■竹岡一郎 敬虔の穹 42句 ≫読む 第858号 2023年10月1日
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■古田 秀 ささくれ 10句 ≫読む 第862号 2023年10月29日
毎週日曜日更新のウェブマガジン。
俳句にまつわる諸々の事柄。
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【週俳11月・12月・1月の俳句を読む】
第761号 2021年11月21日 ■花島照子 フェルマータ 10句 ≫読む
第765号 2021年12月19日 ■岡田由季 宴 10句 ≫読む
第769号 2022年1月16日 ■佐藤智子 背はピンク 10句 ≫読む
第770号 2022年1月23日 ■大室ゆらぎ 霜 10句 ≫読む
第771号 2022年1月30日 ■野崎海芋 三連符 10句 ≫読む
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【週俳10月の俳句を読む】
感情の流れのひとかたまり
谷口慎也
対象作家となる青本瑞季さん、青本柚紀さんにはそれぞれの短文が付いていたので、作品共々興味深く読ませてもらった。また上田信治さんが同じところで、この両者の「書法」の一端を、「言葉の音や働きを細かく分節し再構成する」と的確に指摘している。従って私はそこを少し離れて、別の視点を設定してみたい。
◆青本瑞季「ありえない音楽が聞こえる」
冒頭句から順に作品を繰り返し読んでいると、そこには明らかに作者のひとまとまりの「感情の流れ」が見えてくる。すなわちそれが15句という束となって提出されている。従ってタイトルの中の〈音楽〉とは、作者のある日ある時を端緒とした、ひとまとまりの「感情の流れ」(音韻や音調)のことに違いない。
そこを押さえておいて、先ず目に留まったのは、下五に置かれた次のような言葉―〈はれやかに〉〈軋みつつ〉〈重くのべ〉〈痩せて背は〉〈かきくらす〉〈さやうなら〉―等々の感情表現であり、結果として書かれた作品の上の句は、下五の言葉に収斂されていくかに見える。すなわち、感情体である作者の文学的な居場所はなべてこの下五にあり、すなわちここが作者にとっての創作モチーフの在り処なのではないか。
夜ゆゑに文月は草木はれやかに 青本瑞季
燃えるたび鹿は麓をかきくらす 同
感光の渦の鰯よさやうなら 同
一句目は、〈文月〉の夜の湿りと月光に照らされた〈草木〉。それが実際の景であっても、ふと頭の中に想起されたものであってもかまわないが、作者の直観はそれを素早く「晴れやかなもの」として把握したのであって、その景と作者の感情には何の隔たりもない。二句目の〈かきくらす〉は古語。恋の歌によく使われている。であれば〈燃える〉のは胸の内。それが〈麓をかきくらす〉〈鹿〉とぴったり重なり合う。三句目。〈感光の渦〉に〈鰯〉を配合するような句を見たことがない。それは一瞬の光景だったに違いない。一瞬を言い留め、そしてすぐさま「さやうなら」とくる。即ち「反故」である。これはまた、「へーっ」と感心している私(すなわち読者)までもが切り捨てられたような気になり、なんとも愉快な気持ちになる。
つまり作者は、その時々の自分の気持ちに素直に従ってひとまとまりの作品を書いているのだ。それが他者に理解されるかどうかよりも、只々、その時々の気持ちの流れ、すなわち「感情の流れ」を大切にしているのではないか。極端に言えば、あとは読者がどう解釈するかは二の次の問題となる。
泪声ほやほやと野の鶉なる 同
これは15句中で、私が最も好きな句。何とも言えずこちらが〈ほやほや〉となる。古くを言えば、〈鶉〉は鳴き声の鑑賞用として一家に飼われていたものでもある。であれば、〈野の鶉〉にはなつかしささえ伴ってくる。〈泪声〉と共にあるその〈野の鶉〉に託されたものは、遠いものへのある種の親和性という感情ではなかったか。
パラフィン紙ひよの盛りを入日して 同
萩に衣服を歌ふ手つきでこぼれだす 同
ところがこれらの句は、一連の句巻物のような感情の流れを一時停止させる。他者の理解を考えるよりも先ずは作者の言いたいことに従っている。
一句目の〈ひよ〉は「鵯」。その貪欲な食欲へ〈入日〉が差し込む。すなわち「落日」。そういう光景に半透明のフィルターをかける。それが冠としての〈パラフィン〉。それによって、作者の痛みに似たやさしさが感じられるのではないか。二句目はさらに複雑。〈こぼれだす〉はまた「溢れ出す」でもある。この7・7・5音は意味の上では、14(7+7)+5音となっている。その〈こぼれだす〉までに作者の感情は〈萩〉・〈衣服〉・〈歌ふ〉と分断され〈手つき〉に掛かるが、その分断を辛うじて繋ぎ止めるのが〈に〉〈を〉という助詞である。だがその助詞も日常的な文法の体をなさない不安定なものである。さらに、だが、そう表現しなければ作者は自分の〈こぼれだす〉感情にまでは辿り着けなかったのではなかろうか。だが不思議なもので、これまた何度も読み返すと、〈萩に衣服を歌ふ手つき〉のフレーズも、超論理的に理解できたように思えるから不思議である。
◆青本柚紀「水の回遊記」
この作者は一句構成においてかなり意識的である。
同時掲載された論評【内容/形式についての覚書】は、山口誓子の「連作」論であったが、なかなか熱のこもったものであった。そこに作者が見ているのは「連作形式はあくまでも一句の外の形式である」ということだ。柚紀さんが引用しているのは、誓子の《連作俳句は如何にして作らるゝか》(S・7年「かつらぎ」10月号)からの引用であったが、同じ年の「かつらぎ」4月号で誓子は《「連作廊」雑言》として、『連作俳句の内容は之を「全」として見れば、畢竟「感情の流れ」であった』と書いている。
(もうお気づきの方も多いと思うが、先の私の瑞季作品評は誓子の「連作論」を下敷きにしている。何故なら、瑞季・柚紀作品ともども、感情の流れが、ある統一感のもとに書かれているからである)
ただ柚紀さんにおいては、「連作」は「一句の外にある形式」という認識を明確に持っている。すなわち、あるとき発生した「感情の流れ」(すなわち個々の作品)は「連作という形式」を生み出すということに自覚的であるということだ。「水の回遊記」もまたそれを下敷きにして、独特な作品(連作)を生み出している。
浮舟よ口に棗の緋を交はし 青本柚紀
仮枕手を流れ出て色は葛 同
くだる身のあなたを波になる菊が 同
萩は目に奥をひづめの澄みながら 同
いろは坂昏くてとどく雁の呼気 同
まばたきをうすももいろの鵙の木々 同
満ちて野の花さいごの水の輪を鳥が 同
ここは月の間千の夜がどしや降りで来る 同
好きな句を挙げてみたが、どの句も語りだせば多くの字数を要するものばかりだ。また一句には多くの「色」が取り入れられているのが特徴的だ。ひとかたまりの「感情の流れ」が、個々の句の構成の工夫によって、「連作」により複雑な、より緻密なハーモニーを醸し出している。ゆっくり味わうべき作品である。
余談になるが、「連作」という言葉は、今あまり俳壇では聞かない。誓子の唱えた古臭いもの、と人々が何とはなしにそう思っているからなのであろうか。それとも、すでに当たり前のこととして私たちが認識しているからであろうか。
だが個の感情の流れのひとかたまりは、絶えず場所を選ばずにどこかで発生するもので、それがある程度続けばその「連作形式」は自然に消滅するものである。だがしかし、またあるときまた別の感情の流れが生まれてくる。人間の生活も然りである。
一冊の句集も、それが平面的な編年体で構成されるものが今も多いが、まさに多面的に違ったひとまとまりの作品を所収する句集も増えてきた。例えば関悦司さんの『六十億本の回転する棒』や近くは小津夜景さんの『フラワーズ・カンフー』など。それらの句集の章分けには違った感情の流れが多面的に構成されている。すなわち句集一巻は「連作形式」になっていると見ることもできるのではないか。
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週刊俳句・柳俳合同誌上句会 2014年8月
10名様参加。5句選(特選1句・並選4句)。≫投句一覧
参加者
〔柳人〕
飯島章友
きゅういち
清水かおり
なかはられいこ
八上桐子
〔俳人〕
相子智恵
笠井亞子
谷口慎也
鴇田智哉
中村安伸
【砂】
このへんがたぶん砂場の性感帯 飯島章友
○谷口慎也
○きゅういち
○笠井亞子
○清水かおり
■砂場のとらえどころのない重要なポイント、を言って妙味。(清水かおり)
■砂は変幻自在にして官能的。砂場にそれを発見した作者の嬉しそうな顔がまず浮かんだ。「このへんがたぶん」という間の持たせ方も狡猾。(笠井亞子)
■「砂場の性感帯」を見つけた時点で完成をみたであろう句、「このへんがたぶん」に冗長さとものたりないものを感じたのだが、かえって言い過ぎぬ姿勢が句を立たせたか。(きゅういち)
■手のひらに触れるくすぐったい砂の感触が〈性感帯〉という言葉を導き出した。〈たぶん〉にはその言葉に対する作者の含羞を見てもよいが、この措辞によって一句は、程良い調和を伴った愛らしいものとなっている。(谷口慎也)
ちょっとした砂丘になって待っている なかはられいこ
◎谷口慎也
◎鴇田智哉
○中村安伸
○相子智恵
■待っている間に、自分が砂の溜りになってゆき、小さな砂丘になったということだろう。そのとらえ方が面白い。
演劇か何かの開演を待っているのかとも思ったが、そうではないだろう。〈ちょっとした〉という軽い言葉遣いからは、人を待っている感じがするからだ。〈ちょっとした〉という言葉に、親しみのある相手に対する軽い「抗議」の感じがあるのである。漫画における、「いらだち・怒り」の表現として、額に十字路マーク(?)が出るというのがあるが、主人公は額にあんなマークをつけたまま、にっこりと相手を迎えたのではないか。(鴇田智哉)
■〈ちょっとした砂丘〉の言い回しが軽妙かつ洒脱。同時に〈砂丘〉が「待つこと」にまつわる期待や不安感のようなものまでも表出している。多くを語らず多くを感じさせる理想的な一句である。(谷口慎也)
■なんだか暑そうな場所で、相手にずいぶんと待たされているのかもしれません。
待つうちに、相手に対する心が乾いていく。「ちょっとした砂丘」が絶妙な距離感のように思いました。(相子智恵)
■砂丘という隠喩で心中の渇きを示すのは、やや常套的といえなくもないが「ちょっとした」のキュートさに惹かれた。(中村安伸)
■約束の一分前もしくは一分後くらいかしら。(飯島章友)
■ちょっとした(小)砂丘(大)でも砂丘は足を踏み入れると・・私達は作品の中で何かになることが多いが砂丘になるのは新鮮な感覚。(清水かおり)
顎を手に乗せる身内の砂が降る きゅういち
○鴇田智哉
○中村安伸
○飯島章友
■身内は「からだの内部」や「からだじゅう」の意と、「家族」「親族」の意があります。しかし、無理がないのは前者の「からだの内部」の意味だと思われ、そうだとすれば「顎に手を乗せ」て苦慮することが「砂が降る」を導き出す措辞になっているのではないでしょうか。(飯島章友)
■何気ない動作と心象を重ねた。「落ちる」や「こぼれる」でなく「降る」を選んだのは、物思いの継続することを示すのだろう。(中村安伸)
■〈身内〉は〝からだの中〟という意味でとった。自分の〈顎〉だろう。つまり頬杖のような状態だ。しばしの放心。全身がシルエットになったかのような感覚に近いのだが、そのシルエットが石の塊のように静止したものでなく、降る砂であるところが面白い。均質でありながら動いている。(鴇田智哉)
■頬杖のことを「顎を手にのせる」と言っているのか、もっと想像力を働かせると、身内の誰かの葬送の一場面までも浮かんでくる(清水かおり)
砂こぼす月に目じりのようなもの 谷口慎也
○なかはられいこ
○八上桐子
○相子智恵
■三日月でしょうか。砂は月が流した涙のようで、幻想的な句だと思いました。(相子智恵)
■古くから「月の顔」と言われてきたように、月は顔だ。けれど、その目鼻は定かではなく、見るものが描き入れる。目じりさえあやふやなままに、確かにこぼれ落ちる砂。しずかな息づかいの迫る月から、目が離せなくなってしまった。(八上桐子)
■本来は「砂こぼす」で切れていると読むべきなんでしょうか。私は「砂こぼす月 に」とつなげて読みました。黄砂とか飛んでる真昼の白っぽい月か らま るで涙 のようにこぼれる砂。月に目じりをみつけたところが好きです。(なかはられいこ)
砂のなかのきみは砂鉄やぼくは砂金 中村安伸
砂めくれあがり揚羽の浮びたる 鴇田智哉
○谷口慎也○笠井亞子
■実景ともとれるムリのないシュールさがある。砂の劇場を見ているようだ。(鳥取砂丘を背景に作品を撮り続けた写真家のことを思う)「浮びたる」が揚羽の登場を格調高くしていて印象的。(笠井亞子)
■砂場でも海辺でもかまわないが、〈揚羽〉はまるで潜水艦のように浮上してくる。普段の何でもない生活の中でこういう「突然」にはよく出くわすものだ。しかしそれらがこの句のような言葉で表出されるとき、一句は虚実皮膜の不可思議さを醸し出す。(谷口慎也)
■砂→揚羽という発想は好きです。(飯島章友)
■時空を越えて現れた揚羽はその頃のせつない想いを留めている。砂はめくりあがるものなのかと妙に納得を誘う作品。(清水かおり)
上空の砂なら多民族でした 清水かおり
○飯島章友
■上空の砂「なら」多民族と言うんですから、一民族の地に住む人間が上空に舞ってきた砂を仰ぎ見て、多民族共生社会に思いを馳せた句かも知れません。しかし、たとえば中国大陸内陸部で発生する黄砂は他民族に健康被害を引き起こす困った物質ですし、また社会的なことを言えば、移民との軋轢の問題は多くの国が抱えています。上掲句からは多民族性が内包する憧憬と辛さとを感じます。(飯島章友)
■面白い句だと思ったが、しばらくすると「上空の砂=多民族」の意味的な構図が目立ってきて、一句はそこから動かない。この簡潔な断定を惜しいと思ったので、敢えて抽出してみた。(谷口慎也)
朝のシーツにランゲルハンス島の砂 八上桐子
◎清水かおり
◎笠井亞子
◎中村安伸
◎飯島章友
○きゅういち
○なかはられいこ
■朝のシーツとランゲルハンス島は現実物、そこに砂が合わされると幻想と現実のあわいが出現する。思わず手をぎゅっと握ってしまう。村上春樹の小説世界にごく自然に繋がっている作品。(清水かおり)■夢の中で訪れたビーチの砂が寝床に残されているという幻視と、その砂浜が「ランゲルハンス島」のものだったという言葉の遊戯。
臓器に「島」と名づけた語の喚起力によって、二重の跳躍が可能となった。(中村安伸)
■「砂」という言葉をつなげただけで「ランゲルハンス島」の意味が全く変わってしまう詩的面白さ。また、膵臓は実際に胆砂ができてしまうこともあるそうで、リアリティーをも感じます。(飯島章友)
■ランゲルハンス島というと複雑なイメージになりがちな所、「砂」という限定のお陰で、なんだかポップかつシュールな一句となった(ランゲルハンス島というのが実在の島で、ヴァカンスに出かけていたかのような)。
季語は無いけれど夏の朝の感じが横溢。バックには『マルタ島の砂』が流れている…。(笠井亞子)
■村上春樹と安西水丸の「ランゲルハンス島の午後」というエッセイ集を思い出し ました。夢のなかの出来事が、砂によって実体化されたようにみえ ておもしろ いと思いました。でもよく考えたら、マズイいんじゃないでしょうか、そこの砂 は。病院で検査してもらうことをお勧めします。(なかはられいこ)
■掲出句は特選にも押せるのではないかと感じ入ったが、「ランゲルハンス島」は膵島との意、意味を調べた小生に非があるのだが、急激に句の神秘性が薄らいでしまった。(きゅういち)
熱帯魚吐きたる砂や砂に落つ 相子智恵
○笠井亞子
■魚の口から吐かれた砂が水槽の底へ落ちていく、それだけのこと。
そのスローモーションじみた景はしかし「夏の時間」をひどく意識させる。(笠井亞子)
蒟蒻は砂の模様ぞ南風吹く 笠井亞子
○鴇田智哉
■まず、蒟蒻のあの色合いを〈砂の模様〉と言ったことで、一瞬、乾いた状況が浮かんでしまう。これは、食べ物である蒟蒻の印象としてはマイナスだ。食べ物としての蒟蒻の命は水分だと思うが、その逆のイメージだからである。〈砂の模様〉は、はっきり言って、おいしそうではない。だが、〈南風吹く〉と景色を広げたことで、その〈南風〉が雨雲をはらんだ湿気のあるものであるような気がしてくる。〈蒟蒻〉という奇妙なもの。そのありようを、どんよりとした質感でとらえているところが面白い。農産物である蒟蒻の、素朴な質感があると思う。(鴇田智哉)
【本】
エロ本をしぼればにおう鎮守様 きゅういち
○なかはられいこ
■「エロ本」と「鎮守様」の取り合わせが新鮮でした。性的なものと祭祀って無理 なくつながるようにも思えます。「エロ本」という俗っぽい言葉も 「しぼれ ば におう」という中七(しかもひらがな表記)でによって、柔らかくて水っぽくて 生々しくも神聖なものに変体してて、そこもおもしろかったです。(なかはられいこ)
■鎮守様の御座す神社、昔の村落共同体であればあんな事やこんな事の場になっていたかも知れません。(飯島章友)
永き日のひとつでありぬ古本屋 谷口慎也
○相子智恵
■春の日永。日差しのやわらかい景色の中に、古本屋ものどかに佇んでいる。古本屋というのがいいなあと。(相子智恵)
■良質な邦画のような句。(飯島章友)
逝く夏の線一本の星座かな 相子智恵
■流れ星・・だろうか。「逝く」の措辞がさびしい。(清水かおり)
転写本だからワサビも添えておく 飯島章友
○清水かおり
■転写本に何かを加味すると転写本といえなくなるかもしれないが、あえてワサビを効かす発想の面白さ。転写作業に辛みや風味を効かせたいと思う主体の情熱がいい。
「だから」と気の抜き方が絶妙。(清水かおり)
豆本をつまむ守宮をつまむように 笠井亞子
○鴇田智哉
○中村安伸
■守宮を対比させたことにより、豆本のもつ奇妙さ、ものめずらしさ、デリケートさがクローズアップされ、腑に落ちた。(中村安伸)
■動詞にはいろいろニュアンスがあって、「つかむ」というとかっこいいけれど、「つまむ」というとちょっとオドケた感じがする。「ひょいとつまむ」の「ひょいと」みたいなニュアンスが、「つまむ」自体に備わっているのだ。で、この句は、その〈つまむ〉の感覚がよく出ていると思う。
ところで、(俳人の性として申し訳ないが、)〈守宮〉が比喩として使われているため、厳密にいうと無季の句となっている。〈豆本〉と〈守宮〉を入れ替えて有季の句としても、内容けっこう面白い。でも、原句も面白い。
結局、〝〈守宮〉を持ったときに〈豆本〉を思い出す感覚〟と、〝〈豆本〉を持ったときに〈守宮〉を思い出す感覚〟のどちらが面白いか、ということが問題である。面白さでいえば、どちらも同じぐらい。でも、二者のどちらであるかによって、作者のキャラクターは結構違う。
この作者は、〝〈豆本〉を持ったときに〈守宮〉を思い出す感覚〟の方の人なのだ。仮に無季であろうが、作者がそうなのだから、こちらでよい。(鴇田智哉)
■守宮をつまんだことはないが、「つまむ」で豆本と守宮を同列した作者のユーモアを感じる。(清水かおり)
本よりも眩しく蟻の地がひらく 鴇田智哉
○清水かおり
■蟻地獄は時にパラダイスかもしれないと思う。「眩しい」に人間深層心理が言いつくされている。(清水かおり)
■本の活字と蟻との類比か。寺山修司を想いました。(飯島章友)
本降りになって桃缶買いに行く 清水かおり
◎相子智恵
○谷口慎也
○八上桐子
■「本降り」と「桃缶」の偶然の組み合わせが好きでした。
桃缶、よほど食べたかったのですね。缶の中の、シロップでずぶぬれの桃缶の桃と、本降りの中の自分がシンクロします。
雨は決して冷たくなく、シロップのようにまとわりつくようです。(相子智恵)
■「そんなヤツおらんやろ」と、まずは突っ込んだ。ところが、いる気がしてくる。にしても、桃缶。どうしても食べたくなるか?重いし。が、そんな日が来そうな気がしてくる。いえ、来て欲しい気すらしてくる。なつかしい衝動が、呼び覚まされたのだ。そんな日はあったのだ。(八上桐子)
■〈本降りになって出て行く雨宿り〉という古川柳がある。これは他者に対する揶揄。だが〈桃缶〉となれば話は別。一方で、三鬼の〈中年や遠くみのれる夜の桃〉があり、併せ読めば、それが「缶詰」であるというところに一種の滑稽とそれに伴う哀感さえ覚えるのだが、やや読み過ぎか?(谷口慎也)
■たとえば刺身を食べようとしたとき醤油がないことに気づいたら、これは即刻買いに出掛けざるをえません。でも「桃缶」という嗜好品は醤油ほどの必要性を感じない。要するに、私的な拘りで思い迷っている内にとうとう「本降り」になってしまったという顛末。パイン缶や蜜柑缶に比べ、桃缶には蠱惑的な何かがありそうです。(飯島章友)
本体を待っている間のくすりゆび なかはられいこ
○きゅういち
○中村安伸
■朦朧とした書き方なのでさまざまな解釈が可能だが、本体に先んじて届けられた付属品をくすりゆびでもて遊んでいるのだと読んだ。
待つ心情が指に投影されてエロティックな風情もある。くすりゆびも本体というよりは付属品に近いものだろう。(中村安伸)
■どこかに漂うエロス、おそらく「くすりゆび」の持つ一般的なイメージによるものではないかと感じるが・・・一部分が全体を待つという大きな世界観が凝縮されている。(きゅういち)
■この「くすりゆび」が仮に左手薬指なら愛の証である指輪を待っている状況かも知れませんが、そのばあい「本体」という言葉はどうもしっくり来ない。「本体を待っている」という措辞からは、まるで義肢としての薬指が本体を待っている雰囲気があります。(飯島章友)
■これはもう小川洋子の「くすりゆびの標本」以外のシーンは浮かばない (清水かおり)
葉桜の独逸の本屋めく晩夏 八上桐子
冷房やひねもす本を抜きつ挿しつ 中村安伸
【音楽関連】
アサガオノカスカナカオススガシカオ 八上桐子
◎なかはられいこ
○きゅういち
○笠井亞子
■一瞬でがっちり掴まってしまいました。この句に裾を掴まれてしばらく身動きで きませんでした。ふつうに漢字とひらがなで書かれた句と比べて、 すべてカタ カナで書かれものは、目から脳に至る時間にどれほどの差が生じるのでしょう。 最初、カスカスとか、カオナシとか、スカスカとか読み 間違えながら「かすか なカオス」にたどり着いたときには、作者に嫉妬すら感じました。一句まるごと カタカナというのも新鮮ではありますが、た だそれだけではない、そのうえ間 違ってもキワモノなんぞとは言えない、詩的完成度の高い一句だと思います。(なかはられいこ)
■カタカナ表記、音韻の繰り返し等句自体に音楽が流れるようで遊び心満載、作句自体を楽しむような句姿に思わず「まいった」とつぶやいてしまうが「カオス」がいかにもの感。(きゅういち)
■イミよりまず読みをうながすカタカナの力を十全に生かした句。17文字が、数えてみれば「アオカサシスナシ」の8文字で構成されている。
朝顔にある微かな混沌も、その(カスカスとした)リズムに乗ると、からっとしていて楽しげに見える。元々カタカナ表記である名前の力も大きい。(笠井亞子)
■カの力技! (清水かおり)
アリランを乙女と乙女口移し 清水かおり
◎八上桐子
■ぷるんとふくらんだくちびるが、くちびるを真似て歌うアリラン。ゆっくり吐き出される一音、一音が、甘く切なく溶け合ってゆく。「口移し」は性的イメージにも働くが、官能を超越した“気”の交感を感じさせる。一句に凝縮された、プラトニックなエロティシズムに陶然となった。(八上桐子)
■「アリラン」「乙女」「口移し」という言葉の美的関係性と、a音・o音・u音の韻がよい。(飯島章友)
ドラムロール西瓜落下の映像に 中村安伸
○なかはられいこ
○相子智恵
■変な映像にドラムロールが付いて、なんだかおかしくて、もの悲しい。どんな番組か気になります。(相子智恵)
■結果が惨事となることがわかっていながら、期待してしまうのが人間の哀しいサ ガですね。とか、西瓜だから気軽に言えるわけですが、地に激突し て、ぐ ちゃっ てなった赤から、いやでも想像できてしまうものがあって。ひとの意識 下にある残酷な部分を引きずりだすような、ちょっと怖い句な気がします。(なかはられいこ)
■ドリフのごとし。(飯島章友)
■永遠に続きそうなドラムロールは時間の流れを遮断するような感覚がある。西瓜の落下でもドラマティックな人生の一ページに為り得る。(清水かおり)
はんざきの歌声ありて水の音 笠井亞子
○八上桐子
○飯島章友
■「歌声」という言葉が「はんざき」と「水」を仲介し融合させる働きをしていると思います。歌は通常、楽しいから歌うものだと思いますが、はんざきが歌っている川はさぞかし澄んでいるのでしょう。(飯島章友)
■「はんざきの歌声」に意表を突かれるが、そこはまだ半信半疑。下5の「水の音」でせせらぎに変換され、一気にリアリティーを帯びる。せせらぎは歌いつづけ、透明な歌声が私を通過してゆく。はんざきに歌を授けた、作者の詩心に感謝したい。(八上桐子)
竿竹にCD盤と風鈴と 相子智恵
○鴇田智哉
■CDがぶら下がっている光景は、見覚えのある風景として定着しているだろう。あれは何を除けているんだったか、鳥? 猫? それはそうと、〈風鈴〉もぶら下がっているんだが、別に風流でも何でもないし、〈竿竹〉も竹じゃないし、きわめて味気ない風景が、「音楽」という題に対してちょっと面白かった。(鴇田智哉)
■「CD盤」がテクストにおけるちょっとしたクビレになっていますね。(飯島章友)
縦笛のかつてキリンであった跡 飯島章友
○谷口慎也
○きゅういち
■「縦笛」と「キリン」の共通項を読者へ無意識にイメージさせる仕掛け、一句の中に輪廻に通じる時間軸をも織り込みふわっとした読後感をいただいた。(きゅういち)
■〈跡〉にやや難点。それでは一句が閉じてしまうという思い。だが、〈縦笛〉が〈キリンであった〉とはよもや誰も思いつくまい。その直観・直覚に賛同。(谷口慎也)
■縦笛のあのボコボコとしたシルエットはキリンだったのかと納得する。(清水かおり)
上向きにすいつちょの声反りあがる 鴇田智哉
大蓮のまわり音楽止みにけり 谷口慎也
◎きゅういち
■流れていたであろう「音楽」が「大蓮」の回りのみから消える。大きな時間軸を感じさせ、なにも語らずその空間の持つ質感を端的に言い表している。(きゅういち)
帝国の鋪道の音の無いダンス きゅういち
○飯島章友
■帝国と言っても伝統や慣習を大切にし、民の生活の自由を守って国を治める帝もいますが、上掲句の帝国はそうでない雰囲気を感じます。「音の無いダンス」という具体でこの帝国の様子を想像させる手柄。(飯島章友)
■音のないダンスが国家の持つ危うさをうまく表現している。(清水かおり)
立秋の金銀パールプレゼント なかはられいこ
○八上桐子
○清水かおり
■思わず口ずさむ。洗剤のCMソングでこの半世紀中一番の印象深さだったフレーズからは、まず「主婦」を連想させる。残暑厳しい「立秋」に何がしかを思いめぐらす姿を詠んでいる。
庶民の小さな幸せと憂鬱が簡潔に同居する作品。(清水かおり)
■「立秋の金銀パ」まで読んだところで、あのメロディになった。立秋と読むだけで空気の澄むような、気温が2度ほど下がるようなイメージに、ソプラノの軽やかな響きがピタッと重なる。金、銀、パールのそれぞれの光も、秋を感じさせる。それにしても、金銀パールがよく出てきたと思う。(八上桐子)
以上・全30 句
イローニッシュな詩性
普川洋の作品
谷口慎也
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俳句形式への刻印
花谷和子句集『歌時計』を読む
谷口慎也
Posted by wh at 0:06 0 comments
爆発寸前の静けさ
澤田和弥句集『革命前夜』
谷口慎也
※『連衆』第66号(2013年9月刊)より転載
著者は昭和五十五年、浜松市生。第一句集である。現在『天為』同人で、跋文を有馬朗人が飾る。句集名は〈革命が死語となりゆく修司の忌〉からきているようで、寺山修司のその前衛的な青春性(手法)に、自分の進むべき道を大きく重ね合わせている。
「革命前夜」とは爆発寸前の静けさの中に在るもの。そしてその静けさの中には目に見えぬ何かが確かに動いているもの。彼の青春性の中にあるのは、そのような鬱々としたもの、野生的なもの、そして反抗的なもの等々であり、それが今回多面化された作品として表出されている。
船長の遺品は義眼修司の忌
寒晴や人体模型男前
鳥雲に盤整然としてチェスの駒
S極がS極嫌ふ極暑かな
幽霊とおぼしきものに麦茶出す
プール嫌ひ先生嫌ひみんな嫌ひ
他に〈秋めくやいつもきれいな霊柩車〉〈狐火は泉鏡花も吐きしとか〉〈茄子漬や母が捨てたる男など〉がある。
そして寺山がそうであったように、俳句形式は表現のひとつの舞台として設定されているが、寺山が全体に舞台構成=筋(すじ)に重きを置いたのに対し、澤田は役者=言葉の個性を重視していると言ってよい。
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【句集を読む】
人間の俳句
大沼正明句集『異執』
谷口慎也
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【句集を読む】
ショルダーバッグの中に
高橋龍句集『十余二(とよふた)』
谷口慎也
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【週俳6月の俳句を読む】
少しのおしゃべり
谷口慎也
最近の私の俳句への思いは、若い人たちの作品に刺激されて徐々に活性化してきている。これは嬉しいことである。またそれらの人々の自在なもの言いは、その自在さゆえに、これまでに私が見落してきたものを掬い上げる契機ともなり得ている。もちろん先人たちの作品はお手本として先にあるわけだが、一方で、これから更に自分の世界を拡充していくであろう人々を見続けることは、今後の私の大きな楽しみになっている。
さいわい今回、それらの人たちの作品を鑑賞する場に恵まれた。しばらく、対峙してみたい。
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佐川盟子「Tシャツ」(第267号)
蚊柱に届いてしまふ肩車
Tシャツを脱ぎTシャツを着て眠る
容疑の男サンダルで捕はるゝ
自転車も網戸も浚ひ出されけり
一句目は、日常のふとした発見が、ある寓意性を生んでいる。「届いてしまふ」という驚き(発見)が、その心のリズムそのままに韻文として表出されている。うまい句である。同時掲載された「かがむとき膝が鳴るなり夏蕨」「おづおづと大観覧車梅雨に入る」などの佳句も、作品の系統としてはこの範疇にある。
だがそれとは別に、私が留意したいのは二句目以降である。そこには〈現代〉というものが、いわば作者の〈す素の感性〉を通してさりげなく提出されているからだ。日常の風景における「Tシャツ」「サンダル」「自転車」等、それらの言葉は、それぞれに過重な意味を背負わされているわけではない。それは例えば記号のようなものとして読者に呈示されているだけである。過重な意味を背負う前に掬い上げられた言葉がここにある。それを可能にしているのはやはり作者の感性で、それを今私はとりあえず〈素の感性〉と言ったのである。
更に言えば、題材の抽出の仕方において、俗の拡充という、俳句が本来的に受け持つ俳諧の精神が垣間見られることも指摘したい。今やゝおおげさな表現をしたが、俳諧の精神などというものを難しく考える必要はない。それは、その辺に転がっているもの、一見文学的な価値など見出そうにも見出せないものに対して、そこに尚且つひとつの価値を見ようとする心構えのことに他ならない。私がこれらの句において「季語は何処?」などという野暮を言わないのは、これらの句が現代というものを、ここに確かに反映させているからである。
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藤田哲史「緑/R」(第267号)
星の窗新樹の窗と見たりけり
そら豆のみどり玉子焼のきいろ
珈琲豆焙煎頼む夏嵐
幽霊はときをり淡くなりにけり
『新撰21』でお見かけした人だ。「句を作っている最中は、定型と切れに気をつかっています。それ位で、あとは特に考えていません」という作者の一文が強く印象に残っている。確かにそれでいいのだと私も大いに共感したのだが、幾人かが指摘するように、「花過の海老の素揚げにさっと塩」「給油所に犬洗はれし芋の秋」「秋風や汝の臍に何植ゑん」などを見ると、確かに作者には若くしての(俳句的)老成感がある。年齢に似合わぬこういう句の仕立て方は不断の勉強によるものであろうが、それはまた持って生まれた才に負うところでもあろう。
そして今回提出の10句に、私は作者が受け持つ現実との齟齬(感)を見てしまう。それは俳句固有の定型と切れが、現実に対する異物として働きかけるときのその軋みと言い直すこともできる。
二句目の「そら豆」と「玉子焼」は、まことにヽヽヽヽヽヽぶっきらぼうに、そこに取り合わせられているだけである。だがこれを「色彩の鮮やかな対比!」などと評しようものなら、この〈ぶっきらぼう〉は突然怒り出すに違いない。だから読者は、言葉をぶっきらぼうにそこに置いた作者の真意を読み取らなければならない。すなわち、作者が抱いている現実との齟齬感を、である。
次は結句を除いて実に散文でありくどくどしい。だがそのくどくどしさ(すなわち「珈琲豆焙煎頼む」の重さ)が、一挙に「夏嵐」で吹き飛んでしまう爽快さに転換される。これはどこかに作者の確かな意思が働いている証拠である。読み手が感じるくどくどしさは、作者のうちにわだかまっている何かである。それを一挙に払拭するこの一句に、彼の俳句的なレトリックの在り方を見ることもあながち間違いではなかろう。だから冒頭句の「窗」における抒情的な風景の転換も、それを「見たりけり」で(ある意味)投げ出してしまうところに、読者は別の何かを読み取らなければならないのだ。そしてこれは私の穿ち過ぎではない。淡いはずの「幽霊」をもともと濃いと感じている作者である。どうも一筋縄ではいかない意思が働いている人のように思えてくるのだ。
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北川あい沙「うつ伏せ」(268号)
くるぶしは心細くて梅雨に入る
うつ伏せをまた叱られてゐて素足
百合切りて思ひ違ひにふと気付く
枇杷の絵のいつを仕上げとしたものか
こういう情感あるいは抒情の発露の仕方を私は最初から持ち合わせていない。それだけに、これらの作品を読んで、何かを補われたかのようにホッとした気分になる。
一句目の「くるぶし」の措辞は可愛らしくもありコケティッシュでもある。その句中の主体は二句目では「うつ伏せ」で表現されている。その顔を見せず、読み手の視線を「素足」に集中させるあたりは一句の工夫が更に効いている。
三句目は、やや句は平凡ながら、作者の素直な心情が嫌みなく出ているところをよしとしたい。いや、平凡のなかにさらりと人間心理の機微が挿入されている、と言った方が正確か。
最後の句であるが、「枇杷」は「柿」でも「林檎」でも構わないではないかという人が出てきそうである。要するに〈言葉が動く〉というわけだが、その辺はあまり理屈っぽく考える必要はないだろう。「柿」でも「林檎」でも構わなければ、逆に「枇杷」でも構わないわけで、要はこの句の場合、作者の言葉の選択を尊重しつつ味わうべきであろう。
私はこの方の作品を読むのは初めてなのだが、多分100句ほどの作品が並べば、もっと多くのことを言えそうな気がする。
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神野紗希「忘れろ」(269号)
はつなつや鳥に餌やる小さき匙
虹消えて因数分解の途中
はみ出せる自愛ぶよぶよアマリリス
ビニールの水も金魚もやわらかし
現在もっとも活躍中のこの作者は、感性と知性とのバランスが抜群の書き手である。特に、その知的構成力には信頼が置けそうである。例えば一句目。結果としてここに醸し出される明るい抒情は、何も作者の中にある抒情的な感情のせいばかりではない。「はつなつや」と大きく振りかぶり、次の瞬間には、小鳥の小さな口へ餌を運ぶ「小さな匙」へと句は焦点化されていく。つまり一句は大から小へと流れる視点を伴いながら、最後は、健気なものへ差し出す〈命の匙〉とでも言うべきものに句意は転換されるのである。表現としての知的構成力がものを言っている一句である。また「忘れろ忘れろ平泳ぎ繰り返す」というのもあったが、忘れるためには頭から水を被るクロールの方がより好都合だ。しかし作者はそこに「平泳ぎ」をもってくる。私の小さい頃はこの「平泳ぎ」を〈カエル泳ぎ〉とか〈ガマ泳ぎ〉などと言っていたが、忘れる為の〈クロール〉ではなく、忘れる為の〈カエル泳ぎ〉〈ガマ泳ぎ〉であれば、私はそこにも作者の知的な仕掛けを思わずにはいられない。
二句目は「虹」と「因数分解」の取合せにモダニズム的な安易さを感じないわけでもないが、それも最後に「途中」と句を開放したところで救われているのかもしれない。
三句目は作者の別の側面も見せつけてくれる。「自愛ぶよぶよ」が実に肉感的でリアルな働きを見せている。こんな句も作る作者の詩的領域の広さが想像できる。
そして私の一押しは四句目である。この一句に批評めいたことを差し挟む余地はない。「まさにその通り」のことをリアルな具象として表現し得た。そこにこの一句の価値がある。
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平山雄一「火事の匂ひ」(270号)
夏の火事ひときは人の匂ふかな
草矢射る神の名のつく岬かな
夏燕工業団地に視察団
浴衣着てどの町からもはるかなり
この人も初めて接する書き手であるが、ずいぶん面白く読めた。〈俳味〉のよろしさもあるが、より確かな〈諧〉に傾く人であるようだ。一句一句にあるそのふてぶてしさが頼もしい。
一句目は私の最も好きな作品であるが、その良さを今うまく説明できないでいる。二句目は、「草矢」飛ぶ空間に「神」の領域を挿入することによってその時空が広がっていく面白さ。三句目は実際の「視察団」と、「燕」の比喩としての「視察団」。その二重の意味性の面白さなどと言うことは出来るが、冒頭句はそういうわけにはいかない。「夏の火事」そのものに人の匂いを嗅ぐのか、あるいは火事を見ている人間に改めて謎めいた人の匂いを感じるのか。多分解釈としては後者の方であろうが、繰り返し読んでいると、そんな詮索はどちらでもよくなってくる。この一句には、より根源的な意味で、人間という生きものの、その正体の不明さ加減が描かれているようである。「夏の火事」という視覚と、人間の匂いを感知する嗅覚とが一応の風景を形成しながらも、その奥の方では、未だ言葉にならない何かが混沌としてあるようにも思えてくるのだ。更に検討を重ねてみたい作品である。
そして最後の句の「浴衣」には、上品な男の色気さえ感じられる。「どの町からもはるかなり」というその立ち姿が何とも〈粋〉で好ましい。
もっと多くの作品を読んでみたいと思っている。
第267号
■佐川盟子 Tシャツ 10句 ≫読む
■藤田哲史 緑/R 10句 ≫読む
第268号
■北川あい沙 うつ伏せ 10句 ≫読む
第269号
■神野紗希 忘れろ 10句 ≫読む
第270号
■平山雄一 火事の匂ひ 10句 ≫読む
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