【週俳11月・12月・1月の俳句を読む】
ほんのちょっと
谷口慎也
◆花島照子「フェルマータ」
コンビニの雑誌明るい冬の朝 花島照子
声冴える模型の肺を開くとき 同
かぎりある日にしあわせがあり毛布 同
ゆうぐれの焚火へ溜息のやわらか 同
いっぽんの冬木の窪のあなたかな 同
全体ここには、「限りある命」に対峙する作者の緊張感やいっときの安らぎが窺える。
それを「フェルマータ」と題したことはまことに適切であった。
「フェルマータ」とは、音符や休符の定量時間の延長を意味する、楽譜上の単純ならざる記号である。記号とはまた暗号ともなり、作者のこころの複雑さを醸し出す。
1句目は「雑誌」の内容が問題なのではない。冬の朝日に反射するその明るさを核(コア)として、生きている視覚が、「コンビニの雑誌」に象徴される日常を映し出す。
読者はその視覚の健康さを感じ取ればいい。
2句目は、人工肺を「模型の肺」と詠んだ。ここには対象を突き放した「表現」としての客観性が成立している。だがその「声」を聴くのは自分の耳である。したがってその「冴え」には作者の万感が籠る。
3句目、4句目は何でもない穏やかな句である。だがこれらがなければ、この10句の意味は半減する。なぜならこれらは、「フェルマータ」の意味性そのものを背負っているからだ。
最後の句。「窪」とは「凹」。女性の「陰部」。一本の枯れた木の陰部である。そして「あなた」とは「こなた」でもある。記号化された「フェルマータ」が、具象としての姿を見せつけてくれているのがこの1句である。
◆田邊大学「優しい人」
冬うらら松を支へる木の柱 田邊大学
月よりも雲の明るく十夜寺 同
少女来て少年の去る龍の玉 同
白菜を真二つにして優しい人 同
落葉飛ぶなかを烏の跳ねてをり 同
優しい眼差しを持っているのは作者自身であろう。
1句目。「冬麗」とは書かず「冬うらら」と表記した。よって松を支える「木の柱」には無理がない。人為の企ても、ごく自然にそうなっているのである。
2句目は、うまい句。浄土宗の法要であれば、なおさらそうであろうと納得する。だが句中に流れる感情の在り方は、まさに予定調和的であり、この1句にはそこへ持っていく言葉使いの「うまさ」がある。従って、熟練が慣用的になってはいないかという疑問は残る。
その点、3句目は甚だ魅力的。「龍の玉」は「はずみ玉」とも言う。もうこの遊びをする子供も少ないかと思うが、ここには少年少女期の恥じらいや淡い恋ごころのようなものが表現されていて美しい。
4句目。大胆に切り付けられた「白菜」の新鮮な匂いと手触り感。またその音の快活さも感じ取れる。切る方も切られる方も、またそれを見ている第三者も、「優しい人」に包括されているという仕組み。これが作者の眼差しである。
5句目。迷惑な烏もこう詠まれると、生きとし生けるものの健気さが強調されてくる。これまた作者の眼差しが利いている。
◆岡田由季「宴」
冬の月旅に少しの化粧品 岡田由季
階段の巻き付くホテル冬の虫 同
タイ米のみな立ち上がり冬日和 同
冬の山良書ならべしやうにあり 同
極月の鳶のことさらきれいな輪 同
夜の端海鼠の口がすこし吸ふ 同
人の身ほとりには常に感情が流れている。その感情を実生活に流し込めば、そこには「喜怒哀楽」が生じ、和したり喧嘩したりする。この作者は、その感情をあくまで「俳句表現」として捉えることを第一義とする人のようだ。そこがしっかりしているので、俳句という文芸をすっきりと楽しむことができる。
いちいち言うまでもなかろうが、順に行けば、「少しの化粧品」「階段の巻き付く」から、「立ち上がるタイ米」「良書のような山」、そして「鳶」に「極月」を冠することによってそれが「きれいな輪」となることを納得させる。最後の句は暗喩を利かせた「海鼠」となっている。
それぞれの措辞は的確であり、下手な難解性は無く、すっきりと読める。
総じて言えば、それは「俳句表現」のひとつの在り方を明確に志向しているということだ。重ねて言えば、決して無理な取合せや喩の使い方はなく、極めて自然にそうなっている、と見せかけてくれるところがいい。
「生活の世界」ではなく、「俳句の世界」を覗かせてくれる書き手であろう。
◆佐藤智子「背はピンク」
軽トラの荷台で運ぶ獅子頭 佐藤智子
淑気とは乾燥 ワイシャツ白すぎる 同
松明けの真顔で混ぜるヨーグルト 同
寒そうに漢字が並ぶ米こぼす 同
私にわかるのは1句目。「軽トラ」と「獅子頭」のコミカルな取合せ。田舎の祭りの素朴な風景。人々の楽しい声が聞こえてきそうだ。
2句目は、天地に満ちているめでたい気配が「乾燥」している。だから「ワイシャツの白」が目立つという文意を持つ。これまた取合せを意識した句だが、あと一歩が感じ取れない。確かに作者は、何かを言いたいことは分かるが、それが伝わってこない。4句目、5句目の「ヨーグルト」「米こぼす」もチグハグにしか映らない。
私は俳句にその表層化した意味を求めるものではないが、伝わらない。多分これは、作者の中で解決済みの何かが、他者へ向けての扉を閉じているからであろうと思われる。だが反面、それは私の「読み」の想像力が足りないのかもしれないのだとも。
◆大室ゆらぎ「霜」
眠らむとして動くはらわた霜の声 大室ゆらぎ
霜土手を見知らぬ人の速さかな 同
黒水に溺れつつあり蓮の骨 同
顔を打つ霙に顔を打たせけり 同
奪はれて剝がすたましひ冬菫 同
人の世に在る「負」の部分に触手を伸ばしている。俳句文学において、当然それは裏に「正」の意識がなければそうはならない。
1句目の「動くはらわた」は、「霜の夜」あるいは「霜の世」に対峙するひとつの生きものの比喩でもあるかのようだ。
2句目。眼前を走り去る「他人」である。そこに人間的な繋がりなど生まれようもない。だから次の「蓮の骨」は、「黒水に溺れつつ」あるのである。
4句目は自虐の表現となる。その自虐が快感となるか、明日への励みとなるかは分からないが、最後の句の「冬菫」の痛々しくも美しい姿は、「表現」として、その自虐の方向にひとつの方向性を与えているのではないか。
◆野﨑海芋「三連符」
霜夜消さずブラックライトとボサノヴァと 野﨑海芋
待春やマリンバに討つ三連符 同
磔刑像に永久の血雫冬の凪 同
燭ひとつ献じ聖堂冬深し 同
ファミレスに喪服一団コート脱ぐ 同
言いたいことが先だってしまっている作品が多かった。その典型が3句目であろう。季語を取り混ぜて、単語の数が多く、焦点が定まらい。とにかく言ってしまいたいのだ、という思いが強い。次に指摘できるのが、タイトル「三連符」にあるが如く、その青春性が表現の上で上滑りをしているということ。1句目の「ブラックライト」「ボサノヴァ」。2句目の「マリンバ」「三連符」の音楽用語も、「それらしい」雰囲気は醸し出すものの、それを根っ子で支える作者の「感情」が、それらの措辞によって逆に拡散してしまっている。
だが、言ってしまいたい「感情」は旺盛な方がいい。この作者にはそれがある。後の課題はその「感情」と「表現」との兼ね合いであろう。
そういう意味で、私に読めるのは4句目と5句目。
しかし4句目は余りに俳句らしくなっている。つまり作者の感情が、結句の「季語」と仲良くし過ぎているのである。季語は1句の中で何処か変容を迫られ、それが詩の言葉として働かないなら、そこに1句の新しさは生じない。
最後の句は面白い。「服(の)一団」がいい。「一団」という言葉には組織の匂いが漂う。それが一斉に「コート脱ぐ」のであれば、それが地下室などではなく、市井の「ファミレス」であるがゆえにいよいよ怪しくなるーなどという、奇妙な想像までしてみたくなる。作者は、単にその風景を描いただけかもしれないが、日常の「喪服一団」が、「表現」によって大きく変容されているのである。
だから俳句という短詩形では、言いたいことはほんのちょっと匂わせておけばいいのかもしれない。
ついでに言えば、「雪だよと送れば雪だねと返事」もあったが、これはいけない。俵万智に「寒いねと言えば寒いねと応える~」みたいな短歌があったが、その本歌取りであったとしても、本歌に飲み込まれてしまっていては無駄骨に終わる。
最近、古歌の一部を援用して独自の俳句を作る人もいるが、結局は短歌の切れ端で終わっている作品も多い。その見極めはなかなか難しい処である。
第761号 2021年11月21日 ■花島照子 フェルマータ 10句 ≫読む
第765号 2021年12月19日 ■岡田由季 宴 10句 ≫読む
第769号 2022年1月16日 ■佐藤智子 背はピンク 10句 ≫読む
第770号 2022年1月23日 ■大室ゆらぎ 霜 10句 ≫読む
第771号 2022年1月30日 ■野崎海芋 三連符 10句 ≫読む
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