【週俳6月の俳句を読む】
柳本々々『ふたりで暮らす暴風雨』を読む
なかはられいこ
かたつむり二人で暮らす凄まじさ 柳本々々
悲しいと言わないで悲しさを、美しいと言わないで美しさを伝えることは王道である、たぶん。句会なんかでわたしもそのように発言した、何度も。だけど、この句に限ってそうは言いたくない。なぜだろう。
まっさきにあたまに浮かんだのはかたつむりだった。ぬめぬめとうごくアメーバのような肢体や、踏めばくしゃっと潰れてしまう殻。むきだしだなあと思う。むきだしの身体、むきだしの感情、むきだしの命。どれもこれもナマすぎてこわい。とてもたちうちできない。だから話者もすこし引いてしまう。一歩引いたからこそ「凄まじい」と言い切れるんじゃないかと思うのだ。
桜桃忌ちっちゃいフィギュアこぼれおち 同
雨に濡れずっしりの服桜桃忌 同
手のひらのやぶけたところ桜桃忌 同
「こぼれおち」「雨に濡れずっしり」「やぶけた」どのことばにも負のイメージがある。そしてそれらはすべて「桜桃忌」もしくは太宰作品のイメージとゆるやかに繋がっている。この「桜桃忌」が季語として効いているのかどうか、わたしにはわからないけど、川柳的見方をすれば「桜桃忌」という問いに対する答えが12音で書かれているようにみえる。
そしていちばん惹かれたのがこの句。
桜桃忌「どうにか、なる。」のなるのとこ 同
ダメダメ男の太宰がそれでも愛される理由はここにあるように思う。もちろん、この話者は太宰ではないんだけど、太宰的要素はもっている。どうにもならないときに、なんの根拠もなく「なる」と言う。結局、どうにもならなくなって泣きつくくせに。もう、わたしがいないとダメなんだから。と、思わせるのがヤツの手なのだ。と、そこまでわかっていながら、この句のチャーミングさには負けた。あーあ。
2019-07-21
【週俳6月の俳句を読む】 柳本々々『ふたりで暮らす暴風雨』を読む なかはられいこ
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2018-10-21
【週俳600号に寄せて】あなたがいなければ なかはられいこ
【週俳600号に寄せて】
あなたがいなければ
なかはられいこ
前略、週刊俳句さま。
あなたに初めてお会いしたのは2007年8月12日号の「柳×俳 7×7」という企画でした。
と、年月日や号数まですらすらと言えるのは、アーカイブっちゃらいう、たいそう便利なもののおかげなのですが、それはいま置いといて。
作品のご依頼がきた瞬間から、UPされるまでどれだけドキドキしたことか、思い出すだけで鳥肌がたってくるほどです。
あれから11年が過ぎたのですね。気がとおくなります。
でも週刊俳句さま、あなたがいなければ、わたしにとって俳句はいまだにこわいもののままでした。季語、こわい。切れ字、こわい。そして、権威、とてもこわい。
それが、週刊俳句さま、あなたときたら。
「俳句でも川柳でもすてきなものはすてき。上も下もあらへん。どっちでもええやん」的態度でぐんぐんわたしのこころになかに入ってこられたのです。(なぜ関西弁なのかは不明)
だから、ほんとうによかったなあと思います。
俳句があって、川柳があって、週刊俳句があって。
これからもどうぞよろしくおねがいいたします。 草々
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2017-02-12
あとがきの冒険 第23回 って・途中・そ なかはられいこ『大人になるまでに読みたい15歳の短歌・俳句・川柳 ③なやみと力』のあとがき 柳本々々
あとがきの冒険 第23回
って・途中・そ
なかはられいこ『大人になるまでに読みたい15歳の短歌・俳句・川柳 ③なやみと力』のあとがき
柳本々々
って、あなたが言ったときに、わたしが言ったのは、
を越えてたんぽぽいろの今日そして 前原勝郎
という句があるんだけれど、ど、どういうことなんだろう、な、なんで、〈とちゅう〉から始まっちゃったんだろうと言うことだった。あなたも首をかしげる。ど、どうしちゃったんだ、これ。
でも、どうなんだろう。短歌も、俳句も、川柳も、いつも〈とちゅう〉から始まらざるをえないんじゃないかな。これまでたった一句でも、たった一首でも、《初めから始まった短歌や俳句や川柳》があったのかな、これまでで、たった一句でも一首でもいいから、とわたしは言う。さ、さあ、とあなたはいう。どうしちゃったの、そんな話をわざわざ始めて、と。
いったい、どうしたのか。
でも、なかはられいこさんがこんなふうに書いていたんだよ。あとがきでね。
短歌や俳句や川柳のいいところは、どのページを開いても途中がないところです。パッと開いたページに一句が一首がいつでもスタンバイしています。あなたに知ってもらうために。あなたに考えつづけるためのちからを与えてくれるために。え、とわたしは思う。自分で引用しながら。いや、ここに答えがあるんじゃないかな。つまり、その、いや、わからない。いや。そうだ。どこにも〈途中がない〉わけだよね。〈途中がない〉からいつでも〈始める〉ことができる。どんなときでも。どこにいても、なにをしていても。
だから、この短詩をめぐる〈途中性〉が、わたしたちがいつでも・どこからでも・だれといても・はじめることができる〈途中のなさ〉としての唐突さをかかえてるんじゃないかな。人生は、とつぜんやってくるんじゃないの。人生って言っちゃったけど。短詩においては。「を越えてたんぽぽ」のように。
あ、そうなのかあ、とあなたは言う。そうなのかなあ。どうなのかなあ。でも、あなたも、まんざらでもない顔をしている。まんざらとは、なにか。そういえば、あとがきの冒険じゃなくて、まえがきの冒険になるけれど、長嶋有さんがこんなまえがきを書いていたよ。
俳句と短歌と川柳はすべて少しずつ異なる「やり方」だけども必ず共通していることがある。それは「わざわざ言っている」ということだ。(長嶋有「しれっと、すまし顔で」『大人になるまでに読みたい15歳の短歌・俳句・川柳 ③なやみと力』ゆまに書房、2016年)だから、うーん、短詩とは、「わざわざ」口にだした言葉なんだ。言わなくてもいいことを。そして、言わなくてもいいことだったのに、「わざわざ」言ったからこそ、「わざわざ」始まったんだ。そういうことだと、思う。とつぜん、途中からね。わざわざ途中をつくったんだよ。途中のクリエイターなんだ、短詩って。ハイパー途中クリエイター。
いったい何を言っているの、と私は言う。
でも、まあ、もう春だし、わたしは次第に落ち着き始める。あなたも落ち着いてきて、だまって、あるきはじめる。わたしたちはどんどん激しく落ち着き始めて、そ
(なかはられいこ「この本を手にしてくれているあなたへ」『 大人になるまでに読みたい15歳の短歌・俳句・川柳 ③なやみと力』ゆまに書房、2016年 所収)
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2016-12-25
【週俳10月11月の俳句を読む】なかはられいこ 「学生特集」を読む
【週俳10月11月の俳句を読む】
「学生特集」を読む
なかはられいこ
若いひとの作品を読むという、川柳の世界ではなかなかできない体験をさせていただいた。なぜ川柳ではできないのかといえば、若いひとがいないからだ。こう書くと身もふたもないけれど、諦めでもなく、開き直りでもなく、それはそれでいいのかもしれないと思う。「若い」のメリットは書き手としての残り時間の長さにある。二十歳で始めて三十歳でやめるのと、四十歳で始めて八十歳で死ぬまで続けるのとでは、後者のほうに価値があるとわたしは思うのだ。
秋の灯をザッハトルテが照り返す 平井湊
焦点はザッハトルテにあるのに、珈琲と読みかけの本がある場面を自動的に想起してしまった。その際、本はカフカの『城』であればなおよろしい。と思いつつ、そうした景色を読み手に補完させ、現出させるちからがこの句にはあるのだろうとも思う。では、そのちからはどこにあるのだろう。ザッハトルテの重厚感もさることながら、やはり「秋」という季語にあるのではないだろうか。付きすぎなのかどうかはわたしにはわからないけれど、一句全体が全力で秋を表現しているようにみえておもしろかった。
肉入れて波の立つなり芋煮会 斉藤志歩
いちいちおしゃれな「ザッハトルテ」とは対照的に、庶民的な、どちらかといえば野暮ったくなりがちな「芋煮会」という言葉をうまくコントロールしているなあと感心する。しかも「肉」である。こういう場面では、「ここで、いよいよ肉の投入です!」なんて実況するヤツが必ず一人二人いたりする。「波」は鍋の中にも鍋の外にも立つのだ。おそるべし、肉の威力。
朝寒や植物園にそつと鳥 野名紅里
冬の朝、植物園にそっと鳥が来ていた、というだけの句なのに惹かれる。「そつと鳥」にぐっとくる。朝のキーンとはりつめた冷たい空気と静けさが、読んだ瞬間、胸にひろがった。鳥、としか書かれていない鳥への愛のようなものがふつふつと沸き起こるのを、ひとごとのように観察している自分がいて、ちょっとふしぎな気分になった。俳句には十七音という制約がある。制約のなかでせいいっぱいあらがうとき、ひとを惹きつける作品がうまれるのだろう。「そつと鳥」と止めたときの作者の、やさしく注意深い手つきが見えるような一句だと思う。
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2015-02-22
10句作品テクスト なかはられいこ テーマなんてない
なかはられいこ テーマなんてない
約束を匂いにすればヒヤシンス
どこまでも続く線路とキャベツを刻む
緑と白の境が葱のなきどころ
うがいするまだらな音を出しながら
水滴がさんずいへんで飛んでくる
おふとんも雲南省も二つ折り
パレードはいま食道を通過する
踵から頭のてっぺんまでギニア
F2を押すと液晶身もだえす
こいびととつくる夜の中の夜
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2014-08-24
週刊俳句・柳俳合同誌上句会 2014年8月
週刊俳句・柳俳合同誌上句会 2014年8月
10名様参加。5句選(特選1句・並選4句)。≫投句一覧
参加者
〔柳人〕
飯島章友
きゅういち
清水かおり
なかはられいこ
八上桐子
〔俳人〕
相子智恵
笠井亞子
谷口慎也
鴇田智哉
中村安伸
【砂】
このへんがたぶん砂場の性感帯 飯島章友
○谷口慎也
○きゅういち
○笠井亞子
○清水かおり
■砂場のとらえどころのない重要なポイント、を言って妙味。(清水かおり)
■砂は変幻自在にして官能的。砂場にそれを発見した作者の嬉しそうな顔がまず浮かんだ。「このへんがたぶん」という間の持たせ方も狡猾。(笠井亞子)
■「砂場の性感帯」を見つけた時点で完成をみたであろう句、「このへんがたぶん」に冗長さとものたりないものを感じたのだが、かえって言い過ぎぬ姿勢が句を立たせたか。(きゅういち)
■手のひらに触れるくすぐったい砂の感触が〈性感帯〉という言葉を導き出した。〈たぶん〉にはその言葉に対する作者の含羞を見てもよいが、この措辞によって一句は、程良い調和を伴った愛らしいものとなっている。(谷口慎也)
ちょっとした砂丘になって待っている なかはられいこ
◎谷口慎也
◎鴇田智哉
○中村安伸
○相子智恵
■待っている間に、自分が砂の溜りになってゆき、小さな砂丘になったということだろう。そのとらえ方が面白い。
演劇か何かの開演を待っているのかとも思ったが、そうではないだろう。〈ちょっとした〉という軽い言葉遣いからは、人を待っている感じがするからだ。〈ちょっとした〉という言葉に、親しみのある相手に対する軽い「抗議」の感じがあるのである。漫画における、「いらだち・怒り」の表現として、額に十字路マーク(?)が出るというのがあるが、主人公は額にあんなマークをつけたまま、にっこりと相手を迎えたのではないか。(鴇田智哉)
■〈ちょっとした砂丘〉の言い回しが軽妙かつ洒脱。同時に〈砂丘〉が「待つこと」にまつわる期待や不安感のようなものまでも表出している。多くを語らず多くを感じさせる理想的な一句である。(谷口慎也)
■なんだか暑そうな場所で、相手にずいぶんと待たされているのかもしれません。
待つうちに、相手に対する心が乾いていく。「ちょっとした砂丘」が絶妙な距離感のように思いました。(相子智恵)
■砂丘という隠喩で心中の渇きを示すのは、やや常套的といえなくもないが「ちょっとした」のキュートさに惹かれた。(中村安伸)
■約束の一分前もしくは一分後くらいかしら。(飯島章友)
■ちょっとした(小)砂丘(大)でも砂丘は足を踏み入れると・・私達は作品の中で何かになることが多いが砂丘になるのは新鮮な感覚。(清水かおり)
顎を手に乗せる身内の砂が降る きゅういち
○鴇田智哉
○中村安伸
○飯島章友
■身内は「からだの内部」や「からだじゅう」の意と、「家族」「親族」の意があります。しかし、無理がないのは前者の「からだの内部」の意味だと思われ、そうだとすれば「顎に手を乗せ」て苦慮することが「砂が降る」を導き出す措辞になっているのではないでしょうか。(飯島章友)
■何気ない動作と心象を重ねた。「落ちる」や「こぼれる」でなく「降る」を選んだのは、物思いの継続することを示すのだろう。(中村安伸)
■〈身内〉は〝からだの中〟という意味でとった。自分の〈顎〉だろう。つまり頬杖のような状態だ。しばしの放心。全身がシルエットになったかのような感覚に近いのだが、そのシルエットが石の塊のように静止したものでなく、降る砂であるところが面白い。均質でありながら動いている。(鴇田智哉)
■頬杖のことを「顎を手にのせる」と言っているのか、もっと想像力を働かせると、身内の誰かの葬送の一場面までも浮かんでくる(清水かおり)
砂こぼす月に目じりのようなもの 谷口慎也
○なかはられいこ
○八上桐子
○相子智恵
■三日月でしょうか。砂は月が流した涙のようで、幻想的な句だと思いました。(相子智恵)
■古くから「月の顔」と言われてきたように、月は顔だ。けれど、その目鼻は定かではなく、見るものが描き入れる。目じりさえあやふやなままに、確かにこぼれ落ちる砂。しずかな息づかいの迫る月から、目が離せなくなってしまった。(八上桐子)
■本来は「砂こぼす」で切れていると読むべきなんでしょうか。私は「砂こぼす月 に」とつなげて読みました。黄砂とか飛んでる真昼の白っぽい月か らま るで涙 のようにこぼれる砂。月に目じりをみつけたところが好きです。(なかはられいこ)
砂のなかのきみは砂鉄やぼくは砂金 中村安伸
砂めくれあがり揚羽の浮びたる 鴇田智哉
○谷口慎也○笠井亞子
■実景ともとれるムリのないシュールさがある。砂の劇場を見ているようだ。(鳥取砂丘を背景に作品を撮り続けた写真家のことを思う)「浮びたる」が揚羽の登場を格調高くしていて印象的。(笠井亞子)
■砂場でも海辺でもかまわないが、〈揚羽〉はまるで潜水艦のように浮上してくる。普段の何でもない生活の中でこういう「突然」にはよく出くわすものだ。しかしそれらがこの句のような言葉で表出されるとき、一句は虚実皮膜の不可思議さを醸し出す。(谷口慎也)
■砂→揚羽という発想は好きです。(飯島章友)
■時空を越えて現れた揚羽はその頃のせつない想いを留めている。砂はめくりあがるものなのかと妙に納得を誘う作品。(清水かおり)
上空の砂なら多民族でした 清水かおり
○飯島章友
■上空の砂「なら」多民族と言うんですから、一民族の地に住む人間が上空に舞ってきた砂を仰ぎ見て、多民族共生社会に思いを馳せた句かも知れません。しかし、たとえば中国大陸内陸部で発生する黄砂は他民族に健康被害を引き起こす困った物質ですし、また社会的なことを言えば、移民との軋轢の問題は多くの国が抱えています。上掲句からは多民族性が内包する憧憬と辛さとを感じます。(飯島章友)
■面白い句だと思ったが、しばらくすると「上空の砂=多民族」の意味的な構図が目立ってきて、一句はそこから動かない。この簡潔な断定を惜しいと思ったので、敢えて抽出してみた。(谷口慎也)
朝のシーツにランゲルハンス島の砂 八上桐子
◎清水かおり
◎笠井亞子
◎中村安伸
◎飯島章友
○きゅういち
○なかはられいこ
■朝のシーツとランゲルハンス島は現実物、そこに砂が合わされると幻想と現実のあわいが出現する。思わず手をぎゅっと握ってしまう。村上春樹の小説世界にごく自然に繋がっている作品。(清水かおり)■夢の中で訪れたビーチの砂が寝床に残されているという幻視と、その砂浜が「ランゲルハンス島」のものだったという言葉の遊戯。
臓器に「島」と名づけた語の喚起力によって、二重の跳躍が可能となった。(中村安伸)
■「砂」という言葉をつなげただけで「ランゲルハンス島」の意味が全く変わってしまう詩的面白さ。また、膵臓は実際に胆砂ができてしまうこともあるそうで、リアリティーをも感じます。(飯島章友)
■ランゲルハンス島というと複雑なイメージになりがちな所、「砂」という限定のお陰で、なんだかポップかつシュールな一句となった(ランゲルハンス島というのが実在の島で、ヴァカンスに出かけていたかのような)。
季語は無いけれど夏の朝の感じが横溢。バックには『マルタ島の砂』が流れている…。(笠井亞子)
■村上春樹と安西水丸の「ランゲルハンス島の午後」というエッセイ集を思い出し ました。夢のなかの出来事が、砂によって実体化されたようにみえ ておもしろ いと思いました。でもよく考えたら、マズイいんじゃないでしょうか、そこの砂 は。病院で検査してもらうことをお勧めします。(なかはられいこ)
■掲出句は特選にも押せるのではないかと感じ入ったが、「ランゲルハンス島」は膵島との意、意味を調べた小生に非があるのだが、急激に句の神秘性が薄らいでしまった。(きゅういち)
熱帯魚吐きたる砂や砂に落つ 相子智恵
○笠井亞子
■魚の口から吐かれた砂が水槽の底へ落ちていく、それだけのこと。
そのスローモーションじみた景はしかし「夏の時間」をひどく意識させる。(笠井亞子)
蒟蒻は砂の模様ぞ南風吹く 笠井亞子
○鴇田智哉
■まず、蒟蒻のあの色合いを〈砂の模様〉と言ったことで、一瞬、乾いた状況が浮かんでしまう。これは、食べ物である蒟蒻の印象としてはマイナスだ。食べ物としての蒟蒻の命は水分だと思うが、その逆のイメージだからである。〈砂の模様〉は、はっきり言って、おいしそうではない。だが、〈南風吹く〉と景色を広げたことで、その〈南風〉が雨雲をはらんだ湿気のあるものであるような気がしてくる。〈蒟蒻〉という奇妙なもの。そのありようを、どんよりとした質感でとらえているところが面白い。農産物である蒟蒻の、素朴な質感があると思う。(鴇田智哉)
【本】
エロ本をしぼればにおう鎮守様 きゅういち
○なかはられいこ
■「エロ本」と「鎮守様」の取り合わせが新鮮でした。性的なものと祭祀って無理 なくつながるようにも思えます。「エロ本」という俗っぽい言葉も 「しぼれ ば におう」という中七(しかもひらがな表記)でによって、柔らかくて水っぽくて 生々しくも神聖なものに変体してて、そこもおもしろかったです。(なかはられいこ)
■鎮守様の御座す神社、昔の村落共同体であればあんな事やこんな事の場になっていたかも知れません。(飯島章友)
永き日のひとつでありぬ古本屋 谷口慎也
○相子智恵
■春の日永。日差しのやわらかい景色の中に、古本屋ものどかに佇んでいる。古本屋というのがいいなあと。(相子智恵)
■良質な邦画のような句。(飯島章友)
逝く夏の線一本の星座かな 相子智恵
■流れ星・・だろうか。「逝く」の措辞がさびしい。(清水かおり)
転写本だからワサビも添えておく 飯島章友
○清水かおり
■転写本に何かを加味すると転写本といえなくなるかもしれないが、あえてワサビを効かす発想の面白さ。転写作業に辛みや風味を効かせたいと思う主体の情熱がいい。
「だから」と気の抜き方が絶妙。(清水かおり)
豆本をつまむ守宮をつまむように 笠井亞子
○鴇田智哉
○中村安伸
■守宮を対比させたことにより、豆本のもつ奇妙さ、ものめずらしさ、デリケートさがクローズアップされ、腑に落ちた。(中村安伸)
■動詞にはいろいろニュアンスがあって、「つかむ」というとかっこいいけれど、「つまむ」というとちょっとオドケた感じがする。「ひょいとつまむ」の「ひょいと」みたいなニュアンスが、「つまむ」自体に備わっているのだ。で、この句は、その〈つまむ〉の感覚がよく出ていると思う。
ところで、(俳人の性として申し訳ないが、)〈守宮〉が比喩として使われているため、厳密にいうと無季の句となっている。〈豆本〉と〈守宮〉を入れ替えて有季の句としても、内容けっこう面白い。でも、原句も面白い。
結局、〝〈守宮〉を持ったときに〈豆本〉を思い出す感覚〟と、〝〈豆本〉を持ったときに〈守宮〉を思い出す感覚〟のどちらが面白いか、ということが問題である。面白さでいえば、どちらも同じぐらい。でも、二者のどちらであるかによって、作者のキャラクターは結構違う。
この作者は、〝〈豆本〉を持ったときに〈守宮〉を思い出す感覚〟の方の人なのだ。仮に無季であろうが、作者がそうなのだから、こちらでよい。(鴇田智哉)
■守宮をつまんだことはないが、「つまむ」で豆本と守宮を同列した作者のユーモアを感じる。(清水かおり)
本よりも眩しく蟻の地がひらく 鴇田智哉
○清水かおり
■蟻地獄は時にパラダイスかもしれないと思う。「眩しい」に人間深層心理が言いつくされている。(清水かおり)
■本の活字と蟻との類比か。寺山修司を想いました。(飯島章友)
本降りになって桃缶買いに行く 清水かおり
◎相子智恵
○谷口慎也
○八上桐子
■「本降り」と「桃缶」の偶然の組み合わせが好きでした。
桃缶、よほど食べたかったのですね。缶の中の、シロップでずぶぬれの桃缶の桃と、本降りの中の自分がシンクロします。
雨は決して冷たくなく、シロップのようにまとわりつくようです。(相子智恵)
■「そんなヤツおらんやろ」と、まずは突っ込んだ。ところが、いる気がしてくる。にしても、桃缶。どうしても食べたくなるか?重いし。が、そんな日が来そうな気がしてくる。いえ、来て欲しい気すらしてくる。なつかしい衝動が、呼び覚まされたのだ。そんな日はあったのだ。(八上桐子)
■〈本降りになって出て行く雨宿り〉という古川柳がある。これは他者に対する揶揄。だが〈桃缶〉となれば話は別。一方で、三鬼の〈中年や遠くみのれる夜の桃〉があり、併せ読めば、それが「缶詰」であるというところに一種の滑稽とそれに伴う哀感さえ覚えるのだが、やや読み過ぎか?(谷口慎也)
■たとえば刺身を食べようとしたとき醤油がないことに気づいたら、これは即刻買いに出掛けざるをえません。でも「桃缶」という嗜好品は醤油ほどの必要性を感じない。要するに、私的な拘りで思い迷っている内にとうとう「本降り」になってしまったという顛末。パイン缶や蜜柑缶に比べ、桃缶には蠱惑的な何かがありそうです。(飯島章友)
本体を待っている間のくすりゆび なかはられいこ
○きゅういち
○中村安伸
■朦朧とした書き方なのでさまざまな解釈が可能だが、本体に先んじて届けられた付属品をくすりゆびでもて遊んでいるのだと読んだ。
待つ心情が指に投影されてエロティックな風情もある。くすりゆびも本体というよりは付属品に近いものだろう。(中村安伸)
■どこかに漂うエロス、おそらく「くすりゆび」の持つ一般的なイメージによるものではないかと感じるが・・・一部分が全体を待つという大きな世界観が凝縮されている。(きゅういち)
■この「くすりゆび」が仮に左手薬指なら愛の証である指輪を待っている状況かも知れませんが、そのばあい「本体」という言葉はどうもしっくり来ない。「本体を待っている」という措辞からは、まるで義肢としての薬指が本体を待っている雰囲気があります。(飯島章友)
■これはもう小川洋子の「くすりゆびの標本」以外のシーンは浮かばない (清水かおり)
葉桜の独逸の本屋めく晩夏 八上桐子
冷房やひねもす本を抜きつ挿しつ 中村安伸
【音楽関連】
アサガオノカスカナカオススガシカオ 八上桐子
◎なかはられいこ
○きゅういち
○笠井亞子
■一瞬でがっちり掴まってしまいました。この句に裾を掴まれてしばらく身動きで きませんでした。ふつうに漢字とひらがなで書かれた句と比べて、 すべてカタ カナで書かれものは、目から脳に至る時間にどれほどの差が生じるのでしょう。 最初、カスカスとか、カオナシとか、スカスカとか読み 間違えながら「かすか なカオス」にたどり着いたときには、作者に嫉妬すら感じました。一句まるごと カタカナというのも新鮮ではありますが、た だそれだけではない、そのうえ間 違ってもキワモノなんぞとは言えない、詩的完成度の高い一句だと思います。(なかはられいこ)
■カタカナ表記、音韻の繰り返し等句自体に音楽が流れるようで遊び心満載、作句自体を楽しむような句姿に思わず「まいった」とつぶやいてしまうが「カオス」がいかにもの感。(きゅういち)
■イミよりまず読みをうながすカタカナの力を十全に生かした句。17文字が、数えてみれば「アオカサシスナシ」の8文字で構成されている。
朝顔にある微かな混沌も、その(カスカスとした)リズムに乗ると、からっとしていて楽しげに見える。元々カタカナ表記である名前の力も大きい。(笠井亞子)
■カの力技! (清水かおり)
アリランを乙女と乙女口移し 清水かおり
◎八上桐子
■ぷるんとふくらんだくちびるが、くちびるを真似て歌うアリラン。ゆっくり吐き出される一音、一音が、甘く切なく溶け合ってゆく。「口移し」は性的イメージにも働くが、官能を超越した“気”の交感を感じさせる。一句に凝縮された、プラトニックなエロティシズムに陶然となった。(八上桐子)
■「アリラン」「乙女」「口移し」という言葉の美的関係性と、a音・o音・u音の韻がよい。(飯島章友)
ドラムロール西瓜落下の映像に 中村安伸
○なかはられいこ
○相子智恵
■変な映像にドラムロールが付いて、なんだかおかしくて、もの悲しい。どんな番組か気になります。(相子智恵)
■結果が惨事となることがわかっていながら、期待してしまうのが人間の哀しいサ ガですね。とか、西瓜だから気軽に言えるわけですが、地に激突し て、ぐ ちゃっ てなった赤から、いやでも想像できてしまうものがあって。ひとの意識 下にある残酷な部分を引きずりだすような、ちょっと怖い句な気がします。(なかはられいこ)
■ドリフのごとし。(飯島章友)
■永遠に続きそうなドラムロールは時間の流れを遮断するような感覚がある。西瓜の落下でもドラマティックな人生の一ページに為り得る。(清水かおり)
はんざきの歌声ありて水の音 笠井亞子
○八上桐子
○飯島章友
■「歌声」という言葉が「はんざき」と「水」を仲介し融合させる働きをしていると思います。歌は通常、楽しいから歌うものだと思いますが、はんざきが歌っている川はさぞかし澄んでいるのでしょう。(飯島章友)
■「はんざきの歌声」に意表を突かれるが、そこはまだ半信半疑。下5の「水の音」でせせらぎに変換され、一気にリアリティーを帯びる。せせらぎは歌いつづけ、透明な歌声が私を通過してゆく。はんざきに歌を授けた、作者の詩心に感謝したい。(八上桐子)
竿竹にCD盤と風鈴と 相子智恵
○鴇田智哉
■CDがぶら下がっている光景は、見覚えのある風景として定着しているだろう。あれは何を除けているんだったか、鳥? 猫? それはそうと、〈風鈴〉もぶら下がっているんだが、別に風流でも何でもないし、〈竿竹〉も竹じゃないし、きわめて味気ない風景が、「音楽」という題に対してちょっと面白かった。(鴇田智哉)
■「CD盤」がテクストにおけるちょっとしたクビレになっていますね。(飯島章友)
縦笛のかつてキリンであった跡 飯島章友
○谷口慎也
○きゅういち
■「縦笛」と「キリン」の共通項を読者へ無意識にイメージさせる仕掛け、一句の中に輪廻に通じる時間軸をも織り込みふわっとした読後感をいただいた。(きゅういち)
■〈跡〉にやや難点。それでは一句が閉じてしまうという思い。だが、〈縦笛〉が〈キリンであった〉とはよもや誰も思いつくまい。その直観・直覚に賛同。(谷口慎也)
■縦笛のあのボコボコとしたシルエットはキリンだったのかと納得する。(清水かおり)
上向きにすいつちょの声反りあがる 鴇田智哉
大蓮のまわり音楽止みにけり 谷口慎也
◎きゅういち
■流れていたであろう「音楽」が「大蓮」の回りのみから消える。大きな時間軸を感じさせ、なにも語らずその空間の持つ質感を端的に言い表している。(きゅういち)
帝国の鋪道の音の無いダンス きゅういち
○飯島章友
■帝国と言っても伝統や慣習を大切にし、民の生活の自由を守って国を治める帝もいますが、上掲句の帝国はそうでない雰囲気を感じます。「音の無いダンス」という具体でこの帝国の様子を想像させる手柄。(飯島章友)
■音のないダンスが国家の持つ危うさをうまく表現している。(清水かおり)
立秋の金銀パールプレゼント なかはられいこ
○八上桐子
○清水かおり
■思わず口ずさむ。洗剤のCMソングでこの半世紀中一番の印象深さだったフレーズからは、まず「主婦」を連想させる。残暑厳しい「立秋」に何がしかを思いめぐらす姿を詠んでいる。
庶民の小さな幸せと憂鬱が簡潔に同居する作品。(清水かおり)
■「立秋の金銀パ」まで読んだところで、あのメロディになった。立秋と読むだけで空気の澄むような、気温が2度ほど下がるようなイメージに、ソプラノの軽やかな響きがピタッと重なる。金、銀、パールのそれぞれの光も、秋を感じさせる。それにしても、金銀パールがよく出てきたと思う。(八上桐子)
以上・全30 句
2014-08-03
脱衣場を抜けるアリス なかはられいこ句集『脱衣場のアリス』の二句 柳本々々
【句集を読む】
脱衣場を抜けるアリス
なかはられいこ句集『脱衣場のアリス』の二句
柳本々々
二の腕の内側に棲む深海魚 なかはられいこ
『脱衣場のアリス』(北冬舎、2001年)というプライヴェートな私秘的空間としての〈内側〉=〈脱衣場〉とコードづけられた句集のタイトルにも表れているように、なかはられいこの川柳において内/外という意味的境界はひとつのテーマをなしているように思う。
しかしその私秘的な空間に〈アリス〉を持ち込んだのがこの句集の意味的反転=横転としての仕掛けになっているのではないか。この「アリス」をルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』の「アリス」としてとらえた場合、アリスとは、内/外の「/」としての境界を通過し、内/外の位階を打ち消すとともに、表面こそが深遠であることの象徴としても機能する。たとえば、「ルイス・キャロルにおける表面の発見」について、哲学者のジル・ドゥルーズは『意味の論理学』で次のように述べている。
深層の動物は、二次的なものになって、厚みのないカードの姿形[=絵柄]に場所を譲っていく。まるで、古き深層が広げられて横幅になったかのようである。限界なき生成は、いまやまるごと、この横幅の中へと裏返される。(……)すなわち、もはや沈み込むことではなく、古き深層が表面の逆方向に還元されて何ものでもなくなる仕方で、横へ横へと滑走することである。滑走のおかげで、反対側[鏡の国]に移行するだろう。(……) したがって、アリスには、《複数の》冒険ではなく、一つの冒険がある。すなわち、表面への上昇、偽の深遠の拒絶、すべてが境界を通り過ぎることの発見。それゆえに、キャロルは、当初予定したタイトル『アリスの地下の諸冒険』を放棄するのである。 G・ドゥルーズ、小泉義之訳『意味の論理学 上』河出文庫、2007年、p.30上掲句「二の腕の内側に棲む深海魚」には、「脱衣場のアリス」ともつながりうるようなドゥルーズの語る「アリス」のありかたが示されている。「二の腕の内側」というふだんはひとにみせることのない「脱衣場」のような私秘的な空間でありつつも、そこに「深海魚」が「棲む」ことができるような〈深遠さ〉があるということ。しかしその〈深遠さ〉とは「二の腕」としての〈場〉であることをあくまでやめない多方向なアクセントをもった〈表層的〉な場であること。
ここで「二の腕」とはつねに〈だれかの〉「二の腕」でしかないことを想起してみよう。「二の腕」とは〈X〉が〈Xの〉「二の腕」としてそもそも所持している〈場〉ではあるのだが、掲句においてその「二の腕」は、「二の腕」を所持している主体とは別の主体=「深海魚」が棲まう空間でもある。句の構造も「(二の腕の内側に棲む)深海魚」と「深海魚」に句のすべての力点が集中するようになっている。二の腕を所持する主体の(二の腕の)なかに深海魚は棲んでいるわけだが、しかしその棲んでいる深海魚が句の構造を通して主体化されているのだ。これは実は住空間のなかに埋め込まれつつも、わたしたちによって常日頃から〈主体的〉に生きられる空間でもある「脱衣場」とアナロジカルに連動しているようにも思う。
「脱衣場」とは、住空間に埋め込まれた空間であり、その意味では他の居住スペースと隣接している。だからいつでもその領域は相互交通性のある往き来可能な場として存在している。しかし隣接しつつも、だれか「脱衣場」を〈使用〉している人間がいるときは、〈入ってはいけない〉というタブーが発現する領域もまた「脱衣場」である。脱衣場は誰かがそこに入り、脱衣しはじめることによって〈法〉が機能しはじめる特殊な空間である。〈入ってはいけない〉という、〈表層〉から〈一義的〉に離脱するようなタブーが発動するが《ゆえに》常にあちこちに接続するような〈表面〉の〈現れ〉として存在する空間。それは先ほどドゥルーズがアリスに関して述べていたような、穴に深く落ちることによって現れた〈深遠〉な世界でありながらもアリスが関わることによって〈表層的〉になっていく運動のありかたとも類似しているようにも思う。
二の腕に深海魚は棲みつく。それは二の腕を所持する主体がおそらく気がつかないままに見いだしている〈深遠/表層〉である。〈二の腕の深海〉としての「パラドックスは、深層の解任、表面での出来事の拡大、限界に沿った言葉の展開として現出する」(ドゥルーズ)。
だからその〈深遠/表層〉こそ、おそらくは「脱衣場のアリス」が「脱衣場」の〈外部〉へと走り抜けていくであろう〈抜け道〉でもある。
だが、抜けようとしたそのせつな、アリスはふたたび脱衣場に呼び戻される。だれに? 猫、に。
チェシャ猫に呼び戻される脱衣場 なかはられいこ
ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』においてチェシャ猫は笑いながら消え、消えながら笑うところに特徴がある。つまりチェシャ猫には、動作(消える)と動作主体(笑っている猫)が、起動しはじめたとたんに噛み合わなくなり、むしろ互いを〈解体〉しはじめてしまうといったような行為と行為主体をめぐる〈齟齬〉がある。しかし思い返せば、「脱衣場」自体も本来的にはそうした「チェシャ猫」的な〈場〉ではなかったか。「脱衣場」においてわたしは〈わたし〉のすべてを脱ぐ。しかしすべてを〈脱衣〉するということは、もしそれをだれかにみられたならば、その脱衣した姿を〈わたし〉のすべてとして引き受けねばならなくなるような〈場〉なのである。「脱衣場」とは、〈わたし〉がすべて解除される場でありながら、だからこそ、〈わたし〉をすべてひきうけねばならなくなるという、「消えながら(脱ぎながら=行為)」「笑う(ひきうける=行為主体)」ところに特徴がある。
簡単にいえばここで問われているのも「二の腕の内側に棲む深海魚」のような、〈ねじれた主体〉なのである。いや、インターテクストとして『脱衣場のアリス』に関与しつづける『不思議の国のアリス』という物語そのものがすでに発話主体と発話された言表のくいちがいが〈wonder〉になる世界なのだ。語り手は、語り手でいようとし自らの言表に忠実でいようとする限り、まっとうな発話主体になれない。それはどこまでいってもアリスが駆け抜ける〈深さとしての表面〉という〈ねじれ〉なのである。
しかし考えてみれば、川柳のダイナミズムは、おそらく、そこにあるのではないか。ねじれ、に。笑いながら、消えるところに。チェシャ猫、に。
川柳という言語表現は、そのときどきにおいて語り手としての主体をつきくずす。むしろ、そのつきくずしかたを定型を用いて言表するのが川柳のもつひとつの〈過激さ〉なのではないか。
発話位置を奪われた状態で発話位置を模索しつづけること。そしてその発話位置が発話したそのことによってすでに奪われてしまってあることをみもふたもなく確認してしまうこと。しかしそういうかたちでしか、発話位置を記述=言表しえないこと。
それが川柳という言語表現にまつわる〈脱衣場〉的主体なのではないだろうか。
そして、それはやはりドゥルーズが『不思議の国のアリス』の「帽子屋と三月ウサギ」について述べているような、〈時間〉を〈殺し〉てしまったせいで、常にふたつの方角(=意味)に棲みつづける〈脱衣場〉的主体なのではなかっただろうか。つまり、
現在は、過去と未来に無際限に下位分割可能なティー・タイムという抽象的な時期の中でしか存続してない。こうして、帽子屋と三月ウサギは、常に遅すぎたり早すぎたりして、一回で二つの方角に、決して時刻に間に合わず、いまや絶えず位置を変えることになる。 G・ドゥルーズ、小泉義之訳『意味の論理学 上』河出文庫、2007年、p.147
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2007-08-26
第16号・柳×俳 7×7 「二秒後の空と犬」「裸で寝る」を読む(下)
第16号・柳×俳 7×7 「二秒後の空と犬」「裸で寝る」を読む(下)
遠藤 治・さいばら天気
なかはられいこ「二秒後の空と犬」7句 ● 大石雄鬼「裸で寝る」7句 →読む
第16号・柳×俳 7×7 「二秒後の空と犬」「裸で寝る」を読む(上) →読む
四童=遠藤 治 天気=さいばら天気
※以下の対話は2007年8月17日深夜、チャット機能を利用。ログ(書き込み記録)を微調整して記事にまとめました。
天気::前回は、なかはられいこさんの7句について話しました。大石雄鬼さんの7句「裸で寝る」は、いかがでしたか?
四童::私が形式主義者なのか、俳句を読むチェックリストのようなものがあるのか、「切れ」の存在にそうとうどぎまぎします。
例えば、5句目の「銀 色 の 如 雨 露 が 自 閉 草 茂 る」、6句目の「大 花 火 痩 せ た 財 布 の よ う に い る」を見たとき、この2句で、いちばん面白いのはどこかと考えると、「如 雨 露 が 自 閉 」だったり「痩 せ た 財 布 の よ う に い る」という措辞なわけです。ところが、そこに切れがあると、季語の「草 茂 る」や「大 花 火」は効いているでしょうか、という句会の議論みたいになり、せっかくの面白い措辞の、その肌触りのようなものが見えにくくなってしまうのです。切れを持たない2句目、3句目、4句目は、そういう窮屈さから自由です。特に4句目の「愛 の 巣 の パ イ ナ ッ プ ル が 立 っ て お り」は、そうとう可笑しいです。
天気::はい、「愛 の 巣 の パ イ ナ ッ プ ル が 立 っ て お り」はいいですねえ。5句目、6句目は、季語との切れで、おもしろくなっているかというと、なるほど、12音のおもしろさがとりたてて増幅されているいわけではない、という気もします。特に5句目の「草茂る」は、如雨露の舞台設定を説明するようで、かえって不思議じゃなくなっている。
でも、6句目の「大 花 火 痩 せ た 財 布 の よ う に い る」の、この情けなさは、ちょっとイイです。「夏痩せ」の雄鬼さん、の異名をもつくらいの夏痩せ専門家である雄鬼さん、そしてまた、「ように」「ような」を多用する雄鬼さん、という予備知識をもって読むと(それは「いけない」読み方ではありますが)、この句は「雄鬼印」がはっきりと刻印された句です。
話題が別のところに行きました。「切れ」に戻しましょう。つまり、切れが、句のゆたかさ、おもしろさへと結びついていない。これは今回の個別の事情ではなく、俳句一般に敷衍できることなのではないか、ということでしょうか?
四童::前回の話題、「意味の宙づり」の話に関わってくると思うんです。「宙づり派」というものがあるとすれば、それは俳句形式に対しても冒険者であったほうが一般には面白いことになるのかも知れません。
天気::雄鬼さんの7句には、冒険的な句とそうでない句があるように思います。「愛 の 巣 の パ イ ナ ッ プ ル が 立 っ て お り」は前者の最右翼。最初の2句、「川 べ り の 川 の 見 え ざ り 行 々 子」「エ ン ジ ン の 音 に 口 あ け 燕 の 子」などは、雄鬼さんにはめずらしく伝統的な脈絡にあると思いました。
四童::1句目の「「川べりの~」は、発句の作り方ですよね。
天気::そうです。川柳への挨拶のようにも読みました。「俳句ってのは、こんな感じなんですけど?」といった。
四童::はい。「川柳への挨拶」という読み方は共感します。
天気::発句と読めば、7句目「ペ ル セ ウ ス 座 流 星 群 や 裸 で 寝 る」は、挙句ではないけれど、大団円(終幕)っぽくて、1句として読むより、今回の連作の最後の句として読むほうが面白い。
四童::3句目「蝸 牛 の 肉 の 透 け い る 愛 が あ る」はちょっと俳句世界の季語の重力そのままで、「かたつむりつるめば肉に食ひ入るや 永田耕衣」「殻のうちししむら動く蝸牛 山口誓子」などと同じ文化圏にいるようです。それを俳句の強みと受け止めることも、可能といえば可能です。
ところで、「愛」というテーマが連作にどのような影を落としているのかが興味深いです。4句目の「愛の巣に~」を頂点として、5句目「銀色の~」以降はどんどん孤独な方向に向かい、7句目「ペルセウス~」など、裸で寝ているにもかかわらず、まったくエロチシズムが感じられない独特の世界を構築していると思います。
天気::おふたりとも、「愛」というテーマには慎重で、ベタ付けは避けたようです。
四童::もしテーマが「愛」だとひとことも触れなければ、一般論として同じ句群でもちがう読み方で語られると思うのです。「愛」だと触れられた瞬間に、5句目の「如雨露」にリビドーの抑鬱を感じたり、6句目「大花火~」、7句目「ペルセウス~」に男性的な性愛のむなしさを感じたりしてしまう…。もちろん、それらはそれぞれのことばが内在的に持つ意味のはたらきだけど、テーマを明示するのと、暗示として読者にゆだねるのと、どっちが面白いのかなあ、などとちょっと思いました。例えば、おふたりに同じテーマで詠んでもらいつつ、そのテーマは伏せるという発表の仕方もありなのかも知れません。
天気::それは、じつにそうかもしれませんね。楽屋裏は見せずに、読んでもらう。なるほど。今後の大きな参考にしましょう。今回のように、ダイレクトに迫れないようなテーマの場合は特に、そのほうが〈読む愉しみ〉が大きくなりそうです。
ところで、「愛 の 巣 の パ イ ナ ッ プ ル が 立 っ て お り」は、ナニがいいんでしょうね? 魅力を語りましょうか。
四童::まず「愛の巣」というどうしようもなくチープな言葉を句に取り込んだことでしょう。それから「愛の巣」の次の「の」。これが大きく意味を混乱させています。愛の巣の中にパイナップルがあるのか、パイナップルが愛の巣そのものなのか、という混乱はそうとう刺激的です。その混乱をパイナップルの物質感が、いやが上にも増幅します。で「立っており」なわけです。これはシンボルであり、愛の国の国歌です。
天気::褒め尽くされましたね。私が付け加えることは、パイナップルが「昭和的に情けない」、そこがいい、アイロニカルな風味がある、ということくらいでしょうか。他に、雄鬼さんの7句に関して、何かありますか?
四童::「る」で終わる句が4句ありますねえ。いや、雄鬼さんの場合、ときどき頭の一音とか終りの一音とかを拾うと、意味のある単語がせりあがってくることがあり油断も隙もないのですが、今回はまだ気がつきません。
天気::末尾の文字を拾うと、子子るりるるる。
ところで、柳×俳、これで3回を数えたのですが、川柳と俳句の境界や差異といったものが、個人的には、ほとんどもう、どうでもよくなくなっています(もともと頓着はしなかったのですが、ますます)。私は俳句愛好者です。川柳の人たちからすれば、「川柳を知らないから、境界や差異がわからないのだ」と言われてしまいそうですが、どちらも、それぞれのレジェンドを活かしつつ、そこから自由な「ひとりの作り手」をめざした場合、それは川柳だろうが俳句だろうが、どっちでもいい、という感じになっていくような気がしています。
四童::同感です。(仮にそういうものがあるとして)ストロング・スタイルの俳人を目指しているわけではない私にとって、今回のような機会に触れる川柳の世界は、地続きにしてゆたかで楽しい世界に感じられます。「ひとりの作り手」として、この地続きな感じを大切にしたいと思います。
天気::うまくまとめますねw ストロング・スタイルの俳人。これはこれで興味深い設定です。多くの俳句愛好者(俳人)は、昭和の大俳人(老いていった、亡くなっていった)の幾人かに、ストロング・スタイルの俳人像を見ているのかもしれません。いまもなおストロング・スタイルをめざすという選択はあるわけですが、それだと、どこかいつかの俳句をなぞっているだけの退屈さが生じるような気もします。
言うなれば、むかしの教科書を見つめつづける姿勢から、すこしは顔を上げて、あるいは教室から外に出たて、新鮮な空気を吸ったほうが健康的だと思うことがあります。
遠藤さんがおっしゃる「地続き」の地平は、その意味で、きわめて爽快な場所かもしれません。そんなところでしょうか?
四童::はい。ありがとうございました。
天気::2回にわたり、お疲れ様でした。
( 了 )
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2007-08-19
「愛」のあと
「愛」のあと
なかはられいこ「二秒後の空と犬」7句 ● 大石雄鬼「裸で寝る」7句 →読む
大石雄鬼
「愛」というテーマでの作句。困ったなあ。誰もがそうであるように、たしかに生まれてこのかた、「愛」というものにいつも何らかの形で関わってきたが、それをテーマにして俳句を作るとなると、さてどうすればよいか。まあ、恥ずかしい。それに、俳句を作り始めてから、「テーマで俳句を作って、発表する」などということを一度もしたことがない。一句への集中以外に、作品群のテーマ性、全体の方向性など、今まで考えたことがない部分に気を使わなければならない。ということに悩み、そして、結局、あきらめた。
なかはられいこさんの作品。正直言って、よくわからない句もあるのだが、その自由さにちょっと驚いた。というか、自分の俳句の不自由さに驚いたという方が正しいかも知れない。自分の句を見ると、景色にしよう、しようという意識が強いことに気づく。俳句への切り取り方が、とても額縁的である。いつも、四角にしようとしている。だから、類想性を意識せねばならず、結局類想性がまつわりつく。
一方、なかはらさんの作品は、切り取り方が自由だと感じた。額縁的な切り取り方をしていない。その形は、自由、というより切り取る形そのものを意識していないように見える。
ち ゅ う ご く と 鳴 く 鳥 が い る み ぞ お ち に
い ま 視 野 を か す め て い っ た も の が 愛
二 秒 後 の ワ タ シ に 水 の 輪 が 届 く
隙 あ ら ば ふ た り で つ く る ふ か み ど り
私が、私なりに理解出来たのがこの4句。ほかの3句はその句意が、形がどうにもわからなかった。それは、私の理解の仕方が、景色、姿として捉えようとしていることによるからであろう。この4句は、それでなんとか捉えることができる。
わからないほうの3句。
空 と 犬 と ち く わ が 好 き な ぼ く の 女 神
母 さ ん は す で に こ こ ま で 紅 し ょ う が
や く そ く の 木 綿 豆 腐 を 持 っ た ま ま
となると、どうしてよいかわからなくなる。そのまま受け取ればよいのだ、という声も聞こえるようであるが、しかし、それでは私の気持ちが落ち着かない。その落ち着かない気持ちは、もちろん私の詩への感受性のなさ、理解力のなさによるものだろうけど、俳句に長く関わることによって得てしまった習性によるものかもしれない、とも思うわけである。
17音という景色の形に切り取り、そして伝えようとするのか。自分の意識を17音というものに(形にこだわらず)切り取ろうとするのか。川柳とか、俳句とかではなく、「愛」のあと、そのようなことを考えはじめている。
●
なかはられいこ
テーマは「愛」ときいた瞬間、かたまりました。そして二秒ほど後、ぎゃーっ!!と叫んでのけぞりました。俳句や川柳に携わっているひとならばおのずとおわかりのように、困ってしまうテーマではありました。ところがじたばたしたわたしとは違って、大石雄鬼さんの七句は、あまりにすずしい顔で並んでいて、筋力のある俳人だなあと感じました。
蝸 牛 の 肉 の 透 け い る 愛 が あ る
「かたつむり交めば肉の食い入るや(永田耕衣)」を下敷きに書かれたのでしょうか。耕衣の句にある、エロティックな生々しさがないかわりに、精神的なというか、スピリチュアルなかたちの「愛」が書かれているように思います。それが俳句という形式の特質なのか、大石さん個人の資質なのかはわからないけれど、「愛」というものの持つある種の生々しさを回避するような傾向は、ほかの作品にもほのみえて、
愛 の 巣 の パ イ ナ ッ プ ル が 立 っ て お り
この作品など、「あいのす」と「あななす」という<音>に位相をずらすことで意味よりも映像が先立ち、不思議な効果を発揮していると思いました。「エンジンの音」と「燕の子」、「如雨露」と「自閉」、「大花火」と「財布」など、人工的なモノと自然(季語)との取り合わせから推察すれば、俳句音痴なわたしの目には大石さんはどちらかといえば正統な作風の、筋力のある俳人にみえるのですが、どうなんでしょう。
同じフォルムを持つ俳句と川柳ですが、一句ずつ並べたときには淡くてあいまいな差異も、こうして七句ずつ並ぶとすこし見えやすくなりますね。近くて遠い関係がずっと続いてきた俳句と川柳。もっと交流がさかんになれば見えてくるものがあるのではないかと思っています。
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「二秒後の空と犬」「裸で寝る」を読む(上)
第16号・柳×俳 7×7 「二秒後の空と犬」「裸で寝る」を読む(上)
遠藤 治・さいばら天気
なかはられいこ「二秒後の空と犬」7句 ● 大石雄鬼「裸で寝る」7句 →読む
四童=遠藤 治 天気=さいばら天気
※以下の対話は2007年8月15日深夜、チャット機能を利用。ログ(書き込み記録)を微調整して記事にまとめました。
天気::まず、なかはられいこさんさんの7句「二秒後の空と犬」から行きましょう。いかがでしたか?
四童::意味の宙づり状態のあり方が俳句とはずいぶん違うようで面白かったです。
天気::「意味の宙づり状態」、俳句でこのところよく使われる用語ですね。ひとこと、説明を。
四童::散文的な意味の解決を持たず、ことばとことばがただそこにあり、読まれるのを待っている状態のことです。
天気::明快です。俳句においては、「意味の宙づり状態」に価値を置く人々と、置かない流派の両方があります。なかはらさんのそれが、俳句のそれと違う。そう指摘されたのは、例えば、どういう点でしょうか?
ちなみに、雄鬼さんは、あきらかに前者。「意味の宙づり状態」に価値を置く派だと思います。簡単に言えば、「一読でわかる句」「意味の伝わりすぎる句」を避ける派。今回の7句は、どちらのタイプも入っているように思いますが、ひとまず、俳句全般との対比で話しましょうか?
四童::俳句って、二物衝撃という技法をひとまず忘れてというのが、私などには難しいのです。雄鬼さんの句でいえば、「川 べ り の 川 の 見 え ざ り 行 々 子」とか「ペ ル セ ウ ス 座 流 星 群 や 裸 で 寝 る」みたいな作り方が、わりと誰でも容易に、あるいは安易にできてしまって、それが、そこから先に行き来するののバリヤーになっているような気がすることがあるのです。
なかはらさんの7句でいえば、だめ押しをするように意表をつく、という技法はどうでしょう。例えば、「ち ゅ う ご く と 鳴 く 鳥 が い る み ぞ お ち に」。「ちゅうごくと鳴く鳥がいる」というだけで、そうとう変です。
天気::「みぞおちに」はダメ押し。よくわかります。
四童::たぶん、九官鳥なのかも知れない。でも、なぜ「ちゅうごく」なぜひらがな、という次に「みぞおちに」が来るわけです。
天気::「空 と 犬 と ち く わ が 好 き な ぼ く の 女 神」もそうですね。
四童::その句に関していうと、主体の移動という、これまた俳句ではほとんど禁じ手の技を繰り出しています。この句と「母 さ ん は す で に こ こ ま で 紅 し ょ う が」の、たった二句のせいで、七句全体が、非常に不思議な世界に陥っています。「ぼくの女神」の句は、「ぼく」の立場で詠んでいるし、「母 さんはすでにここまで」は「母さん」の立場で詠んでいる。
天気::詠む主体の問題。簡単に言えば、なかはらさんという(現実的には)女性が「ぼく」という主語を使う。なるほど、俳句ではあまりやりませんね。まったく違和感なく読んでいましたが。「母 さ ん は す で に こ こ ま で」は娘の立場と読みましたが、それはそれとして、句のなかの主体が、比較的自由。たしかに俳句にはあまりないことですね。
四童::雄鬼さんの句は一貫して、デフォルトで雄鬼さんの視点で詠まれるわけです。
天気::俳句は、多くの場合、そうですね。ただ、「空 と 犬 と ち く わ が 好 き な ぼ く の 女 神」の「ぼく」が、詠み手(なかはらさん)かというと、そんな感じがしないんです。不思議なことに。作者とは別の地点にいる「ぼく」がいる。ある種、小説として読める。
四童::イコール作者でなくて、別の地点でもいいのですが、そういう自由度が俳句の場合、あまりないと思うのです。
天気::ないですね。俳句における「作者デフォルト」のしがらみ?
四童::「二 秒 後 の ワ タ シ に 水 の 輪 が 届 く」の「ワタシ」という表記についてはいかがですか。
天気::まず、違和感のなさを挙げます。「ワタシ」に必然があるように思える面白さ。俳句で「私」「ぼく」「われ」などの語が入ってくるのは、個人的に苦手なんです。ところが、この句は、ぜんぜん嫌じゃない。それが不思議。
四童::そうですねえ、「俺僕私」を排し、しかもデフォルトの一人称は作者、というある種の俳句のスタイルはいつの時代に確立されたのか定かでないのですが、変ですよねえ。なんか、なかはらさんの句を読んでいると、俳句の変さが際立ってきますねえ。
天気::俳句がヘンかどうかは別にして、俳句のルールに干渉されない五七五の可能性みたいなものは、満喫できました。
四童::はい、大人のまとめ方です。
天気::ただ、不自由さがあるとして、それを「俳句」の因習のせいにしてもつまらない。自由度が欲しいなら、それを生み出していくのは、俳句作者個人の課題という気がします。
四童::はい。その点、川柳の師弟関係というか、技の伝承というのは、どのように伝えられてゆくのでしょうね。ひとりひとりの作家が自分独自の技法を持って、のびのびと作句しているように見えるのですよ、川柳の方たちは。隣の芝生なのかも知れないけど。
天気::私には、川柳一般のことを論じる資格がない。だから、今回の7句について言うと、「ち ゅ う ご く と 鳴 く 鳥 が い る み ぞ お ち に」「空 と 犬 と ち く わ が 好 き な ぼ く の 女 神」の2句がとりわけ好きです。気持ちのいい虚構、あえて言えば、掌編小説のようなおもむきで、作者からも読者からも離れたところに浮遊している虚構のように読めます。それと「二 秒 後 の ワ タ シ に 水 の 輪 が 届 く」がいい。
四童::「母 さ ん は す で に こ こ ま で 紅 し ょ う が」がこの句群に置かれた時の、言外に機能しだす若い二人の認め方も好きですけど。
天気::句としての肌理が魅力的ですね。意味を宙吊りにした句(なんだかわからない句)は、俳人だろうがナニ人だろうが、作れますが、語のかもし出す肌理をきちんと操作することは、資質であり技術。そこにこそ作家性があるということでしょうが、その部分で、私は読者として、先に挙げた2句に、ずっぽりはまることができる。好きな音楽を、つべこべ言わずに、うっとり聞いている感じです。
四童::音楽のようでもあり、スポーツのようでもあります。「い ま 視 野 を か す め て い っ た も の が 愛」「二 秒 後 の ワ タ シ に 水 の 輪 が 届 く」が並んだ時の、スピードコントロールの巧みさも好きです。
天気::「い ま 視 野 を か す め て い っ た も の が 愛」は、ぜんぜんダメだと思っています。わかった気にさせすぎる。キャッチフレーズとして流通しやすい「意味の甘さ」がある。この一句は、なんでだろう?と思いました。きっと「愛」というとんでもないテーマだったので、「愛」という語も入れておかなければ、といった感じだったのかもしれません。
四童::ダメさを配列が救っていると思います。連句でいうところの遣句という感じです。七句で勝負するところに、遣句、置くか、という気も、まあ、しますが…。
天気::ところで、四童さんは、なかはらさんの句について、『WE ARE!』第5号(2002年10月)に書いていらっしゃいます。※記事はこちら→http://www.asahi-net.or.jp/~xl4o-endu/hajime.htm
その頃から、なかはらさんの句に変化はありますか? どう思われました?
四童::あの頃よりも、落ち着いた印象を受けます。一句一句がぜんぶ意表をついていなくてもいいではないか、というゆとりのようなものを感じました。
(次号につづく)
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2007-08-12
7×7 なかはられいこ×大石雄鬼
なかはられいこ 二秒後の空と犬
ち ゅ う ご く と 鳴 く 鳥 が い る み ぞ お ち に
空 と 犬 と ち く わ が 好 き な ぼ く の 女 神
い ま 視 野 を か す め て い っ た も の が 愛
二 秒 後 の ワ タ シ に 水 の 輪 が 届 く
母 さ ん は す で に こ こ ま で 紅 し ょ う が
隙 あ ら ば ふ た り で つ く る ふ か み ど り
や く そ く の 木 綿 豆 腐 を 持 っ た ま ま
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大石雄鬼 裸で寝る
川 べ り の 川 の 見 え ざ り 行 々 子
エ ン ジ ン の 音 に 口 あ け 燕 の 子
蝸 牛 の 肉 の 透 け い る 愛 が あ る
愛 の 巣 の パ イ ナ ッ プ ル が 立 っ て お り
銀 色 の 如 雨 露 が 自 閉 草 茂 る
大 花 火 痩 せ た 財 布 の よ う に い る
ペ ル セ ウ ス 座 流 星 群 や 裸 で 寝 る
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