2023-12-10

谷口愼也【週俳10月の俳句を読む】俳句いろいろ

【週俳10月の俳句を読む】
俳句いろいろ

谷口愼也


俳句は「定型詩」である。その「定型」(フォルム)の中で様々な「様式」(スタイル)を持った俳句が出現している。そのスタイルは時代に大きく左右されるものであるが、それは多種多様であった方がいい。そこに何らかの規制を掛けようとすることは馬鹿げている。例えば「日本の伝統美」を大義名分の如く掲げる人々もいるが、その内実は、「伝統美」のひとつの流れを「全体」と勘違いしている場合が多い。今に始まったことではないが、「伝統美」もまた「多種多様」なのである。従って俳句の「読み」においても、できるだけ幅広い視野を持っていたいと思っている。


敬虔の穹 竹岡一郎

発表句数は42。この作者の世界は実に厄介だ。膝をポンと叩いて「ああ、なるほどね」とはいかない。読むに手続きがいる。その手続きを踏まなければ、この作者の難解性は楽しめない。

うつろより歪な羽化を踊らんか  竹岡一郎

墓洗ふ戒名を火と見紛ふが

どろどろと盆の土産を嗅ぐ姉ら

抜けど折れど焼けど明けには立つ案山子

総じて言えばこの作者の特徴は、「虚」から「実」を攻めていくその詩的方法論にあるが、面白いのは、その攻め方であろう。

1句目。〈歪な羽化〉を句の中核とする異形性は、作者の依って立つ根拠のようなもので、それを包括するのが〈うつろ〉である。取りあえずそれを「空ろ」(内容がない)、「洞ろ」(空っぽの場所)、「虚ろ」(虚しい心)としてみれば、その〈うつろ〉の多義性を根拠に〈踊らんか〉と外界に打って出る作者の姿には、やはり何処か「奇」なるものがある。

2句目。〈墓洗ふ〉静かな無常観は、〈戒名を火〉と思うこの一語によって覆されている。

3句目の〈姉ら〉は、〈どろどろ〉〈嗅ぐ〉の措辞によって奇妙な生き物に変身させられている。それは「お盆」としてきれいに制度化されたものへの、思わぬ逆襲ともなっている。
 4句目。この〈案山子〉は単なる案山子ではなく、充分に肉感的である。中句〈~焼けど明けには〉には「火傷(やけど)明け」が畳み込まれている。作者における、惨状からの復活がここに読み取れる。

さらに見てみよう。

熔岩原は鬼形に凹み律の風

夜学子の声臈たけて正答す

蠱毒最後の鳴く虫ひとつオルガンへ

不知火に脱皮はじめの鉄を宿す

敬虔の穹をうべなふ鴇の声

1句目。〈熔岩=ラバ〉の「奇形」を「鬼形」と表現した。その「凹み」に吹き込むのが〈律の風〉。この〈律〉は漢詩の「音律」、律令国家の「律」などを想起させる。何故ならここには、重層化されたイメージを持つ〈鬼〉が姿を変えて登場しているからだ。であればこの句は、現官僚国家の諸々に対して鋭く牙を剥くものともなる。

2句目。制度化された「夜学生」ではなく、より幅広く〈夜学子〉と表現したところが何ともいい。〈臈たけて〉の表現には歴史的な「艶」があり、その裏には「したたかさ」がある。芸能や花街の人々が受け持ってきたそれを思ってみればいい。それらが社会制度の末端にあっても〈臈たけ〉た〈正答〉を叩き出すのだ。「艶」と「したたかさ」をもって……というところか。

3句目。句中の「蠱」(ゴ・コ)とは穀物につく蟲や人の体内にいる蟲のことを言う。手元の辞書によると、それはまた呪いに用いた蟲で「巫蠱(フコ)」とも言うようで、「器の中に虫を入れて共食いさせ、生き残った虫の毒気で仇を呪う迷信」とも書かれているから、これは相当古い話。また〈蠱毒〉は「コドク」とも読めるからそれは「孤独」に通じる。だがこれは私の「勝手読み」ではない。一句はそのように書かれているのだ。そのもろもろの呪縛・束縛を抜けて一個の「虫」が〈オルガン〉へ向かう姿が喜ばしいではないか。

4句目。〈不知火〉の科学的根拠はあるが、それを超越して、民話や伝説によって「わけの分からぬ不可思議なもの」というのが一般の心情ではなかろうか。だから〈不知火〉に〈脱皮はじめの鉄〉の「わからなさ」を取り合わせても、1句は極めて自然に成立するという不思議さ。


以上、他にも「読みの手続き」はあるだろうが、私は私なりにこれらの作品を楽しんだ。

5句目の〈敬虔の穹〉(けいけんのきゅう)はタイトルにもなっているが、〈敬虔〉とは「つつしみうやまうこと」。また、〈穹〉とは弓形に広く張ったテントのこと。すなわち作者はその「天穹=大空」を、〈鴇〉を承認者の声として「諾(うべな)って」いるのである。これ、なんとも「表現者」としての自信に満ちた〈声〉ではないか。


さゝくれ 古田秀

シェーバーの震へを喉に秋彼岸  古田秀

この感性がいい。〈喉に〉の一語は「喉(のんど)に刃」の危うさを想起させる。だが1句は、そこに〈秋彼岸〉を措辞することによって〈シェーバー〉の静かな震えとともに、日常の一端を表現する。平穏な日常を表現しつつ、その日常のどこか一点の危うさを表現し得ていて「妙」である。

棘の間に小鳥の脚の置かれたる

人によってはここに「写生句」の良さを強調する人もあろうが、もはや写生句・抽象句の区分もさほど必要ではない時代に入っているのではないか。むしろここで留意すべきは、作者の直観的な「眼差し」であろう。その「眼差し」も慣用的なものであれば「月並」となるが、それが個から直に発せられる直観であれば、それは常に新鮮なものとなる。

他に〈跳ねぎはを咥へられたる螇蚸かな〉などがある。〈螇蚸〉の表記の裏には「精霊バッタ」の「精霊」を匂わせているようにも思えるが、いずれにしても「直観」が単なる「直感」に終わらぬところに作者の表現に対する拘りがあるようだ。


木陰の詩 中矢温

天啓はポルトガル語をもて来る  中矢温

読んで楽しくなる作品である。私が住む福岡県大牟田市は日本版カルタ=天正カルタ発祥の地で、大航海時代にポルトガル人が船中で遊んだものをそのルーツとしているようだが、この句は〈ポルトガル〉の語韻をもって、軽快な明るさと新しさを感じさせるように出来ている。〈天啓〉などと大仰な措辞を被せてはいるが、そこに寓意や暗示があるわけではない。ポルトガル人がカルタで遊んだように、この作者は〈天啓〉という言葉で楽しく遊んでいるのである。「俳句」なるものに対する「しがらみ」がない分、表現の自在さが感じられる句である。無季であるがゆえの結果であるのかもしれない。

ケロケロと鳴く鳥の名よケロケロよ

ケロケロと鳴くのは(ふつうは)「蛙」。また鳥類の「イソヒヨドリ」の警戒音も「ケロケロ」と表記する。だが「ケロケロ」は鳥の学名ではないことを思えば、ここに鳥と蛙とがその鳴き声によって混然一体化する面白さを視ることができる。そして結句の〈ケロケロ〉には作者自身の貌がある。
このような転換の素早さが実にあっけらかんとして行われている。俳句表現の面白さである。

他に〈花ばさみ手紙ひらいて茎切つて〉があるが、これは「言いさし」表現のひとつであろう。投げ掛けて、あとは読み手・聞き手の想像に任せる。最近流行った「~、知らんけど」などを思えばわかり易い。読者を共通の場に引き込み、最後に突き放す。これ、短詩形ならではの常套手段である。


こゑのある 内野義悠

すすきふんわり声それぞれにはなれゆく  内野義悠

〈すすき〉いっぽん一本にそれぞれの声がある。それが風の流れによってそれぞれに拡散していく、と解釈すればこの句、音調とともに象徴詩のようでもあり、おだやかな和みさえもが感じ取れる。ひらがな書きが好ましい。

海流の深み想へる夜業かな

秋の夜長の静寂さと、「夜なべ」作業に熱中するさまを〈海流の深み〉と表現した。ここにあるのは、ある日ある時の作者の感慨であり、それなりの実感が感じ取れる。

銀杏散る誤植くすぐつたきページ

自分の作品に〈誤植〉を見つけたのであろうか。〈くすぐつたき〉とあるから、きっとそうであるに違いない。またその〈くすぐつたき〉には幽かな羞恥心のようなものが漂う。その作品そのものが、或る意味大きな誤植ではないのかと、ふと感じる不安感のようなものさえもが感じ取れる。

この作者はいつも何処かで「自省」の「こゑ」を聴く人のようである。


岡一郎 敬虔の穹 42句 ≫読む  第858号 2023年101日

中矢温 木蔭の詩 10  ≫読む  第859号 2023年108日

内野義悠 こゑのある 10 ≫読む  第861号 2023年1022日

古田 秀 ささくれ 10 ≫読む  第862号 2023年1029日


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