【週俳6月の俳句を読む】
少しのおしゃべり
谷口慎也
最近の私の俳句への思いは、若い人たちの作品に刺激されて徐々に活性化してきている。これは嬉しいことである。またそれらの人々の自在なもの言いは、その自在さゆえに、これまでに私が見落してきたものを掬い上げる契機ともなり得ている。もちろん先人たちの作品はお手本として先にあるわけだが、一方で、これから更に自分の世界を拡充していくであろう人々を見続けることは、今後の私の大きな楽しみになっている。
さいわい今回、それらの人たちの作品を鑑賞する場に恵まれた。しばらく、対峙してみたい。
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佐川盟子「Tシャツ」(第267号)
蚊柱に届いてしまふ肩車
Tシャツを脱ぎTシャツを着て眠る
容疑の男サンダルで捕はるゝ
自転車も網戸も浚ひ出されけり
一句目は、日常のふとした発見が、ある寓意性を生んでいる。「届いてしまふ」という驚き(発見)が、その心のリズムそのままに韻文として表出されている。うまい句である。同時掲載された「かがむとき膝が鳴るなり夏蕨」「おづおづと大観覧車梅雨に入る」などの佳句も、作品の系統としてはこの範疇にある。
だがそれとは別に、私が留意したいのは二句目以降である。そこには〈現代〉というものが、いわば作者の〈す素の感性〉を通してさりげなく提出されているからだ。日常の風景における「Tシャツ」「サンダル」「自転車」等、それらの言葉は、それぞれに過重な意味を背負わされているわけではない。それは例えば記号のようなものとして読者に呈示されているだけである。過重な意味を背負う前に掬い上げられた言葉がここにある。それを可能にしているのはやはり作者の感性で、それを今私はとりあえず〈素の感性〉と言ったのである。
更に言えば、題材の抽出の仕方において、俗の拡充という、俳句が本来的に受け持つ俳諧の精神が垣間見られることも指摘したい。今やゝおおげさな表現をしたが、俳諧の精神などというものを難しく考える必要はない。それは、その辺に転がっているもの、一見文学的な価値など見出そうにも見出せないものに対して、そこに尚且つひとつの価値を見ようとする心構えのことに他ならない。私がこれらの句において「季語は何処?」などという野暮を言わないのは、これらの句が現代というものを、ここに確かに反映させているからである。
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藤田哲史「緑/R」(第267号)
星の窗新樹の窗と見たりけり
そら豆のみどり玉子焼のきいろ
珈琲豆焙煎頼む夏嵐
幽霊はときをり淡くなりにけり
『新撰21』でお見かけした人だ。「句を作っている最中は、定型と切れに気をつかっています。それ位で、あとは特に考えていません」という作者の一文が強く印象に残っている。確かにそれでいいのだと私も大いに共感したのだが、幾人かが指摘するように、「花過の海老の素揚げにさっと塩」「給油所に犬洗はれし芋の秋」「秋風や汝の臍に何植ゑん」などを見ると、確かに作者には若くしての(俳句的)老成感がある。年齢に似合わぬこういう句の仕立て方は不断の勉強によるものであろうが、それはまた持って生まれた才に負うところでもあろう。
そして今回提出の10句に、私は作者が受け持つ現実との齟齬(感)を見てしまう。それは俳句固有の定型と切れが、現実に対する異物として働きかけるときのその軋みと言い直すこともできる。
二句目の「そら豆」と「玉子焼」は、まことにヽヽヽヽヽヽぶっきらぼうに、そこに取り合わせられているだけである。だがこれを「色彩の鮮やかな対比!」などと評しようものなら、この〈ぶっきらぼう〉は突然怒り出すに違いない。だから読者は、言葉をぶっきらぼうにそこに置いた作者の真意を読み取らなければならない。すなわち、作者が抱いている現実との齟齬感を、である。
次は結句を除いて実に散文でありくどくどしい。だがそのくどくどしさ(すなわち「珈琲豆焙煎頼む」の重さ)が、一挙に「夏嵐」で吹き飛んでしまう爽快さに転換される。これはどこかに作者の確かな意思が働いている証拠である。読み手が感じるくどくどしさは、作者のうちにわだかまっている何かである。それを一挙に払拭するこの一句に、彼の俳句的なレトリックの在り方を見ることもあながち間違いではなかろう。だから冒頭句の「窗」における抒情的な風景の転換も、それを「見たりけり」で(ある意味)投げ出してしまうところに、読者は別の何かを読み取らなければならないのだ。そしてこれは私の穿ち過ぎではない。淡いはずの「幽霊」をもともと濃いと感じている作者である。どうも一筋縄ではいかない意思が働いている人のように思えてくるのだ。
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北川あい沙「うつ伏せ」(268号)
くるぶしは心細くて梅雨に入る
うつ伏せをまた叱られてゐて素足
百合切りて思ひ違ひにふと気付く
枇杷の絵のいつを仕上げとしたものか
こういう情感あるいは抒情の発露の仕方を私は最初から持ち合わせていない。それだけに、これらの作品を読んで、何かを補われたかのようにホッとした気分になる。
一句目の「くるぶし」の措辞は可愛らしくもありコケティッシュでもある。その句中の主体は二句目では「うつ伏せ」で表現されている。その顔を見せず、読み手の視線を「素足」に集中させるあたりは一句の工夫が更に効いている。
三句目は、やや句は平凡ながら、作者の素直な心情が嫌みなく出ているところをよしとしたい。いや、平凡のなかにさらりと人間心理の機微が挿入されている、と言った方が正確か。
最後の句であるが、「枇杷」は「柿」でも「林檎」でも構わないではないかという人が出てきそうである。要するに〈言葉が動く〉というわけだが、その辺はあまり理屈っぽく考える必要はないだろう。「柿」でも「林檎」でも構わなければ、逆に「枇杷」でも構わないわけで、要はこの句の場合、作者の言葉の選択を尊重しつつ味わうべきであろう。
私はこの方の作品を読むのは初めてなのだが、多分100句ほどの作品が並べば、もっと多くのことを言えそうな気がする。
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神野紗希「忘れろ」(269号)
はつなつや鳥に餌やる小さき匙
虹消えて因数分解の途中
はみ出せる自愛ぶよぶよアマリリス
ビニールの水も金魚もやわらかし
現在もっとも活躍中のこの作者は、感性と知性とのバランスが抜群の書き手である。特に、その知的構成力には信頼が置けそうである。例えば一句目。結果としてここに醸し出される明るい抒情は、何も作者の中にある抒情的な感情のせいばかりではない。「はつなつや」と大きく振りかぶり、次の瞬間には、小鳥の小さな口へ餌を運ぶ「小さな匙」へと句は焦点化されていく。つまり一句は大から小へと流れる視点を伴いながら、最後は、健気なものへ差し出す〈命の匙〉とでも言うべきものに句意は転換されるのである。表現としての知的構成力がものを言っている一句である。また「忘れろ忘れろ平泳ぎ繰り返す」というのもあったが、忘れるためには頭から水を被るクロールの方がより好都合だ。しかし作者はそこに「平泳ぎ」をもってくる。私の小さい頃はこの「平泳ぎ」を〈カエル泳ぎ〉とか〈ガマ泳ぎ〉などと言っていたが、忘れる為の〈クロール〉ではなく、忘れる為の〈カエル泳ぎ〉〈ガマ泳ぎ〉であれば、私はそこにも作者の知的な仕掛けを思わずにはいられない。
二句目は「虹」と「因数分解」の取合せにモダニズム的な安易さを感じないわけでもないが、それも最後に「途中」と句を開放したところで救われているのかもしれない。
三句目は作者の別の側面も見せつけてくれる。「自愛ぶよぶよ」が実に肉感的でリアルな働きを見せている。こんな句も作る作者の詩的領域の広さが想像できる。
そして私の一押しは四句目である。この一句に批評めいたことを差し挟む余地はない。「まさにその通り」のことをリアルな具象として表現し得た。そこにこの一句の価値がある。
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平山雄一「火事の匂ひ」(270号)
夏の火事ひときは人の匂ふかな
草矢射る神の名のつく岬かな
夏燕工業団地に視察団
浴衣着てどの町からもはるかなり
この人も初めて接する書き手であるが、ずいぶん面白く読めた。〈俳味〉のよろしさもあるが、より確かな〈諧〉に傾く人であるようだ。一句一句にあるそのふてぶてしさが頼もしい。
一句目は私の最も好きな作品であるが、その良さを今うまく説明できないでいる。二句目は、「草矢」飛ぶ空間に「神」の領域を挿入することによってその時空が広がっていく面白さ。三句目は実際の「視察団」と、「燕」の比喩としての「視察団」。その二重の意味性の面白さなどと言うことは出来るが、冒頭句はそういうわけにはいかない。「夏の火事」そのものに人の匂いを嗅ぐのか、あるいは火事を見ている人間に改めて謎めいた人の匂いを感じるのか。多分解釈としては後者の方であろうが、繰り返し読んでいると、そんな詮索はどちらでもよくなってくる。この一句には、より根源的な意味で、人間という生きものの、その正体の不明さ加減が描かれているようである。「夏の火事」という視覚と、人間の匂いを感知する嗅覚とが一応の風景を形成しながらも、その奥の方では、未だ言葉にならない何かが混沌としてあるようにも思えてくるのだ。更に検討を重ねてみたい作品である。
そして最後の句の「浴衣」には、上品な男の色気さえ感じられる。「どの町からもはるかなり」というその立ち姿が何とも〈粋〉で好ましい。
もっと多くの作品を読んでみたいと思っている。
第267号
■佐川盟子 Tシャツ 10句 ≫読む
■藤田哲史 緑/R 10句 ≫読む
第268号
■北川あい沙 うつ伏せ 10句 ≫読む
第269号
■神野紗希 忘れろ 10句 ≫読む
第270号
■平山雄一 火事の匂ひ 10句 ≫読む
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2012-07-08
【週俳6月の俳句を読む】少しのおしゃべり 谷口慎也
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