【週俳6月の俳句を読む】
柳本々々『ふたりで暮らす暴風雨』を読む
なかはられいこ
かたつむり二人で暮らす凄まじさ 柳本々々
悲しいと言わないで悲しさを、美しいと言わないで美しさを伝えることは王道である、たぶん。句会なんかでわたしもそのように発言した、何度も。だけど、この句に限ってそうは言いたくない。なぜだろう。
まっさきにあたまに浮かんだのはかたつむりだった。ぬめぬめとうごくアメーバのような肢体や、踏めばくしゃっと潰れてしまう殻。むきだしだなあと思う。むきだしの身体、むきだしの感情、むきだしの命。どれもこれもナマすぎてこわい。とてもたちうちできない。だから話者もすこし引いてしまう。一歩引いたからこそ「凄まじい」と言い切れるんじゃないかと思うのだ。
桜桃忌ちっちゃいフィギュアこぼれおち 同
雨に濡れずっしりの服桜桃忌 同
手のひらのやぶけたところ桜桃忌 同
「こぼれおち」「雨に濡れずっしり」「やぶけた」どのことばにも負のイメージがある。そしてそれらはすべて「桜桃忌」もしくは太宰作品のイメージとゆるやかに繋がっている。この「桜桃忌」が季語として効いているのかどうか、わたしにはわからないけど、川柳的見方をすれば「桜桃忌」という問いに対する答えが12音で書かれているようにみえる。
そしていちばん惹かれたのがこの句。
桜桃忌「どうにか、なる。」のなるのとこ 同
ダメダメ男の太宰がそれでも愛される理由はここにあるように思う。もちろん、この話者は太宰ではないんだけど、太宰的要素はもっている。どうにもならないときに、なんの根拠もなく「なる」と言う。結局、どうにもならなくなって泣きつくくせに。もう、わたしがいないとダメなんだから。と、思わせるのがヤツの手なのだ。と、そこまでわかっていながら、この句のチャーミングさには負けた。あーあ。
2019-07-21
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