【週俳9月の俳句を読む】
背中越しに
小野裕三
半玉の西瓜となれば撫ではせぬ 相馬京菜
考えてみると、西瓜というものはだんだん小さくなっていくわけです。大玉から半玉、そこから六等分とか八等分とかになって、最後はスプーンで一口分ずつ掬われて、口の中で噛まれて散り散りになっていく。そんな細分化の過程が西瓜の一生(?)だとすると、果たして西瓜はどの時点でその原初の〝西瓜性〟を失うのか、という問題があることに気づきます。半玉は、すでに純粋な西瓜性を無くしているのでしょうか。確かにスーパーなどで売られる半玉を見るとどこか「おいたわしや」という気もするわけです。もはや半玉となった西瓜を、すっぱりと何かを吹っ切ったように「撫ではせぬ」と断言する作者。そこには、西瓜と作者をめぐるなにやら壮大な愛憎の歴史が広がっているようで、このさりげない一句から広がっていく奥深い世界がいかにも面白いわけです。
ぽつりぽつり背中に話すカヌーかな 吉川わる
背中はいつもドラマティックです。面と向かって何かを話すより、背中という存在が言外に伝えることの方がよっぽど重かったりします。だから、「ぽつりぽつり背中に話す」という状況設定は少しどきりとしますよね。ところが、それが「カヌー」だと最後に分かる。確かにカヌーであれば、同じ方向に座るだろうし、あまり身動きもできないし、なので背中に話すのもまあ当然かな、と。でも、話はそう単純でもなさそうです。実は、背中越しにしか話せないことも世の中にはあるのかも知れません。面と向かうと話せないのに、背中越しに話すことによって、初めて伝えることのできる話って、ありそうな気がします。背中とは、それほどにドラマティックな装置なわけです。そう考えると、カヌーという場ゆえに初めて語られ出す、人生の真実がここにはあるのかも知れません。
近づくに木に秋雨の音おほし 淺津大雅
一読して、はっとするような生々しさを持っている句です。雨の匂い、木の匂い、空気の匂い、雨が作り出すさまざまな音の重なり、肌全体で感じるほんのりとした湿り気、傘を握る手の感触、泥濘んだ土や草の上を歩く足裏の感触。そう考えると、一句でここまで五感のいろいろを描きだす句は、なかなかないかも知れません。それが、この句の持つ生々しさの秘密のひとつです。でも、それだけではありません。ぎっしりと詰まった五感だけでなく、この句の手柄は「近づくに」でしょう。この言葉によって、この句に何かリアルタイムな時間の経過が導入されます。過ぎ去った過去でもなければ、今ここに切り取った瞬間、というのとも少し違う、何か実況中継にも近い、ある種の生き生きとした時間の流れです。この句は一見、あまり具体性のない句の設えにも見えます。わりと大括りの言葉ばかりを使っているからです。木も「木」というだけで、何の木かも分からないし。でも、五感と時間感覚を巧みに使う構造によって、なんとも迫力のある句に仕上がっています。
0 comments:
コメントを投稿