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2017-10-15

【週俳9月の俳句を読む】秋はシュール  笠井亞子

【週俳9月の俳句を読む】
秋はシュール

笠井亞子


くちびるの縷々浮かびくる秋の川  豊永裕美

川に唇がつぎつぎと浮かんでくる景色とは、たいへんシュール。
シュール、唇、ときたらマン・レイの有名な絵画「天文台の時—恋人たち」を思い浮かべないわけにはいかない(鰯雲が見えるからこれも秋の風景だろう)。空に浮かぶ大きなマン・レイの唇は赤く生きものめくが、この句の「くちびる」は、魚に人間の唇を貼付けたようなどこかキッチュな味わい。そう思うと、ちょっとづつブツを動かしながらコマ撮りして作っていた、初期のアニメーションのようなぎこちない動きも見えてきて愉快だ。るるるる、とね。

はてしなき両替のごと滝壺よ  鈴木陽子

この「両替」の見立てはおもしろい。
滝は不思議だ。落ちようとする水、落ちてゆく水、落ちた水、とそれぞれに、あえて言えば性格の違いがあるような気がする。とすれば当然、滝壺に落ちてから上がってきた水にはいっそうの「別物」感が漂う。そこを「両替」と言ったのかもしれない。壺はもともと財産=金をあらわすのだし。「湯水のごとく」使うのもお金だし……。ただ、滝を見ていて両替は思い浮かべないよなあ普通は。掴み方がシュール。

こほろぎの草喰ふかほが目の前に  柳元祐太
  
作者はどこにいるのだろう。草を食べているのだから、虫籠のこおろぎには思えない。
何かの事情で草むらに倒れこんだ作者の目に、こおろぎが飛び込んできたというのか。それも全身ではなく「顔」なのだから、とんでもない大接近のはず。突然ぐぐっとクローズアップされるこおろぎの顔。あの黒くテカるメカニカルな質感を思うと、淡々とすすむ上五・中七のあとの展開はかなりシュールである。

階段も雲もテンペラ小鳥来る  森澤 程

テンペラとは、油絵の具が登場する以前、顔料と卵などを混ぜ合わせた絵の具で描かれた絵画のこと。おもに石膏の下地をほどこした板に描かれた。「ヴィーナスの誕生」「春」(ボッチチェリ)「受胎告知」(レオナルド)など。
「階段も雲もテンペラ」はかなり唐突感がある。が、試しに「油絵」や「水彩」を入れてみるとよくわかる。……なんとも決まらない。「テンペラ」。この一語で中世ルネッサンスのマットな光の質感や空気感が立ちあらわれる。そして階段、雲の上向きの視線の先に、そう、小鳥がやってくるのだ。

香水の文字の中まで入り込む  伊藤蕃果

この句の「香水」には揮発性より液体性を感じてしまう。
「香水という液体が文字の印刷された紙に吸い込まれてゆく」実景のようでもあり、「香りによって作者が文字(コトバ)に引き込まれているよう」でもあり、「香水という文字そのものに浸っているよう」でもあり。つまりプロダクトとして以上に、「香」「水」の文字が広げるイメージの力は大きいのだった。


豊永裕美 この町あの町 10句 ≫読む
鈴木陽子 あの町この町 10句 ≫読む
柳元佑太 土佐夕焼 10句 ≫読む
第543号 2017年9月17日
森澤 程 レモン捥ぐ 10句 ≫読む
伊藤蕃果 天象儀 10句 ≫読む

2016-10-16

【週俳9月の俳句を読む】笠井亞子 地名の持つ力

【週俳9月の俳句を読む】
地名の持つ力

笠井亞子



池田瑠那 「羊」

羊刈る仕上げの鋏しやりと鳴る

ぐんぐん毛を刈られていく羊。なされるがままのぼーとした瞳が印象的だ。
想像を越える量の毛の山は、着ぐるみを脱いだような感じだ。はたして羊本人は「さっぱりした」と思うのか、やっぱり「寒い」のだろうか・・・。うつろな瞳からは読めない。
巨大な鋏の音が、秋の空の高さまで思わせる。


玉田憲子 「秋服」

無花果に向き柔道着滴りぬ

部室の外に、柔道着が干してある景でしょうか。
滴るというからには、脱水不十分か洗いっぱなしか。
ただでさえ重そうな道着が、水を含んでぶらさがっている量感は圧倒的だ。
人気のない建物の裏で静かに滴る音を、無花果が受け止めている。


竹内宗一郎 「秋の海」

横須賀の秋乱闘のやうな波

喧噪の夏が終り、落ちついた季節が到来したはずなのに「乱闘のやうな波」だという。
台風や暴風雨のただ中の波だろうとは想像できるが、横須賀である。
ペリー来航、港、造船所、製鉄所、灯台、米軍基地、自衛隊、小泉家、山口百恵・・・。
地名の持つ力がひとつの単語を引き寄せたような、おもしろい句と思う。


今井 聖 「住宅地」

芙蓉もう一輪本の帯取れば

本に帯が巻かれて書店に並ぶのは日本だけのこと(たぶん)。
推薦文あり、出版社が熟考した売るための惹句あり、なかなか賑やかな構成になっている。
それをはずしたら、もう一輪あらわれたというのだ、カバーにあった芙蓉の花が。
ちょっとした驚きだ。うれしい。
箱をあける、紐をほどく、帯をとる・・・。ようするに「脱がせる」行為は根源的に楽しいものなのですね。



「澤」
池田瑠那 7句 ≫読む
冬魚 7句 ≫読む
「街」
金丸和代 7句 ≫読む
茸地 寒 7句 ≫読む
「街」
井上さち 7句 ≫読む
玉田憲子 7句 ≫読む

「澤」
岡本春水 7句 ≫読む
川又憲次郎 7句 ≫読む

「澤」
嶋田恵一 7句 ≫読む
望月とし江 7句 ≫読む
「街」
秦鈴絵 7句 ≫読む
竹内宗一郎 7句 ≫読む
「街」今井 聖 10句 ≫読む
「澤」小澤 實 10句 ≫読む

2016-04-17

【週俳3月の俳句を読む】笠井亞子 聴覚の逆襲

【週俳3月の俳句を読む】

聴覚の逆襲

笠井亞子


デモテープ  西川火尖

レコードの空転が始まる彼岸
花種に黒使はるる眩しさよ
漬物の張り付く小皿涅槃西風
凧手応へだけになつてをり
陽炎へるまで試聴機を再生す
クレソンをしつかり食べて壊しけり
端折りつつ話してみても蝶狂ふ
囀や鼻血ふつふつ湧く心地
春月の余熱のやうに口ずさむ
蒲公英や記憶正しいかも知れず


聴覚的な何かがコトバの契機になっているような句群である。
音的季語は多くなく、これらの句から感じる音は、行為の結果としての、クレソンを噛みくだく音だったり、端折りつつ話す声だったり、口ずさむ声だったりするのだが、それにとどまらない。レコード盤が空回る音や花種が掌の上で鳴らすだろうかすかな音、小皿から漬物を剥がす音や、鼻血となって溢れ出ようとする身体内部の血液の音、そして蒲公英がたてていた音の記憶は正しかったのだと誤読したくなるほど、なにやら全体からひたひたとせまってくるのだ。

すべての情報を「見る」ことで得ていると錯覚するくらい、われわれの日常は視覚偏重になってしまった。そのことに身体はそうとういらだっているのではないか。聴覚が身体を媒介にして逆襲したがっているような、うねりを感じさせる十句だと思う。

陽炎へるまで試聴機を再生す

試聴機とはCDショップなどに置いてあるプレーヤーのこと。ここにあるいらだちは切実だ。せきたてられるように何度も何度も再生ボタンを押してしまう。視覚をあいまいにしてしまいたいというはげしい衝動!

先日ジョルジョ・モランディという、ほとんど静物画しか描かなかったイタリア人画家の展覧会へ行った。
「実際に見ているもの以上に、抽象的で非現実的なものはない」
哲学者や思想家ではなく、同じような瓶やコップを、日々少しずつ配置換えしながら生涯描き続けた画家のこの言葉に、頬をピシャリと張られたような気がしている。


渡部有紀子 あがりやう 10句 ≫読む
永山智郎 硝子へ 10句 ≫読む
西川火尖 デモテープ 10句 ≫読む

2015-02-08

【週俳・2015新年詠を読む】あらタマる  笠井亞子

【週俳・2015新年詠を読む】
あらタマる

笠井亞子


にんげんにふぐりあること初笑   松本てふこ

<ふくらみがあって垂れているものをフクロ・フクリといったのだろう>
「ふぐり」を引いたら広辞苑にまずそうあった。

種(しゅ)を継続させるための大もとである、文字通りの「タネ」を製造・貯蔵するのに、袋入りにせよ外部に露出する形態というのはあまりにも無防備ではあるまいかなどとも思うが、何か生物学的理由があってのことだろう。

このうえなく大事なふたつのタマを維持するための機能のすばらしさ(たとえば温度変化に対応しての伸縮など)について、丁寧な説明を受けたこともあるが・・・。

そりゃあわかりませんよー 身体の中心にこのようなフラジールなものが下がっている感覚など。持たぬ側の作者もわたしも、たのしく想像するだけであります。

にんげんの半分には付いている(のだなあ)「ふぐり」について、年頭から考えさせてくれたこのおおらかな句に初笑い!


新玉のmailのメーも御慶かな   高山れおな

新たな年に届いたメール。干支の鳴き声も入っておチャメーな仕立てだ。

真価が発揮されていないというイミの「あらたま」もふくむし、「玉(ぎょく)」の意味合いもおのずとあるので、メールの出し主が若い女性のような気がしてしまう。とすれば、女性がこれからどんどん磨かれてゆくという「お慶び」かも。


てのひらに遠き手の甲年明くる   山田露結

手の仕事はすべて、てのひら側がやっている。それにひきかえ・・・。そんなことを言いたいわけではないだろう。
たしかに、料理人が手の甲に乗せて味見するなんてこと以外に、手の甲の仕事は思い浮かべられない。

しかし、この「遠さ」はそんな理屈をこえてよくわかる。
なぜだろう。

身体の背と腹のような表裏の感覚とも違う。

両者の間にあるものとは、たとえば東へとことん進んで行けば、やがては西に行きついてしまう、そのような遠さ、あるいは近さなのではないか。
これはもう丸い地球の上ならではの感覚と言っていいのではないだろうか。


太陽(ひ)の貎がきのうのかおと異うのよ   金原まさ子

年明けて見る太陽のようすが去年とはあきらかに異なるという。このようなスケールの感慨。太陽暦世界の中心である大タマを「お隣りのひー嬢」のごとく呼ぶ作者の君臨ぶりがみごとに女王様である。(まさ子句に、まれにあらわれる語尾「だな」が王様的なら、この「のよ」は女王的)

あらゆるものを玩具化し文様化するまさ子ワールドは、今年も絶好調なのだ。


繭玉に夜のマネキン人形が   鴇田智哉

繭玉は豊作祈願の餅花の一種。ほんものの繭を使うと思っていたら、米粉などを丸めてつくるらしい。
その白い玉にマネキン人形がどうした、ともこの句は言っていない。正月飾りをほどこしたウインドウディスプレイの実景にも見えるが、夜である。

繭からつむぎだされた繊維をまとい、人工的な光を浴びた人間のニセもの=マネキンは何を見ているのだろう。
繭玉のさなぎは感応して振動を始めてはいないか?

人形が夜どのようであるかは、そう、誰にもうかがいしれない。


≫2015新年詠
http://weekly-haiku.blogspot.jp/2015/01/402201414.html


2014-10-05

〔今週号の表紙〕第389号 鰯雲 笠井亞子

〔今週号の表紙〕
第389号 鰯雲

笠井亞子


でんぐ熱の原因である蚊がみつかったため閉苑が続いている新宿御苑の空です。

鰯雲・鯖雲・鱗雲。

どれも似ているようで違いがきちんとある。

鰯雲が出ると鰯が大漁になるという説もあるらしい。

そういえばサンマのおいしい季節になりましたね。



週俳ではトップ写真を募集しています。詳細は≫
こちら


2014-08-24

週刊俳句・柳俳合同誌上句会 2014年8月

週刊俳句・柳俳合同誌上句会 2014年8月

10名様参加。5句選(特選1句・並選4句)。≫投句一覧


参加者

〔柳人〕
飯島章友
きゅういち
清水かおり
なかはられいこ
八上桐子

〔俳人〕
相子智恵
笠井亞子
谷口慎也
鴇田智哉
中村安伸


【砂】

このへんがたぶん砂場の性感帯  飯島章友
○谷口慎也
○きゅういち
笠井亞子
○清水かおり
■砂場のとらえどころのない重要なポイント、を言って妙味。(清水かおり)
■砂は変幻自在にして官能的。砂場にそれを発見した作者の嬉しそうな顔がまず浮かんだ。「このへんがたぶん」という間の持たせ方も狡猾。(笠井亞子)
■「砂場の性感帯」を見つけた時点で完成をみたであろう句、「このへんがたぶん」に冗長さとものたりないものを感じたのだが、かえって言い過ぎぬ姿勢が句を立たせたか。(きゅういち)
■手のひらに触れるくすぐったい砂の感触が〈性感帯〉という言葉を導き出した。〈たぶん〉にはその言葉に対する作者の含羞を見てもよいが、この措辞によって一句は、程良い調和を伴った愛らしいものとなっている。(谷口慎也)

ちょっとした砂丘になって待っている  なかはられいこ
◎谷口慎也
◎鴇田智哉
○中村安伸
○相子智恵

■待っている間に、自分が砂の溜りになってゆき、小さな砂丘になったということだろう。そのとらえ方が面白い。
演劇か何かの開演を待っているのかとも思ったが、そうではないだろう。〈ちょっとした〉という軽い言葉遣いからは、人を待っている感じがするからだ。〈ちょっとした〉という言葉に、親しみのある相手に対する軽い「抗議」の感じがあるのである。漫画における、「いらだち・怒り」の表現として、額に十字路マーク(?)が出るというのがあるが、主人公は額にあんなマークをつけたまま、にっこりと相手を迎えたのではないか。(鴇田智哉)
■〈ちょっとした砂丘〉の言い回しが軽妙かつ洒脱。同時に〈砂丘〉が「待つこと」にまつわる期待や不安感のようなものまでも表出している。多くを語らず多くを感じさせる理想的な一句である。(谷口慎也)
■なんだか暑そうな場所で、相手にずいぶんと待たされているのかもしれません。
待つうちに、相手に対する心が乾いていく。「ちょっとした砂丘」が絶妙な距離感のように思いました。(相子智恵)
■砂丘という隠喩で心中の渇きを示すのは、やや常套的といえなくもないが「ちょっとした」のキュートさに惹かれた。(中村安伸)

■約束の一分前もしくは一分後くらいかしら。(飯島章友)
■ちょっとした(小)砂丘(大)でも砂丘は足を踏み入れると・・私達は作品の中で何かになることが多いが砂丘になるのは新鮮な感覚。(清水かおり)


顎を手に乗せる身内の砂が降る  きゅういち
○鴇田智哉
○中村安伸

○飯島章友
■身内は「からだの内部」や「からだじゅう」の意と、「家族」「親族」の意があります。しかし、無理がないのは前者の「からだの内部」の意味だと思われ、そうだとすれば「顎に手を乗せ」て苦慮することが「砂が降る」を導き出す措辞になっているのではないでしょうか。(飯島章友)
■何気ない動作と心象を重ねた。「落ちる」や「こぼれる」でなく「降る」を選んだのは、物思いの継続することを示すのだろう。(中村安伸)
■〈身内〉は〝からだの中〟という意味でとった。自分の〈顎〉だろう。つまり頬杖のような状態だ。しばしの放心。全身がシルエットになったかのような感覚に近いのだが、そのシルエットが石の塊のように静止したものでなく、降る砂であるところが面白い。均質でありながら動いている。(鴇田智哉)

■頬杖のことを「顎を手にのせる」と言っているのか、もっと想像力を働かせると、身内の誰かの葬送の一場面までも浮かんでくる(清水かおり)

砂こぼす月に目じりのようなもの  谷口慎也
○なかはられいこ
○八上桐子

○相子智恵
■三日月でしょうか。砂は月が流した涙のようで、幻想的な句だと思いました。(相子智恵)

■古くから「月の顔」と言われてきたように、月は顔だ。けれど、その目鼻は定かではなく、見るものが描き入れる。目じりさえあやふやなままに、確かにこぼれ落ちる砂。しずかな息づかいの迫る月から、目が離せなくなってしまった。(八上桐子)
■本来は「砂こぼす」で切れていると読むべきなんでしょうか。私は「砂こぼす月 に」とつなげて読みました。黄砂とか飛んでる真昼の白っぽい月か らま るで涙 のようにこぼれる砂。月に目じりをみつけたところが好きです。(なかはられいこ)


砂のなかのきみは砂鉄やぼくは砂金
  中村安伸

砂めくれあがり揚羽の浮びたる  鴇田智哉
○谷口慎也笠井亞子
■実景ともとれるムリのないシュールさがある。砂の劇場を見ているようだ。(鳥取砂丘を背景に作品を撮り続けた写真家のことを思う)「浮びたる」が揚羽の登場を格調高くしていて印象的。(笠井亞子)
■砂場でも海辺でもかまわないが、〈揚羽〉はまるで潜水艦のように浮上してくる。普段の何でもない生活の中でこういう「突然」にはよく出くわすものだ。しかしそれらがこの句のような言葉で表出されるとき、一句は虚実皮膜の不可思議さを醸し出す。(谷口慎也)

■砂→揚羽という発想は好きです。(飯島章友)
■時空を越えて現れた揚羽はその頃のせつない想いを留めている。砂はめくりあがるものなのかと妙に納得を誘う作品。(清水かおり)


上空の砂なら多民族でした  清水かおり
○飯島章友
■上空の砂「なら」多民族と言うんですから、一民族の地に住む人間が上空に舞ってきた砂を仰ぎ見て、多民族共生社会に思いを馳せた句かも知れません。しかし、たとえば中国大陸内陸部で発生する黄砂は他民族に健康被害を引き起こす困った物質ですし、また社会的なことを言えば、移民との軋轢の問題は多くの国が抱えています。上掲句からは多民族性が内包する憧憬と辛さとを感じます。(飯島章友)

■面白い句だと思ったが、しばらくすると「上空の砂=多民族」の意味的な構図が目立ってきて、一句はそこから動かない。この簡潔な断定を惜しいと思ったので、敢えて抽出してみた。(谷口慎也)

朝のシーツにランゲルハンス島の砂  八上桐子
◎清水かおり
◎笠井亞子
◎中村安伸

◎飯島章友
○きゅういち
○なかはられいこ

■朝のシーツとランゲルハンス島は現実物、そこに砂が合わされると幻想と現実のあわいが出現する。思わず手をぎゅっと握ってしまう。村上春樹の小説世界にごく自然に繋がっている作品。(清水かおり)■夢の中で訪れたビーチの砂が寝床に残されているという幻視と、その砂浜が「ランゲルハンス島」のものだったという言葉の遊戯。
臓器に「島」と名づけた語の喚起力によって、二重の跳躍が可能となった。(中村安伸)

■「砂」という言葉をつなげただけで「ランゲルハンス島」の意味が全く変わってしまう詩的面白さ。また、膵臓は実際に胆砂ができてしまうこともあるそうで、リアリティーをも感じます。(飯島章友)
■ランゲルハンス島というと複雑なイメージになりがちな所、「砂」という限定のお陰で、なんだかポップかつシュールな一句となった(ランゲルハンス島というのが実在の島で、ヴァカンスに出かけていたかのような)。
季語は無いけれど夏の朝の感じが横溢。バックには『マルタ島の砂』が流れている…。(笠井亞子)

■村上春樹と安西水丸の「ランゲルハンス島の午後」というエッセイ集を思い出し ました。夢のなかの出来事が、砂によって実体化されたようにみえ ておもしろ いと思いました。でもよく考えたら、マズイいんじゃないでしょうか、そこの砂 は。病院で検査してもらうことをお勧めします。(なかはられいこ)
■掲出句は特選にも押せるのではないかと感じ入ったが、「ランゲルハンス島」は膵島との意、意味を調べた小生に非があるのだが、急激に句の神秘性が薄らいでしまった。(きゅういち)


熱帯魚吐きたる砂や砂に落つ  相子智恵
笠井亞子
■魚の口から吐かれた砂が水槽の底へ落ちていく、それだけのこと。
そのスローモーションじみた景はしかし「夏の時間」をひどく意識させる。(笠井亞子)


蒟蒻は砂の模様ぞ南風吹く  笠井亞子
○鴇田智哉
■まず、蒟蒻のあの色合いを〈砂の模様〉と言ったことで、一瞬、乾いた状況が浮かんでしまう。これは、食べ物である蒟蒻の印象としてはマイナスだ。食べ物としての蒟蒻の命は水分だと思うが、その逆のイメージだからである。〈砂の模様〉は、はっきり言って、おいしそうではない。だが、〈南風吹く〉と景色を広げたことで、その〈南風〉が雨雲をはらんだ湿気のあるものであるような気がしてくる。〈蒟蒻〉という奇妙なもの。そのありようを、どんよりとした質感でとらえているところが面白い。農産物である蒟蒻の、素朴な質感があると思う。(鴇田智哉)


【本】

エロ本をしぼればにおう鎮守様  きゅういち
○なかはられいこ
■「エロ本」と「鎮守様」の取り合わせが新鮮でした。性的なものと祭祀って無理 なくつながるようにも思えます。「エロ本」という俗っぽい言葉も 「しぼれ ば におう」という中七(しかもひらがな表記)でによって、柔らかくて水っぽくて 生々しくも神聖なものに変体してて、そこもおもしろかったです。(なかはられいこ)

■鎮守様の御座す神社、昔の村落共同体であればあんな事やこんな事の場になっていたかも知れません。(飯島章友)

永き日のひとつでありぬ古本屋  谷口慎也
○相子智恵
■春の日永。日差しのやわらかい景色の中に、古本屋ものどかに佇んでいる。古本屋というのがいいなあと。(相子智恵)

■良質な邦画のような句。(飯島章友)

逝く夏の線一本の星座かな  相子智恵
■流れ星・・だろうか。「逝く」の措辞がさびしい。(清水かおり)

転写本だからワサビも添えておく  飯島章友
○清水かおり
■転写本に何かを加味すると転写本といえなくなるかもしれないが、あえてワサビを効かす発想の面白さ。転写作業に辛みや風味を効かせたいと思う主体の情熱がいい。
「だから」と気の抜き方が絶妙。(清水かおり)


豆本をつまむ守宮をつまむように  笠井亞子
○鴇田智哉
○中村安伸
■守宮を対比させたことにより、豆本のもつ奇妙さ、ものめずらしさ、デリケートさがクローズアップされ、腑に落ちた。(中村安伸)
■動詞にはいろいろニュアンスがあって、「つかむ」というとかっこいいけれど、「つまむ」というとちょっとオドケた感じがする。「ひょいとつまむ」の「ひょいと」みたいなニュアンスが、「つまむ」自体に備わっているのだ。で、この句は、その〈つまむ〉の感覚がよく出ていると思う。
ところで、(俳人の性として申し訳ないが、)〈守宮〉が比喩として使われているため、厳密にいうと無季の句となっている。〈豆本〉と〈守宮〉を入れ替えて有季の句としても、内容けっこう面白い。でも、原句も面白い。
結局、〝〈守宮〉を持ったときに〈豆本〉を思い出す感覚〟と、〝〈豆本〉を持ったときに〈守宮〉を思い出す感覚〟のどちらが面白いか、ということが問題である。面白さでいえば、どちらも同じぐらい。でも、二者のどちらであるかによって、作者のキャラクターは結構違う。
この作者は、〝〈豆本〉を持ったときに〈守宮〉を思い出す感覚〟の方の人なのだ。仮に無季であろうが、作者がそうなのだから、こちらでよい。(鴇田智哉)

■守宮をつまんだことはないが、「つまむ」で豆本と守宮を同列した作者のユーモアを感じる。(清水かおり)

本よりも眩しく蟻の地がひらく  鴇田智哉
○清水かおり
■蟻地獄は時にパラダイスかもしれないと思う。「眩しい」に人間深層心理が言いつくされている。(清水かおり)

■本の活字と蟻との類比か。寺山修司を想いました。(飯島章友)

本降りになって桃缶買いに行く  清水かおり
◎相子智恵
○谷口慎也

○八上桐子
■「本降り」と「桃缶」の偶然の組み合わせが好きでした。
桃缶、よほど食べたかったのですね。缶の中の、シロップでずぶぬれの桃缶の桃と、本降りの中の自分がシンクロします。
雨は決して冷たくなく、シロップのようにまとわりつくようです。(相子智恵)

■「そんなヤツおらんやろ」と、まずは突っ込んだ。ところが、いる気がしてくる。にしても、桃缶。どうしても食べたくなるか?重いし。が、そんな日が来そうな気がしてくる。いえ、来て欲しい気すらしてくる。なつかしい衝動が、呼び覚まされたのだ。そんな日はあったのだ。(八上桐子)
■〈本降りになって出て行く雨宿り〉という古川柳がある。これは他者に対する揶揄。だが〈桃缶〉となれば話は別。一方で、三鬼の〈中年や遠くみのれる夜の桃〉があり、併せ読めば、それが「缶詰」であるというところに一種の滑稽とそれに伴う哀感さえ覚えるのだが、やや読み過ぎか?(谷口慎也)
■たとえば刺身を食べようとしたとき醤油がないことに気づいたら、これは即刻買いに出掛けざるをえません。でも「桃缶」という嗜好品は醤油ほどの必要性を感じない。要するに、私的な拘りで思い迷っている内にとうとう「本降り」になってしまったという顛末。パイン缶や蜜柑缶に比べ、桃缶には蠱惑的な何かがありそうです。(飯島章友)

本体を待っている間のくすりゆび  なかはられいこ
○きゅういち
○中村安伸
■朦朧とした書き方なのでさまざまな解釈が可能だが、本体に先んじて届けられた付属品をくすりゆびでもて遊んでいるのだと読んだ。
待つ心情が指に投影されてエロティックな風情もある。くすりゆびも本体というよりは付属品に近いものだろう。(中村安伸)

■どこかに漂うエロス、おそらく「くすりゆび」の持つ一般的なイメージによるものではないかと感じるが・・・一部分が全体を待つという大きな世界観が凝縮されている。(きゅういち)
■この「くすりゆび」が仮に左手薬指なら愛の証である指輪を待っている状況かも知れませんが、そのばあい「本体」という言葉はどうもしっくり来ない。「本体を待っている」という措辞からは、まるで義肢としての薬指が本体を待っている雰囲気があります。(飯島章友)
■これはもう小川洋子の「くすりゆびの標本」以外のシーンは浮かばない (清水かおり)


葉桜の独逸の本屋めく晩夏  八上桐子

冷房やひねもす本を抜きつ挿しつ  中村安伸

【音楽関連】

アサガオノカスカナカオススガシカオ  八上桐子
◎なかはられいこ
○きゅういち

笠井亞子
■一瞬でがっちり掴まってしまいました。この句に裾を掴まれてしばらく身動きで きませんでした。ふつうに漢字とひらがなで書かれた句と比べて、 すべてカタ カナで書かれものは、目から脳に至る時間にどれほどの差が生じるのでしょう。 最初、カスカスとか、カオナシとか、スカスカとか読み 間違えながら「かすか なカオス」にたどり着いたときには、作者に嫉妬すら感じました。一句まるごと カタカナというのも新鮮ではありますが、た だそれだけではない、そのうえ間 違ってもキワモノなんぞとは言えない、詩的完成度の高い一句だと思います。(なかはられいこ)
■カタカナ表記、音韻の繰り返し等句自体に音楽が流れるようで遊び心満載、作句自体を楽しむような句姿に思わず「まいった」とつぶやいてしまうが「カオス」がいかにもの感。(きゅういち)

■イミよりまず読みをうながすカタカナの力を十全に生かした句。17文字が、数えてみれば「アオカサシスナシ」の8文字で構成されている。
朝顔にある微かな混沌も、その(カスカスとした)リズムに乗ると、からっとしていて楽しげに見える。元々カタカナ表記である名前の力も大きい。(笠井亞子)

■カの力技! (清水かおり)

アリランを乙女と乙女口移し  清水かおり
◎八上桐子
■ぷるんとふくらんだくちびるが、くちびるを真似て歌うアリラン。ゆっくり吐き出される一音、一音が、甘く切なく溶け合ってゆく。「口移し」は性的イメージにも働くが、官能を超越した“気”の交感を感じさせる。一句に凝縮された、プラトニックなエロティシズムに陶然となった。(八上桐子)

■「アリラン」「乙女」「口移し」という言葉の美的関係性と、a音・o音・u音の韻がよい。(飯島章友)

ドラムロール西瓜落下の映像に  中村安伸
○なかはられいこ
○相子智恵
■変な映像にドラムロールが付いて、なんだかおかしくて、もの悲しい。どんな番組か気になります。(相子智恵)
■結果が惨事となることがわかっていながら、期待してしまうのが人間の哀しいサ ガですね。とか、西瓜だから気軽に言えるわけですが、地に激突し て、ぐ ちゃっ てなった赤から、いやでも想像できてしまうものがあって。ひとの意識 下にある残酷な部分を引きずりだすような、ちょっと怖い句な気がします。(なかはられいこ)
■ドリフのごとし。(飯島章友)
■永遠に続きそうなドラムロールは時間の流れを遮断するような感覚がある。西瓜の落下でもドラマティックな人生の一ページに為り得る。(清水かおり)


はんざきの歌声ありて水の音  笠井亞子
○八上桐子
○飯島章友
■「歌声」という言葉が「はんざき」と「水」を仲介し融合させる働きをしていると思います。歌は通常、楽しいから歌うものだと思いますが、はんざきが歌っている川はさぞかし澄んでいるのでしょう。(飯島章友)
■「はんざきの歌声」に意表を突かれるが、そこはまだ半信半疑。下5の「水の音」でせせらぎに変換され、一気にリアリティーを帯びる。せせらぎは歌いつづけ、透明な歌声が私を通過してゆく。はんざきに歌を授けた、作者の詩心に感謝したい。(八上桐子)


竿竹にCD盤と風鈴と  相子智恵
○鴇田智哉
■CDがぶら下がっている光景は、見覚えのある風景として定着しているだろう。あれは何を除けているんだったか、鳥? 猫? それはそうと、〈風鈴〉もぶら下がっているんだが、別に風流でも何でもないし、〈竿竹〉も竹じゃないし、きわめて味気ない風景が、「音楽」という題に対してちょっと面白かった。(鴇田智哉)

■「CD盤」がテクストにおけるちょっとしたクビレになっていますね。(飯島章友)

縦笛のかつてキリンであった跡  飯島章友
○谷口慎也
○きゅういち
■「縦笛」と「キリン」の共通項を読者へ無意識にイメージさせる仕掛け、一句の中に輪廻に通じる時間軸をも織り込みふわっとした読後感をいただいた。(きゅういち)
■〈跡〉にやや難点。それでは一句が閉じてしまうという思い。だが、〈縦笛〉が〈キリンであった〉とはよもや誰も思いつくまい。その直観・直覚に賛同。(谷口慎也)
■縦笛のあのボコボコとしたシルエットはキリンだったのかと納得する。(清水かおり)


上向きにすいつちょの声反りあがる  鴇田智哉

大蓮のまわり音楽止みにけり  谷口慎也
◎きゅういち
■流れていたであろう「音楽」が「大蓮」の回りのみから消える。大きな時間軸を感じさせ、なにも語らずその空間の持つ質感を端的に言い表している。(きゅういち)


帝国の鋪道の音の無いダンス  きゅういち
○飯島章友
■帝国と言っても伝統や慣習を大切にし、民の生活の自由を守って国を治める帝もいますが、上掲句の帝国はそうでない雰囲気を感じます。「音の無いダンス」という具体でこの帝国の様子を想像させる手柄。(飯島章友)
■音のないダンスが国家の持つ危うさをうまく表現している。(清水かおり)


立秋の金銀パールプレゼント  なかはられいこ
○八上桐子
○清水かおり
■思わず口ずさむ。洗剤のCMソングでこの半世紀中一番の印象深さだったフレーズからは、まず「主婦」を連想させる。残暑厳しい「立秋」に何がしかを思いめぐらす姿を詠んでいる。
庶民の小さな幸せと憂鬱が簡潔に同居する作品。(清水かおり)
■「立秋の金銀パ」まで読んだところで、あのメロディになった。立秋と読むだけで空気の澄むような、気温が2度ほど下がるようなイメージに、ソプラノの軽やかな響きがピタッと重なる。金、銀、パールのそれぞれの光も、秋を感じさせる。それにしても、金銀パールがよく出てきたと思う。(八上桐子)


以上・全30 句

2014-03-09

【週俳2月の俳句を読む】笠井亞子 ひとつわかったのは

【週俳2月の俳句を読む】
ひとつわかったのは

笠井亞子


髪に挿しまだ息をしている椿
  原知子

さりげなく非日常感覚をとらえようとしている句群。

その中でこの句は、椿の、無表情でありながらなまなましい生態をうまく表現していると思った。

挿している女性にはフォーカスされず、視線は椿へと…。

枝から離れてなお、花単体として自己主張するのは椿が随一かもしれない。


使わないエスペラント語猫の恋  加藤水名

エスペラント語は、1880年代ユダヤ人ザメンホフによって創案された言語(人工国際語)である。十六か条の簡単な文法を習得すれば、誰でも日常的な読み書きができるという実用性と、民族の対立が激しい中理想にかかげた「国際平和主義」が支持され、日本でも学会が設立された(今日まで続く)。当時は大いに波及したらしい。

とはいえ、今日われわれが思いつくのは、宮澤賢治のイーハトーヴォやモリーオ…など独特の名詞群くらいかもしれない。賢治のエスペラント語熱はかなりはげしかったと聞く。(羅須地人協会の講義にも)

そのエスペラント語と、いつの世にも変わらぬ、切実奔放な恋猫の声をとりあわせている。どちらが強調されているわけでもないが、悲惨な争いを避けるよう人間が創意工夫したコミュニケーション言語より、猫の求愛手段の方が普遍的であるといった、人間のむなしさのようなものも感じさせる。

そう、そしてわたしたちは戦争を止めることができないというわけだ。


春大根口を利かなくなつた妻  瀬戸正洋

なんでしょう、この読後感。覚え書のようなスケッチのような。

俳句的陰影の拒否っぷりがすごい。一句についてなにかを言いにくい句柄と言えばいいのか。じゃあなぜこの句を取上げたかと言えば、一番俳句っぽかったから。いや、内容が切実だったからか。

不勉強で作者を存じ上げず、たまたま所属される『里』の最新号(2014年3月号)を拝読する機会があり、その特集「瀬戸正洋『B』に赤いちゃんちゃんこを着せる」と、つづけて『週刊俳句』の(信治さんの素晴らしい論考など)記事を読んだ。

付け加えることはないなという脱力感におそわれつつ…。

ひとつわかったのは「これはパイプではない」、あっ間違えた、「これは俳句ではない」という俳句なのだということ。


知床は神の屛風雪重ね  広渡敬雄

神(カムイ)の屛風という把握が壮大だ。読むものの脳内にくっきりと、真冬の知床半島が立ち上がってくる。真っ白にそびえたつ荘厳なその量感。断定のあとに「雪重ね」と続けたことで、時間の堆積も物理的重厚感に加担することとなった。

このように、つい「鳥瞰的」な見方をよびさますにはいられない北海道の自然。写生であるのに強い幻想性を帯びてしまうその他の句を見ても、わたしのように都会の周辺ばかりをうろつき一生を終える(だろう)者には、(陳腐な感想ながら)なんとも日本列島は多様なのだと思える。

十句を吟行句と知らずに読むと、その強烈な風土性にまず圧倒されるが、「流氷に乗ってみたしよ海豹と」の句で旅行者目線が少しこぼれ出たという感じか。



第354号 2014年2月2日
内藤独楽 混 沌 10句 ≫読む
第355号2014年2月9日
原 知子 お三時 10句 ≫読む
加藤水名 斑模様 10句 ≫読む
第356号 2014年2月16日
瀬戸正洋
 軽薄考 10句 ≫読む

第357号 2014年2月23日
広渡敬雄 ペリット 10句 ≫読む
内村恭子 ケセラセラ 10句 ≫読む

2013-03-10

【週俳2月の俳句を読む】笠井亞子 淡きもの


【週俳2月の俳句を読む】
淡きもの

笠井亞子



煙るような目をしていたり梅咲いて 皆川 燈(以下同)

寒夕焼から国境がこぼれおちる

日本水仙ささやくときは首くいと

東風に吹かれて薄薔薇色の墓の辺へ

はずんで孤独いつまでもシャボン玉

水温むと今日エウロパより便り

巣立ったら槐の枝へ行くつもり

﨟たけて千年のちも苦蓬

かげろいて手を振りあいて同胞

記憶夢淡きもののみ咥えくる


皆川 燈 千年のち


十句にタイトルをつけ作品として提出する場合、近作からのアトランダムな選であれ、やはりそこには編集ということが働く。となれば著者の並べ方にも意図を探りたくなる。とくにこのような句群であるならば。

このスモーキーな十句から浮かび上がる世界をどう読んだらいいだろう。

この淡さはしかしわざとピントを甘くしボカシてあるわけではない。すべてのものが時空間のくびきから自由になっているような、遠近感の喪失した世界。光量が足りないのか、あるいは多すぎてハイキーになった写真のようにも思える。ともかく影の印象が希薄なのだ。そして東西も古今もほどよくないまぜにされている。事物はなめらかに接合され、親しみのわく、どこかなつかしさをおぼえる世界がしたてられている。

十句のなかの一句として見ると、日本水仙と限定されても、西洋人の長い首が交差しささやきあっているうなじを、なぜか想像してしまう。東風に吹かれていく先の墓地は中東の遺跡のようだし、エウロパは神話の人物や木星の衛星と読んでもおもしろいが、知り合いのエウロパさんのような気がする。鳥たちが元気に巣立って行く先は、中国で昔から尊重されてきた、かの槐樹なのですね。
そう、国境はあらかじめ「こぼれおちて」いるのだった。
駘蕩とした気分で読みすすんでいくとぶつかる

靄たけて千年のちも苦蓬

苦蓬は、葉を干して防虫剤として使うほか、リキュールのアブサンやチンザノなどの添加物として有名だ。学名エルブ・アブサントは聖なる草を意味する。
英名はエデンの園から追放された蛇の這った後に生えた、という伝説があるらしい。不勉強な者の安直な調べ方からも、この植物のイメージ喚起力の激しさはうかがい知れる。なかでも、近縁種のオウショウヨモギはウクライナ語で「チョルノブイリ」といい、原発事故のチェルノブイリ周辺に自生し、地名ともなっているという記述にはうなった。
著者の意図がどの辺りにあるかはわからない。千年というキリスト教的スパンを思えば、くりかえしエデンは出現し、くりかえし人類は罪を犯すということか。
もしかしたら、激しい別離を暗示するかもしれぬ同胞との手の振りあいも、ここでは遠く前世のできごとのようにかげろいの中だ。
「煙るような目」をしていたのはやはり作者だったのだ。そして、それら淡きものたちを咥えた小動物(たぶん)が種明かしのように登場して終る。
作者は、そう、永遠にシャボン玉を吹いているのでしょう。
無時間をたゆたうような、読むことのぜいたくを味わえる十句である。


第302号 2013年2月3日
竹岡一郎 神人合一論 10句 ≫読む
宮本佳世乃 咲きながら 10句 ≫読む
第303号 2013年2月10日
照屋眞理子 雪の弾 10句 ≫読む
第304号 2013年2月17日
皆川 燈 千年のち 10句 ≫読む
第305号 2013年2月24日 
中原道夫 西下 12句 ≫読む 
岩田由美 中ジョッキ 10句 ≫読む

2012-08-12

【週俳7月の俳句を読む】笠井亞子 全部子どもの中に 

【週俳7月の俳句を読む】
全部子どもの中に


笠井亞子


もようがえ   御中虫

はつなつのとびらはづしてもようがえ
てはじめにふすますてますかあをいねこ
しちがつなのかかべはどうしてあるのかな
あおいあさがおらせんかいだんくみたてる
ゆかいたつきぬけてんじょうぶちぬきひまわりどっかん
すぺーすすぺーすだいじなものはなにもない
せんぞのはかはたぶんもえないごみだろう
りびんぐはみんぐはなうたとまらぬあをいこいぬ
ねえもおすなおにわたしのよこでねむったらあ?
もようがえおえしをとこをおりたたむ


この十句。見事なまでに一枚の模様になっているなあと感心した(老眼も手伝って)。表意文字である漢字を使わないだけで、あっという間に可読性というものは落ちる。たとえば、二句目の「あを」というコトバも、かなの海を泳いで行って、たどりつくまでは「ねこ」の色だと解らない(それ以前に、あを=青であることさえ不確かだ)。用心深く、頭からゆっくり読んでいかざるをえない。

俳句は短く、(多くは)一行だから、ともかく要素としての漢字が目にとびこんできてしまう。それは「イミ」を理解することとほとんど同時だ。このぐにょぐにょのたうつ「かな」の十句は、イミよりも前に、一字一字を一音一音読ませることがしかけられた作品なのだ。

そう、なんのことはない、子どものように読めと言っているのである。そう思うと、無季もあり、表記がばらばらだったり文語や口語が入り交じっていることさえ、なにやら楽しくなってくる。若さも韜晦も、甘えも皮肉もコトバ遊びも、全部子どもの中にあるとでもいうように。俳句にも、このような実験的方向があると思えるのは愉快だ。


空白の行を涼しく挟みをり   小池康生

空白であるのも行、空白を作っているのも行。ネガポジのポジがこの場合空白なのである。その把握がクール。

甘藍の一葉毎に厚き芯   同

このように表記されると、キャベツは何か建造物のように思え、芯はさながら壁をささえる柱のおもむき・・と言ったら言い過ぎだろうか? ゴシック建築の柱からアーチへのカーブなども連想させる太い芯。カンラン→ガラン(伽藍)の音も響いている。


考へたすゑに巣箱へ入りけり   生駒大祐

設置した巣箱をじっと見ている。鳥は来てくれるだろうか? 待つ(ドキドキ)。・・・おおついにやってきたぞ! 首をかしげるような仕草がじれったいが・・とうとう入ってくれた・・ああでも本当に気に入って居着いてくれるだろうか・・・シンプルに見えて、いくつもの時間がたたみこまれた句。

ひぐまのこ梢を愛す愛しあふ   同

熊の子の愛らしい様子は、いくら見ていても見飽きない。梢とじゃれあっているのだろうか。「愛す愛しあふ」のリフレインが口唇期のねっとり感をうまくとらえていると思う。


改札にスパイス匂ふ夕薄暑  栗山 心

この句だけ見れば何やら異国の情景のようにも思えるが、ここは世田谷下北沢。匂いはダイレクトに記憶と結びつく。巻頭にこの句があることによって、テーマである街へ入っていく導入部(改札)を果たすとともに、記憶の中の街であることを印象づけている。

劇場へ近道ありぬ梅雨晴間   同

駅前の市場は健在なのだろうか? 再開発のニュースを小耳にはさんだのはずいぶん前のことになる。多くの劇場が点在する下北沢。迷路のような街に分け入って会場にたどりつくところから、もう演劇が始まっているのだ


第271号
栗山 心 下北澤驛前食品市場 10句 ≫読む
第272号
生駒大祐 水を飲む 100句(西原天気撰) ≫読む
第274号
小池康生 光(かげ) 10句  ≫読む
第275号
御中虫 もようがえ 10句  ≫読む

2012-01-22

〔週俳12月の俳句を読む〕笠井亞子 ベテラン

〔週俳12月の俳句を読む〕
ベテラン

笠井亞子


しほたれておでんの湯気の当たるまま  太田うさぎ


「潮垂れる」。こういう字を当てるんですね。海水などに衣服がぬれてしずくが垂れる。涙をながしてなげきかなしむ。みじめったらしい様子になる。と辞書にはある。

いいなあ「しほたれて」。「うなだれて」では全然感じが違うし「しょぼたれて」でも。この時、作者は「しほたれている」というほかない自分を発見したということなのだ。こんなコトバはベテランにしか出せません。

四角いビルの四角いオフィスで日々を送るようになって何年になるだろう。効率を優先させるリニアな日常。疲れる。直線ばかりではね。少々のことではたじろがないつもりだったが、今度ばかりは参った。かなりなさけない事態だけど、まあそういうことだってある。

どんな事があっても、次の日はしゃきっと、いつもの自分を仕立て直して職場に出る。そういうあたりまえを自分に果たしてきたし、肝に命じてもいる。もうベテランなんだから。そのためには少しのお酒と、そう、この時期ならおでんが必要なのだ。

塩・タレ・おでん・まま(「当たるまま」には「アタリメ」も隠れていたりして)と、食べ物の音が連鎖して楽しい。

まあるい大根に箸を入れれば、ふわっと湯気がたちのぼった。

第241号 2011年12月4日
原 雅子 或る日 10句 ≫読む
高勢祥子 水音 10句 ≫読む

第242号 2011年12月11日
渋川京子 黒セーター 7句 ≫読む
山田露結 中古の夢 7句 ≫読む
阪西敦子 年の夜 7句 ≫読む
小野あらた 粗目 7句 ≫読む

岡野泰輔 行く年 7句 ≫読む
太田うさぎ 歌謡曲 7句 ≫読む
津久井健之 ボウル 7句 ≫読む

2007-12-16

第34号 2007-12-16 10句作品 テキスト

 page   笠井亞子



すさまじき背中向けたる広辞苑

七五三落丁もあり乱丁も

文中の喧嘩の果ててより時雨

枯庭や栞の分けるきのふけふ

一葉忌句点ほろりとぶらさがる

古本に裾野がありて寒の猫

行間を出て帰らぬ鴨となり

襟巻や誤読のやうに夜が来て

真夜中の頁を渡る兎かな

図書館の暗さに似たる冬と思ふ





 幻魚   相子智恵


地に雪嶺生れ雪嶺に雲うまれ

連山は雪積みてこそ空に鳥

枯野なり鈴結はへたる乳母車

勢ひの落葉の中を人消えぬ

冬の日や額縁ばかり大きな絵

鶏の餌を撒きてむせたる冬日かな

短日の鳩寄り来るや何も遣れず

ひよろひよろと幻魚干されぬ雪催

深海に幻魚どろりとクリスマス

富士壺の口寒月の照らしをり