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2023-12-10

谷口愼也【週俳10月の俳句を読む】俳句いろいろ

【週俳10月の俳句を読む】
俳句いろいろ

谷口愼也


俳句は「定型詩」である。その「定型」(フォルム)の中で様々な「様式」(スタイル)を持った俳句が出現している。そのスタイルは時代に大きく左右されるものであるが、それは多種多様であった方がいい。そこに何らかの規制を掛けようとすることは馬鹿げている。例えば「日本の伝統美」を大義名分の如く掲げる人々もいるが、その内実は、「伝統美」のひとつの流れを「全体」と勘違いしている場合が多い。今に始まったことではないが、「伝統美」もまた「多種多様」なのである。従って俳句の「読み」においても、できるだけ幅広い視野を持っていたいと思っている。


●敬虔の穹 竹岡一郎

発表句数は42。この作者の世界は実に厄介だ。膝をポンと叩いて「ああ、なるほどね」とはいかない。読むに手続きがいる。その手続きを踏まなければ、この作者の難解性は楽しめない。

うつろより歪な羽化を踊らんか  竹岡一郎

墓洗ふ戒名を火と見紛ふが

どろどろと盆の土産を嗅ぐ姉ら

抜けど折れど焼けど明けには立つ案山子

総じて言えばこの作者の特徴は、「虚」から「実」を攻めていくその詩的方法論にあるが、面白いのは、その攻め方であろう。

1句目。〈歪な羽化〉を句の中核とする異形性は、作者の依って立つ根拠のようなもので、それを包括するのが〈うつろ〉である。取りあえずそれを「空ろ」(内容がない)、「洞ろ」(空っぽの場所)、「虚ろ」(虚しい心)としてみれば、その〈うつろ〉の多義性を根拠に〈踊らんか〉と外界に打って出る作者の姿には、やはり何処か「奇」なるものがある。

2句目。〈墓洗ふ〉静かな無常観は、〈戒名を火〉と思うこの一語によって覆されている。

3句目の〈姉ら〉は、〈どろどろ〉〈嗅ぐ〉の措辞によって奇妙な生き物に変身させられている。それは「お盆」としてきれいに制度化されたものへの、思わぬ逆襲ともなっている。
 4句目。この〈案山子〉は単なる案山子ではなく、充分に肉感的である。中句〈~焼けど明けには〉には「火傷(やけど)明け」が畳み込まれている。作者における、惨状からの復活がここに読み取れる。

さらに見てみよう。

熔岩原は鬼形に凹み律の風

夜学子の声臈たけて正答す

蠱毒最後の鳴く虫ひとつオルガンへ

不知火に脱皮はじめの鉄を宿す

敬虔の穹をうべなふ鴇の声

1句目。〈熔岩=ラバ〉の「奇形」を「鬼形」と表現した。その「凹み」に吹き込むのが〈律の風〉。この〈律〉は漢詩の「音律」、律令国家の「律」などを想起させる。何故ならここには、重層化されたイメージを持つ〈鬼〉が姿を変えて登場しているからだ。であればこの句は、現官僚国家の諸々に対して鋭く牙を剥くものともなる。

2句目。制度化された「夜学生」ではなく、より幅広く〈夜学子〉と表現したところが何ともいい。〈臈たけて〉の表現には歴史的な「艶」があり、その裏には「したたかさ」がある。芸能や花街の人々が受け持ってきたそれを思ってみればいい。それらが社会制度の末端にあっても〈臈たけ〉た〈正答〉を叩き出すのだ。「艶」と「したたかさ」をもって……というところか。

3句目。句中の「蠱」(ゴ・コ)とは穀物につく蟲や人の体内にいる蟲のことを言う。手元の辞書によると、それはまた呪いに用いた蟲で「巫蠱(フコ)」とも言うようで、「器の中に虫を入れて共食いさせ、生き残った虫の毒気で仇を呪う迷信」とも書かれているから、これは相当古い話。また〈蠱毒〉は「コドク」とも読めるからそれは「孤独」に通じる。だがこれは私の「勝手読み」ではない。一句はそのように書かれているのだ。そのもろもろの呪縛・束縛を抜けて一個の「虫」が〈オルガン〉へ向かう姿が喜ばしいではないか。

4句目。〈不知火〉の科学的根拠はあるが、それを超越して、民話や伝説によって「わけの分からぬ不可思議なもの」というのが一般の心情ではなかろうか。だから〈不知火〉に〈脱皮はじめの鉄〉の「わからなさ」を取り合わせても、1句は極めて自然に成立するという不思議さ。


以上、他にも「読みの手続き」はあるだろうが、私は私なりにこれらの作品を楽しんだ。

5句目の〈敬虔の穹〉(けいけんのきゅう)はタイトルにもなっているが、〈敬虔〉とは「つつしみうやまうこと」。また、〈穹〉とは弓形に広く張ったテントのこと。すなわち作者はその「天穹=大空」を、〈鴇〉を承認者の声として「諾(うべな)って」いるのである。これ、なんとも「表現者」としての自信に満ちた〈声〉ではないか。


●さゝくれ 古田秀

シェーバーの震へを喉に秋彼岸  古田秀

この感性がいい。〈喉に〉の一語は「喉(のんど)に刃」の危うさを想起させる。だが1句は、そこに〈秋彼岸〉を措辞することによって〈シェーバー〉の静かな震えとともに、日常の一端を表現する。平穏な日常を表現しつつ、その日常のどこか一点の危うさを表現し得ていて「妙」である。

棘の間に小鳥の脚の置かれたる

人によってはここに「写生句」の良さを強調する人もあろうが、もはや写生句・抽象句の区分もさほど必要ではない時代に入っているのではないか。むしろここで留意すべきは、作者の直観的な「眼差し」であろう。その「眼差し」も慣用的なものであれば「月並」となるが、それが個から直に発せられる直観であれば、それは常に新鮮なものとなる。

他に〈跳ねぎはを咥へられたる螇蚸かな〉などがある。〈螇蚸〉の表記の裏には「精霊バッタ」の「精霊」を匂わせているようにも思えるが、いずれにしても「直観」が単なる「直感」に終わらぬところに作者の表現に対する拘りがあるようだ。


●木陰の詩 中矢温

天啓はポルトガル語をもて来る  中矢温

読んで楽しくなる作品である。私が住む福岡県大牟田市は日本版カルタ=天正カルタ発祥の地で、大航海時代にポルトガル人が船中で遊んだものをそのルーツとしているようだが、この句は〈ポルトガル〉の語韻をもって、軽快な明るさと新しさを感じさせるように出来ている。〈天啓〉などと大仰な措辞を被せてはいるが、そこに寓意や暗示があるわけではない。ポルトガル人がカルタで遊んだように、この作者は〈天啓〉という言葉で楽しく遊んでいるのである。「俳句」なるものに対する「しがらみ」がない分、表現の自在さが感じられる句である。無季であるがゆえの結果であるのかもしれない。

ケロケロと鳴く鳥の名よケロケロよ

ケロケロと鳴くのは(ふつうは)「蛙」。また鳥類の「イソヒヨドリ」の警戒音も「ケロケロ」と表記する。だが「ケロケロ」は鳥の学名ではないことを思えば、ここに鳥と蛙とがその鳴き声によって混然一体化する面白さを視ることができる。そして結句の〈ケロケロ〉には作者自身の貌がある。
このような転換の素早さが実にあっけらかんとして行われている。俳句表現の面白さである。

他に〈花ばさみ手紙ひらいて茎切つて〉があるが、これは「言いさし」表現のひとつであろう。投げ掛けて、あとは読み手・聞き手の想像に任せる。最近流行った「~、知らんけど」などを思えばわかり易い。読者を共通の場に引き込み、最後に突き放す。これ、短詩形ならではの常套手段である。


●こゑのある 内野義悠

すすきふんわり声それぞれにはなれゆく  内野義悠

〈すすき〉いっぽん一本にそれぞれの声がある。それが風の流れによってそれぞれに拡散していく、と解釈すればこの句、音調とともに象徴詩のようでもあり、おだやかな和みさえもが感じ取れる。ひらがな書きが好ましい。

海流の深み想へる夜業かな

秋の夜長の静寂さと、「夜なべ」作業に熱中するさまを〈海流の深み〉と表現した。ここにあるのは、ある日ある時の作者の感慨であり、それなりの実感が感じ取れる。

銀杏散る誤植くすぐつたきページ

自分の作品に〈誤植〉を見つけたのであろうか。〈くすぐつたき〉とあるから、きっとそうであるに違いない。またその〈くすぐつたき〉には幽かな羞恥心のようなものが漂う。その作品そのものが、或る意味大きな誤植ではないのかと、ふと感じる不安感のようなものさえもが感じ取れる。

この作者はいつも何処かで「自省」の「こゑ」を聴く人のようである。


■竹岡一郎 敬虔の穹 42句 ≫読む  第858号 2023年10月1日

■中矢温 木蔭の詩 10句  ≫読む  第859号 2023年10月8日

■内野義悠 こゑのある 10句 ≫読む  第861号 2023年10月22日

■古田 秀 ささくれ 10句 ≫読む  第862号 2023年10月29日


2022-02-06

【週俳11月・12月・1月の俳句を読む】ほんのちょっと 谷口慎也

【週俳11月・12月・1月の俳句を読む】

ほんのちょっと

谷口慎也


◆花島照子「フェルマータ」

コンビニの雑誌明るい冬の朝  花島照子

声冴える模型の肺を開くとき  同

かぎりある日にしあわせがあり毛布  同

ゆうぐれの焚火へ溜息のやわらか  同

いっぽんの冬木の窪のあなたかな  同

全体ここには、「限りある命」に対峙する作者の緊張感やいっときの安らぎが窺える。

それを「フェルマータ」と題したことはまことに適切であった。

「フェルマータ」とは、音符や休符の定量時間の延長を意味する、楽譜上の単純ならざる記号である。記号とはまた暗号ともなり、作者のこころの複雑さを醸し出す。

1句目は「雑誌」の内容が問題なのではない。冬の朝日に反射するその明るさを核(コア)として、生きている視覚が、「コンビニの雑誌」に象徴される日常を映し出す。   
読者はその視覚の健康さを感じ取ればいい。

2句目は、人工肺を「模型の肺」と詠んだ。ここには対象を突き放した「表現」としての客観性が成立している。だがその「声」を聴くのは自分の耳である。したがってその「冴え」には作者の万感が籠る。

3句目、4句目は何でもない穏やかな句である。だがこれらがなければ、この10句の意味は半減する。なぜならこれらは、「フェルマータ」の意味性そのものを背負っているからだ。

最後の句。「窪」とは「凹」。女性の「陰部」。一本の枯れた木の陰部である。そして「あなた」とは「こなた」でもある。記号化された「フェルマータ」が、具象としての姿を見せつけてくれているのがこの1句である。


◆田邊大学「優しい人」

冬うらら松を支へる木の柱  田邊大学

月よりも雲の明るく十夜寺  同

少女来て少年の去る龍の玉  同

白菜を真二つにして優しい人  同

落葉飛ぶなかを烏の跳ねてをり  同

優しい眼差しを持っているのは作者自身であろう。
1句目。「冬麗」とは書かず「冬うらら」と表記した。よって松を支える「木の柱」には無理がない。人為の企ても、ごく自然にそうなっているのである。

2句目は、うまい句。浄土宗の法要であれば、なおさらそうであろうと納得する。だが句中に流れる感情の在り方は、まさに予定調和的であり、この1句にはそこへ持っていく言葉使いの「うまさ」がある。従って、熟練が慣用的になってはいないかという疑問は残る。

その点、3句目は甚だ魅力的。「龍の玉」は「はずみ玉」とも言う。もうこの遊びをする子供も少ないかと思うが、ここには少年少女期の恥じらいや淡い恋ごころのようなものが表現されていて美しい。

4句目。大胆に切り付けられた「白菜」の新鮮な匂いと手触り感。またその音の快活さも感じ取れる。切る方も切られる方も、またそれを見ている第三者も、「優しい人」に包括されているという仕組み。これが作者の眼差しである。

5句目。迷惑な烏もこう詠まれると、生きとし生けるものの健気さが強調されてくる。これまた作者の眼差しが利いている。


◆岡田由季「宴」

冬の月旅に少しの化粧品  岡田由季

階段の巻き付くホテル冬の虫  同

タイ米のみな立ち上がり冬日和  同

冬の山良書ならべしやうにあり  同

極月の鳶のことさらきれいな輪  同

夜の端海鼠の口がすこし吸ふ  同

人の身ほとりには常に感情が流れている。その感情を実生活に流し込めば、そこには「喜怒哀楽」が生じ、和したり喧嘩したりする。この作者は、その感情をあくまで「俳句表現」として捉えることを第一義とする人のようだ。そこがしっかりしているので、俳句という文芸をすっきりと楽しむことができる。

いちいち言うまでもなかろうが、順に行けば、「少しの化粧品」「階段の巻き付く」から、「立ち上がるタイ米」「良書のような山」、そして「鳶」に「極月」を冠することによってそれが「きれいな輪」となることを納得させる。最後の句は暗喩を利かせた「海鼠」となっている。

それぞれの措辞は的確であり、下手な難解性は無く、すっきりと読める。

総じて言えば、それは「俳句表現」のひとつの在り方を明確に志向しているということだ。重ねて言えば、決して無理な取合せや喩の使い方はなく、極めて自然にそうなっている、と見せかけてくれるところがいい。

「生活の世界」ではなく、「俳句の世界」を覗かせてくれる書き手であろう。


◆佐藤智子「背はピンク」

軽トラの荷台で運ぶ獅子頭  佐藤智子

淑気とは乾燥 ワイシャツ白すぎる  同

松明けの真顔で混ぜるヨーグルト  同

寒そうに漢字が並ぶ米こぼす  同

私にわかるのは1句目。「軽トラ」と「獅子頭」のコミカルな取合せ。田舎の祭りの素朴な風景。人々の楽しい声が聞こえてきそうだ。

2句目は、天地に満ちているめでたい気配が「乾燥」している。だから「ワイシャツの白」が目立つという文意を持つ。これまた取合せを意識した句だが、あと一歩が感じ取れない。確かに作者は、何かを言いたいことは分かるが、それが伝わってこない。4句目、5句目の「ヨーグルト」「米こぼす」もチグハグにしか映らない。

私は俳句にその表層化した意味を求めるものではないが、伝わらない。多分これは、作者の中で解決済みの何かが、他者へ向けての扉を閉じているからであろうと思われる。だが反面、それは私の「読み」の想像力が足りないのかもしれないのだとも。


◆大室ゆらぎ「霜」

眠らむとして動くはらわた霜の声  大室ゆらぎ

霜土手を見知らぬ人の速さかな  同

黒水に溺れつつあり蓮の骨  同

顔を打つ霙に顔を打たせけり  同

奪はれて剝がすたましひ冬菫  同

人の世に在る「負」の部分に触手を伸ばしている。俳句文学において、当然それは裏に「正」の意識がなければそうはならない。

1句目の「動くはらわた」は、「霜の夜」あるいは「霜の世」に対峙するひとつの生きものの比喩でもあるかのようだ。

2句目。眼前を走り去る「他人」である。そこに人間的な繋がりなど生まれようもない。だから次の「蓮の骨」は、「黒水に溺れつつ」あるのである。

4句目は自虐の表現となる。その自虐が快感となるか、明日への励みとなるかは分からないが、最後の句の「冬菫」の痛々しくも美しい姿は、「表現」として、その自虐の方向にひとつの方向性を与えているのではないか。


◆野﨑海芋「三連符」

霜夜消さずブラックライトとボサノヴァと  野﨑海芋

待春やマリンバに討つ三連符  同

磔刑像に永久の血雫冬の凪  同

燭ひとつ献じ聖堂冬深し    同

ファミレスに喪服一団コート脱ぐ    同

言いたいことが先だってしまっている作品が多かった。その典型が3句目であろう。季語を取り混ぜて、単語の数が多く、焦点が定まらい。とにかく言ってしまいたいのだ、という思いが強い。次に指摘できるのが、タイトル「三連符」にあるが如く、その青春性が表現の上で上滑りをしているということ。1句目の「ブラックライト」「ボサノヴァ」。2句目の「マリンバ」「三連符」の音楽用語も、「それらしい」雰囲気は醸し出すものの、それを根っ子で支える作者の「感情」が、それらの措辞によって逆に拡散してしまっている。

だが、言ってしまいたい「感情」は旺盛な方がいい。この作者にはそれがある。後の課題はその「感情」と「表現」との兼ね合いであろう。

そういう意味で、私に読めるのは4句目と5句目。

しかし4句目は余りに俳句らしくなっている。つまり作者の感情が、結句の「季語」と仲良くし過ぎているのである。季語は1句の中で何処か変容を迫られ、それが詩の言葉として働かないなら、そこに1句の新しさは生じない。

最後の句は面白い。「服(の)一団」がいい。「一団」という言葉には組織の匂いが漂う。それが一斉に「コート脱ぐ」のであれば、それが地下室などではなく、市井の「ファミレス」であるがゆえにいよいよ怪しくなるーなどという、奇妙な想像までしてみたくなる。作者は、単にその風景を描いただけかもしれないが、日常の「喪服一団」が、「表現」によって大きく変容されているのである。

だから俳句という短詩形では、言いたいことはほんのちょっと匂わせておけばいいのかもしれない。

ついでに言えば、「雪だよと送れば雪だねと返事」もあったが、これはいけない。俵万智に「寒いねと言えば寒いねと応える~」みたいな短歌があったが、その本歌取りであったとしても、本歌に飲み込まれてしまっていては無駄骨に終わる。

最近、古歌の一部を援用して独自の俳句を作る人もいるが、結局は短歌の切れ端で終わっている作品も多い。その見極めはなかなか難しい処である。


第761号 2021年11月21日 ■花島照子 フェルマータ 10句 ≫読む

第764号 2021年12月12日 ■田邉大学 優しい人 10句  ≫読む 

第765号 2021年12月19日 ■岡田由季 宴 10句 ≫読む

第769号 2022年1月16日 ■佐藤智子 背はピンク 10句 ≫読む 

第770号 2022年1月23日 ■大室ゆらぎ 霜 10句 ≫読む 

第771号 2022年1月30日 ■野崎海芋 三連符 10句 ≫読む 

2020-10-11

【週俳9月の俳句を読む】みんな等しく「自然」 谷口慎也

【週俳9月の俳句を読む】
みんな等しく「自然」

谷口慎也


◆相馬京菜「すいかのす」

「すいか」の「す」とは「鬆」(ものの中心の硬い部分)のこと。

〈吾の孤独西瓜の上に生きるやも〉〈仏壇に安寧ばかり西瓜かな〉があれば、連れ合いに先立たれ、生業のひとつである西瓜作りに携わっている作者の生活が見えてくる。〈産直の暑さ暗さも西瓜玉〉〈半玉の西瓜となれば撫ではせぬ〉には、その仕事に伴うこれまでの苦労と、西瓜作りに対する作者の矜持とがうかがえる。自分の思いと言葉とが同じ背丈で表現されていて、無理なく読める作品だ。

冒頭に〈西瓜置く畑で隣だったかしら〉があるが、これは結構ユーモアに富んでいる。やや強引な読み方だが、これを、蔓を切られ店頭に並べられたときから始まる西瓜同士の会話、と見ることもできる―その為にはあと少し表現の工夫が必要か。

叩かれて西瓜の縞のにじみけり  相馬京菜

なつかしき風を通せり西瓜の鬆  同

地球の日落ちて西瓜に日が当たる  同

これらの句になると、言葉は生活の現場を基底に置きながら、表現としての高みに目を向けていることがわかる。

1句目の〈縞のにじみ〉は作者の心の滲みであろう。〈叩かれて〉の措辞によって、句に読みの多義性が生じてくる。すなわちポエトリーである。

2句目の〈なつかしき風〉は〈鬆〉を通ることによって生じてくる。〈鬆〉は生きるという思いの「核」(コア)であり、同時に1句の中心になる部分でもある。

3句目。凝視される〈西瓜〉は〈地球〉という大自然の中で生きているという作者の思い。〈地球〉も〈西瓜〉も、そして〈吾〉も、みんな等しく「自然」なのである。


◆吉川わる「泣けよ」

この作者には、「青春性」とでも言うべきその感情の在り方を見ることができる。

蟷螂の棚田背負ひて威嚇せり  吉川わる

秋霖や車内流るる文字の列  同

膨らみの足らぬパン生地沙羅の花  同

1句目は寓意。だが〈威嚇〉という言葉には何の濁りもない。ストレートな「怒り」である。2句目には、〈文字〉を読むのではなく、その流れを漠然と眺めている心の空白状態が表出されている。3句目には若々しい感覚がある。〈パン生地〉は思いっきり膨らんで欲しいのが「青春だ」と思えばいい。

「泣けよ」とふ本屋のポップ夏の月  同

〈ポップ〉とは本屋の書籍の前に置かれている「POP広告」(購買時点広告)のこと。〈とふ〉は上代語の応用で「~といふ」という意味であろう。作者の感情は直接的には表には出ていないが、「泣けよ」~〈本屋のポップ〉までの一挙の読みの流れがそれを代弁している。それが結句〈夏の月〉と呼応するとき、そこには何だか切ない浪漫的な感情が漂ってくる。  

また「読み」におけるリズムのよさは、「POPアート」としての音楽性を内包していると言ってもよい。

天牛のがりがら滑る洗面器  同

月代の濠は四角く流れけり  同

1句目には少し戸惑った。〈がりがら〉とは何か。擬音語であろうが、方言で「がりがり」をそう呼ぶところがあるのか。あるいは作者の造語か?

それよりもこの句には、「カミキリムシ」を〈天牛〉という漢字表記にしたその発想の面白さに留意したい。すなわち〈天牛〉は、その意味性において、〈天〉と〈牛〉に分解され、「天の牛」という壮大な生き物が〈洗面器〉を滑るという空想的な誇張表現。だから〈がりがり〉では物足らないので〈がりがら〉としたのであろうか。であれば、この〈がりがら〉が評価の分かれ目になるのではないか。

2句目の〈月代〉とは「月」のこと。〈濠〉があるからそこは「お城」。「お城」であれば武士の「月代」(さかやき)という類そうを生む。だがそういう言葉の広がりよりも、作者が「お濠の水」が〈四角くながれ(る)〉と捉えた視点が面白い。いずれも言葉への拘りを見せた一句である。


◆淺津大雅「卵」

この作者には、わかり易い句とそうでもない句とが混在している。

先ずはわかり易い句を抽出してみる。

近づくに木に秋雨の音おほし  淺津大雅

ここには作者なりの発見がある。音もなく降る〈秋雨〉のその〈音〉も、近づけば〈木〉にそれが集中しているという発見。ふだん何となく見過ごしていたことへの気づきである。〈懐におやつの卵秋祭り〉〈台風の夜の痩せ犬をかはいがる〉などもわかり易い句だが、やや平板になっている。

だが、下の句のようになると、私にはその「読み」の道筋が見えにくくなってしまう。

曼珠沙華鉄扉のまえへに人のゐず

秋の海に入りゆく二本の棒を見よ

萩やウエイターいつまでも客のはうを見て

1句目。黒い鉄扉に赤い曼珠沙華。何か暗示的でイメージは鮮明。だが「読み」はその先には進まない。「曼珠沙華には黒い鉄扉がよく似合う」のではあるが……。

2句目。〈二本の棒〉は生きものの「脚」の比喩なのだろうか。それとももっと抽象的な何かであるのか。だがそれから先の「読み」はここで途絶えてしまう。後は勝手に想像しろということなのか。

3句目。切字〈や〉はあるが、〈萩やウエイター〉と一挙に読ませるように出来ている。最近これに似た構文をいくつか見かけるが、〈萩〉と〈ウエイター〉は同格なのか。それとも〈萩〉は一つの風景として〈客〉や〈ウエイター〉の外側に置かれているのか。「読み」の入り口がいくつかあって、迷ってしまうのだ。

「読み」は読者の自由であるという。だが一方で「勝手読み」という言葉もある。「読みのcode」(道筋)を無視した読み方をそういうが、作品が要求してくる読みの道筋を無視した「読み」は、結局は個の感想で終わってしまうのではなかろうか。

こういう句にこそ「勝手読み」はいくらでもできるが、まさか作者はそれを狙っているわけではあるまい。慣れ親しんだ句会の仲間であればこれらの句も理解の及ぶところであるのかもしれないが、広く読者というものは、「赤の他人」であると考えた方がいい。

他の人の「読み」を聞いてみたいところだ。


■相馬京菜 すいかのす 10句 ≫読む
■吉川わる 泣けよ 10句 ≫読む
■淺津大雅 卵 10句 ≫読む

2020-08-09

【週俳7月の俳句を読む】作品が何を読者に要求しているのか 谷口慎也

【週俳7月の俳句を読む】
作品が何を読者に要求しているのか

谷口慎也


私のまだよく知らない書き手たちの10句を対象としての作品鑑賞は、しょせん印象評価に終るのかもしれない。だが、作品が何を読者に要求しているのかという「読みのcode」(道筋)に留意していくならば、多少はその難を解消できるのではないか――と思いつつの鑑賞文である。

◆村上 瑛「森に」

返球は転がしてやる朝曇

大学は森にうずもれ夕立風

夏痩や手でつくる銃向けられて

俳句は詰まるところ言語表現であるが、この3句には、作者がそれ以前の日常の場において、すなわちその散文的な地平において、外界との鬱屈とした軋轢を抱え込んでいることが見て取れる。

1句目。〈返球〉を〈転がしてやる〉のは、相手が子供であれば、それは句中の主体の優しさともなり得るが、何せ結句は〈朝曇〉である。であれば、その〈返球〉にはある種のアンニュイ感が伴っていることに留意したい。すなわちここに、幽かながらも、「自己」と「外界」との関係性のひとつが浮かび上がってくる。

2句目。〈大学も葵祭のきのふけふ〉(田中裕明)という句がある。ここに鮮烈な抒情や青春性を見るのは容易い。だが〈大学〉という社会的地位も、〈葵祭〉という地域ブランドも、1句の中では既存の価値観のままに据え置かれ、そこに〈きのふけふ〉という時間が流し込まれている―これは俳句の常套手段であるが―なるほど、ここにはうっとりとする時間が流れている。だが私の鑑賞はそれ以上の世界へ出て行かない。

対して村上作品の〈大学〉は、鬱蒼とした森に〈うずもれ〉ているところから出発している。暗くて黴臭いその在り処。そこへ〈夕立風〉が登場する。雷を伴う激しい雨。すべてを洗い流したその後には、涼しい風が吹く。ここには、表現による静かな復活(再生)劇を見ることができる。

3句目。〈手でつくる銃〉であれば、それは指で形作った〈銃〉のこと。親とヤンチャな子供とのある日ある時の、平凡なスナップ・ショットであるが、この句も簡単には見過ごせない。        

〈夏痩〉という弱った身体=弱者に向けられているのは〈銃〉である、というこの句の構図は、頑として動かない。その〈手でつくる銃〉が一瞬ヒヤリとしたものに変容するのは、作者がそこに、日常の裂け目(スリット)から見えてくる違和を直観しているからに他ならない。

以上3句からも了解されるように、散文的地平での違和は、この形式の中で解消されるのではなく、隠された静かな軋みを保ちながら書かれていることがわかる。そして多分ここには、書くための忍耐力が要るのだ。

蠅叩放れば終わる旅支度

教室でメロスの激怒夏に入る

湯にレンジに夕餉任せる油蟬

1句目には当然、虚子の「蝿叩」の連作が頭にあったに違いない。それを「放り出す」ことによって〈旅支度〉が「終わる」のである。ここには俳句独特の「ひねり」がある。すなわち〈旅支度〉の「終り」は「旅の始め」である。その為には〈蝿叩〉に象徴されるもろもろを放り出さねば旅は始まらないのだ、という「ひねり」である。

2句目。〈メロスの激怒〉を理屈で考える必要はない。〈教室〉という檻の中で唐突に、また確たる理由もなく暴発するパッション。それがそのまま〈夏〉に突入する感情の激しい流れとして表出されている。言葉によって、外界の抑圧を一挙に突き抜けているがゆえに貴重な一句となっている。

3句目は何度読んでも面白い。何よりも〈任せる〉の措辞による〈油蝉〉の「お大尽ぶり」が俳諧であり、愉快でもある。それを支えるのが読みにスピード感を持たせている〈に〉の繰り返し。他に〈羽蟻来てレゴのすかすか観覧車〉〈冷やし中華電源コードに頭と尾〉があるが、全体この作者には、現代的な感覚による「俳味」の面白さを言ってみたい。


◆橋本 直「不自然」

一家皆公務員なり通し鴨

不自然な川不自然な小鬼百合

人間の形の虚無をあぶらむし

1句目は特に面白い作品だ。〈一家皆公務員なり〉とは生活の安定を示す言葉。その数が増えれば増えるほど、それは「食」の安定に比例する。だが、結句は〈通し鴨〉である。夏になっても北へ帰らず、そこに居残り雛を育てる一群。いわばそれは渡り鳥の習性に逆らう少数派である。ゆえにここに寓意が成立する。「食」の安定のために、何かを喪失する淋しさ―である。

だがこの1句は、〈通し鴨〉の一語によって、さらなる読みをその外縁に誘発して来る。読みは読者の自由である。「読みのcode」をフル活用し、それを手繰ってみると、以下のようになる。

〈通し〉という言葉は料理店における「お通し」を連想させる。と同時に、〈一家皆公務員〉の「食」は、贅沢な「鴨料理」に結びつく。ここにおいて〈通し鴨〉という季語の本意は解体され、句中の主体は、まさに今、〈通し鴨〉という料理を取り囲んでいるかのようにも思えてくる。贅沢の中に、何かが欠落したような思いを抱きながら―である。そういう読みの面白さを味わえるのである。

2句目。ここには当然、「一月の川一月の谷の中」(飯田龍太)が意識されている。この句には、例えば丸谷才一に代表されるような優れた解釈もあるが、そこに私の興味・関心はない。

ずっと昔、私がこの1句に驚いたのは他でもない。「一月の谷の中を一月の川が流れている」という普遍的な風景が、まさに俳句形式そのものの力学(構造)によってみごとに俳句として成立しているという、その一点においてであった。そしてここには、龍太が俳句形式に関わるその根拠の一切が見当たらない。形式だけで成り立っているこの一句に、私は定型詩における「虚無」の怖さに驚いたようである。

橋本句の〈不自然な川〉には、龍太句に対する叛意のようなものを感じる。〈不自然な川〉によって変容された〈不自然な小鬼百合〉は、その〈不自然〉という言葉の繰り返しによって、より人間的な「自然さ」を希求しているかのようである。

3句目。ここにも〈虚無〉という言葉がある。それは〈人間の形〉をした〈虚無〉である。〈かたち〉とは「型」(形式)のことであれば、2句目の評とつながってくるが、その〈虚無〉は〈あぶらむし〉の登場によって人間の生活の現場と繋がってくる。要するにここに、叛意を通して、肉体を伴った俳句形式が成立するのである。

みておれば蚯蚓になにかみえてゐる

ささやかな独裁起こすかき氷

裸子の背にすんなりと手のとどく

これらの句も面白い。

1句目。何が見えてくるのかは書かれていない。だが作者には何かが〈みえてゐる〉のである。これは読み手に対するある種の挑発である。私には見えるが、あなたには見えないのか。たかだか相手は〈蚯蚓〉でではないか。もっと想像力を働かせなさい、とでも言いたげな。そういえば渡邊白泉に〈鶏たちにカンナは見えぬかもしれぬ〉があった。

2句目。何と言っても、和平的な〈かき氷〉に〈独裁〉を持ってきたところに、この作者の発想の大胆さ、自由さを感じた。〈かき氷〉に向かう姿は、それが大人であれ子どもであれ、独裁者であるという誇張表現の面白さ。それはまた俳句独特の手法でもある。
3句目。〈裸子〉の骨や筋肉の柔軟性には私もときどき驚かされる。それを〈背にすんなりと手のとどく〉と表現したとき、その〈手〉はそれ自体がまるで伸縮自在の生き物のように思えてくる。その〈裸子〉の自然な姿が不自然に見える瞬間。

この作者もまた、「自己」と「外界」との微妙な「ズレ」を抱え込んでいるようだ。


◆太田うさぎ「息災」

この人の作品は、境遇・境涯俳句にほど遠く、言葉が形成する世界そのものの面白さを楽しむことができる。

てつぺんかけたか義経は息災か

先ずはこの1句が目に飛び込んできた。

句の内容は古の歴史的人物に向けられた「存問」である。それが〈てつぺんかけたか〉の語勢に始まるリズムとテンポのよろしさで書き抜かれている。そこに詩的快感を覚える。こういう句はあまり説明を加えない方がいいが、そういうわけにもいかないので、一応の説明をする。

〈てつぺんかけたか〉とはホトトギスの鳴き声。そして〈てつぺん〉は「天辺」に通じる。義経もその高みにいたが、やがては兄に殺された。貴種流離譚の典型である。まさに「天辺駆けた」が、「啼いて血を吐くホトトギス」で終わったのである。そういう寓意がこの句にはある。そこに日本人好みの「判官びいき」が加勢する。

では、この〈てつぺんかけたか〉は「時鳥」の本意を解体し、単なる句中の詩語として扱われているかと言えば、そうではない。何故ならこの句は、その啼き声によってこそ〈義経〉が蘇るという、表現上の仕掛けの上に成立しているからである。。

屈みゐし人のつと立つ渓蓀かな

作者はいつか何処かで、たまたまこういう風景を見たのであろう。句意は、〈渓蓀〉の前で屈んでいる人が立ち上がった、というだけのことである。では何故、それだけのことが俳句になっているのか。

それには先ず〈渓蓀〉という一般には馴染みの薄い漢語に目を留めなければならない。読みは「あやめ」である。「あやめ」は「菖蒲」とも書き、またそれを「しょうぶ」とも読むから、ここにいささかの混乱が生じるが、「あやめ」は乾いた畠などにあるもの。「しょうぶ」はその根茎を水底におとしているものである。そして〈渓蓀〉を決して「しょうぶ」とは読まない。従って〈渓蓀〉という表記は、作者が慎重に抽出した一語であることがわかる。次に目を留めるべきは、「あやめ」=〈渓蓀〉は、根に毒を持つものであり、そのすべての部分に毒素を持つものとされているということ。

そういうことを頭に入れてこの句に向かうと、〈つと立つ〉の〈つと〉が読みの発端となっていることがわかる。そして、その不意に立ち上がる行為の原因となっているのが〈渓蓀〉であることが1句に明示されている。すなわちこれは、日常生活の中における「毒素」の発見である。

いま私は表現上の問題を言っているのであるが、例えばここに、〈渓蓀〉の代わりに「菖蒲」や「あやめ」という文字を置いてみればいい。たちまちこの句は平凡なものになってくる。何故ならどう見てもそれらの言葉では「毒」が効かないからだ。勿論ここで言う「毒」や「毒素」は、すでに具体的な〈渓蓀〉の「毒」を越えたところのものになっている。それから後は読者の問題だ。単一ならざる「読み」の多義性を要求して来るがゆえに、これは俳句という韻文なのだ。

寝室や冷房が効き絵傾き

この句の風景も不思議である。

単純なる室内風景に混じる「キ音」の連続が気になる。すなわち違和を感じる。そのためか、よく冷えた〈冷房〉は効き過ぎなのではないかと勘ぐったりする(実際、そのために心臓麻痺で亡くなった人もいる)。また壁に掛けた〈絵〉が不自然に傾いているのも気になる。それもいつ落下するかもしれないという不安。あるいは何かの予感。

単純なる室内風景の写生が、表現上の音と視覚とによって、どこかに違和のある風景に変容されているのがこの1句である。すなわちこれは、作者のある時の視覚的映像が、言葉による心象風景として、作者の中に明確に成立しているのである。

あらゆる表現者は、それぞれの「心象(風景)」によって、現実の中の「私」の位置・位相を確認することを思えば、この一句の意義も了解される筈である。。

紫陽花やうらぶれつつも文具店

大手商業施設に飲み込まれてしまったかつての〈文具店〉は、もはや「郷愁」の対象である。頭に〈紫陽花〉を置いたことによって、その感はいっそう強まると伴に、この句はなつかしい一枚の絵のようにも見えてくる。だがそれは動かない絵ではない。〈うらぶれつつも〉は現在進行形であり、そこには作者の「自己の投影」がある。さらにこの〈も〉には時代の流れに対する叛意も感じられる。すなわち作者は、この1句の中で、自己を相対化しているのである。「郷愁」とは「幻想」のことであり、言い換えれば、その「幻想」の中から現在の自己の位置・位相を確認しようとしているのだ。

先輩にお辞儀を深く男梅雨

鰻屋の仲居が妙に打ち解けて

この通俗性も作者の狙いのひとつであるようだ。

1句目の〈男梅雨〉には〈女梅雨〉が対応する。〈男傘〉に〈女傘〉もあるが、ここは〈お辞儀〉を通しての男同士の世界である。バンカラ学生の世界か。はたまた仁義の世界か? いずれにしてもその古さは否めない。だがそこには、そこはかとないホモ・セクシャルな雰囲気が漂っていることを見逃してはならない。それは、かつては誰でもが経験したであろう遠い記憶の中にあるもの。これもまた郷愁という幻想の中から導き出されたものだ。

2句目の〈鰻屋〉。それに〈仲居〉が妙になれなれしいとくれば、これはもう永井荷風先生の世界なのかもしれない、というのは話の飛び過ぎ。表現としては、〈鰻〉のぬるぬる感とその〈仲居〉の体の動き、喋り方、肌の質感、等々との取合せの面白さを味わった方がいい。

でも、それだけであろうか。

なぜ〈仲居〉は〈妙に打ち解けて〉いたのであろうか。それは作者にもわからない―というのがこの1句の仕立て方だ。このように疑問を残す句、すなわち読者に「問い」を残したままの句は、そこから後が本当の「読み」の始まりとなる。

句中の主体は、妙になれなれしいその〈仲居〉との距離を楽しんでいるかのようだ。〈鰻屋〉に続く〈仲居〉(古くは「女中」とも称した)という言葉は、これまた懐かしさを誘引するに充分である。すなわちその懐かしさの中にあるセクシャルな関係性。

さらに踏み込めば、そういう関係性は、相手が人間であろうが、動物であろうが、果ては山川草木であろうが、これまた遠い記憶のなかにあるエロチシズムに通じるものである。そういう読みも可能ではないか。

岸本尚毅に〈おばさんを姐さんと呼ぶ懐手〉(『舜』)がある。〈姐さん〉〈懐手〉という言葉を使いながらも近代的な洒落た1句となっている。だがそこに、読者への「問い」はない。「問い」はないがその軽さがいい。

では、太田句の〈鰻屋〉〈仲居〉と比べてみるとどうなるか。それを考えてみるのも一興である。 


■村上瑛 森に 10句 ≫読む
第691号 2020年7月19日
■太田うさぎ 息災 10句 ≫読む
■橋本 直 不自然 10句 ≫読む

2019-11-17

【週俳10月の俳句を読む】感情の流れのひとかたまり 谷口慎也

【週俳10月の俳句を読む】
感情の流れのひとかたまり

谷口慎也



対象作家となる青本瑞季さん、青本柚紀さんにはそれぞれの短文が付いていたので、作品共々興味深く読ませてもらった。また上田信治さんが同じところで、この両者の「書法」の一端を、「言葉の音や働きを細かく分節し再構成する」と的確に指摘している。従って私はそこを少し離れて、別の視点を設定してみたい。

◆青本瑞季「ありえない音楽が聞こえる」

冒頭句から順に作品を繰り返し読んでいると、そこには明らかに作者のひとまとまりの「感情の流れ」が見えてくる。すなわちそれが15句という束となって提出されている。従ってタイトルの中の〈音楽〉とは、作者のある日ある時を端緒とした、ひとまとまりの「感情の流れ」(音韻や音調)のことに違いない。

そこを押さえておいて、先ず目に留まったのは、下五に置かれた次のような言葉―〈はれやかに〉〈軋みつつ〉〈重くのべ〉〈痩せて背は〉〈かきくらす〉〈さやうなら〉―等々の感情表現であり、結果として書かれた作品の上の句は、下五の言葉に収斂されていくかに見える。すなわち、感情体である作者の文学的な居場所はなべてこの下五にあり、すなわちここが作者にとっての創作モチーフの在り処なのではないか。

夜ゆゑに文月は草木はれやかに  青本瑞季

燃えるたび鹿は麓をかきくらす  同

感光の渦の鰯よさやうなら  同

一句目は、〈文月〉の夜の湿りと月光に照らされた〈草木〉。それが実際の景であっても、ふと頭の中に想起されたものであってもかまわないが、作者の直観はそれを素早く「晴れやかなもの」として把握したのであって、その景と作者の感情には何の隔たりもない。二句目の〈かきくらす〉は古語。恋の歌によく使われている。であれば〈燃える〉のは胸の内。それが〈麓をかきくらす〉〈鹿〉とぴったり重なり合う。三句目。〈感光の渦〉に〈鰯〉を配合するような句を見たことがない。それは一瞬の光景だったに違いない。一瞬を言い留め、そしてすぐさま「さやうなら」とくる。即ち「反故」である。これはまた、「へーっ」と感心している私(すなわち読者)までもが切り捨てられたような気になり、なんとも愉快な気持ちになる。

つまり作者は、その時々の自分の気持ちに素直に従ってひとまとまりの作品を書いているのだ。それが他者に理解されるかどうかよりも、只々、その時々の気持ちの流れ、すなわち「感情の流れ」を大切にしているのではないか。極端に言えば、あとは読者がどう解釈するかは二の次の問題となる。

泪声ほやほやと野の鶉なる  同

これは15句中で、私が最も好きな句。何とも言えずこちらが〈ほやほや〉となる。古くを言えば、〈鶉〉は鳴き声の鑑賞用として一家に飼われていたものでもある。であれば、〈野の鶉〉にはなつかしささえ伴ってくる。〈泪声〉と共にあるその〈野の鶉〉に託されたものは、遠いものへのある種の親和性という感情ではなかったか。

パラフィン紙ひよの盛りを入日して  同

萩に衣服を歌ふ手つきでこぼれだす  同

ところがこれらの句は、一連の句巻物のような感情の流れを一時停止させる。他者の理解を考えるよりも先ずは作者の言いたいことに従っている。

一句目の〈ひよ〉は「鵯」。その貪欲な食欲へ〈入日〉が差し込む。すなわち「落日」。そういう光景に半透明のフィルターをかける。それが冠としての〈パラフィン〉。それによって、作者の痛みに似たやさしさが感じられるのではないか。二句目はさらに複雑。〈こぼれだす〉はまた「溢れ出す」でもある。この7・7・5音は意味の上では、14(7+7)+5音となっている。その〈こぼれだす〉までに作者の感情は〈萩〉・〈衣服〉・〈歌ふ〉と分断され〈手つき〉に掛かるが、その分断を辛うじて繋ぎ止めるのが〈に〉〈を〉という助詞である。だがその助詞も日常的な文法の体をなさない不安定なものである。さらに、だが、そう表現しなければ作者は自分の〈こぼれだす〉感情にまでは辿り着けなかったのではなかろうか。だが不思議なもので、これまた何度も読み返すと、〈萩に衣服を歌ふ手つき〉のフレーズも、超論理的に理解できたように思えるから不思議である。

◆青本柚紀「水の回遊記」

この作者は一句構成においてかなり意識的である。

同時掲載された論評【内容/形式についての覚書】は、山口誓子の「連作」論であったが、なかなか熱のこもったものであった。そこに作者が見ているのは「連作形式はあくまでも一句の外の形式である」ということだ。柚紀さんが引用しているのは、誓子の《連作俳句は如何にして作らるゝか》(S・7年「かつらぎ」10月号)からの引用であったが、同じ年の「かつらぎ」4月号で誓子は《「連作廊」雑言》として、『連作俳句の内容は之を「全」として見れば、畢竟「感情の流れ」であった』と書いている。

(もうお気づきの方も多いと思うが、先の私の瑞季作品評は誓子の「連作論」を下敷きにしている。何故なら、瑞季・柚紀作品ともども、感情の流れが、ある統一感のもとに書かれているからである)

ただ柚紀さんにおいては、「連作」は「一句の外にある形式」という認識を明確に持っている。すなわち、あるとき発生した「感情の流れ」(すなわち個々の作品)は「連作という形式」を生み出すということに自覚的であるということだ。「水の回遊記」もまたそれを下敷きにして、独特な作品(連作)を生み出している。

浮舟よ口に棗の緋を交はし  青本柚紀

仮枕手を流れ出て色は葛  同

くだる身のあなたを波になる菊が  同

萩は目に奥をひづめの澄みながら  同

いろは坂昏くてとどく雁の呼気  同

まばたきをうすももいろの鵙の木々  同

満ちて野の花さいごの水の輪を鳥が  同

ここは月の間千の夜がどしや降りで来る  同

好きな句を挙げてみたが、どの句も語りだせば多くの字数を要するものばかりだ。また一句には多くの「色」が取り入れられているのが特徴的だ。ひとかたまりの「感情の流れ」が、個々の句の構成の工夫によって、「連作」により複雑な、より緻密なハーモニーを醸し出している。ゆっくり味わうべき作品である。

余談になるが、「連作」という言葉は、今あまり俳壇では聞かない。誓子の唱えた古臭いもの、と人々が何とはなしにそう思っているからなのであろうか。それとも、すでに当たり前のこととして私たちが認識しているからであろうか。

だが個の感情の流れのひとかたまりは、絶えず場所を選ばずにどこかで発生するもので、それがある程度続けばその「連作形式」は自然に消滅するものである。だがしかし、またあるときまた別の感情の流れが生まれてくる。人間の生活も然りである。

一冊の句集も、それが平面的な編年体で構成されるものが今も多いが、まさに多面的に違ったひとまとまりの作品を所収する句集も増えてきた。例えば関悦司さんの『六十億本の回転する棒』や近くは小津夜景さんの『フラワーズ・カンフー』など。それらの句集の章分けには違った感情の流れが多面的に構成されている。すなわち句集一巻は「連作形式」になっていると見ることもできるのではないか。


■田中惣一郎 はつ恋考 10句 ≫読む
■島田牙城 風 10句 ≫読む
第651号 2019年10月13日
■青本瑞季 ありえない音楽が聞こえる 15句 ≫読む
■青本柚紀 水の回遊記 15句 ≫読む

2014-08-24

週刊俳句・柳俳合同誌上句会 2014年8月

週刊俳句・柳俳合同誌上句会 2014年8月

10名様参加。5句選(特選1句・並選4句)。≫投句一覧


参加者

〔柳人〕
飯島章友
きゅういち
清水かおり
なかはられいこ
八上桐子

〔俳人〕
相子智恵
笠井亞子
谷口慎也
鴇田智哉
中村安伸


【砂】

このへんがたぶん砂場の性感帯  飯島章友
○谷口慎也
○きゅういち
○笠井亞子
○清水かおり
■砂場のとらえどころのない重要なポイント、を言って妙味。(清水かおり)
■砂は変幻自在にして官能的。砂場にそれを発見した作者の嬉しそうな顔がまず浮かんだ。「このへんがたぶん」という間の持たせ方も狡猾。(笠井亞子)
■「砂場の性感帯」を見つけた時点で完成をみたであろう句、「このへんがたぶん」に冗長さとものたりないものを感じたのだが、かえって言い過ぎぬ姿勢が句を立たせたか。(きゅういち)
■手のひらに触れるくすぐったい砂の感触が〈性感帯〉という言葉を導き出した。〈たぶん〉にはその言葉に対する作者の含羞を見てもよいが、この措辞によって一句は、程良い調和を伴った愛らしいものとなっている。(谷口慎也)

ちょっとした砂丘になって待っている  なかはられいこ
◎谷口慎也
◎鴇田智哉
○中村安伸
○相子智恵

■待っている間に、自分が砂の溜りになってゆき、小さな砂丘になったということだろう。そのとらえ方が面白い。
演劇か何かの開演を待っているのかとも思ったが、そうではないだろう。〈ちょっとした〉という軽い言葉遣いからは、人を待っている感じがするからだ。〈ちょっとした〉という言葉に、親しみのある相手に対する軽い「抗議」の感じがあるのである。漫画における、「いらだち・怒り」の表現として、額に十字路マーク(?)が出るというのがあるが、主人公は額にあんなマークをつけたまま、にっこりと相手を迎えたのではないか。(鴇田智哉)
■〈ちょっとした砂丘〉の言い回しが軽妙かつ洒脱。同時に〈砂丘〉が「待つこと」にまつわる期待や不安感のようなものまでも表出している。多くを語らず多くを感じさせる理想的な一句である。(谷口慎也)
■なんだか暑そうな場所で、相手にずいぶんと待たされているのかもしれません。
待つうちに、相手に対する心が乾いていく。「ちょっとした砂丘」が絶妙な距離感のように思いました。(相子智恵)
■砂丘という隠喩で心中の渇きを示すのは、やや常套的といえなくもないが「ちょっとした」のキュートさに惹かれた。(中村安伸)

■約束の一分前もしくは一分後くらいかしら。(飯島章友)
■ちょっとした(小)砂丘(大)でも砂丘は足を踏み入れると・・私達は作品の中で何かになることが多いが砂丘になるのは新鮮な感覚。(清水かおり)


顎を手に乗せる身内の砂が降る  きゅういち
○鴇田智哉
○中村安伸

○飯島章友
■身内は「からだの内部」や「からだじゅう」の意と、「家族」「親族」の意があります。しかし、無理がないのは前者の「からだの内部」の意味だと思われ、そうだとすれば「顎に手を乗せ」て苦慮することが「砂が降る」を導き出す措辞になっているのではないでしょうか。(飯島章友)
■何気ない動作と心象を重ねた。「落ちる」や「こぼれる」でなく「降る」を選んだのは、物思いの継続することを示すのだろう。(中村安伸)
■〈身内〉は〝からだの中〟という意味でとった。自分の〈顎〉だろう。つまり頬杖のような状態だ。しばしの放心。全身がシルエットになったかのような感覚に近いのだが、そのシルエットが石の塊のように静止したものでなく、降る砂であるところが面白い。均質でありながら動いている。(鴇田智哉)

■頬杖のことを「顎を手にのせる」と言っているのか、もっと想像力を働かせると、身内の誰かの葬送の一場面までも浮かんでくる(清水かおり)

砂こぼす月に目じりのようなもの  谷口慎也
○なかはられいこ
○八上桐子

○相子智恵
■三日月でしょうか。砂は月が流した涙のようで、幻想的な句だと思いました。(相子智恵)

■古くから「月の顔」と言われてきたように、月は顔だ。けれど、その目鼻は定かではなく、見るものが描き入れる。目じりさえあやふやなままに、確かにこぼれ落ちる砂。しずかな息づかいの迫る月から、目が離せなくなってしまった。(八上桐子)
■本来は「砂こぼす」で切れていると読むべきなんでしょうか。私は「砂こぼす月 に」とつなげて読みました。黄砂とか飛んでる真昼の白っぽい月か らま るで涙 のようにこぼれる砂。月に目じりをみつけたところが好きです。(なかはられいこ)


砂のなかのきみは砂鉄やぼくは砂金
  中村安伸

砂めくれあがり揚羽の浮びたる  鴇田智哉
○谷口慎也○笠井亞子
■実景ともとれるムリのないシュールさがある。砂の劇場を見ているようだ。(鳥取砂丘を背景に作品を撮り続けた写真家のことを思う)「浮びたる」が揚羽の登場を格調高くしていて印象的。(笠井亞子)
■砂場でも海辺でもかまわないが、〈揚羽〉はまるで潜水艦のように浮上してくる。普段の何でもない生活の中でこういう「突然」にはよく出くわすものだ。しかしそれらがこの句のような言葉で表出されるとき、一句は虚実皮膜の不可思議さを醸し出す。(谷口慎也)

■砂→揚羽という発想は好きです。(飯島章友)
■時空を越えて現れた揚羽はその頃のせつない想いを留めている。砂はめくりあがるものなのかと妙に納得を誘う作品。(清水かおり)


上空の砂なら多民族でした  清水かおり
○飯島章友
■上空の砂「なら」多民族と言うんですから、一民族の地に住む人間が上空に舞ってきた砂を仰ぎ見て、多民族共生社会に思いを馳せた句かも知れません。しかし、たとえば中国大陸内陸部で発生する黄砂は他民族に健康被害を引き起こす困った物質ですし、また社会的なことを言えば、移民との軋轢の問題は多くの国が抱えています。上掲句からは多民族性が内包する憧憬と辛さとを感じます。(飯島章友)

■面白い句だと思ったが、しばらくすると「上空の砂=多民族」の意味的な構図が目立ってきて、一句はそこから動かない。この簡潔な断定を惜しいと思ったので、敢えて抽出してみた。(谷口慎也)

朝のシーツにランゲルハンス島の砂  八上桐子
◎清水かおり
◎笠井亞子
◎中村安伸

◎飯島章友
○きゅういち
○なかはられいこ

■朝のシーツとランゲルハンス島は現実物、そこに砂が合わされると幻想と現実のあわいが出現する。思わず手をぎゅっと握ってしまう。村上春樹の小説世界にごく自然に繋がっている作品。(清水かおり)■夢の中で訪れたビーチの砂が寝床に残されているという幻視と、その砂浜が「ランゲルハンス島」のものだったという言葉の遊戯。
臓器に「島」と名づけた語の喚起力によって、二重の跳躍が可能となった。(中村安伸)

■「砂」という言葉をつなげただけで「ランゲルハンス島」の意味が全く変わってしまう詩的面白さ。また、膵臓は実際に胆砂ができてしまうこともあるそうで、リアリティーをも感じます。(飯島章友)
■ランゲルハンス島というと複雑なイメージになりがちな所、「砂」という限定のお陰で、なんだかポップかつシュールな一句となった(ランゲルハンス島というのが実在の島で、ヴァカンスに出かけていたかのような)。
季語は無いけれど夏の朝の感じが横溢。バックには『マルタ島の砂』が流れている…。(笠井亞子)

■村上春樹と安西水丸の「ランゲルハンス島の午後」というエッセイ集を思い出し ました。夢のなかの出来事が、砂によって実体化されたようにみえ ておもしろ いと思いました。でもよく考えたら、マズイいんじゃないでしょうか、そこの砂 は。病院で検査してもらうことをお勧めします。(なかはられいこ)
■掲出句は特選にも押せるのではないかと感じ入ったが、「ランゲルハンス島」は膵島との意、意味を調べた小生に非があるのだが、急激に句の神秘性が薄らいでしまった。(きゅういち)


熱帯魚吐きたる砂や砂に落つ  相子智恵
○笠井亞子
■魚の口から吐かれた砂が水槽の底へ落ちていく、それだけのこと。
そのスローモーションじみた景はしかし「夏の時間」をひどく意識させる。(笠井亞子)


蒟蒻は砂の模様ぞ南風吹く  笠井亞子
○鴇田智哉
■まず、蒟蒻のあの色合いを〈砂の模様〉と言ったことで、一瞬、乾いた状況が浮かんでしまう。これは、食べ物である蒟蒻の印象としてはマイナスだ。食べ物としての蒟蒻の命は水分だと思うが、その逆のイメージだからである。〈砂の模様〉は、はっきり言って、おいしそうではない。だが、〈南風吹く〉と景色を広げたことで、その〈南風〉が雨雲をはらんだ湿気のあるものであるような気がしてくる。〈蒟蒻〉という奇妙なもの。そのありようを、どんよりとした質感でとらえているところが面白い。農産物である蒟蒻の、素朴な質感があると思う。(鴇田智哉)


【本】

エロ本をしぼればにおう鎮守様  きゅういち
○なかはられいこ
■「エロ本」と「鎮守様」の取り合わせが新鮮でした。性的なものと祭祀って無理 なくつながるようにも思えます。「エロ本」という俗っぽい言葉も 「しぼれ ば におう」という中七(しかもひらがな表記)でによって、柔らかくて水っぽくて 生々しくも神聖なものに変体してて、そこもおもしろかったです。(なかはられいこ)

■鎮守様の御座す神社、昔の村落共同体であればあんな事やこんな事の場になっていたかも知れません。(飯島章友)

永き日のひとつでありぬ古本屋  谷口慎也
○相子智恵
■春の日永。日差しのやわらかい景色の中に、古本屋ものどかに佇んでいる。古本屋というのがいいなあと。(相子智恵)

■良質な邦画のような句。(飯島章友)

逝く夏の線一本の星座かな  相子智恵
■流れ星・・だろうか。「逝く」の措辞がさびしい。(清水かおり)

転写本だからワサビも添えておく  飯島章友
○清水かおり
■転写本に何かを加味すると転写本といえなくなるかもしれないが、あえてワサビを効かす発想の面白さ。転写作業に辛みや風味を効かせたいと思う主体の情熱がいい。
「だから」と気の抜き方が絶妙。(清水かおり)


豆本をつまむ守宮をつまむように  笠井亞子
○鴇田智哉
○中村安伸
■守宮を対比させたことにより、豆本のもつ奇妙さ、ものめずらしさ、デリケートさがクローズアップされ、腑に落ちた。(中村安伸)
■動詞にはいろいろニュアンスがあって、「つかむ」というとかっこいいけれど、「つまむ」というとちょっとオドケた感じがする。「ひょいとつまむ」の「ひょいと」みたいなニュアンスが、「つまむ」自体に備わっているのだ。で、この句は、その〈つまむ〉の感覚がよく出ていると思う。
ところで、(俳人の性として申し訳ないが、)〈守宮〉が比喩として使われているため、厳密にいうと無季の句となっている。〈豆本〉と〈守宮〉を入れ替えて有季の句としても、内容けっこう面白い。でも、原句も面白い。
結局、〝〈守宮〉を持ったときに〈豆本〉を思い出す感覚〟と、〝〈豆本〉を持ったときに〈守宮〉を思い出す感覚〟のどちらが面白いか、ということが問題である。面白さでいえば、どちらも同じぐらい。でも、二者のどちらであるかによって、作者のキャラクターは結構違う。
この作者は、〝〈豆本〉を持ったときに〈守宮〉を思い出す感覚〟の方の人なのだ。仮に無季であろうが、作者がそうなのだから、こちらでよい。(鴇田智哉)

■守宮をつまんだことはないが、「つまむ」で豆本と守宮を同列した作者のユーモアを感じる。(清水かおり)

本よりも眩しく蟻の地がひらく  鴇田智哉
○清水かおり
■蟻地獄は時にパラダイスかもしれないと思う。「眩しい」に人間深層心理が言いつくされている。(清水かおり)

■本の活字と蟻との類比か。寺山修司を想いました。(飯島章友)

本降りになって桃缶買いに行く  清水かおり
◎相子智恵
○谷口慎也

○八上桐子
■「本降り」と「桃缶」の偶然の組み合わせが好きでした。
桃缶、よほど食べたかったのですね。缶の中の、シロップでずぶぬれの桃缶の桃と、本降りの中の自分がシンクロします。
雨は決して冷たくなく、シロップのようにまとわりつくようです。(相子智恵)

■「そんなヤツおらんやろ」と、まずは突っ込んだ。ところが、いる気がしてくる。にしても、桃缶。どうしても食べたくなるか?重いし。が、そんな日が来そうな気がしてくる。いえ、来て欲しい気すらしてくる。なつかしい衝動が、呼び覚まされたのだ。そんな日はあったのだ。(八上桐子)
■〈本降りになって出て行く雨宿り〉という古川柳がある。これは他者に対する揶揄。だが〈桃缶〉となれば話は別。一方で、三鬼の〈中年や遠くみのれる夜の桃〉があり、併せ読めば、それが「缶詰」であるというところに一種の滑稽とそれに伴う哀感さえ覚えるのだが、やや読み過ぎか?(谷口慎也)
■たとえば刺身を食べようとしたとき醤油がないことに気づいたら、これは即刻買いに出掛けざるをえません。でも「桃缶」という嗜好品は醤油ほどの必要性を感じない。要するに、私的な拘りで思い迷っている内にとうとう「本降り」になってしまったという顛末。パイン缶や蜜柑缶に比べ、桃缶には蠱惑的な何かがありそうです。(飯島章友)

本体を待っている間のくすりゆび  なかはられいこ
○きゅういち
○中村安伸
■朦朧とした書き方なのでさまざまな解釈が可能だが、本体に先んじて届けられた付属品をくすりゆびでもて遊んでいるのだと読んだ。
待つ心情が指に投影されてエロティックな風情もある。くすりゆびも本体というよりは付属品に近いものだろう。(中村安伸)

■どこかに漂うエロス、おそらく「くすりゆび」の持つ一般的なイメージによるものではないかと感じるが・・・一部分が全体を待つという大きな世界観が凝縮されている。(きゅういち)
■この「くすりゆび」が仮に左手薬指なら愛の証である指輪を待っている状況かも知れませんが、そのばあい「本体」という言葉はどうもしっくり来ない。「本体を待っている」という措辞からは、まるで義肢としての薬指が本体を待っている雰囲気があります。(飯島章友)
■これはもう小川洋子の「くすりゆびの標本」以外のシーンは浮かばない (清水かおり)


葉桜の独逸の本屋めく晩夏  八上桐子

冷房やひねもす本を抜きつ挿しつ  中村安伸

【音楽関連】

アサガオノカスカナカオススガシカオ  八上桐子
◎なかはられいこ
○きゅういち

○笠井亞子
■一瞬でがっちり掴まってしまいました。この句に裾を掴まれてしばらく身動きで きませんでした。ふつうに漢字とひらがなで書かれた句と比べて、 すべてカタ カナで書かれものは、目から脳に至る時間にどれほどの差が生じるのでしょう。 最初、カスカスとか、カオナシとか、スカスカとか読み 間違えながら「かすか なカオス」にたどり着いたときには、作者に嫉妬すら感じました。一句まるごと カタカナというのも新鮮ではありますが、た だそれだけではない、そのうえ間 違ってもキワモノなんぞとは言えない、詩的完成度の高い一句だと思います。(なかはられいこ)
■カタカナ表記、音韻の繰り返し等句自体に音楽が流れるようで遊び心満載、作句自体を楽しむような句姿に思わず「まいった」とつぶやいてしまうが「カオス」がいかにもの感。(きゅういち)

■イミよりまず読みをうながすカタカナの力を十全に生かした句。17文字が、数えてみれば「アオカサシスナシ」の8文字で構成されている。
朝顔にある微かな混沌も、その(カスカスとした)リズムに乗ると、からっとしていて楽しげに見える。元々カタカナ表記である名前の力も大きい。(笠井亞子)

■カの力技! (清水かおり)

アリランを乙女と乙女口移し  清水かおり
◎八上桐子
■ぷるんとふくらんだくちびるが、くちびるを真似て歌うアリラン。ゆっくり吐き出される一音、一音が、甘く切なく溶け合ってゆく。「口移し」は性的イメージにも働くが、官能を超越した“気”の交感を感じさせる。一句に凝縮された、プラトニックなエロティシズムに陶然となった。(八上桐子)

■「アリラン」「乙女」「口移し」という言葉の美的関係性と、a音・o音・u音の韻がよい。(飯島章友)

ドラムロール西瓜落下の映像に  中村安伸
○なかはられいこ
○相子智恵
■変な映像にドラムロールが付いて、なんだかおかしくて、もの悲しい。どんな番組か気になります。(相子智恵)
■結果が惨事となることがわかっていながら、期待してしまうのが人間の哀しいサ ガですね。とか、西瓜だから気軽に言えるわけですが、地に激突し て、ぐ ちゃっ てなった赤から、いやでも想像できてしまうものがあって。ひとの意識 下にある残酷な部分を引きずりだすような、ちょっと怖い句な気がします。(なかはられいこ)
■ドリフのごとし。(飯島章友)
■永遠に続きそうなドラムロールは時間の流れを遮断するような感覚がある。西瓜の落下でもドラマティックな人生の一ページに為り得る。(清水かおり)


はんざきの歌声ありて水の音  笠井亞子
○八上桐子
○飯島章友
■「歌声」という言葉が「はんざき」と「水」を仲介し融合させる働きをしていると思います。歌は通常、楽しいから歌うものだと思いますが、はんざきが歌っている川はさぞかし澄んでいるのでしょう。(飯島章友)
■「はんざきの歌声」に意表を突かれるが、そこはまだ半信半疑。下5の「水の音」でせせらぎに変換され、一気にリアリティーを帯びる。せせらぎは歌いつづけ、透明な歌声が私を通過してゆく。はんざきに歌を授けた、作者の詩心に感謝したい。(八上桐子)


竿竹にCD盤と風鈴と  相子智恵
○鴇田智哉
■CDがぶら下がっている光景は、見覚えのある風景として定着しているだろう。あれは何を除けているんだったか、鳥? 猫? それはそうと、〈風鈴〉もぶら下がっているんだが、別に風流でも何でもないし、〈竿竹〉も竹じゃないし、きわめて味気ない風景が、「音楽」という題に対してちょっと面白かった。(鴇田智哉)

■「CD盤」がテクストにおけるちょっとしたクビレになっていますね。(飯島章友)

縦笛のかつてキリンであった跡  飯島章友
○谷口慎也
○きゅういち
■「縦笛」と「キリン」の共通項を読者へ無意識にイメージさせる仕掛け、一句の中に輪廻に通じる時間軸をも織り込みふわっとした読後感をいただいた。(きゅういち)
■〈跡〉にやや難点。それでは一句が閉じてしまうという思い。だが、〈縦笛〉が〈キリンであった〉とはよもや誰も思いつくまい。その直観・直覚に賛同。(谷口慎也)
■縦笛のあのボコボコとしたシルエットはキリンだったのかと納得する。(清水かおり)


上向きにすいつちょの声反りあがる  鴇田智哉

大蓮のまわり音楽止みにけり  谷口慎也
◎きゅういち
■流れていたであろう「音楽」が「大蓮」の回りのみから消える。大きな時間軸を感じさせ、なにも語らずその空間の持つ質感を端的に言い表している。(きゅういち)


帝国の鋪道の音の無いダンス  きゅういち
○飯島章友
■帝国と言っても伝統や慣習を大切にし、民の生活の自由を守って国を治める帝もいますが、上掲句の帝国はそうでない雰囲気を感じます。「音の無いダンス」という具体でこの帝国の様子を想像させる手柄。(飯島章友)
■音のないダンスが国家の持つ危うさをうまく表現している。(清水かおり)


立秋の金銀パールプレゼント  なかはられいこ
○八上桐子
○清水かおり
■思わず口ずさむ。洗剤のCMソングでこの半世紀中一番の印象深さだったフレーズからは、まず「主婦」を連想させる。残暑厳しい「立秋」に何がしかを思いめぐらす姿を詠んでいる。
庶民の小さな幸せと憂鬱が簡潔に同居する作品。(清水かおり)
■「立秋の金銀パ」まで読んだところで、あのメロディになった。立秋と読むだけで空気の澄むような、気温が2度ほど下がるようなイメージに、ソプラノの軽やかな響きがピタッと重なる。金、銀、パールのそれぞれの光も、秋を感じさせる。それにしても、金銀パールがよく出てきたと思う。(八上桐子)


以上・全30 句

2014-02-09

イローニッシュな詩性 普川洋の作品 谷口慎也

イローニッシュな詩性
普川洋の作品

谷口慎也

≫普川洋 『連衆』誌より自選十二句

普川洋は俳号で、川柳を書くときは普川素床と名のっている。かつての「川柳Z賞」受賞作家でもある。残念ながらこの賞は2007年に廃止されたが、現在活躍中の川柳人の多くもここから輩出している。また彼には『文芸オクトパスそよ風』(新葉館刊)という評論集もあって、独特の川柳観を展開している。

どちらかと言えば川柳界の中での活躍が目立つ書き手であるが、彼の中では俳柳の境界線や相互の越境などを問うつもりはないようだ。両極端においての俳柳の区別はあるものの、近くにおいてはそれがないと言ってよい。

それよりも彼にとって重要なことは、自分の詩的思惟性(中核思想)が抱え込んでいるイローニッシュなもの(滑稽や諧謔等)を、双方のジャンルの「かたち」のなかでどう表出していくかということであろう。その表現手段の中核にあるものが、いわゆる詩的喩と呼ばれるものであることは、今回『週刊俳句』で紹介された12句をざっと眺めてみても了解されるのではないか。

オイと呼ぶとぼくが出てくるマラソン

〈呼ぶ〉主体と〈出てくる〉主体が同じであるにもかかわらず、それを同時的に分裂させているところが面白い。すなわち滑稽であり諧謔である。またこの〈マラソン〉には、例えばアラン・シリトーの小説『長距離走者の孤独』やそれを原作とした映画などが想起される。彼も私と同世代であれば、それらに影響を受けたのかもしれない。あるいは金子兜太の〈爆心地のマラソン〉があるのかもしれない。また単に目の前を通過するマラソンランナーに触発されたのかもしれないが、「マラソンランナー」自体に苦痛や孤独、長い人生という「喩」がつきまとうことは確かである。この一句はそこを穿ってみせたところの滑稽である。

鳥渡るからっと晴れているポスト

色鳥の混み合う創造はいつも

春の仕掛けのピアノを壊してみた

これらの作品には季語が挿入されているから、いちおう俳句の「かたち」をとっている。しかし作者が言いたいことは、〈からっと晴れている〉己が心象風景であり、〈創造〉なるものは〈いつも〉何かのきっかけを待っているものだという作者の思いである。〈鳥渡る〉も〈色鳥〉の〈混み合う〉姿もその表出の為の舞台設定に貢献している。

3句目は〈春〉という季語(情緒)に〈仕掛け〉という「知」を対比させる面白さを効果的にするために、わざわざ〈ピアノ〉を壊して見せるのである。ここには彼が抱え込んでいるイローニッシュな詩性が顕在化している。

しかしながら、これらの句における季語は、本来的なその役割を全く果たしていないかというと、そうではない。季語にはいくつものイメージがつきまとう。簡単に言えば、そのイメージが一句成立のときに有効な「喩」として働くのであるが、ここには普川の「さじ加減」のうまさというものがあって、その辺は充分に計算されているようだ。その「さじ加減」次第で次のような句を生む。

顔洗うどこかで亀が鳴いている

「亀鳴く」という季語はもともと何処か滑稽である(もちろん、淋しくもある)が、それが〈顔洗う〉卑俗とうまく調和していて、そこに漂うイロ二―も上質である。

その点、〈面白くずらしてありぬ夏の空〉は、面白がっている作者よりもは面白くない。これもまた「さじ加減」であり、一句が「喩」を形成する前に〈面白く〉と言ってしまっては「ズレ」の面白さも半減するのではないか。

また〈喩から出てより等身のかたつむり〉もあるが、私には〈喩から出て〉がどうもいけない。そのフレーズが説明であり、それが一句の中で説明のままで終わっていると思われるからだ。だが、何度か読み返していると「いや、これでいいのだ」と思うこともある。「喩」そのものの具現化という意味での評価、である。しかしながら、いまだその判断に迷い続けているというのが正直なところ。

……というように、いろいろと考えさせられるところに普川作品の面白さがあるのであろう。いずれにしても、彼が特異な書き手であることには間違いない。いつか彼の短詩型についての考えを、ゆっくり拝聴したいと考えている。

2014-02-02

【句集を読む】俳句形式への刻印 花谷和子句集『歌時計』を読む 谷口慎也

俳句形式への刻印
花谷和子句集『歌時計』を読む

谷口慎也


※『連衆』第66号(2013年9月刊)より転載

著者の第五句集。『藍』誌四十周年記念句集として出版されている。花谷は個を尊重する実作主義者であれば、やはりひとつひとつの作品をゆっくりと味わうのがよい。その中から著者の身体性を伴った日常が見えてくる。そして、その表現方法には緩みがない。

冒頭句は

二千年明けゆく月と星の位置

卷末は

われのみの足跡深し雪の門

となっているが、〈月と星の位置〉の確認は、すなわち次に「われ」の位置の確認である。塵界のわが位置をその大自然において捉えようとする孤高の精神をここに見てもよい。そして〈足跡深し〉には生活者としての歩みの重さと深さとが自認されているであろう。この二句の間には次のような作品が並ぶ。

永劫の滝音なりき父祖の地に

病める子へ二つぶ三つぶ雛あられ

死顔を褒めてせんなし鳥渡る

白梅の何を滅してこの白さ

薔薇そこに身を傾けている闘魚

月光の海へガラスの扉押す

何か始まる野の一点の鶏頭炎え


これらの抽出句のみではその全体像が掴みにくいだろうが、ここには花谷の生活の現場から立ち昇ってくる様々な情感が、一句ごとに韻文としての響きをもって屹立している。その無駄のない表現は、その時々の自分の思いを俳句形式に刻印していこうとする、その堅い意思に比例していると見なければならない。


花谷和子句集『歌時計』角川書店(2013年)

2014-01-19

爆発寸前の静けさ 澤田和弥句集『革命前夜』 谷口慎也

爆発寸前の静けさ
澤田和弥句集『革命前夜』

谷口慎也


※『連衆』第66号(2013年9月刊)より転載

著者は昭和五十五年、浜松市生。第一句集である。現在『天為』同人で、跋文を有馬朗人が飾る。句集名は〈革命が死語となりゆく修司の忌〉からきているようで、寺山修司のその前衛的な青春性(手法)に、自分の進むべき道を大きく重ね合わせている。

「革命前夜」とは爆発寸前の静けさの中に在るもの。そしてその静けさの中には目に見えぬ何かが確かに動いているもの。彼の青春性の中にあるのは、そのような鬱々としたもの、野生的なもの、そして反抗的なもの等々であり、それが今回多面化された作品として表出されている。

  船長の遺品は義眼修司の忌

  寒晴や人体模型男前

  鳥雲に盤整然としてチェスの駒

  S極がS極嫌ふ極暑かな

  幽霊とおぼしきものに麦茶出す

  プール嫌ひ先生嫌ひみんな嫌ひ


他に〈秋めくやいつもきれいな霊柩車〉〈狐火は泉鏡花も吐きしとか〉〈茄子漬や母が捨てたる男など〉がある。

そして寺山がそうであったように、俳句形式は表現のひとつの舞台として設定されているが、寺山が全体に舞台構成=筋(すじ)に重きを置いたのに対し、澤田は役者=言葉の個性を重視していると言ってよい。


≫邑書林 web shop


2013-12-01

【句集を読む】人間の俳句 大沼正明句集『異執』 谷口慎也

【句集を読む】
人間の俳句
大沼正明句集『異執』

谷口慎也



『連衆』第66号(2013年9月)より転載

『大沼正明句集』(昭和六十一年)以後の作品をまとめたもの。彼は私にとっての伝説の俳人。昭和二十一年、旧満州生。かつて『海程』で活躍した人だ。一九九一年から四年間、長春の吉林大学で日本語・日本文学を教えている。私が知っているのはその辺までであった。そして今回の突然の句集。帯文を夏石番矢・江里昭彦・大石雄介。「この分厚い鈍器を、二十一世紀はどう評価するだろうか」(江里)とある。

彼の俳句は〈即身句〉。〈こちとら十年(ととせ)スルメして即身句だオーイ〉から拝借した。

天皇制のむこうの豚舎もまずは健康

好戦って本能赤ちゃんキャタピラ這いしてる

永遠と一列放尿コソボの虹と

ピョンヤンの脚十色鷺より細きあり

酔わば人生遠雷がバックホームのように

寧の生家はあの解放
(ジェファンダ―)大路(ルウ)の暗(あん)帰りぬ

などがわかり易い作品。

だがこういう抽出の仕方は何の役にも立たない。時系列に並べられた作品は、苦汁を背負った「鈍器」の如き彼の身体性と共に読まねばならない。俳句を盆栽の枝ぶりの宜しさ加減で鑑賞することの馬鹿らしさ。だから「異執」(正論から外れた見解に執着すること)なのである。

ことは表現の問題であり読みの問題。人体はあらゆる場所のあらゆる時間を動き回る。それを纏めて人間と言う。であれば、「異執」をも呑み込まなければ〔人間〕の俳句は見えてこない。






2013-11-17

【句集を読む】ショルダーバッグの中に 高橋龍句集『十余二』 谷口慎也

【句集を読む】
ショルダーバッグの中に
高橋龍句集『十余二(とよふた)』

谷口慎也


『連衆』第66号(2013年9月)より転載

大切な句集はいつも手の届く処に並べている。ところが高橋自ら「句控」と呼ぶ既刊句集『天津桃』『四十集』は私の布製のショルダーバッグの中にある。小さくて持ち運びに便利であるから、ばかりではない。外出時のちょっとした時間にそれを手にすると「笑える」からである。笑えれば、それだけ時間が豊かになる。というわけで、今回の一冊もショルダーバッグ行きになる。誰かに怒られそうだが、世の中、漫画本より笑える句集が不足しているのだ。 

元日や死神未だ坐(ま)しまさず  高橋龍(以下同)

平和村字戦争に梅の花

本文はあとがきのため囀れる

太陽がいくつも落ちる蝉の穴

夢の世のあかざの杖は折れやすし

少年の次は没年夏の海

あきかぜにおくれて吹くは秋の風

一本が二本に見える枯木かな

恥部局部陰部あらはの牡蠣を焼く

神が死んだを繰返す大根引

まだまだあるが、総じて言えば、高橋龍はあらゆる「思想性」をたちまち面白い言葉にしてしまう名人であろう。念のために言えば「面白い」とは詩的快感のこと。集中における【戦中回想】の章や【古事記歳時記】の前書き等を見れば、この作者の思いの深さがわかるが、そこを〈陛下そりやつれなかろうぜ地虫鳴く〉とくる。いっぺん言ってみたかった、と思うのである。ちなみに「十余二」とは千葉県東葛飾郡にある地名のこと。彼にとって、思い入れのある場所であるようだ。

■高橋龍句集『十余二』(2013年7月/高橋人形舎)

2012-07-08

【週俳6月の俳句を読む】谷口慎也 少しのおしゃべり

【週俳6月の俳句を読む】
少しのおしゃべり

谷口慎也


最近の私の俳句への思いは、若い人たちの作品に刺激されて徐々に活性化してきている。これは嬉しいことである。またそれらの人々の自在なもの言いは、その自在さゆえに、これまでに私が見落してきたものを掬い上げる契機ともなり得ている。もちろん先人たちの作品はお手本として先にあるわけだが、一方で、これから更に自分の世界を拡充していくであろう人々を見続けることは、今後の私の大きな楽しみになっている。

さいわい今回、それらの人たちの作品を鑑賞する場に恵まれた。しばらく、対峙してみたい。

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佐川盟子「Tシャツ」(第267号)

蚊柱に届いてしまふ肩車

Tシャツを脱ぎTシャツを着て眠る

容疑の男サンダルで捕はるゝ

自転車も網戸も浚ひ出されけり

一句目は、日常のふとした発見が、ある寓意性を生んでいる。「届いてしまふ」という驚き(発見)が、その心のリズムそのままに韻文として表出されている。うまい句である。同時掲載された「かがむとき膝が鳴るなり夏蕨」「おづおづと大観覧車梅雨に入る」などの佳句も、作品の系統としてはこの範疇にある。

だがそれとは別に、私が留意したいのは二句目以降である。そこには〈現代〉というものが、いわば作者の〈す素の感性〉を通してさりげなく提出されているからだ。日常の風景における「Tシャツ」「サンダル」「自転車」等、それらの言葉は、それぞれに過重な意味を背負わされているわけではない。それは例えば記号のようなものとして読者に呈示されているだけである。過重な意味を背負う前に掬い上げられた言葉がここにある。それを可能にしているのはやはり作者の感性で、それを今私はとりあえず〈素の感性〉と言ったのである。

更に言えば、題材の抽出の仕方において、俗の拡充という、俳句が本来的に受け持つ俳諧の精神が垣間見られることも指摘したい。今やゝおおげさな表現をしたが、俳諧の精神などというものを難しく考える必要はない。それは、その辺に転がっているもの、一見文学的な価値など見出そうにも見出せないものに対して、そこに尚且つひとつの価値を見ようとする心構えのことに他ならない。私がこれらの句において「季語は何処?」などという野暮を言わないのは、これらの句が現代というものを、ここに確かに反映させているからである。

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藤田哲史「緑/R」(第267号)

星の窗新樹の窗と見たりけり

そら豆のみどり玉子焼のきいろ

珈琲豆焙煎頼む夏嵐

幽霊はときをり淡くなりにけり

『新撰21』でお見かけした人だ。「句を作っている最中は、定型と切れに気をつかっています。それ位で、あとは特に考えていません」という作者の一文が強く印象に残っている。確かにそれでいいのだと私も大いに共感したのだが、幾人かが指摘するように、「花過の海老の素揚げにさっと塩」「給油所に犬洗はれし芋の秋」「秋風や汝の臍に何植ゑん」などを見ると、確かに作者には若くしての(俳句的)老成感がある。年齢に似合わぬこういう句の仕立て方は不断の勉強によるものであろうが、それはまた持って生まれた才に負うところでもあろう。

そして今回提出の10句に、私は作者が受け持つ現実との齟齬(感)を見てしまう。それは俳句固有の定型と切れが、現実に対する異物として働きかけるときのその軋みと言い直すこともできる。

二句目の「そら豆」と「玉子焼」は、まことにヽヽヽヽヽヽぶっきらぼうに、そこに取り合わせられているだけである。だがこれを「色彩の鮮やかな対比!」などと評しようものなら、この〈ぶっきらぼう〉は突然怒り出すに違いない。だから読者は、言葉をぶっきらぼうにそこに置いた作者の真意を読み取らなければならない。すなわち、作者が抱いている現実との齟齬感を、である。

次は結句を除いて実に散文でありくどくどしい。だがそのくどくどしさ(すなわち「珈琲豆焙煎頼む」の重さ)が、一挙に「夏嵐」で吹き飛んでしまう爽快さに転換される。これはどこかに作者の確かな意思が働いている証拠である。読み手が感じるくどくどしさは、作者のうちにわだかまっている何かである。それを一挙に払拭するこの一句に、彼の俳句的なレトリックの在り方を見ることもあながち間違いではなかろう。だから冒頭句の「窗」における抒情的な風景の転換も、それを「見たりけり」で(ある意味)投げ出してしまうところに、読者は別の何かを読み取らなければならないのだ。そしてこれは私の穿ち過ぎではない。淡いはずの「幽霊」をもともと濃いと感じている作者である。どうも一筋縄ではいかない意思が働いている人のように思えてくるのだ。

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北川あい沙「うつ伏せ」(268号)

くるぶしは心細くて梅雨に入る

うつ伏せをまた叱られてゐて素足

百合切りて思ひ違ひにふと気付く

枇杷の絵のいつを仕上げとしたものか

こういう情感あるいは抒情の発露の仕方を私は最初から持ち合わせていない。それだけに、これらの作品を読んで、何かを補われたかのようにホッとした気分になる。

一句目の「くるぶし」の措辞は可愛らしくもありコケティッシュでもある。その句中の主体は二句目では「うつ伏せ」で表現されている。その顔を見せず、読み手の視線を「素足」に集中させるあたりは一句の工夫が更に効いている。

三句目は、やや句は平凡ながら、作者の素直な心情が嫌みなく出ているところをよしとしたい。いや、平凡のなかにさらりと人間心理の機微が挿入されている、と言った方が正確か。

最後の句であるが、「枇杷」は「柿」でも「林檎」でも構わないではないかという人が出てきそうである。要するに〈言葉が動く〉というわけだが、その辺はあまり理屈っぽく考える必要はないだろう。「柿」でも「林檎」でも構わなければ、逆に「枇杷」でも構わないわけで、要はこの句の場合、作者の言葉の選択を尊重しつつ味わうべきであろう。

私はこの方の作品を読むのは初めてなのだが、多分100句ほどの作品が並べば、もっと多くのことを言えそうな気がする。

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神野紗希「忘れろ」(269号)

はつなつや鳥に餌やる小さき匙

虹消えて因数分解の途中

はみ出せる自愛ぶよぶよアマリリス

ビニールの水も金魚もやわらかし

現在もっとも活躍中のこの作者は、感性と知性とのバランスが抜群の書き手である。特に、その知的構成力には信頼が置けそうである。例えば一句目。結果としてここに醸し出される明るい抒情は、何も作者の中にある抒情的な感情のせいばかりではない。「はつなつや」と大きく振りかぶり、次の瞬間には、小鳥の小さな口へ餌を運ぶ「小さな匙」へと句は焦点化されていく。つまり一句は大から小へと流れる視点を伴いながら、最後は、健気なものへ差し出す〈命の匙〉とでも言うべきものに句意は転換されるのである。表現としての知的構成力がものを言っている一句である。また「忘れろ忘れろ平泳ぎ繰り返す」というのもあったが、忘れるためには頭から水を被るクロールの方がより好都合だ。しかし作者はそこに「平泳ぎ」をもってくる。私の小さい頃はこの「平泳ぎ」を〈カエル泳ぎ〉とか〈ガマ泳ぎ〉などと言っていたが、忘れる為の〈クロール〉ではなく、忘れる為の〈カエル泳ぎ〉〈ガマ泳ぎ〉であれば、私はそこにも作者の知的な仕掛けを思わずにはいられない。

二句目は「虹」と「因数分解」の取合せにモダニズム的な安易さを感じないわけでもないが、それも最後に「途中」と句を開放したところで救われているのかもしれない。

三句目は作者の別の側面も見せつけてくれる。「自愛ぶよぶよ」が実に肉感的でリアルな働きを見せている。こんな句も作る作者の詩的領域の広さが想像できる。

そして私の一押しは四句目である。この一句に批評めいたことを差し挟む余地はない。「まさにその通り」のことをリアルな具象として表現し得た。そこにこの一句の価値がある。

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平山雄一「火事の匂ひ」(270号)

夏の火事ひときは人の匂ふかな

草矢射る神の名のつく岬かな

夏燕工業団地に視察団

浴衣着てどの町からもはるかなり

この人も初めて接する書き手であるが、ずいぶん面白く読めた。〈俳味〉のよろしさもあるが、より確かな〈諧〉に傾く人であるようだ。一句一句にあるそのふてぶてしさが頼もしい。

一句目は私の最も好きな作品であるが、その良さを今うまく説明できないでいる。二句目は、「草矢」飛ぶ空間に「神」の領域を挿入することによってその時空が広がっていく面白さ。三句目は実際の「視察団」と、「燕」の比喩としての「視察団」。その二重の意味性の面白さなどと言うことは出来るが、冒頭句はそういうわけにはいかない。「夏の火事」そのものに人の匂いを嗅ぐのか、あるいは火事を見ている人間に改めて謎めいた人の匂いを感じるのか。多分解釈としては後者の方であろうが、繰り返し読んでいると、そんな詮索はどちらでもよくなってくる。この一句には、より根源的な意味で、人間という生きものの、その正体の不明さ加減が描かれているようである。「夏の火事」という視覚と、人間の匂いを感知する嗅覚とが一応の風景を形成しながらも、その奥の方では、未だ言葉にならない何かが混沌としてあるようにも思えてくるのだ。更に検討を重ねてみたい作品である。

そして最後の句の「浴衣」には、上品な男の色気さえ感じられる。「どの町からもはるかなり」というその立ち姿が何とも〈粋〉で好ましい。

もっと多くの作品を読んでみたいと思っている。


第267号
■佐川盟子 Tシャツ 10句 ≫読む
■藤田哲史 緑/R 10句 ≫読む
第268号
■北川あい沙 うつ伏せ 10句 ≫読む
第269号
■神野紗希 忘れろ 10句 ≫読む
第270号
■平山雄一 火事の匂ひ 10句 ≫読む

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2012-02-12

谷口慎也 流離譚 10句

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週刊俳句 第251号2012-2-12

 谷口慎也 流離譚
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