【句集を読む】
脱衣場を抜けるアリス
なかはられいこ句集『脱衣場のアリス』の二句
柳本々々
二の腕の内側に棲む深海魚 なかはられいこ
『脱衣場のアリス』(北冬舎、2001年)というプライヴェートな私秘的空間としての〈内側〉=〈脱衣場〉とコードづけられた句集のタイトルにも表れているように、なかはられいこの川柳において内/外という意味的境界はひとつのテーマをなしているように思う。
しかしその私秘的な空間に〈アリス〉を持ち込んだのがこの句集の意味的反転=横転としての仕掛けになっているのではないか。この「アリス」をルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』の「アリス」としてとらえた場合、アリスとは、内/外の「/」としての境界を通過し、内/外の位階を打ち消すとともに、表面こそが深遠であることの象徴としても機能する。たとえば、「ルイス・キャロルにおける表面の発見」について、哲学者のジル・ドゥルーズは『意味の論理学』で次のように述べている。
深層の動物は、二次的なものになって、厚みのないカードの姿形[=絵柄]に場所を譲っていく。まるで、古き深層が広げられて横幅になったかのようである。限界なき生成は、いまやまるごと、この横幅の中へと裏返される。(……)すなわち、もはや沈み込むことではなく、古き深層が表面の逆方向に還元されて何ものでもなくなる仕方で、横へ横へと滑走することである。滑走のおかげで、反対側[鏡の国]に移行するだろう。(……) したがって、アリスには、《複数の》冒険ではなく、一つの冒険がある。すなわち、表面への上昇、偽の深遠の拒絶、すべてが境界を通り過ぎることの発見。それゆえに、キャロルは、当初予定したタイトル『アリスの地下の諸冒険』を放棄するのである。 G・ドゥルーズ、小泉義之訳『意味の論理学 上』河出文庫、2007年、p.30上掲句「二の腕の内側に棲む深海魚」には、「脱衣場のアリス」ともつながりうるようなドゥルーズの語る「アリス」のありかたが示されている。「二の腕の内側」というふだんはひとにみせることのない「脱衣場」のような私秘的な空間でありつつも、そこに「深海魚」が「棲む」ことができるような〈深遠さ〉があるということ。しかしその〈深遠さ〉とは「二の腕」としての〈場〉であることをあくまでやめない多方向なアクセントをもった〈表層的〉な場であること。
ここで「二の腕」とはつねに〈だれかの〉「二の腕」でしかないことを想起してみよう。「二の腕」とは〈X〉が〈Xの〉「二の腕」としてそもそも所持している〈場〉ではあるのだが、掲句においてその「二の腕」は、「二の腕」を所持している主体とは別の主体=「深海魚」が棲まう空間でもある。句の構造も「(二の腕の内側に棲む)深海魚」と「深海魚」に句のすべての力点が集中するようになっている。二の腕を所持する主体の(二の腕の)なかに深海魚は棲んでいるわけだが、しかしその棲んでいる深海魚が句の構造を通して主体化されているのだ。これは実は住空間のなかに埋め込まれつつも、わたしたちによって常日頃から〈主体的〉に生きられる空間でもある「脱衣場」とアナロジカルに連動しているようにも思う。
「脱衣場」とは、住空間に埋め込まれた空間であり、その意味では他の居住スペースと隣接している。だからいつでもその領域は相互交通性のある往き来可能な場として存在している。しかし隣接しつつも、だれか「脱衣場」を〈使用〉している人間がいるときは、〈入ってはいけない〉というタブーが発現する領域もまた「脱衣場」である。脱衣場は誰かがそこに入り、脱衣しはじめることによって〈法〉が機能しはじめる特殊な空間である。〈入ってはいけない〉という、〈表層〉から〈一義的〉に離脱するようなタブーが発動するが《ゆえに》常にあちこちに接続するような〈表面〉の〈現れ〉として存在する空間。それは先ほどドゥルーズがアリスに関して述べていたような、穴に深く落ちることによって現れた〈深遠〉な世界でありながらもアリスが関わることによって〈表層的〉になっていく運動のありかたとも類似しているようにも思う。
二の腕に深海魚は棲みつく。それは二の腕を所持する主体がおそらく気がつかないままに見いだしている〈深遠/表層〉である。〈二の腕の深海〉としての「パラドックスは、深層の解任、表面での出来事の拡大、限界に沿った言葉の展開として現出する」(ドゥルーズ)。
だからその〈深遠/表層〉こそ、おそらくは「脱衣場のアリス」が「脱衣場」の〈外部〉へと走り抜けていくであろう〈抜け道〉でもある。
だが、抜けようとしたそのせつな、アリスはふたたび脱衣場に呼び戻される。だれに? 猫、に。
チェシャ猫に呼び戻される脱衣場 なかはられいこ
ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』においてチェシャ猫は笑いながら消え、消えながら笑うところに特徴がある。つまりチェシャ猫には、動作(消える)と動作主体(笑っている猫)が、起動しはじめたとたんに噛み合わなくなり、むしろ互いを〈解体〉しはじめてしまうといったような行為と行為主体をめぐる〈齟齬〉がある。しかし思い返せば、「脱衣場」自体も本来的にはそうした「チェシャ猫」的な〈場〉ではなかったか。「脱衣場」においてわたしは〈わたし〉のすべてを脱ぐ。しかしすべてを〈脱衣〉するということは、もしそれをだれかにみられたならば、その脱衣した姿を〈わたし〉のすべてとして引き受けねばならなくなるような〈場〉なのである。「脱衣場」とは、〈わたし〉がすべて解除される場でありながら、だからこそ、〈わたし〉をすべてひきうけねばならなくなるという、「消えながら(脱ぎながら=行為)」「笑う(ひきうける=行為主体)」ところに特徴がある。
簡単にいえばここで問われているのも「二の腕の内側に棲む深海魚」のような、〈ねじれた主体〉なのである。いや、インターテクストとして『脱衣場のアリス』に関与しつづける『不思議の国のアリス』という物語そのものがすでに発話主体と発話された言表のくいちがいが〈wonder〉になる世界なのだ。語り手は、語り手でいようとし自らの言表に忠実でいようとする限り、まっとうな発話主体になれない。それはどこまでいってもアリスが駆け抜ける〈深さとしての表面〉という〈ねじれ〉なのである。
しかし考えてみれば、川柳のダイナミズムは、おそらく、そこにあるのではないか。ねじれ、に。笑いながら、消えるところに。チェシャ猫、に。
川柳という言語表現は、そのときどきにおいて語り手としての主体をつきくずす。むしろ、そのつきくずしかたを定型を用いて言表するのが川柳のもつひとつの〈過激さ〉なのではないか。
発話位置を奪われた状態で発話位置を模索しつづけること。そしてその発話位置が発話したそのことによってすでに奪われてしまってあることをみもふたもなく確認してしまうこと。しかしそういうかたちでしか、発話位置を記述=言表しえないこと。
それが川柳という言語表現にまつわる〈脱衣場〉的主体なのではないだろうか。
そして、それはやはりドゥルーズが『不思議の国のアリス』の「帽子屋と三月ウサギ」について述べているような、〈時間〉を〈殺し〉てしまったせいで、常にふたつの方角(=意味)に棲みつづける〈脱衣場〉的主体なのではなかっただろうか。つまり、
現在は、過去と未来に無際限に下位分割可能なティー・タイムという抽象的な時期の中でしか存続してない。こうして、帽子屋と三月ウサギは、常に遅すぎたり早すぎたりして、一回で二つの方角に、決して時刻に間に合わず、いまや絶えず位置を変えることになる。 G・ドゥルーズ、小泉義之訳『意味の論理学 上』河出文庫、2007年、p.147
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