2020-10-11

【週俳9月の俳句を読む】みんな等しく「自然」 谷口慎也

【週俳9月の俳句を読む】
みんな等しく「自然」

谷口慎也


相馬京菜「すいかのす」

「すいか」の「す」とは「鬆」(ものの中心の硬い部分)のこと。

吾の孤独西瓜の上に生きるやも〉〈仏壇に安寧ばかり西瓜かな〉があれば、連れ合いに先立たれ、生業のひとつである西瓜作りに携わっている作者の生活が見えてくる。〈産直の暑さ暗さも西瓜玉〉〈半玉の西瓜となれば撫ではせぬ〉には、その仕事に伴うこれまでの苦労と、西瓜作りに対する作者の矜持とがうかがえる。自分の思いと言葉とが同じ背丈で表現されていて、無理なく読める作品だ。

冒頭に〈西瓜置く畑で隣だったかしら〉があるが、これは結構ユーモアに富んでいる。やや強引な読み方だが、これを、蔓を切られ店頭に並べられたときから始まる西瓜同士の会話、と見ることもできる―その為にはあと少し表現の工夫が必要か。

叩かれて西瓜の縞のにじみけり  相馬京菜

なつかしき風を通せり西瓜の鬆  

地球の日落ちて西瓜に日が当たる  

これらの句になると、言葉は生活の現場を基底に置きながら、表現としての高みに目を向けていることがわかる。

1句目の〈縞のにじみ〉は作者の心の滲みであろう。〈叩かれて〉の措辞によって、句に読みの多義性が生じてくる。すなわちポエトリーである。

2句目の〈なつかしき風〉は〈鬆〉を通ることによって生じてくる。〈鬆〉は生きるという思いの「核」(コア)であり、同時に1句の中心になる部分でもある。

3句目。凝視される〈西瓜〉は〈地球〉という大自然の中で生きているという作者の思い。〈地球〉も〈西瓜〉も、そして〈吾〉も、みんな等しく「自然」なのである。


吉川わる「泣けよ」

この作者には、「青春性」とでも言うべきその感情の在り方を見ることができる。

蟷螂の棚田背負ひて威嚇せり  吉川わる

秋霖や車内流るる文字の列  同

膨らみの足らぬパン生地沙羅の花  同

1句目は寓意。だが〈威嚇〉という言葉には何の濁りもない。ストレートな「怒り」である。2句目には、〈文字〉を読むのではなく、その流れを漠然と眺めている心の空白状態が表出されている。3句目には若々しい感覚がある。〈パン生地〉は思いっきり膨らんで欲しいのが「青春だ」と思えばいい。

「泣けよ」とふ本屋のポップ夏の月  同

〈ポップ〉とは本屋の書籍の前に置かれている「POP広告」(購買時点広告)のこと。〈とふ〉は上代語の応用で「~といふ」という意味であろう。作者の感情は直接的には表には出ていないが、「泣けよ」~〈本屋のポップ〉までの一挙の読みの流れがそれを代弁している。それが結句〈夏の月〉と呼応するとき、そこには何だか切ない浪漫的な感情が漂ってくる。  

また「読み」におけるリズムのよさは、「POPアート」としての音楽性を内包していると言ってもよい。

天牛のがりがら滑る洗面器  同

月代の濠は四角く流れけり  同

1句目には少し戸惑った。〈がりがら〉とは何か。擬音語であろうが、方言で「がりがり」をそう呼ぶところがあるのか。あるいは作者の造語か?

それよりもこの句には、「カミキリムシ」を〈天牛〉という漢字表記にしたその発想の面白さに留意したい。すなわち〈天牛〉は、その意味性において、〈天〉と〈牛〉に分解され、「天の牛」という壮大な生き物が〈洗面器〉を滑るという空想的な誇張表現。だから〈がりがり〉では物足らないので〈がりがら〉としたのであろうか。であれば、この〈がりがら〉が評価の分かれ目になるのではないか。

2句目の〈月代〉とは「月」のこと。〈濠〉があるからそこは「お城」。「お城」であれば武士の「月代」(さかやき)という類そうを生む。だがそういう言葉の広がりよりも、作者が「お濠の水」が〈四角くながれ(る)〉と捉えた視点が面白い。いずれも言葉への拘りを見せた一句である。


淺津大雅「卵」

この作者には、わかり易い句とそうでもない句とが混在している。

先ずはわかり易い句を抽出してみる。

近づくに木に秋雨の音おほし  淺津大雅

ここには作者なりの発見がある。音もなく降る〈秋雨〉のその〈音〉も、近づけば〈木〉にそれが集中しているという発見。ふだん何となく見過ごしていたことへの気づきである。〈懐におやつの卵秋祭り〉〈台風の夜の痩せ犬をかはいがる〉などもわかり易い句だが、やや平板になっている。

だが、下の句のようになると、私にはその「読み」の道筋が見えにくくなってしまう。

曼珠沙華鉄扉のまえへに人のゐず

秋の海に入りゆく二本の棒を見よ

萩やウエイターいつまでも客のはうを見て

1句目。黒い鉄扉に赤い曼珠沙華。何か暗示的でイメージは鮮明。だが「読み」はその先には進まない。「曼珠沙華には黒い鉄扉がよく似合う」のではあるが……。

2句目。〈二本の棒〉は生きものの「脚」の比喩なのだろうか。それとももっと抽象的な何かであるのか。だがそれから先の「読み」はここで途絶えてしまう。後は勝手に想像しろということなのか。

3句目。切字〈や〉はあるが、〈萩やウエイター〉と一挙に読ませるように出来ている。最近これに似た構文をいくつか見かけるが、〈萩〉と〈ウエイター〉は同格なのか。それとも〈萩〉は一つの風景として〈客〉や〈ウエイター〉の外側に置かれているのか。「読み」の入り口がいくつかあって、迷ってしまうのだ。

「読み」は読者の自由であるという。だが一方で「勝手読み」という言葉もある。「読みのcode」(道筋)を無視した読み方をそういうが、作品が要求してくる読みの道筋を無視した「読み」は、結局は個の感想で終わってしまうのではなかろうか。

こういう句にこそ「勝手読み」はいくらでもできるが、まさか作者はそれを狙っているわけではあるまい。慣れ親しんだ句会の仲間であればこれらの句も理解の及ぶところであるのかもしれないが、広く読者というものは、「赤の他人」であると考えた方がいい。

他の人の「読み」を聞いてみたいところだ。


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