【週俳11月・12月・1月の俳句を読む】
六十句雑読
瀬戸正洋
月刊俳句同人誌「里」(代表島田牙城)が、再スタートを切った。前後して、谷口智行「窮鳥のこゑ 熊野、魂の系譜Ⅲ」書肆アルス、上田信治「成分表」素粒社、が刊行された。「窮鳥のこゑ 熊野、魂の系譜Ⅲ」の一字一句が谷口智行であり、「成分表」の一字一句が上田信治である。
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流れ星左右の耳に音 いまも 花島照子
流れ星は聴くものである。左右の耳に、その音はいつまでも残っている。流れ星を聴くと、瞬く間に、思い出はよみがえるのである。流れ星は、たえず変化している。人生も、たえず変化している。耳をかたむけて、その音の変化を確認しなければならない。
冬めくは睫毛の軽さ低いビル 花島照子
低いビルは淋しい。睫毛は淋しい。睫毛の軽いことも淋しい。冬の訪れを感じるから淋しいのである。日が落ちると、ビルの一階の珈琲屋にひとが集まってくる。珈琲屋の珈琲はあたたかい。そこに集まるひとのこころもあたたかい。いつのまにか睫毛もあたたかくなってきている。
コンビニの雑誌明るい冬の朝 花島照子
コロナ過なので珈琲屋の週刊誌は手にしたくない。読みたかったら持参しなくてはならない。毎朝の珈琲代と週に数冊の週刊誌代、無駄遣いはしたくない。預金残高と寿命、どちらが先に底をつくのか。コンビニは貴重なふれあいの場である。明るくふるまっているのはやせ我慢なのである。
犬の埋まる楓おおきく陰りなく 花島照子
楓と紅葉との違いがよくわからない。庭には、紅葉が一本、楓が五本ある。(そう思っているが、その分け方が正しいものなのか確信はない)紅葉は、子どもの頃、登って遊んだこともある。ある朝、その紅葉は風もないのに倒れていた。数年後、楓だと思っているうちの一本が枯れた。まだ、倒れてはいない。他に枯れた木はない。
犬も楓もひとも「停止」する日はやって来る。いろいろと思いはあるが、とどのつまりは順番ということなのだと思う。
なぞられて透くオリオンの中の星 花島照子
なぞることは基本のことなのかも知れない。オリオン座とは、他の星や星座を見つけるための基準の星とある。
夜空をながめることは好きである。だが、星座がどうのこうのとなると面倒臭くなる。無知でながめていても、夜空はじゅうぶんに美しい。
かぎりある日にしあわせがあり毛布 花島照子
しあわせだと思う日があり、そう思わない日もある。それは、順番に繰り返されていくことでもない。それは、考えることなのだと思う。毛布一枚重ねただけでもあたたかさは感じる。しあわせとは、毛布のことなのかも知れない。
声冴える模型の肺を開くとき 花島照子
声にとって親しい臓器は肺なのかも知れない。模型とは正しく模した型である。呼吸している自分をイメージのなかで確認している。冴えるとは、冷たさを感じることである。冴えるとは、濁りやよどみが感じられないことである。
ゆうぐれの焚火へ溜息のやわらか 花島照子
焚火は夕がただと相場が決まっている。午前中は朝露で落葉が濡れている。それに日が落ちてこないと何かものたりない気がする。夕ぐれの焚火の炎ほど美しいものはない。それにかかれば溜息でさえ、瞬くまにやわらかくなるのである。
枯蔦の家濡れている昼の帰路 花島照子
蔦の蔓が家壁を這っている。雨上がりの都会の廃屋なのかも知れない。ひとの住まなくなった家は、すこしずつ表情を変えていく。雨や風や太陽が家屋を押し潰していく。迷惑をかけないために、生きているうちに処分しなくてはならない。「昼の帰路」とある。いったいどこに帰ろうとしているのだろう。
いっぽんの冬木の窪のあなたかな 花島照子
あなたとは遠くにあるものを指すことばである。窪とはへこみである。いっぽんの冬木の窪が遠くに見える。目の前にあることは許さないという意思を感じる。
麦の芽を何度も風のやりなほす 田邉大学
風には理由があるのかも知れない。麦の芽にとっては迷惑千番のはなしなのである。それでも拒むことはしない。理想の関係なのである。にんげんもこんなにんげん関係になりたいと思う。
浮寝鳥ルーズリーフに穴一列 田邉大学
穴の一列でないルーズリーフがあるのかも知れない。穴の変則なルーズリーフがあるのかも知れない。冬は終わらないのかも知れない。そこに居ついてしまうことがあるのかも知れない。自由であることは怖いことなのである。水面に浮かんでいることは不自由なことなのかも知れない。
冬うらら松を支へる木の柱 田邉大学
日差しはやさしい。松を支えると決めた木の柱はやさしい。それを見つめるひとのこころはやさしい。冬だからこそ日差しのやさしさを感じるのである。冬だからこそ木の柱のあたたかさを感じるのである。
月よりも雲の明るく十夜寺 田邉大学
経験のないことなのでよくわからない。何度も寺には通っているがよくわからない。月よりも雲が明るいのはあたりまえのことなのである。月は明るいのである。雲も明るいのである。月が出ると闇の世界が一瞬にして消える。雲も闇の世界から解放されるのである。
煮凝のすこしく箸を押し戻す 田邉大学
触れてみたということなのである。食べたことがないのかも知れない。あまり好きではないのかも知れない。煮凝りを崩さなかったことは正しかったのである。作者は遠慮している。煮凝りも遠慮している。
少女来て少年の去る龍の玉 田邉大学
すれ違い、告白、ためらい。出会い、告白、ためらい。少年、少女であっても、中年、老年であっても、何も変わらないのである。無駄なことではないのである。同じことなのである。龍の玉は、目立たず可憐で美しい。
がくがくと冬蝶の飛ぶ日暮かな 田邉大学
「がくがくと」といわれてみれば、そんな気がしないわけではない。だが、「がくがく」しているのは冬蝶ではなく、にんげんであるのかも知れない。日暮に見ているものは、冬の蝶ではなく自分自身であるのかも知れない。
盆地にも海の匂へる波郷の忌 田邉大学
「波郷と盆地」「波郷と海」についてよく知らない。意識しているのか無意識であるのかは、よくはわからない。だが、こうしたのには何らかの理由があるのである。他人に媚びる必要もない。他人にわかってもらいたいなどと思うことは無駄なことなのだと思う。
白菜を真二つにして優しい人 田邉大学
白菜を真二つに切る行為にはわずかばかりの悪意が紛れこんでいる。それでも、優しいと思ったのである。それでいいのだと思ったのである。もちろん、優しさのない悪意は存在しないのである。
落葉飛ぶなかを烏の跳ねてをり 田邉大学
強風のなか烏が跳ねている。烏は闘っているのである。落葉にとっては迷惑な話である。そんなときは、感情を隠すに限る。ただ、ただ、強風に身を任しておけばいいのである。
冬の月旅に少しの化粧品 岡田由季
化粧品は必要なのである。化粧品は本音を隠してくれる。化粧品は悪意を隠してくれる。化粧品は善意も隠してくれる。どこへ行くにしても、少しの化粧品は必要なのである。冬の月が冬の月でいることができるのは本音を隠しているからなのである。
階段の巻き付くホテル冬の虫 岡田由季
弱々しく鳴く冬の虫はあわれである。死ぬことが決まっているにしても鳴かなければならない。ひともあわれである。死ぬことが決まっているにしても自分を隠さなくてはならない。ホテルに巻き付いている階段はあわれである。自分を隠すこともできずに存在している階段はあわれである。
茶の咲いて文学館の混む日なし 岡田由季
文学館の混むことを肯定しているのである。文学館の混むことを否定しているのである。底辺にくらす文学愛好家は、興味のないひとたちには来てほしくないと思っている。閑散とした文学館であることを願っている。ひとりでいる文学館がふさわしいのである。茶の花が咲くのは初冬のころである。
何種もの鴨の混ざりて宴めく 岡田由季
混ざることは必要なことだと思う。だが、鴨に何種もあるということは知らなかった。宴席を設けることは必要なことだと思っていた。だが、人類の横暴を矯正する感染症の存在を知った昨今。不要であるのかも知れないなどと思ったりもしている。
枯蓮植物園を出てからも 岡田由季
枯蓮はどこまでも続いている。枯蓮から逃れることはできない。何故、植物園で枯蓮と出会ってしまったのか。いくら悔いてみてもはじまらない。枯蓮が離れてくれないのだからしかたのないことなのだと思う。
雪もよひ公民館に湯を沸かす 岡田由季
湯を沸かすことは新人の仕事である。新人は早くきて湯を沸かさなければならない。あとは待てばいいのである。公民館は古い木造の建物である。集まるひとも古いひとたちである。今にも雪のふりそうな空もようである。湯の沸く音だけが響いている。
タイ米のみな立ち上がり冬日和 岡田由季
炊飯器のなかでタイ米は祝福されている。米に差別のあるはずがない。米が立つのは嬉しいからなのである。自然とやる気も湧いて来る。おだやかに晴れていて、いかにも冬らしい空模様である。
冬の山良書並べしやうにあり 岡田由季
良書というものが存在するのかわからない。良書とは、有益な書、読んでためになる書、とあった。ますます、わけがわからなくなる。もしかしたら、良書と悪書は同じものなのかも知れない。本に囲まれた生活をしている。本棚はもとより、机、畳、廊下にも本が積んである。窓からは冬の山並みがよく見える。その山並みはこの部屋から続いていっているような気がする。
極月の鳶のことさらきれいな輪 岡田由季
きれいな輪は苦手である。きたない輪も苦手である。極月の鳶は、苦悩、屈折等「負」の何かをかかえている。そんな鳶だから、きれいな輪を描くことができたのである。極月の空に、ことさらきれいな輪を描くことができたのである。
夜の端海鼠の口がすこし吸ふ 岡田由季
遠慮しているのである。海鼠はわきまえている。だから「端」を「すこし」なのである。ことさら口がと強調したのは、どこが口なのかよくわからないからなのかも知れない。
蜜柑並ぶと寂しい姉と町に出て 佐藤智子
姉と二人で町に出るのだから、モノタリナイヨウな気がしている。心細さを感じてしまう。何かが足りないのである。何かが欲しいのである。よくわからないので蜜柑を並べてみたのかも知れない。
ほほ笑んで一夜飾りを許される 佐藤智子
縁起のよくないことは避けるべきである。生かされているものは弱いのである。自分に対してほほ笑んだのである。これは危ういと思う。許されたと思うことは勘違いなのである。ほほ笑みの裏には、騙す、欺く、誤魔化すといった何か怪しいものが隠されている。自分に対して、それは当然のことなのである。
無理矢理にNEW蒲鉾の背はピンク 佐藤智子
NEWなどといわれることは迷惑千番なのである。指示があったからそうしただけのことなのである。余計なことなどして欲しくない。色などつけられては困るのである。
蒲鉾は刻んだ塩辛をのせて食べるに限るのである。
我愛你牡蠣を次々開けながら 佐藤智子
ウォーアイニー(Ⅰ love you)である。これだけで十分なのである。牡蠣を次々開けることなど、どうでもいいことなのである。照れくさかったのかも知れない。目の前の牡蠣に助けられたのである。
軽トラの荷台で運ぶ獅子頭 佐藤智子
獅子舞とは、正月などに行われる芸能のひとつである。疫病や飢饉からひとびとを守るために行われているものである。軽トラの助手席には舞手が座り、荷台には獅子頭が置かれている。なんとなく違和感はある。これが現実の正月の風景なのである。
寒そうに漢字が並ぶ米こぼす 佐藤智子
印刷されたものなのか、書かれたものなのか。とかく、漢字が並ぶことは寂しいものなのである。米がこぼれたのは計量カップと指とがなじまなかったからなのである。寒いからなじまなかったのかも知れない。こぼれてしまったことをこぼすとしたことは、過ちを認めたくなかったからなのかも知れない。米が悪いといいたかったからなのかも知れない。
愚連隊こたつつけっぱなしで寝よう 佐藤智子
愚連隊とは不良青少年集団の総称である。このようなひとたちに寝てもらうことは悪いことではない。だが、寝るまえにはこたつはつけっぱなしにしようとは反対のことをいっているのかも知れない。集団はばらばらとなり、ひとりひとりの不良青少年となる。そんな不良少年に対する励ましのようなものなのかも知れない。
淑気とは乾燥 ワイシャツ白すぎる 佐藤智子
淑気とは乾燥のことではない。そう感じたのはワイシャツが白すぎたからである。新年だから一張羅のワイシャツにしたのである。それが「すぎる」ことになってしまった。このことに惑わされてしまったのである。だが、惑わされることは、決して悪いことではないと思う。
供え餅ひび割れている鳥にやる 佐藤智子
正月の神仏に供える餅のことを供え餅という。ひび割れたのは、供え餅の意志なのである。「やる」とは、一方から他方へ移らせる、あるいは、同等以下のものに与えるということである。正月である。何もかもが供え餅の意志であることにしておけばいいのである。
松明けの真顔で混ぜるヨーグルト 佐藤智子
真顔であるということはひとに知られてはならない。隠すべきものである。松明けとあるから油断してしまったのかも知れない。ヨーグルトの起源はさまざまだが七千年前くらいとされ、西の方の国から渡ってきたものとあった。
眠らむとして動くはらわた霜の声 大室ゆらぎ
徹夜で仕事を終わらせ、空腹であったが眠ることにした。集中していたので精神は冴えて眠れない。その上、はらわたまで動きだしてしまった。外は、しんしんとした寒さだ。眠らなければならないなどと考えず、気楽に横になっていれば疲れもとれるだろうと思った。
背け合ふ顔や白息紛れもなし 大室ゆらぎ
背け合うとなかろうと何も変わらないのである。こころが離れようと離れまいと何も変わらないのである。吐く息が白くなるほどの寒さである。ただ、それだけのことなのである。
寒林と溝に半身づつ置きぬ 大室ゆらぎ
道の向こう側に寒林が続く。溝といっても細長いくぼみのようなものなのである。半身ずつ置いたことが目的ではない。たまたま、こうなってしまったのである。不安定な立ち位置である。暮しのなかでは、こんなこともよくあることなのである。
霜土手を見知らぬ人の速さかな 大室ゆらぎ
速さは時間と距離の量の割合で表す。だから何なのだと問われても返す言葉はない。ただ、見知らぬひとが目の前を駆け抜けて行ったのだ。土手の霜は屈むことなく指で壊すことができる。
冬の日を集め眉間を燃え立たす 大室ゆらぎ
眉間とは眉と眉との間である。眉間にしわを寄せるとは、「不安や悩みをかかえている、不信感や警戒心を強めている、怒りの感情を抑えている」ということらしい。それらを燃え立たすのである。それらを払拭したいと願うのである。冬の日をいくら集めてもたかが知れている。眉間をいくら燃え立たせてもたかが知れている。
黒水に溺れつつあり蓮の骨 大室ゆらぎ
水道から黒い水が出ることがある。水道水には、極微量だがマンガンが含まれていることがある。消毒に使われている塩素によって酸化され黒くなることがあるのだという。
蓮の骨を見て溺れていると思った。これは、自分が溺れているからなのである。
顔を打つ霙に顔を打たせけり 大室ゆらぎ
霙に顔を打たせているのは「私」である。顔を打ったのも「私」である。自分を追い込んでしまったのも「私」である。私は「私」に、ほとほと手を焼いているのである。
凍滝の底へ落ち行く視線かな 大室ゆらぎ
「凍滝の底へ落ち行く」と「滝の底へ落ち行く」と、どう違うのか考えてみた。冬と夏の違いだけではない。飛び込んでも凍滝だと底まで落ちて行かない。「視線」とは空想のことなのかも知れない。
雪雲の脚に吸はれて人体浮揚 大室ゆらぎ
種も仕掛けもあるから人体浮遊なのである。雪雲に脚があったら、それも何かの仕掛けなのかも知れない。これが、空想だと話は違ってくる。空想科学というものもある。もしかしたら経験も混じりあっているのかも知れない。
奪はれては剥がすたましひ冬菫 大室ゆらぎ
冬菫を目の前にして、「奪う」「剥がすたましい」という言葉が浮かんだ。変なひとだと思った。これは、空想ではなく想像であるのかも知れない。
霜夜消さずブックライトとボサノヴァと 野崎海芋
霜がおりる寒い夜である。ボサノヴァを聴いている。本は閉じたがボサノヴァはそのまま流れている。読書の余韻とはボサノヴァのことなのである。ボサノヴァはいつまでも流れている。
燭ひとつ献じ聖堂冬深し 野崎海芋
燭を献じたのは日常である。何の理由もなく燭を献ずることが正しいことなのかも知れない。燭を献ずることに理由などいらない。寒さの極まる頃の聖堂である。ひとびとは春を待っている。
磔刑像に永久の血雫冬の凪 野崎海芋
冬の日のおだやかな海のことを冬の凪という。冬の凪が何もかもを包み込んでいる。血雫が描かれている磔刑像。キリスト教がわからなければ、永久の意味もその存在の意味もを理解することはできないのかも知れない。
ポインセチア付箋はづして本戻す 野崎海芋
その本は付箋だらけである。汚い文字が書き込んである。いたるところに線が引いてある。読むたびに線を引かないと頭のなかに入いらない。引かれた線の色の数が、その本を読んだ回数なのである。その一部始終をポインセチアは見ていたのである。
ファミレスに喪服一団コート脱ぐ 野崎海芋
ファミリーレストランに喪服のひとびと。しっくりしていると思う。親戚、職場、友人、どの集団にとっても使い勝手のいいところである。椅子のうえにはコートが置かれ、それぞれがほっとした顔をしている。ここで別れたときから、それぞれの日常がはじまるのである。
橋くぐり巨船入港去年今年 野崎海芋
コロナ過であってもクルーズ船は入港する。日常であってもクルーズ船は感染症には弱い。船底には必ずそのためのものが積まれている。何れ、日常が訪れるのだと思う。もしかしたら、それは非日常と呼ばれることになるのかも知れない。
買初のくるりとまはる試着室 野崎海芋
試着して、友人や店員に見せたのである。誰もかれもが笑っている。買初にふさわしい店内のレイアウトでもある。財布のひもが緩んでいる。無駄遣いも必要なことなのだと思ったりもする。
雪だよと送れば雪だねと返事 野崎海芋
「雪だよ」「雪だね」の会話が何気ない。ただ、それだけのことである。だが、それが何ともいえない。この関係は大切にすべきだと思う。
サイドミラーに細きつららや落ちずゆく 野崎海芋
そのまましておけば落ちると思い走りだしたのである。しかしながら落ちない。何故か気になる。こんなことなら落としておけばよかったなどと思う。気にすれば安全運転にも差しさわりがある。生きているということは、こんなことの繰り返しだなどと思ったりしている。
待春やマリンバに打つ三連符 野崎海芋
マリンバに打つ三連符と聞いただけで曲名までわかるひとがいるのかも知れない。寒さの底である。そんな気持ちをほぐしているのがマリンバの三連符なのである。春は待ち遠しいと思う。
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六十句について好き勝手なことを書き綴ってみた。不快に思ったひとがいたらお許しいただきたい。気をつけてはいるのだが、私は他人を不快にすることがあるようである。
第765号 2021年12月19日 ■岡田由季 宴 10句 ≫読む
第769号 2022年1月16日 ■佐藤智子 背はピンク 10句 ≫読む
第770号 2022年1月23日 ■大室ゆらぎ 霜 10句 ≫読む
第771号 2022年1月30日 ■野崎海芋 三連符 10句 ≫読む
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