧嘩やめ火焔土器撫でる

これらの句では荒々しさは身を潜めるのだが、まるで喉の奥に魚の骨でも引っかかったような、小さいがしかし確かに存在する違和感がある。五七三で培った肉感性を、現世的な諧謔のほうに振るとどうなるか、という、それもひとつの派生的な実験なのかも知れない。

 

 






2025-11-30

小野裕三 ラドゥ・シェルバン句集『百俳句(HYAKU HAIKU)』評

ラドゥ・シェルバン句集『百俳句(HYAKU HAIKU)』評(本書序文より和訳転載)

小野裕三


註: ラドゥ・シェルバン氏は、元・駐日ルーマニア大使であり、俳句愛好家でもある。日本文化や俳句について、出版や講演を通じたルーマニアでの啓発活動も行う。彼が最近刊行した句集『百俳句(HYAKU HAIKU)』の序文を私(小野)が依頼されて、執筆した。下記は、原文である英語から内容をそのまま和訳したものである。



俳句は世界を捉える。

もっとも大胆に。そしてもっとも繊細に。

すべての俳句は、世界を捉えるためのひとつの手かがりだ。そしてこの「捉える」というのは、世界を「感じる」ことと思われそうだが、それだけではない。それは、世界を「理解する」ということだ。世界を理解することが常に俳句では必要だし、それこそが俳句である。

例えば、次のような句がそうだ。


屋根裏部屋

燭台は今も守る

光の秘密


ついに見つける

風がどこから来るのか

初雪


これらの俳句は、世界の秘密を開示する。それは、光の秘密であったり、風の秘密であったりする。

ここでこんな問いを立ててみよう。作者は、まず世界に秘密があることに気づき、次にそれを俳句にしようと考えて、俳句の形にしたのだろうか。あるいは逆に、俳句にすることで、あるいは少なくとも俳句を作ることを意識することによって、世界の秘密に気づいたのだろうか。その答えは後者だろう。つまり、俳句という形式が世界の秘密を作者に開示した。

もちろん、それは俳句のみの特権ではないとは言える。すべての詩は世界の密やかな秘密を開く。それはきっとそうなのだ。

だがそうだとしても、俳句がもっとも大胆かつもっとも繊細にそれをなしうる。というのも、世の中にあるすべての詩の形式は、俳句より長い。俳句は、短くなくてはならない。他のどんな詩の形式よりも。短くするためには多くのものを切り捨てねばならず、そこには大胆さが必要だ。しかしその一方で同時に、その短さの中で作品として的確であるためには、世界の中にあるもっとも繊細な核の部分を正確につかみ出す必要がある。これこそが、俳句は大胆であり同時に繊細なものとして立ち現れる理由だ。大量の情報を切り捨てた上で精密に凝縮するという行為の中に、世界に対する直感的な理解が含まれる。そしてこの作者の感性は、そのような大胆さと繊細さにおいて秀れたものだ。

そのような俳句の持つもっとも核心的な本質を確かに踏まえつつ、その上でこの作者独特の感性の開花がこの句集には一貫して見られる。

大胆さと繊細さということで言えば、次のように季節を捉えた句は典型的だろう。


お香の煙

夏よりも高く

門の松の木


南に飛ぶ

鶴は嘴に咥える

秋のまるごとを


春の女王

花の王座にあり

世界を統べる


季節そのものを大きく捉えること。これらの句での季節の捉え方の大胆さは、驚くべきものだ。一句めでは、夏が高さの比較の対象になる。二句めでは、秋のまるごとが鳥の嘴に咥えられる。三句めでは、花の王座にいる春が女王となり、世界全体を統治する。 これらの句は、そのことを率直に語る。ここでの季節の大胆な捉え方は、表面的にはいささか奇異なものとも見え、何かの転倒のようにすらも思える。しかしながら、深層においてはまさに世界そのものの正確な反映とも見える。つまりこの驚くべき転倒こそが世界なのだ、とこれらの句は感じさせる。

また、大胆さと繊細さの並立は、次の句のように大きなものと小さいものという形でも現れる。


灰色の夜

海の殿堂の上に

白い雨の水門


たくさんの雨

街は溢れかえる

小さな傘で


一句めでは、白い雨粒が集まって水門のように目に映る。二句めでもやはりたくさんの雨が降るが、それが洪水のような大きなイメージと小さな傘、という大小の対比で彩られる。俳句において対照というテクニックを使うのは一般的な手法だ。だが、これらの句で面白いのは、その二つが単なる並置ではなく、大と小が切れ目なくつながってついには融合したイメージを形作ることだ。それはさきほども触れた転倒に近い感覚をもたらす。

この転倒した感覚こそが、この句集において作者が発見した世界の秘密なのだが、この感覚は、俳句の中での美しい鮮烈さや律動としてときに姿を現す。

鮮烈さということでは、次の句がそうだ。


オペラ公園

二色の沈黙

雪とカラス


双子の雪

同じ無垢のひとひら

北と南


これらの句に見られる、大胆な見立てゆえの鮮烈さはすばらしい。世界が白と黒、あるいは北と南、でしかできていないかのような大胆なイメージ。音もなく雪ばかりが一面に降る世界。その世界を満たす、鮮烈で静かで確かな力の漲りを、この作者はまたしてもその大胆な繊細さによって捉えた。余分な末端や詳細を削ぎ落とすことで、この大胆な構図の中から世界の本質的な繊細さが立ち上がる。きわめて単純でありながら、世界の隅々まで隈なく正確に捉え尽くすような印象をこれらの句は与える。

そして律動ということでは、次のような句が挙げられる。


冬の夕焼け

鋪道や壁の上に

影の劇


葉のバレエ

風笛の音に

静けさのショー


結婚相談所

ダンスを学び初めての

雪のひとひら


これらは、大胆さによって掴み得た、世界の真の繊細さが本質的に持つ律動なのだろう。その繊細さは、世界を祝福する美しい律動として俳句の中に現れる——一句めの美しい影の動き、二句めの葉や音の律動、三句めの初めての雪と踊る人。これらの句を読むと、世界がその内なる力によって、瑞々しく震えているように感じる。そしてこれらの句は、日本に生まれ育まれた俳句の本質を丁寧に踏まえつつ、ヨーロッパ的な感性を加えたもののように思える。だとするならば、それは俳句という日本的な美意識から多くを受け取りつつ、さらにヨーロッパ的な美意識を加えた、新しいスタイルの美のあり方とも言える。

そして最後に、このような大胆さと繊細さの併存による転倒のような感覚は、その二つの要素の相互作用を通じて、余韻のようなものを生み出す。


鐘楼の中で

反響が満たす

スズメバチの空っぽの巣を


静物

かつての花の花瓶に

虚ろな夏


蝶の羽根が

書物の上で開く

言葉の花粉


染み渡る鐘の響き。花の枯れた花瓶。花粉のような頁の上の言葉たち。これらは俳句特有の余韻や余白の印象を与えるが、その根底にあるのは大胆さと繊細さの併存が生み出した転倒感覚だ。

ここまで見てきたように、この句集は秀れた一冊だ。それは、俳句という文芸に対する深い理解と、そして作者が個人的な特質として持つだろう大胆さと繊細によるものであり、それらすべてが俳句形式の中で効果的に作用している。



※本書の原文は下記で読むことができます。

 https://www.thehaikufoundation.org/omeka/index.php/items/show/7292

※ラドゥ・シェルバン氏のプロフィールは、下記の在ルーマニア日本大使館ウェブサイトなどをご参照ください。

 https://www.ro.emb-japan.go.jp/itpr_ja/Amb.Serban.html

2025-05-25

小野裕三 haikuを愛する元・EU大統領 ファンロンパイ氏に通訳同行して

 haikuを愛する元・EU大統領 ファンロンパイ氏に通訳同行して

小野裕三



元・ベルギー首相でありEU(ヨーロッパ連合)の初代大統領でもあるヘルマン・ファンロンパイ氏は、haikuの愛好家として知られる。彼は今年の五月に来日して日本政界の要人と次々と面会したが、多忙なスケジュールを縫って、千葉の御宿で開かれた句会に一日だけ参加した。国際俳句協会からの依頼で、僕が当日の通訳をすることとなり、彼に終日同行した。このエッセイはそのレポートである。


御宿行きの特急列車は、朝早くに東京駅を出発。僕は彼の隣の席に座り、句会の進行などを軽く打ち合わせ。ひととおりの手続的な確認が終わったあとで、雑談がてらに質問をしてみた。

「そもそも、どういうふうに俳句に出会ったんですか?」

「いやそれはね、まったくの偶然なんだよ」

曰く、あるパーティの席で、彼が卒業したルーヴェン・カトリック大学の同窓生と同じテーブルになった。その人がhaikuを作る人で、句集を手渡された。しかしそのときには興味もなく、自宅の本の山の上に積んでおくだけだった。それから数年して、その本を手に取って読み始めた。それが彼にとってのhaikuの始まりだったらしい。

「積まれた本の山の中から、そのときにその句集を手に取ったのは、何か理由があったんですか?」

「いや、それも何も理由はないんだよ。だから、ほんとうに偶然なんだ」

もともと詩には関心があったということだが、それからhaikuにのめり込んでいったのは、どこか彼の気質みたいなものにも合っていたのだろう。そのうちに彼がhaikuを作ることが日本のメディアにも知られるようになると、政治家としての記者会見の場でも「haikuを詠んでみてください」と言われることが出てきて、そこでhaikuを披露すると記者たちにも喜ばれた、という。そんなことも、彼がhaikuを続けることを後押ししたのかも知れない。

「俳句は頻繁に作ってますか?」

「いや、残念ながらあまり作れてないね。私はいろいろやらなきゃいけない仕事が多い。だから俳句を作る充分な時間もないし、それに、俳句を作るには心のゆとりみたいなものも必要だからね」

そんな我々を乗せた特急列車は御宿に到着し、待っていた御宿の俳句会「若菜会」の人たちから大歓迎を受ける。星野高士氏が講師を務めるその句会に、ファンロンパイ氏がゲスト講師として参加する形だ。ちなみに三年前の夏にも、氏は御宿を訪れている。ぜひ再訪して、という熱烈なラブコールを受けての今回の訪問となったようだ。


句会には約四十人の日本人が参加。事前投句された句は前もって僕が英訳して、あらかじめファンロンパイ氏にメールで送付済み。当日の句会では、星野氏、ファンロンパイ氏、がそれぞれに採った句を講評していく。ファンロンパイ氏は冒頭にこう語った。

「まず、自分がどのように採る句を選んでいったのかの方法論を説明します」

最初は、約七十句ある全句を読む。それから自分が「好き」と感じる十句を直感的に選びとり、その後で、なぜ自分がその句を「好き」と思ったのか、という基準(criteria)について考えた、という。

句会休憩時の歓談 ※写真は千葉日報から引用

「私にとっての基準は三つありました。簡潔さ(simplicity)、対照(contrast)、擬人化(personification)、の三点です」

簡潔さとは、言葉、観察、思考、などの点において簡潔であることだ、とする。対照についても、彼が例句として挙げたものは五感の対照であったり、社会的な出来事だったり、と幅広い視点が見られた。また擬人化については、蛙の表情を人間に喩えるなどいくぶんユーモラスな内容のものも含めて、彼は自身の気に入った例句を示した。

興味深いことに、ファンロンパイ氏の選んだ十句のうち、半数の五句が星野氏の選とも重なった。俳句的な美意識がそのように日欧の間で共有されたことは、ファンロンパイ氏にも印象的だったようだ。

句会の最後に、彼は自身の俳句観について語った。俳句の特徴として彼が以前から強調しているのは、自然などを観察して描くことで、意識の力点(attention)を自分ではなく自分の外に向けること。それは自分のエゴみたいなものに囚われない心を作る、と彼は力説する。

一方で彼は、長く俳句を作っているが「俳句は簡単ではない(not easy)」とも繰り返す。やはり訓練を重ねた上での高度なテクニックが必要だ、と捉える。


句会の中で、ウクライナを詠んだ句があり、彼がそれを講評する中で、ウクライナだけでなく、ガザ、スーダンなど世界の紛争地域の名を次々と挙げていったのには、まさに平和をテーマに尽力してきた実務者としての重みを感じた。二〇一二年、EUはノーベル平和賞を受賞したが、その授賞式に参列したEUのトップはまさにファンロンパイ氏だった。

その彼が、「俳句を作る心は、世界平和に貢献する」と繰り返し主張する。俳句がもたらす穏やかで澄んだ心のあり方、自分(彼は「エゴ」という言葉をよく使う)ではなく自分以外のものに心の焦点を向けるあり方、それらの特性は間違いなく平和な世界を作るために必要な条件だ、と彼は考える。

列車の中での雑談で印象的だったのは、彼が御宿で起きたある歴史的な事件をよく知っていて、そのことを熱く語ったことだ。今から約四百年前に、当時スペイン領だったフィリピンからメキシコに向かう帆船が、嵐のために御宿沖で座礁する。これを見た当時の御宿の人たちは、遭難者を救い介抱した。そのことを記念する塔も御宿には建てられている。そんな心温まる歴史を持つ御宿で句会をすることにも、氏は意義を感じていたのだろう。

俳句と世界平和、という繋がりは、突拍子もない夢想とも思える。だが、ノーベル平和賞をEU代表として受賞した経験を持つファンロンパイ氏が真顔でそのことを語る姿には、リアルな重みを感じた。そうやって彼と会話するうちに、この繋がりを夢想だと思わないことから何かが始まるのでは、とそんな気がしてきた。


句会終了後のスナップ


※本句会の概要については、下記のニュース記事もご参照ください。

 EU初代大統領、御宿で句会に参加「俳句の心は世界平和につながる」(産経新聞)



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小野裕三 おの・ゆうぞう

「海原」「豆の木」所属。英国王立芸術大学(Royal College of Art)修士課程修了。現在、国際俳句協会評議員および英国俳句協会(British Haiku Society)会員。

http://yuzo-ono.com



2025-02-16

小野裕三【週俳1月の俳句を読む】それも作者の意図

【週俳1月の俳句を読む】
それも作者の意図

小野裕三


寒林を抜けて演技の小部屋まで  西生ゆかり

演技の小部屋。どんな部屋なのでしょう。それが無性に気になります。舞台の周りには、楽屋の部屋とか、演技の部屋とか、いろんな種類の部屋があるんでしょうか。だとしても、寒林からはそんな舞台や部屋まではだいぶ遠い位置関係と思えますし、とすれば、その移動には時間がかかりそうです。しかも、ただの部屋ではなく、小部屋。この小ささも気になって、折檻部屋みたいなとこかなあ、とか、妙なことも想像してしまいます。そもそも、いったいどんな人が、何の目的で、そこに? そして、その移動の過程でどんなことが起きるのか? などなど、まあ考え出すとミステリアスな要素が満載で、一句で何度も鑑賞を楽しめます。


記憶より明るい書店日記買う  知念ひなた

つい先日、外国の人が作った英語の俳句で似た趣向の句を見かけて、そこでは色を過去の記憶と比較してました。この句では色ではなくより漠然とした明るさが対象なので、空間全体というか、総合的な印象というか、そういう捉え方が強くなりますね。書店だから、いろんな本が並んで、色とりどりで雑多なはず。それに、文字がはっきり見えないと話にならないから、店内はかなり明るいでしょう。という、書店ならではの色彩や明度の条件と相まって、現在の視覚と記憶の視覚との比較がなんとも生々しい鮮度で迫ってきます。その生々しさが、どこか文字自体(書店にはいやというほど文字が詰まっているわけで)の持つ生々しさにも似て、さらにはここの季語の時間的に宙ぶらりんな感じにもマッチします。明るさという感覚をフックに、時間と空間をうまくコントロールして表現してます。


濡れた手で就業規則さわっちゃった  暮田真名

五七五にするなら、さわりけり、とか、さわるかな、とかやり方は簡単に見つかったはずですが、ここでは、さわっちゃった。破調かつ口語を貫いたわけですね。口語という以上に、かなり俗っぽい話し言葉に寄った言い方でもあります。でも、そうすることによって、話者の表情や声音やひょっとすると暮らしぶりや性格すらこの句からは見えてきますね。きっとそれが作者の意図でもあるのでしょう。と考えると、なぜだか手は濡れてるし、触る対象もよりにもよって就業規則だし、どこかただならぬシチュエーションなのです。だって、就業規則なんて、そんなに日常的に触るものじゃないですよね? そんなこんなで、なんだか絶妙にドキドキする句に仕上がっていて、それも作者の意図でしょうから、その意図は成功していると思います。


■西生ゆかり 室内楽 10句 ≫読む 第926号 2025年1月19日

■知念ひなた 風の街を住む 20句 ≫読む 第926号 2025年1月19日
■暮田真名 芋づる式 10句 ≫読む 第927号 2025年1月26日

2024-04-28

小野裕三+ガートルード・ギボンズ haikuをテーマとしたロンドンでの現代アート展に参加して

haikuをテーマとしたロンドンでの現代アート展に参加して

小野裕三+ガートルード・ギボンズ


■背景説明

小野裕三


2023年10月〜11月に、ロンドンのアートギャラリーで開催されたアート展に、俳句作品およびワークショップ講師として参加した。

このアート展は、haikuをテーマに現代アート作家たちが作品を制作し、英国の詩人数人と私がそのアート作品に呼応するhaikuを作って会場で音声として流す、という構成のものだった。

そのアート展について、私の友人である、ガートルード・ギボンズさんが展覧会評を書いて英国のオンラインマガジンに掲載してくれた。文中では「参加した小野裕三に質問をする」という趣旨で、私のコメントも引用されている(青字部分)。異文化・異言語そして異ジャンル(=アート)の視点から見た俳句、という内容は日本の読者にも興味深いのではと考え、その和訳をここに掲載させていただく。

なお、参考までにこのアート展のために私が作った俳句を一句引用しておく。

 蝸牛に一切合切という雨  小野裕三

 for a snail

 the rain as

 anything and everything  Yuzo Ono


以下が、ガートルードさんの文章である。


■「SPLASH !  The Haiku Show」(White Conduit Projectsギャラリー)について

文: ガートルード・ギボンズ

 ※文中後半は小野裕三からのコメントの引用(青字部分)

和訳: 小野裕三 


「SPLASH ! The Haiku Show」は、ポール・ケアリー=ケントと三宅由希のキュレーションにより、2023年10月6日から11月11日まで開催された。オリヴィア・バックス、マリサ・クラット、アビ・フレックルトン、市田小百合、稲岡亜里子、リサ・ミルロイの6人のアーティストによる「haikuの精神」を視覚的に表現するアート作品を展示。また、リチャード・メイヤー、小野裕三、タマール・ヨセロフ、ポール・ケアリー=ケントの詩人によって作られたそれらのアート作品に呼応するhaikuも音声にて展示された。


White Conduit Projectsギャラリー
屋外からの展示風景(ロンドン)

本展覧会は、日本古来のものとその西洋的展開との間で、俳句の定義、それと視覚性との関係、そこでの交流、について考えることを鑑賞者に要求する。そこでは、「(俳句の定義を)簡単に言えば、三行で構成され、時間の移ろいに言及する凝縮された詩である」として、松尾芭蕉(1644-94)の「古池」の伝統的な例が引用される。

 古池や 

 蛙飛び込む 

 水の音

英語の翻訳は下記。

 An old silent pond(古い静かな池)

 A frog jumps into the pond –(一匹の蛙がその池に飛び込む)

 Splash! Silence again.(ぱしゃん! 再び静けさ)


この「ぱしゃん(splash)」(ただし、英語の翻訳に表示されるこの言葉は、日本語の原句では直接的には書かれていない)を題名に冠した本展覧会は、俳句の精神を学際的かつ国際的に探求する。伝統的な定義はともかくとして、俳句を俳句たらしめるものとは何か? 他の芸術形態はどのように俳句の感覚を捉えることができるのか? 俳句にある抽象的な感覚を明示するのは困難だ。だからもっと簡単なのは、俳句を作る規則に触れたり、あるいは俳句に見られるより一般的なイメージや考え方を挙げたりすることだろう。英語の「ぱしゃん」というオノマトペは、音とイメージの両方の意味合いを含むが、その実態は掴みにくい。水がなければ起きないことで、生物であれ非生物であれ、何かの硬い物が水にぶつかることによってそれは起きる。そして「ぱしゃん」の後の感嘆符(!)は、中断や途絶、そして出来事の前と後にある水の静けさを仄めかす。


会場風景。手前: アビ・フレックルトン、
奥(左から右へ): オリヴィア・バックス、リサ・ミルロイ、稲岡亜里子

会場風景。手前: アビ・フレックルトン、奥: 市田小百合

この展覧会は、文章芸術と視覚芸術の両方で、俳句の形式と精神との間を行き交うものを国際色豊かに探求する。俳句の精神を受け継ぐ本展のアート作品は、時間、断片的で繊細なもの、変わらないものと変わるものの循環、郷愁や憧れ、といった観念を考察する。

市田小百合による官能的な写真は、欲望と静寂、そして自然における人間の居場所を表現する。稲岡亜里子による喚起的なプリントもまた、光に細心の注意を払い、アイスランドを舞台に一卵性双生児のペアを描くことで、同様の関係を問いかける。オリヴィア・バックスは、古新聞や絵の具、作り直されたオブジェの使用を通して、再利用と反復のことを考察する。アビ・フレックルトンの陶器は、その素材は親しみやすいものながら、そこで再構成された形は人の認識を拒む。リサ・ミルロイの絵画では、思いもしないパターンがフレームに収められ、鑑賞者の心の中にそれらの断片をつなぐ物語が形作られていく。マリサ・クラットの写真には季節を反映する題がつけられ、自然によって作られたパターンを捉える。それらの作品に寄り添うタマール・ヨセロフ、小野裕三、リチャード・メイヤー、ポール・ケアリー=ケントの詩は、丁寧かつ繊細にそれぞれのアート作品に呼応しており、その中には、アート作品を引用するテキストとして直接的に理解できるものもあれば、アート作品がもたらす感覚をさりげなく反映しているものもある。そう思えば、ギャラリーのアート作品の横にキャプションを置くという一般的によくあるやり方ではなく、このように作品に呼応する俳句を置くのもいい方法かもしれない、と考えさせられた。

俳句は視覚性との親和性が高いと言えそうだ。以前、私(ガートルード)が小野裕三とコンクリート・ポエトリー(訳註: 詩における視覚性を重視した前衛詩の手法)について議論した際に、彼は日本語にはさまざまな文字の系統があると言い(訳註: 漢字、ひらがな、カタカナのこと)、そのためいろいろな書き方の方法が選べて、たとえ同じ言葉であっても異なる書き方で書かれることがあるし、結果として視覚的な見え方も異なることがあると語った。

詩の文章が一般的にそうであるように、ページ上での位置、その周囲の空白、句読点の使い方は、言葉の意味や感じ方にとって重要なものだ。英語で言えば、ダッシュをどこまで伸ばすかであったり、あえて句読点を打たずそのまま空白へと続く行もあるし、行の中央あるいはそれ以外で区切ることもある。どの単語が句読点で区切られ、どの単語が剥き出しで空白へと続くのか?

私は、俳人である小野裕三に、文章と視覚性との関係や、俳句の精神が異なる芸術形態の間で翻訳可能かについて、この展覧会における彼のコラボレーションに関連しつつ聞いてみた。

英語の俳句の世界では「写真を見てそれに呼応する俳句を作ってください」と言われる機会はけっこうある。しかしながら、日本語の俳句の世界ではそれはほとんどない。日本語の俳句では、「季題」「兼題」と呼ばれるやり方が一般的で、ある言葉を提示されてそれを俳句の中に入れて俳句を作ってください、と言われるのが通常だ。

その意味で、今回の展覧会でアート作品の写真を見ながらそれに呼応する俳句を作るのは私(小野)には新鮮な体験であり、難しい作業でもあった。というのも、俳句という形式はある種の具体性を通常はその出発点とする。だからこそ、季題・兼題という具体的な言葉を使ったシステムが力を発揮する。そしてこの具体性が結果として微かな抽象性を生み出す。そういう仕組みが俳句の美であり、俳句の美学だ。

だが、この展覧会での作業はそれとは違うものとなった。一般的に言って、アート作品、特に現代アートの作品はきわめて抽象的である。したがって、そのアート作品に向き合って俳句を作るには、まずその作品の持つ抽象性を的確に掴み、次にその抽象性を俳句という具体性にしなくてはらない。つまり、ここでは具体性と抽象性の順序が通常とは逆になる。なので、非常に作りにくかった半面、結果としてできた俳句は抽象性の純度が非常に高いものができたと感じている。その意味で、今回の展覧会での俳句とアートの出会いを私はとても楽しんだ。

またその一方で、俳句の歴史をあらためて考え直すことになった。アートと俳句の関係は常に複雑なものであり続けた。特に、西洋のアートとの関係は、だ。

日本の俳句史上に有名な「第二芸術論」と呼ばれるものがある。日本が第二次世界大戦に負けて自分たちの文化にも自信を失っていた時、西洋文学を専門とした当時の高名な学者が、西洋の崇高で壮大なアートに比べれば、俳句のように些細で日常的なものは、アートと呼ぶに値しない、と主張した。それはせいぜい「第二芸術」とでも呼んでおけばいい、と彼は言い、この主張は当時の日本の俳句界を大きく揺るがした。皮肉なことに、この論への心理的反発が、日本の戦後俳句史を活性化したひとつの要因になった。

西洋美術の影響は技術的にも俳句を変えてきた。百年以上も前に、日本の近代俳句の基礎を作ったとされる正岡子規は、「写生」の概念を導入することで俳句を革新したが、その「写生」とは西洋美術の影響から生まれた手法だったとされる。また、1960年代には「前衛俳句」という新しい運動が俳句界を揺るがしたが、言うまでもなく、その「前衛」という言葉自体が西洋美術からもたらされた。19世紀末以来、日本の俳句は絶えず西洋美術の影響を受けることでその姿を変えてきた、と言っても過言ではない。

そのことは、俳句がそれ以前の本質を捨てたことを意味はしない。俳句の古い美の本質と西洋美術的な概念や技法をどう調和させて、現代にふさわしい俳句の形を作っていくか。それがこの百年以上の間の、日本の俳句の不変の問いだった。

その視点から興味深いのは、幾人かの西洋の偉大なアーティストたちが俳句への関心を示していることだ。例えば、米国の音楽家ジョン・ケージは「haiku」と名づけられた楽曲やアート作品を作っている。彼自身の著作の中でこんな言及もする。
山を心地よく照らす火は、遠くは照らさない。同様に、美しい形式は短い瞬間を照らすだけで充分だ。(中略)そう考えれば、ブライスが著書『俳句』で書いた〈芸術家の最高の責任は美を隠すことだ〉という言葉が納得できるだろう。(John Cage, Silence, London: Marion Boyars, 2017, p.131)
例えば、ジョン・ケージの「4分33秒」は、俳句的な作品なのだろうか。直感的には、その答えはイエスのように感じる。

ここまで見てきたように、俳句とアートとの関係は複雑だ。ひとつだけ言えるのは、美というものが具体性と抽象性との間の関係やバランスにおいて成立するものだとするなら、その三つのものの相関は、西洋の美術と、俳句では、明らかに何かが違う、ということだ。だからこそ、崇高な西洋美術に比べて俳句は些細で価値がないと非難した日本の学者もいる一方で、西洋美術にはない美の考え方を俳句に見出してそれに着目した西洋のアーティストもいた。それはおそらく、ひとつのコインの両面なのだと思う。

この展覧会では、タマール・ヨセロフによる現代俳句の実作ワークショップと、小野裕三によるイントロダクション・トークが行われた。この展覧会は、鑑賞者に俳句の精神に対する自分自身の理解や関係を考えるだけでなく、文化、言語、芸術形式がどのように互いに協力しかつ互いを通じて機能できるかを考えることを促す。

会場風景。手前: アビ・フレックルトン、
奥(左): マリサ・クラット、奥(右): 市田小百合


会場風景。稲岡亜里子、マリサ・クラット、アビ・フレックルトンの作品



写真はアーティストおよびWhite Conduit Projectギャラリーより提供

原文掲載のウェブサイト https://www.soanywaymagazine.org/issue-sixteen



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小野裕三 おの・ゆうぞう
大分県生まれ、神奈川県在住。「海原」「豆の木」所属。英国王立芸術大学(Royal College of Art)修士課程修了。句集『メキシコ料理店』(角川書店)、『超新撰21』(共著・邑書林)。現在、国際俳句協会評議員および英国俳句協会(British Haiku Society)会員。

ガートルード・ギボンズ Gertrude Gibbons
ロンドン在住。英国王立芸術大学およびヨーク大学で文学を学ぶ。フランス文学や演劇等のレビューを各誌に寄稿する他、著書に『The Phaistos Disk』『The Silent Violinist』がある。美術、小説、演劇、音楽、オペラ、建築と幅広い領域に関心を持ち、リサーチ・創作活動を続ける。


2023-12-03

小野裕三【週俳3月~8月の俳句を読む】一句を一貫する濃さ

【週俳3月~8月の俳句を読む】
一句を一貫する濃さ

小野裕三



木蓮の花弁崩れて夜のふけぬ  髙木小都

木蓮はダイナミックな印象の花です。はらはら儚く散るというよりは、落ちる、降る、という感じの最後になる花なので、「花弁崩れて」という濃い言い回しが言い得てます。その取り合わせとして、深まる夜が配されてますか、木蓮はなんだかひとけのない深夜が似合う気が個人的には確かにします。一句を一貫する濃さがちゃんと機能してますね。


いつまでも咎めるごとく夏の月  小田島渚

そうですか。夏の月は、けっこう根にもつタイプなんですかね。今までそんなことを意識したことはなかったですが、確かに夏の月は、そんな性格かも知れません。あるいは、月以外の何かがそんな状態なのかも、ですが、ともあれなんだか納得するのはいい句である証拠ですね。「咎める」というちょっと硬い言い方がうまくはまっていると思います。


みつ豆の還俗したやうな野望  土井探花

みつ豆の句は、だいたい俗な感じの句になり、崇高な感じにはなりにくいです。そんなみつ豆の性質を踏まえつつ、「還俗」「野望」という重たい言葉を連続でぶつけてきました。還俗と言われても、みつ豆ですから、崇高な世界をこれまで実は生きてきたとも思えません。なので、末尾の野望という言葉が効きます。ちょっとした仕掛けめいて洒落てます。
 

夏鷗飛ぶばかり防潮堤高し  広渡敬雄

三陸海岸ということなのでいろいろな経緯や背景を思わせる句ですが、いったんは実景のみの句として解釈することにします。すると、二つの物がそれぞれに高さを持っていて、それがうまく響きあうのです。防潮堤の高さもあたかも町や岸の世俗を遮るように働いて、だから海や空の青さ、波や雲や鴎の白さ、がコントラストとして際立つのです。


寝たふりのよく聴く耳よマスカット  野名紅里

もちろんこの句は前半が面白いわけで、寝たふりして聴き耳立ててるなんて、ある意味でちょっとかわいい感じもして、横になった背中の丸まり具合なんかも想像されます。が、この句、意外にマスカットがいいんですね。最初は、え?マスカット?と思ったのですが、よく読んでると、マスカットの色艶香りなどがうまく効いてきて、いい按配です。



■髙木小都 祝福の鐘 10句 ≫読む  第828号 2023年3月5日
■小田島 渚 夏の月 10句 ≫読む  第834号 2023年4月16日
■土井探花 夢が傷む 10句 ≫読む  第843号 2023年6月18日
■広渡敬雄 三陸海岸 10句 ≫読む  第847号 2023年7月16日
■野名紅里 星飛ぶ夜 10句 ≫読む  第853号 2023年8月27日

2022-08-07

小野裕三【週俳6月7月の俳句を読む】うまい具合に宙吊りに

【週俳6月7月の俳句を読む】

うまい具合に宙吊りに

小野裕三


香水の香を分け合へる男女かな  津髙里永子

遠雷に寝つく夜明けの天邪鬼  同

成熟した男女関係を、生き生きと俳句で描くのって、けっこう難しいような気がしています。ここは見解が分かれるのかも知れませんが、少なくとも僕の個人的な見解ではそうです。でも、この連作はそんなちょっと厄介な領域に挑んでかなり成功していると思いました。

一句目なんて、ちょっとアンニュイな雰囲気もあって、どきどきしますよね。枕元には、二人の腕時計も寄り添うように置かれていたりして。そんなディテールを想像させる喚起力がこの句にはあります。二句目の天邪鬼は、これはいろんな解釈がありそうですね。でもどんな解釈であっても、この遠雷と夜明けの関係には、どこか艶めいた感じがあります。寝つくまでの長い時間と、そしてこれから始まる一日の長い時間の、それぞれを思って、うまい具合に宙吊りにされるような感覚があります。


棕櫚咲いて菜食の人小さき声  森賀まり

裸子の髪の根ふかく梳かしやる  同

端正な空間を一貫して描き切った連作だと思いました。しかも、端正なのに微妙に遠近感が歪んだみたいなところがあって、端正さが本質的に持つ不均衡みたいなものを句のデザインとして際立たせている印象があります。

ここに挙げた二句もそんな感じで、空間としてはいかにも秩序立っているのですが、そこに向ける視線がどこかしらデフォルメされているところがあって、微妙な居心地の悪さを感じながら、その居心地の悪さがどこか快感にもなる、という、そんな仕組みです。しかもそのデフォルメに作者の感情みたいなものがちゃんと乗っているので、読み手もいつの間にか共感しちゃったりするわけです。


蠅の如沸き起こり来るバイクかな  杉原祐之

開発に取り残さるる日向水  同

実は僕はいまだにフィリピンには行ったことがありません。でも東南アジア全般は昔々バックパッカーでうろうろしたことがあるので、たぶん雰囲気は似ているのでしょう。わっと来るバイクやらトゥクトゥクやら自転車やら。交通法規も今ひとつあいまい。よくもわるくもわりとなんでもありの社会。そこには混沌とした熱気があって、その混沌ぶりがなんとも刺激的だったりするわけです。

そんなわけなので、いわゆる日本的な情緒の季語がうまくはまらない情景もその地にはたぶん多いと思うのですが、その意味では季語をきちんと選ぶことでこの混沌をうまく掴んでいます。東南アジアの混沌の匂いがむっとするような熱気とともに伝わります。


■津髙里永子 練乳 10句 ≫読む  第792号 2022年6月26日
■森賀まり 虹 彩 10句 ≫読む  第793号 2022年7月3日
■杉原祐之 マニラ 10句 ≫読む  第795号 2022年7月17日

2020-10-11

【週俳9月の俳句を読む】背中越しに 小野裕三

【週俳9月の俳句を読む】

背中越しに

小野裕三


半玉の西瓜となれば撫ではせぬ  相馬京菜

考えてみると、西瓜というものはだんだん小さくなっていくわけです。大玉から半玉、そこから六等分とか八等分とかになって、最後はスプーンで一口分ずつ掬われて、口の中で噛まれて散り散りになっていく。そんな細分化の過程が西瓜の一生(?)だとすると、果たして西瓜はどの時点でその原初の〝西瓜性〟を失うのか、という問題があることに気づきます。半玉は、すでに純粋な西瓜性を無くしているのでしょうか。確かにスーパーなどで売られる半玉を見るとどこか「おいたわしや」という気もするわけです。もはや半玉となった西瓜を、すっぱりと何かを吹っ切ったように「撫ではせぬ」と断言する作者。そこには、西瓜と作者をめぐるなにやら壮大な愛憎の歴史が広がっているようで、このさりげない一句から広がっていく奥深い世界がいかにも面白いわけです。


ぽつりぽつり背中に話すカヌーかな  吉川わる

背中はいつもドラマティックです。面と向かって何かを話すより、背中という存在が言外に伝えることの方がよっぽど重かったりします。だから、「ぽつりぽつり背中に話す」という状況設定は少しどきりとしますよね。ところが、それが「カヌー」だと最後に分かる。確かにカヌーであれば、同じ方向に座るだろうし、あまり身動きもできないし、なので背中に話すのもまあ当然かな、と。でも、話はそう単純でもなさそうです。実は、背中越しにしか話せないことも世の中にはあるのかも知れません。面と向かうと話せないのに、背中越しに話すことによって、初めて伝えることのできる話って、ありそうな気がします。背中とは、それほどにドラマティックな装置なわけです。そう考えると、カヌーという場ゆえに初めて語られ出す、人生の真実がここにはあるのかも知れません。


近づくに木に秋雨の音おほし  淺津大雅

一読して、はっとするような生々しさを持っている句です。雨の匂い、木の匂い、空気の匂い、雨が作り出すさまざまな音の重なり、肌全体で感じるほんのりとした湿り気、傘を握る手の感触、泥濘んだ土や草の上を歩く足裏の感触。そう考えると、一句でここまで五感のいろいろを描きだす句は、なかなかないかも知れません。それが、この句の持つ生々しさの秘密のひとつです。でも、それだけではありません。ぎっしりと詰まった五感だけでなく、この句の手柄は「近づくに」でしょう。この言葉によって、この句に何かリアルタイムな時間の経過が導入されます。過ぎ去った過去でもなければ、今ここに切り取った瞬間、というのとも少し違う、何か実況中継にも近い、ある種の生き生きとした時間の流れです。この句は一見、あまり具体性のない句の設えにも見えます。わりと大括りの言葉ばかりを使っているからです。木も「木」というだけで、何の木かも分からないし。でも、五感と時間感覚を巧みに使う構造によって、なんとも迫力のある句に仕上がっています。


■相馬京菜 すいかのす 10句 ≫読む
■吉川わる 泣けよ 10句 ≫読む
■淺津大雅 卵 10句 ≫読む

2020-01-12

【週俳12月の俳句を読む】淡い殻のようなもの 小野裕三

 【週俳12月の俳句を読む】
淡い殻のようなもの

小野裕三



実験のための明かりや冬景色 井口可奈

実験とは、人々の生活の何かを物理的に改善するために行われる。それは「近代」を象徴する概念かも知れない。人類を取り巻く物理的環境は、世紀ごと、世代ごと、年ごと、夜ごとに絶えず人類自身の手によって改善されるべきだ、という暗黙の考え方がそこにはあるようだ。そうならば、実験の明かりも美徳と見える。しかし、人類がもたらした地球の気候変動を目にする時、物理的進歩を追求することは本当に正しいのかとも思う。冬景色の大きな静けさが、そんな人類史的な問いにもつながる美しい景色の対比を生み出す。


冬浜にゆるやかに散り一家かな 松本てふこ

それが夏の浜なら、話はまったく異なる。一家は泳いだり、裸で砂に寝そべったり、ビーチボールで遊んだり、砂の城を作ったり、といろんなことができただろう。だが寒い冬の浜で一家ができることはおそらく、ただゆるやかに歩き回ること。その意味でこの句は、決して景色の躍動や広がりを作り出しはしない。しかし一方でこの句は、多くの人々の共通の記憶の中にある夏の浜の躍動感と、作者の目の前にあるだろう実在の冬の浜を的確に対照するし、「ゆるやか」という表現がそのバランスを支えている。


壁一枚へだてクリスマスは眠る 浅沼璞

壁一枚で隔てられたクリスマス。微かな音も聞こえるだろうし、隣の部屋の動きや気配も感じ取れるのだろう。誰かがその部屋で寝ているのだろうか。そうかも知れないし、あるいは人はいないのかも知れない。そこにはクリスマスツリーやいくつかの飾り物があるだけだとしよう。とすると、そこに眠るのはクリスマスという時間そのものだ。多くの人に幸せをもたらす時間そのものが、その到来を待たれつつ今まさに眠っているのだ。


棒鱈はにせものらしいそうらしい 樋口由紀子

この句は、下五が面白い。ある意味で言わずもがなというか、無意味な繰り返しでしかない。とは言え、それはまず句の中に心地よい反復のリズムを作る。上五中七と下五の発話者が同一人物なのかはこの句からは定かではない。別人物が同意しているのかも知れないし、あるいは同一人物の中で畳み掛けるように思考が響いているのかも知れない。そのようなモノローグや思考の反響の仕方が、個人個人が持つ淡い殻のようなものを思わせ、それゆえになんとも現代の時代性を感じさせる。


果汁一パーセントのジュース冬の星 相子智恵

果汁100%ジュースならね、意味があると思いますよ。あるいは少し譲って、50%や20%でもいいでしょう。でも、1%ってどうですか? いやあ、製造者としてもナチュラルなものを作るのにまったく興味がなかったわけじゃないんですよ、って、まるでそんな言い訳みたい。となると哲学議論のようで、1%の意図はまったく意図がないのよりもマシなのか、などなどと考えたり。でも、冬の星が輝く宇宙全体の大きさから考えたら、そもそも地球や人類なんて1%どころか、はるか小数点以下の存在比率なわけで、——と、このオントロジー論議はしばらく続きそうです。


推敲の果てに海鼠の句が残る 福田若之

この句は、人々の生活や自然について詳しくは描写していない。ただ、作者が海鼠について何か俳句を書いたのだろうという事実だけが示される。という状況を俳句にした、いわば「メタ俳句」で、そこでは原句である海鼠俳句についての手かがりは一切提示されない。となると、ただ海鼠の存在感がここでは純化されるだけだ。ちなみに、海鼠は英語で「sea cucumber」、つまり「海のキュウリ」と言うらしい。身も蓋もない比喩だが、その感覚、なぜかこの句の感覚に似ている。


時雨をり内勤の日のカーディガン
 岡田由季

ここで描かれた状況は、いかにも劇的なものではない。冬の雨。出かけることもなく事務作業をするオフィス。軽く羽織ったカーディガン。コートやジャンパーでもなく、カーディガン。派手に見た目を競うわけでもなく、防寒性に突出しているわけでもなく、どちらかというと日常性に溶け込んだ実用性がカーディガンという衣服の持ち味。でも、そんな日常性に溶け込んだ実用性にも詩はある。あ、それってまさに俳句のことか。


 ■井口可奈 好きだと決めたから愛します 10句 ≫読む
■松本てふこ 家族旅行 10句 ≫読む
■浅沼 璞 冬季十韻 10句 ≫読む
■樋口由紀子 もうすぐお正月 10句 ≫読む
■相子智恵 少年 10句 ≫読む
■福田若之 推敲 10句 ≫読む
■岡田由季 内勤 10句 ≫読む

2019-04-21

【俳人インタビュー】小野裕三さんへの10の質問

【俳人インタビュー】
小野裕三さんへの10の質問
質問:西原天気

Q1 今週、何句作りました?

毎週ネット句会に参加していて、それが週に12句提出、と決まっているので、今週も12句作りました。

Q2 現在お住まいの町は、どんなところですか?

現在、短期の滞在でロンドンにいます。ロンドン市内の西のほうのアクトンというところで、特に何があるわけでもないのですが、静かな街です。頭にターバンを巻いたインド人(と思われる)が経営する食料品店が駅前にあって、そこでよく子連れで買い物をします。

Q3 きょう、朝起きてから2~3時間の行動をできるだけ詳しく(公表できる範囲で)教えてください。

今、ロンドンの王立芸術大学(RCA)というところに私はいるんですけど、今朝はちょっとした機会があって、数人の人たちを前に自分の俳句を読み上げてみました。日本語とその英訳を読み上げたのですが、彼らには意味がわからないはずなのに日本語の朗読が意外に受けがよくてびっくりしました。日本語って、決して音楽的な言語じゃないと思ってたんですけどね。それから昼に大学のカフェで食事していると、イギリス人女性の友人がやってきたので、少し雑談をしました。彼女は「人のオーラが見える」と公言しているアーティストで、聞いたら「幽霊もたくさん見るのよ」とか。「でもね、私なんかより、ほらあの背の高いスコット君っているじゃない? 彼なんて、幽体離脱(astral projection)するのよ」「ええ? ほんと?」「ほんとほんと」「じゃあ、彼は毎晩、体から抜け出してロンドンの空を飛び回ってるってこと?」「そうそう」−−みたいな奇妙な会話を延々としていました。

Q4 生まれ育った町は、どんなところですか?

大分県の南のほうにある町です。夏休みに子どもを連れて帰省すると、川遊びも海遊びもできて、大喜びします。「鳥籠に夜の位置あり魂迎」という私の句もこの町の実家で作りました。そんな雰囲気の町です。

Q5 触り心地が好きなものってありますか?

特にないのですが、今年の運勢占いに「触り心地のよいタオルを買え」とあったので、それは半信半疑で買ってみました。

Q6 10年後、どんなことをしていたいですか?

今いるところは芸術大学なので、世界中からアーティスト(とその卵)が集まっていて面白いところなのですが、彼らの思考や行動そして情熱は素晴らしいなあ、といつも感心しています。10年後に私自身がアーティストになる、という意味では全然ないのですが、彼らの思考や方式を取り入れた「何か」をやってみたいと思います。それが具体的に何なのか、十年先のことは明確にはわかりません。

Q7 目が覚めました。何十時間も眠ってしまったらしく、おなかがぺこぺこです。何を食べますか。

味噌汁。ロンドンでも味噌汁はほぼ毎日作ってます。ミソ・スープは偉大です。

Q8 どういうわけか、雄鶏を飼うことになりました。なんて名前を付けますか?

我が家に生き物が来た場合、間違いなくうちの子どもが名前をつけます。昨年うちにいたカマキリは「カマタロウ」でした。そのセンスからすると、雄鶏は「ニワタロウ」と推測します。

Q9 いま読んでいる本を教えてください。

最近は、イギリスで出版された詩集を買って読むのがわりと好きです。今読みつつあるのは Lavinia Greenlaw『Minsk』。タイトルに惹かれて買ってみました。

Q10  好きな自然現象について、教えてください。

好きなというか、詩としてのイメージが広がるなあと思うのは、雨です。もちろん、現実生活としてはせっかくの休日に雨が降ったりするのは嫌いです。あくまで、詩の対象としての雨が好きという意味です。自分の俳句にも、雨はよく登場しているような気がします。

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小野裕三・近作より自薦十句

調伏のよう春の扉をきちんと閉める

百年計画露草は雨降る単位

厭世的で雨のさなかの二月礼者

勇気その他ぜんぶ並べて山滴る

風の身体持ち試着室を覗く夏

骨董市に王様の首冬木立

旱星航海記濃く匂い立つ

ほぼ空の大きさである初詣

夏の浜雨の拙く降りにけり

凍土ひそひそひそケルト文明史