2023-12-10

瀬戸正洋【週俳10月の俳句を読む】ノオトと鉛筆とを持ってⅡ

【週俳10月の俳句を読む】
ノオトと鉛筆とを持ってⅡ

瀬戸正洋


七十二句について空想してみた。精一杯の空想である。ずれているかも知れない。私の読解力はこの程度である。不快に思ったらお許しいただきたい。

うつろより歪な羽化を踊らんか  竹岡一郎

ぼんやりすること。歪んでいること。昆虫が成虫になること。リズムに合った動作をすること。こんな生き方をしたいと願う。

花街や伽羅焚いて秋渇く彼奴  竹岡一郎

伽羅を焚く。満たされない。秋風は吹く。何も変わらない。誰もが同じである。花街には行ったことがない。花街とは過去を振り返る場所である。自分を見つめなおす場所だと思う。

墓洗ふ戒名を火と見紛ふが  竹岡一郎

火とは文字のことである。こころが揺れているから見誤るのである。盆にはやることが多々ある。忙しさにかまけることが認識を正常に戻すきっかけになるのかも知れない。

水晶のさかえは月の餮ぬらす  竹岡一郎

餮は飲食をむさぼることを意味する。「月の」とある。「ぬらす」とある。「水晶のさかえは」とある。水晶は隠し持つものである。邪気を払い災難を防ぐ効果があるといわれている。

魂棚の灯の奥に路ある如し  竹岡一郎

路はあるのである。魂棚の灯の奥に路はあるのである。魂棚である。灯の奥である。経験なのである。何年も繰り返されてきた経験なのである。

施餓鬼会に科つくりける新地かな  竹岡一郎

飢えに苦しむ。死者も生者も同じである。だから供養するのである。ひとは難しく面倒くさいものだ。科とは一定の標準を立ててすじみちを通すことである。科とはけしからぬ行いのことである。

どろどろと盆の土産を嗅ぐ姉ら  竹岡一郎

どろどろとは感情や欲望が粘りつくようにもつれ合っているさまをいう。固体状のものが熱などをもって溶けるさま、粘り気のある液体状になっているさまをいう。嗅ぐとはにおいを弁別することである。弁別とは常識で見分けられる是非、善悪、道理のことである。姉とは自分よりも長く生きている肉親のことである。

鬼灯や妓の吐く唾が楼を焼く  竹岡一郎

鬼灯とはお盆に帰って来る先祖を照らすためのものである。妓とは遊芸を売る女である。唾とは口中に分泌される無色透明の粘液である。楼とは二階建ての建物である。焼くとは火をつけて燃やすことである。心を労するという意もある。

兄失せる露地へ稲妻這はんとす  竹岡一郎

縦へと落ちるのではない。横へと這うのである。地表にまつわりついている根のようである。露地とは茶室に付属する庭のことである。

刑場の残暑の腑分け外典誦し  竹岡一郎

死刑囚を腑分けする。残暑である。腑分けとは解剖のことである。声を出す衝動にかられた。正典ではない。歴史家は医学の進歩などともいう。歪んだ精神と紙一重なのかも知れない。

ししびしほ啄む孔雀露の色  竹岡一郎

ししびしほとは魚や鳥の肉で作ったしおのことをいう。処刑後の死体を塩漬けにすることともある。それを孔雀は啄んでいる。ししびしおも露も遺体も同じなのである。暑さも少しやわらぎはじめてくる。

琥珀の獄とんぼの咎を億年も  竹岡一郎

けしからぬ行いである。とんぼだけではない。誰もが獄につながれるのである。咎であるかないかは自分で決めなくてはならない。琥珀とは天然樹脂の化石である。宝石でもある。

姿見に血の剋し合ふ弟切草  竹岡一郎

弟切草の茎や葉は血止めなどに使われる民間薬である。剋し合ふとは互いに争うことをいう。姿見には血がべっとりとついている。

抜けど折れど焼けど明けには立つ案山子  竹岡一郎

立場や環境がどう変わろうと自分のすべきことをする。田畑に立つことで案山子となる。抜かれようが折られようが焼かれようが、すべきことをする。それだけのことなのである。

全天が蝗の流砂電波に沿ひ  竹岡一郎

流砂とは水分を含んだ地盤、そこに重みや圧力がかかって崩壊する現象である。電波とは空間を伝わる電気エネルギーの波のことである。大群であることに蝗自身も驚いている。

汝が背に凭れん霧に逝く虎よ  竹岡一郎

逝くことと決まれば寄り添うひとが必要である。逝くことと決まれば自分自身を美化するようになる。虎は迷っている。虎は悩んでいる。

熔岩原は鬼形に凹み律の風  竹岡一郎 

秋らしい風である。真逆の表現である。数百年も経つと熔岩原も変哲もない原になっている。

鉤と鞭集ひて我と化す身に入む  竹岡一郎 

鉤と鞭が集うといわれても困る。鉤と鞭にも意志はあるのである。変化するには鉤と鞭は必要である。秋の冷気は身に深くしみる。

夜学子の声臈たけて正答す  竹岡一郎

夜学子の声に敬意を払っている。さまざまな経験や苦労が臈たけた声になる。その声は正答なのである。

葛原を心臓七転び光れ  竹岡一郎

七転びである。起きなくてもいいのである。止まらなければいいのである。光ればいいのである。

不知火に脱皮はじめの鉄を宿す  竹岡一郎

不知火とは、九州に伝わる怪火のことである。不知火とは、有明海に伝わる妖怪のことである。鉄は鉄から脱皮するのである。鉄は鉄を宿すのである。

蠟涙の螺旋が龍を成す長夜  竹岡一郎

長夜には夜が長くなっていくことを感じること、永久に続く夜、死後の世界という意もある。龍とは神獣を指すことの他に傑出した人物を指すことばでもある。

豊年の山のはらわた壁と彫る  竹岡一郎

はらわたとは大腸の古称である。山には、はらわたがある。豊年の山にははらわたがある。彫られるはずの壁が壁を彫るのである。逆転すればもとに戻る。このようなことはどこにでもあるものなのである。

蠱毒最後の鳴く虫ひとつオルガンへ  竹岡一郎

蠱毒とは動物を使った呪術のことである。呪術とは魔術、妖術、まじないのことである。超自然的な力や神秘的な力により願望をかなえようとすることもある。

フォーマルハウト鹹湖にて擬死冷え尽くす  竹岡一郎

生きるためには死んだふりも必要である。フォーマルハウトは輝く。鹹湖はひろがる。ロケーションは申し分ない。塩水なので冷え尽くすのである。

良夜の看板「翔ぶ首に耳貸すな」  竹岡一郎

翔ぶ首がきたら耳を貸すことはない。月の明るい夜の看板。一目散に逃げればいい。

目無きものらの鎬けづるが不知火  竹岡一郎

争うことは無意味である。はげしく争うことは止めた方いい。不知火とは、漁火が異常屈折した結果だといわれている。

流星を湖の焦がるる蛟かな  竹岡一郎

蛟とはひとのことである。神話、伝説の生き物はひとなのである。毒気を吐いてひとを害するとある。正しくひとのことではないか。流星とは星が移動して消滅する現象である。湖は焼かれ黒色と化したのである。

血泥より醒めればいつも虫時雨  竹岡一郎

血まみれというよりも苦闘することのたとえなのかも知れない。迷いが消えたとき、正しい正しくないかは別にして虫は鳴きしきるのである。

谷神にふくらむ木通持ち重り  竹岡一郎

谷は養う意。神は五臓の神。ひとが神を養うとあった。木通には体内にたまった余分な水分を取り除く作用がある。

はららごや粉黛にほふ風しづしづ  竹岡一郎

鮭の卵の塩漬け醬油漬けのことである。おしろいとまゆずみのことを粉黛という。静かで落ちついたさまのことをしづしづという。字面のとおりである。

嘴あるは渦巻け威銃咲ふ  竹岡一郎

威銃とは音だけの銃である。鳥獣を追い払うためだけの銃である。咲ふにはあざける、あざわらうの意がある。

縄ほどく秋天よりの宿命の  竹岡一郎

宿命とは生まれながらの定められた資質のことをいう。宿命を意識したら何もできない。それに抗うにはほどけばいいのである。無意味だとしても何もしないよりましなのである。振り返ればひとは無意味なことしかしてないのである。

敬虔の穹をうべなふ鴇の影  竹岡一郎

敬虔とは深く敬ってつつしむさまをいう。穹とは彎曲して見えるもの、極めるという意もある。影とはひかりに映し出されたすがたかたちのことである。鴇の影に対して肯定している。

梁満つる湾をわれから赦し鳴く  竹岡一郎

罪や過ちを赦すといわれても頷くだけのことである。自分を許すのは自分以外にはないのである。

木犀揺するは深更の巫女もどき  竹岡一郎

木犀を揺らしても何も変わらない。何も変わらなくても揺らすのである。木犀を揺らすのは深更の巫女ではない。巫女のようなものである。

輪回しの韻くよ猿の腰掛闌く  竹岡一郎

輪回しをして遊ぶ子がいる。猿の腰掛にはβーグルカンという多糖類を多く含んでいる。抗ガン作用を目的にした民間薬である。闌くとは、長じる、円熟するという意がある。

珠すさまじ誰も汲まぬ井を浮き沈み  竹岡一郎

立派なひとは興ざめである。会いたいなどとは思わない。栄えたり衰えたりすることは世の常なのである。

無念彩らん露のもの壜に溜め  竹岡一郎

感じないから彩色するのである。はっきりと見えるから壜にためるのである。露とは草の葉などに結んだ水の玉のこともいう。

雲廊を鹿さまよへる諱かな  竹岡一郎

雲廊を鹿は歩き回っている。死後におくる称号も、生前の名前も、生きているひとたちのものである。死んだひとには何の関係もない。

白無垢の裡なる紅葉且つ散りぬ  竹岡一郎

白無垢はひとを引き付ける。精神が私たちを引き付けるのである。紅葉だけではない「且つ散る」ところにも引き付けられるのである。

棹は鍵は三角智印を雁めざす  竹岡一郎

棹とは竹である。枝や葉を取って棒として使うものである。鍵とは、解決のために最も重要な要素である。三角とは智印のことである。その鳴き声をめでるのである。

天啓はポルトガル語をもて来る  中矢温

天の啓示があったのである。理屈はどうとでもなる。大西洋を渡ったのである。太平洋を渡ったのである。言葉で考えるのである。ポルトガル語で考えるのである。

花鋏手紙ひらいて茎切つて  中矢温

花鋏を持つ。手紙をひらく。茎を切る。ひとりのひとの行為である。おおぜいのひとの行為である。

犬と眠る家なき人を吾はただ  中矢温

本人は、それほど困っていないのかも知れない。当事者を含めたすべてのひとがそれほど困ってはいないのかも知れない。

空に鳶鉄条網に毛布乾る  中矢温

鉄条網に毛布が干してある。兵舎を囲む鉄条網なのかも知れない。鳶は鳴いている。鳶は旋回している。

屋上やリベルダーデは花の雨  中矢温

リベルダーデとは、ブラジルの都市の名である。ポルトガル語で自由を意味する。作者は、屋上にいる。雨が降っている。花の季節である。

ハチドリのためのオレンジ蟻舐る  中矢温

ハチドリのためである。オレンジとっては窮屈なことなのである。もっと自由であっていいのである。素知らぬ顔で舐めている。ハチドリにとってもオレンジにとっても蟻にとっても、緩み具合はちょうどいいのかも知れない。

ケロケロと鳴く鳥の名よケロケロよ  中矢温

ケロケロと鳴く鳥の名はケロケロである。よい名前である。この名の付け方はよい。さらにいえば、この生き方に憧れたりもする。

山肌が赤土見せて馬憩ふ  中矢温

山肌の意志は関係はない。赤土は存在する。赤土の意志は関係はない。馬は存在する。馬はゆったりとくつろいでいる。

春泥やストライキとは静かなる  中矢温

何かをするときは静かでなくてはならない。何かをするときは黙っていなくてはならない。何かをするときはあたたかさを感じていなくてはならない。

木蔭の詩丈夫な板に丈夫な字  中矢温

詩は丈夫な板に書かなければならない。詩は丈夫な字で書かなければならない。詩人は肉体労働者でなくてはならない。太陽を全身で浴びなくてはならない。大気をたっぷりとからだに取り込まなくてはならない。

桐一葉落つ旅果ての帯解いて  内野義悠

桐一葉とは秋に桐の葉が落ちることをいう。帯を解くとは女性が肌を許すことをいう。果てとは最後の最後、全てを尽くした結果にということである。

すすきふんはり声それぞれにはなれゆく  内野義悠

声が離れていく。ひとも離れていく。すすきも離れていく。すすきもひとも風に吹かれている。いかにも軽そうに浮き上がっている。

霧の夜の失着へさかのぼる指  内野義悠

失着とはしくじり不覚のことである。さかのぼるとは過去へと立ち戻ることである。立ち戻ることができるひとは幸せである。指は反省をしている。霧のたちこめている夜である。

不知火の規格統一されてをり  内野義悠

不知火とはおなじみの現象である。作者は異なるが三句目である。規格とは基準のことである。当然、統一されているものである。

陽の濁り濃し錆鮎にこゑのある  内野義悠

何かを成しとげようとするときひとは黙る。何かを成し遂げたあとひとは黙る。だが、声を出したくなるときもある。陽は濁っている。濃く濁っている。ひととは弱いものである。産卵の終えたあとの鮎の多くは死んでしまうのである。

振りて根に重みの土や秋夕焼  内野義悠

根は土の重みを感じている。土の存在を感じている。土を振るには理由がある。間違ったとしても理由はある。秋の夕焼けはどこか寂しさを伴っている。

火恋し液晶の罅なでをれば  内野義悠

液晶の罅は指で感じることができない。視覚で感じるものなのである。秋も深くなると火の気が恋しくなる。火の気とは視覚で感じるものなのである。

銀杏散る誤植くすぐつたきページ  内野義悠

きまりが悪いてれくさい。その程度のことなのである。誤植だと気付けばいいのである。気付けば内容は伝わる。銀杏は大地をくすぐるように降っている。

すさまじや革に触れゐて革の聲  内野義悠

触れなければ何もおこらなかった。それだけのことなのである。急に身に迫る冷ややかさに包まれる。革は一枚一枚がそれぞれに異なっている。同じものなど存在しないのである。

海流の深み想へる夜業かな  内野義悠

海流とは海のながれのことである。海はながれているのである。海流の深さを想っている。PCからは「月光」が流れている。

風に腹這ふやう鷹の山別れ  吉田秀

ひとりで歩きはじめるのである。懸命に前に進むのである。その経験の積み重ねが確かなものになっていく。風は自信を与えてくれる。

坂を襞なしつゝ水の澄みにけり  吉田秀

細長い折り目のようである。大気が澄み渡っている。水が澄んでいると感じた。涼しくなったからである。環境が変わればひとのこころも変わる。気付かなかったものが見えてくる。

跳ねぎはを咥へられたる螇蚸かな  吉田秀

これがあるから不安になるのである。これを覚悟して跳ねるのである。中途半端に跳ねたりしてはいけないのである。

シェーバーの震へを喉に秋彼岸  吉田秀

喉は感じたかったのである。シェーバーをあてているとき思ったのである。秋分の日を中日とする七日間を秋彼岸という。昼と夜の長さが同じになるのである。

棘の間に小鳥の脚の置かれたる  吉田秀

堅くて先の尖った突起物のことを「棘」という。もつれからみあっていることを「棘」(おどろ)という。好奇心からの行為である。小鳥を観察している。自分自身に思いを馳せている。

湯にうすく薬草のいろ居待月  吉田秀

うすいとは厚みが少ないことをいう。うすいとは濃度や密度が少ないことをいう。うすいとは色や光などが濃くないことをいう。薬草といっても色は千差万別である。陰暦八月十八日の月のことを居待月という。 

秋声や日の戻りくる放飼場  吉田秀

生き物をより自然の状態で飼育する場所のことを放飼場という。なかなか微妙な場所である。胡散臭い場所である。ひとが係わったものは疑うことにしている。物音がさやかに聞こえる。暑さも落ち着いて来る。日は戻るのである。ひとは戻って来ないのである。

鳩笛の息が魑魅になりかはる  吉田秀

魑魅とは山林、木石の精、山の中のばけもののことである。ひとの息がばけものになるのである。鳩笛を通したひとの息がばけものになるのである。

ひろげ見せきし秋麗の風切羽  吉田秀

危いことだと思う。仕方のないことだとも思う。風切羽、それも秋麗の風切羽である。見せたくなる気持ちはわかる。それでも隠した方がいいと思う。

半島に砂嘴のさゝくれ冬支度  吉田秀

海流に運ばれた砂が長年にわたって堆積する。それをさゝくれてていると見たのである。あたかも、それは冬支度のようであると感じたのである。ささくれとは爪のまわりの角質がめくれ上がってしまっている状態のことをいう。

岡一郎 敬虔の穹 42句 ≫読む  第858号 2023年101日

中矢温 木蔭の詩 10  ≫読む  第859号 2023年108日

内野義悠 こゑのある 10 ≫読む  第861号 2023年1022日

古田 秀 ささくれ 10 ≫読む  第862号 2023年1029日

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