あとがきの冒険 第23回
って・途中・そ
なかはられいこ『大人になるまでに読みたい15歳の短歌・俳句・川柳 ③なやみと力』のあとがき
柳本々々
って、あなたが言ったときに、わたしが言ったのは、
を越えてたんぽぽいろの今日そして 前原勝郎
という句があるんだけれど、ど、どういうことなんだろう、な、なんで、〈とちゅう〉から始まっちゃったんだろうと言うことだった。あなたも首をかしげる。ど、どうしちゃったんだ、これ。
でも、どうなんだろう。短歌も、俳句も、川柳も、いつも〈とちゅう〉から始まらざるをえないんじゃないかな。これまでたった一句でも、たった一首でも、《初めから始まった短歌や俳句や川柳》があったのかな、これまでで、たった一句でも一首でもいいから、とわたしは言う。さ、さあ、とあなたはいう。どうしちゃったの、そんな話をわざわざ始めて、と。
いったい、どうしたのか。
でも、なかはられいこさんがこんなふうに書いていたんだよ。あとがきでね。
短歌や俳句や川柳のいいところは、どのページを開いても途中がないところです。パッと開いたページに一句が一首がいつでもスタンバイしています。あなたに知ってもらうために。あなたに考えつづけるためのちからを与えてくれるために。え、とわたしは思う。自分で引用しながら。いや、ここに答えがあるんじゃないかな。つまり、その、いや、わからない。いや。そうだ。どこにも〈途中がない〉わけだよね。〈途中がない〉からいつでも〈始める〉ことができる。どんなときでも。どこにいても、なにをしていても。
だから、この短詩をめぐる〈途中性〉が、わたしたちがいつでも・どこからでも・だれといても・はじめることができる〈途中のなさ〉としての唐突さをかかえてるんじゃないかな。人生は、とつぜんやってくるんじゃないの。人生って言っちゃったけど。短詩においては。「を越えてたんぽぽ」のように。
あ、そうなのかあ、とあなたは言う。そうなのかなあ。どうなのかなあ。でも、あなたも、まんざらでもない顔をしている。まんざらとは、なにか。そういえば、あとがきの冒険じゃなくて、まえがきの冒険になるけれど、長嶋有さんがこんなまえがきを書いていたよ。
俳句と短歌と川柳はすべて少しずつ異なる「やり方」だけども必ず共通していることがある。それは「わざわざ言っている」ということだ。(長嶋有「しれっと、すまし顔で」『大人になるまでに読みたい15歳の短歌・俳句・川柳 ③なやみと力』ゆまに書房、2016年)だから、うーん、短詩とは、「わざわざ」口にだした言葉なんだ。言わなくてもいいことを。そして、言わなくてもいいことだったのに、「わざわざ」言ったからこそ、「わざわざ」始まったんだ。そういうことだと、思う。とつぜん、途中からね。わざわざ途中をつくったんだよ。途中のクリエイターなんだ、短詩って。ハイパー途中クリエイター。
いったい何を言っているの、と私は言う。
でも、まあ、もう春だし、わたしは次第に落ち着き始める。あなたも落ち着いてきて、だまって、あるきはじめる。わたしたちはどんどん激しく落ち着き始めて、そ
(なかはられいこ「この本を手にしてくれているあなたへ」『 大人になるまでに読みたい15歳の短歌・俳句・川柳 ③なやみと力』ゆまに書房、2016年 所収)
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