2007-08-19

「二秒後の空と犬」「裸で寝る」を読む(上)

第16号・柳×俳 7×7 「二秒後の空と犬」「裸で寝る」を読む(上)
遠藤 治・さいばら天気

なかはられいこ「二秒後の空と犬」7句 大石雄鬼「裸で寝る7句   →読む


四童
=遠藤 治 天気=さいばら天気
※以下の対話は2007年8月15日深夜、チャット機能を利用。ログ(書き込み記録)を微調整して記事にまとめました。

天気::まず、なかはられいこさんさんの7句「二秒後の空と犬」から行きましょう。いかがでしたか?

四童::意味の宙づり状態のあり方が俳句とはずいぶん違うようで面白かったです。

天気::
「意味の宙づり状態」、俳句でこのところよく使われる用語ですね。ひとこと、説明を。

四童::
散文的な意味の解決を持たず、ことばとことばがただそこにあり、読まれるのを待っている状態のことです。

天気::
明快です。俳句においては、「意味の宙づり状態」に価値を置く人々と、置かない流派の両方があります。なかはらさんのそれが、俳句のそれと違う。そう指摘されたのは、例えば、どういう点でしょうか?
ちなみに、雄鬼さんは、あきらかに前者。「意味の宙づり状態」に価値を置く派だと思います。簡単に言えば、「一読でわかる句」「意味の伝わりすぎる句」を避ける派。今回の7句は、どちらのタイプも入っているように思いますが、ひとまず、俳句全般との対比で話しましょうか?

四童::
俳句って、二物衝撃という技法をひとまず忘れてというのが、私などには難しいのです。雄鬼さんの句でいえば、「川 べ り の 川 の 見 え ざ り 行 々 子」とか「ペ ル セ ウ ス 座 流 星 群 や 裸 で 寝 る」みたいな作り方が、わりと誰でも容易に、あるいは安易にできてしまって、それが、そこから先に行き来するののバリヤーになっているような気がすることがあるのです。
なかはらさんの7句でいえば、だめ押しをするように意表をつく、という技法はどうでしょう。例えば、「ち ゅ う ご く と 鳴 く 鳥 が い る み ぞ お ち に」。「ちゅうごくと鳴く鳥がいる」というだけで、そうとう変です。

天気::
「みぞおちに」はダメ押し。よくわかります。

四童::
たぶん、九官鳥なのかも知れない。でも、なぜ「ちゅうごく」なぜひらがな、という次に「みぞおちに」が来るわけです。

天気::
「空 と 犬 と ち く わ が 好 き な ぼ く の 女 神」もそうですね。

四童::
その句に関していうと、主体の移動という、これまた俳句ではほとんど禁じ手の技を繰り出しています。この句と「母 さ ん は す で に こ こ ま で 紅 し ょ う が」の、たった二句のせいで、七句全体が、非常に不思議な世界に陥っています。「ぼくの女神」の句は、「ぼく」の立場で詠んでいるし、「母 さんはすでにここまで」は「母さん」の立場で詠んでいる。

天気::
詠む主体の問題。簡単に言えば、なかはらさんという(現実的には)女性が「ぼく」という主語を使う。なるほど、俳句ではあまりやりませんね。まったく違和感なく読んでいましたが。「母 さ ん は す で に こ こ ま で」は娘の立場と読みましたが、それはそれとして、句のなかの主体が、比較的自由。たしかに俳句にはあまりないことですね。

四童::
雄鬼さんの句は一貫して、デフォルトで雄鬼さんの視点で詠まれるわけです。

天気::
俳句は、多くの場合、そうですね。ただ、「空 と 犬 と ち く わ が 好 き な ぼ く の 女 神」の「ぼく」が、詠み手(なかはらさん)かというと、そんな感じがしないんです。不思議なことに。作者とは別の地点にいる「ぼく」がいる。ある種、小説として読める。

四童::
イコール作者でなくて、別の地点でもいいのですが、そういう自由度が俳句の場合、あまりないと思うのです。

天気::
ないですね。俳句における「作者デフォルト」のしがらみ?

四童::
「二 秒 後 の ワ タ シ に 水 の 輪 が 届 く」の「ワタシ」という表記についてはいかがですか。
天気::まず、違和感のなさを挙げます。「ワタシ」に必然があるように思える面白さ。俳句で「私」「ぼく」「われ」などの語が入ってくるのは、個人的に苦手なんです。ところが、この句は、ぜんぜん嫌じゃない。それが不思議。

四童::
そうですねえ、「俺僕私」を排し、しかもデフォルトの一人称は作者、というある種の俳句のスタイルはいつの時代に確立されたのか定かでないのですが、変ですよねえ。なんか、なかはらさんの句を読んでいると、俳句の変さが際立ってきますねえ。

天気::
俳句がヘンかどうかは別にして、俳句のルールに干渉されない五七五の可能性みたいなものは、満喫できました。

四童::
はい、大人のまとめ方です。

天気::
ただ、不自由さがあるとして、それを「俳句」の因習のせいにしてもつまらない。自由度が欲しいなら、それを生み出していくのは、俳句作者個人の課題という気がします。

四童::
はい。その点、川柳の師弟関係というか、技の伝承というのは、どのように伝えられてゆくのでしょうね。ひとりひとりの作家が自分独自の技法を持って、のびのびと作句しているように見えるのですよ、川柳の方たちは。隣の芝生なのかも知れないけど。

天気::
私には、川柳一般のことを論じる資格がない。だから、今回の7句について言うと、「ち ゅ う ご く と 鳴 く 鳥 が い る み ぞ お ち に」「空 と 犬 と ち く わ が 好 き な ぼ く の 女 神」の2句がとりわけ好きです。気持ちのいい虚構、あえて言えば、掌編小説のようなおもむきで、作者からも読者からも離れたところに浮遊している虚構のように読めます。それと「二 秒 後 の ワ タ シ に 水 の 輪 が 届 く」がいい。

四童::
「母 さ ん は す で に こ こ ま で 紅 し ょ う が」がこの句群に置かれた時の、言外に機能しだす若い二人の認め方も好きですけど。

天気::
句としての肌理が魅力的ですね。意味を宙吊りにした句(なんだかわからない句)は、俳人だろうがナニ人だろうが、作れますが、語のかもし出す肌理をきちんと操作することは、資質であり技術。そこにこそ作家性があるということでしょうが、その部分で、私は読者として、先に挙げた2句に、ずっぽりはまることができる。好きな音楽を、つべこべ言わずに、うっとり聞いている感じです。

四童::
音楽のようでもあり、スポーツのようでもあります。「い ま 視 野 を か す め て い っ た も の が 愛」「二 秒 後 の ワ タ シ に 水 の 輪 が 届 く」が並んだ時の、スピードコントロールの巧みさも好きです。

天気::
「い ま 視 野 を か す め て い っ た も の が 愛」は、ぜんぜんダメだと思っています。わかった気にさせすぎる。キャッチフレーズとして流通しやすい「意味の甘さ」がある。この一句は、なんでだろう?と思いました。きっと「愛」というとんでもないテーマだったので、「愛」という語も入れておかなければ、といった感じだったのかもしれません。

四童::
ダメさを配列が救っていると思います。連句でいうところの遣句という感じです。七句で勝負するところに、遣句、置くか、という気も、まあ、しますが…。

天気::
ところで、四童さんは、なかはらさんの句について、『WE ARE!』第5号(2002年10月)に書いていらっしゃいます。※記事はこちら→http://www.asahi-net.or.jp/~xl4o-endu/hajime.htm
その頃から、なかはらさんの句に変化はありますか? どう思われました?

四童::
あの頃よりも、落ち着いた印象を受けます。一句一句がぜんぶ意表をついていなくてもいいではないか、というゆとりのようなものを感じました。

(次号につづく)

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