2012-08-12

【週俳7月の俳句を読む】全部子どもの中に 笠井亞子

【週俳7月の俳句を読む】
全部子どもの中に
笠井亞子


もようがえ   御中虫

はつなつのとびらはづしてもようがえ
てはじめにふすますてますかあをいねこ
しちがつなのかかべはどうしてあるのかな
あおいあさがおらせんかいだんくみたてる
ゆかいたつきぬけてんじょうぶちぬきひまわりどっかん
すぺーすすぺーすだいじなものはなにもない
せんぞのはかはたぶんもえないごみだろう
りびんぐはみんぐはなうたとまらぬあをいこいぬ
ねえもおすなおにわたしのよこでねむったらあ?
もようがえおえしをとこをおりたたむ


この十句。見事なまでに一枚の模様になっているなあと感心した(老眼も手伝って)。表意文字である漢字を使わないだけで、あっという間に可読性というものは落ちる。たとえば、二句目の「あを」というコトバも、かなの海を泳いで行って、たどりつくまでは「ねこ」の色だと解らない(それ以前に、あを=青であることさえ不確かだ)。用心深く、頭からゆっくり読んでいかざるをえない。

俳句は短く、(多くは)一行だから、ともかく要素としての漢字が目にとびこんできてしまう。それは「イミ」を理解することとほとんど同時だ。このぐにょぐにょのたうつ「かな」の十句は、イミよりも前に、一字一字を一音一音読ませることがしかけられた作品なのだ。

そう、なんのことはない、子どものように読めと言っているのである。そう思うと、無季もあり、表記がばらばらだったり文語や口語が入り交じっていることさえ、なにやら楽しくなってくる。若さも韜晦も、甘えも皮肉もコトバ遊びも、全部子どもの中にあるとでもいうように。俳句にも、このような実験的方向があると思えるのは愉快だ。


空白の行を涼しく挟みをり   小池康生

空白であるのも行、空白を作っているのも行。ネガポジのポジがこの場合空白なのである。その把握がクール。

甘藍の一葉毎に厚き芯   同

このように表記されると、キャベツは何か建造物のように思え、芯はさながら壁をささえる柱のおもむき・・と言ったら言い過ぎだろうか? ゴシック建築の柱からアーチへのカーブなども連想させる太い芯。カンラン→ガラン(伽藍)の音も響いている。


考へたすゑに巣箱へ入りけり   生駒大祐

設置した巣箱をじっと見ている。鳥は来てくれるだろうか? 待つ(ドキドキ)。・・・おおついにやってきたぞ! 首をかしげるような仕草がじれったいが・・とうとう入ってくれた・・ああでも本当に気に入って居着いてくれるだろうか・・・シンプルに見えて、いくつもの時間がたたみこまれた句。

ひぐまのこ梢を愛す愛しあふ   同

熊の子の愛らしい様子は、いくら見ていても見飽きない。梢とじゃれあっているのだろうか。「愛す愛しあふ」のリフレインが口唇期のねっとり感をうまくとらえていると思う。


改札にスパイス匂ふ夕薄暑  栗山 心

この句だけ見れば何やら異国の情景のようにも思えるが、ここは世田谷下北沢。匂いはダイレクトに記憶と結びつく。巻頭にこの句があることによって、テーマである街へ入っていく導入部(改札)を果たすとともに、記憶の中の街であることを印象づけている。

劇場へ近道ありぬ梅雨晴間   同

駅前の市場は健在なのだろうか? 再開発のニュースを小耳にはさんだのはずいぶん前のことになる。多くの劇場が点在する下北沢。迷路のような街に分け入って会場にたどりつくところから、もう演劇が始まっているのだ


第271号
栗山 心 下北澤驛前食品市場 10句 ≫読む
第272号
生駒大祐 水を飲む 100句(西原天気撰) ≫読む
第274号
小池康生 光(かげ) 10句  ≫読む
第275号
御中虫 もようがえ 10句  ≫読む

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