2019-11-17

【週俳10月の俳句を読む】感情の流れのひとかたまり 谷口慎也

【週俳10月の俳句を読む】
感情の流れのひとかたまり

谷口慎也



対象作家となる青本瑞季さん、青本柚紀さんにはそれぞれの短文が付いていたので、作品共々興味深く読ませてもらった。また上田信治さんが同じところで、この両者の「書法」の一端を、「言葉の音や働きを細かく分節し再構成する」と的確に指摘している。従って私はそこを少し離れて、別の視点を設定してみたい。

◆青本瑞季「ありえない音楽が聞こえる」

冒頭句から順に作品を繰り返し読んでいると、そこには明らかに作者のひとまとまりの「感情の流れ」が見えてくる。すなわちそれが15句という束となって提出されている。従ってタイトルの中の〈音楽〉とは、作者のある日ある時を端緒とした、ひとまとまりの「感情の流れ」(音韻や音調)のことに違いない。

そこを押さえておいて、先ず目に留まったのは、下五に置かれた次のような言葉―〈はれやかに〉〈軋みつつ〉〈重くのべ〉〈痩せて背は〉〈かきくらす〉〈さやうなら〉―等々の感情表現であり、結果として書かれた作品の上の句は、下五の言葉に収斂されていくかに見える。すなわち、感情体である作者の文学的な居場所はなべてこの下五にあり、すなわちここが作者にとっての創作モチーフの在り処なのではないか。

夜ゆゑに文月は草木はれやかに  青本瑞季

燃えるたび鹿は麓をかきくらす  同

感光の渦の鰯よさやうなら  同

一句目は、〈文月〉の夜の湿りと月光に照らされた〈草木〉。それが実際の景であっても、ふと頭の中に想起されたものであってもかまわないが、作者の直観はそれを素早く「晴れやかなもの」として把握したのであって、その景と作者の感情には何の隔たりもない。二句目の〈かきくらす〉は古語。恋の歌によく使われている。であれば〈燃える〉のは胸の内。それが〈麓をかきくらす〉〈鹿〉とぴったり重なり合う。三句目。〈感光の渦〉に〈鰯〉を配合するような句を見たことがない。それは一瞬の光景だったに違いない。一瞬を言い留め、そしてすぐさま「さやうなら」とくる。即ち「反故」である。これはまた、「へーっ」と感心している私(すなわち読者)までもが切り捨てられたような気になり、なんとも愉快な気持ちになる。

つまり作者は、その時々の自分の気持ちに素直に従ってひとまとまりの作品を書いているのだ。それが他者に理解されるかどうかよりも、只々、その時々の気持ちの流れ、すなわち「感情の流れ」を大切にしているのではないか。極端に言えば、あとは読者がどう解釈するかは二の次の問題となる。

泪声ほやほやと野の鶉なる  同

これは15句中で、私が最も好きな句。何とも言えずこちらが〈ほやほや〉となる。古くを言えば、〈鶉〉は鳴き声の鑑賞用として一家に飼われていたものでもある。であれば、〈野の鶉〉にはなつかしささえ伴ってくる。〈泪声〉と共にあるその〈野の鶉〉に託されたものは、遠いものへのある種の親和性という感情ではなかったか。

パラフィン紙ひよの盛りを入日して  同

萩に衣服を歌ふ手つきでこぼれだす  同

ところがこれらの句は、一連の句巻物のような感情の流れを一時停止させる。他者の理解を考えるよりも先ずは作者の言いたいことに従っている。

一句目の〈ひよ〉は「鵯」。その貪欲な食欲へ〈入日〉が差し込む。すなわち「落日」。そういう光景に半透明のフィルターをかける。それが冠としての〈パラフィン〉。それによって、作者の痛みに似たやさしさが感じられるのではないか。二句目はさらに複雑。〈こぼれだす〉はまた「溢れ出す」でもある。この7・7・5音は意味の上では、14(7+7)+5音となっている。その〈こぼれだす〉までに作者の感情は〈萩〉・〈衣服〉・〈歌ふ〉と分断され〈手つき〉に掛かるが、その分断を辛うじて繋ぎ止めるのが〈に〉〈を〉という助詞である。だがその助詞も日常的な文法の体をなさない不安定なものである。さらに、だが、そう表現しなければ作者は自分の〈こぼれだす〉感情にまでは辿り着けなかったのではなかろうか。だが不思議なもので、これまた何度も読み返すと、〈萩に衣服を歌ふ手つき〉のフレーズも、超論理的に理解できたように思えるから不思議である。

◆青本柚紀「水の回遊記」

この作者は一句構成においてかなり意識的である。

同時掲載された論評【内容/形式についての覚書】は、山口誓子の「連作」論であったが、なかなか熱のこもったものであった。そこに作者が見ているのは「連作形式はあくまでも一句の外の形式である」ということだ。柚紀さんが引用しているのは、誓子の《連作俳句は如何にして作らるゝか》(S・7年「かつらぎ」10月号)からの引用であったが、同じ年の「かつらぎ」4月号で誓子は《「連作廊」雑言》として、『連作俳句の内容は之を「全」として見れば、畢竟「感情の流れ」であった』と書いている。

(もうお気づきの方も多いと思うが、先の私の瑞季作品評は誓子の「連作論」を下敷きにしている。何故なら、瑞季・柚紀作品ともども、感情の流れが、ある統一感のもとに書かれているからである)

ただ柚紀さんにおいては、「連作」は「一句の外にある形式」という認識を明確に持っている。すなわち、あるとき発生した「感情の流れ」(すなわち個々の作品)は「連作という形式」を生み出すということに自覚的であるということだ。「水の回遊記」もまたそれを下敷きにして、独特な作品(連作)を生み出している。

浮舟よ口に棗の緋を交はし  青本柚紀

仮枕手を流れ出て色は葛  同

くだる身のあなたを波になる菊が  同

萩は目に奥をひづめの澄みながら  同

いろは坂昏くてとどく雁の呼気  同

まばたきをうすももいろの鵙の木々  同

満ちて野の花さいごの水の輪を鳥が  同

ここは月の間千の夜がどしや降りで来る  同

好きな句を挙げてみたが、どの句も語りだせば多くの字数を要するものばかりだ。また一句には多くの「色」が取り入れられているのが特徴的だ。ひとかたまりの「感情の流れ」が、個々の句の構成の工夫によって、「連作」により複雑な、より緻密なハーモニーを醸し出している。ゆっくり味わうべき作品である。

余談になるが、「連作」という言葉は、今あまり俳壇では聞かない。誓子の唱えた古臭いもの、と人々が何とはなしにそう思っているからなのであろうか。それとも、すでに当たり前のこととして私たちが認識しているからであろうか。

だが個の感情の流れのひとかたまりは、絶えず場所を選ばずにどこかで発生するもので、それがある程度続けばその「連作形式」は自然に消滅するものである。だがしかし、またあるときまた別の感情の流れが生まれてくる。人間の生活も然りである。

一冊の句集も、それが平面的な編年体で構成されるものが今も多いが、まさに多面的に違ったひとまとまりの作品を所収する句集も増えてきた。例えば関悦司さんの『六十億本の回転する棒』や近くは小津夜景さんの『フラワーズ・カンフー』など。それらの句集の章分けには違った感情の流れが多面的に構成されている。すなわち句集一巻は「連作形式」になっていると見ることもできるのではないか。


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651号 20191013
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