【句集を読む】
祝祭的迷子、あるいは中嶋憲武『祝日たちのために』に捧げる小さな覚書
小津夜景
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「もし、きみが、幸運にも、青年時代にパリに住んだとすれば、きみが残りの人生をどこで過ごそうとも、それはきみについてまわる。なぜなら、パリは移動祝祭日だからだ」と、ヘミングウェイは書いた。
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このエピグラフから始まる彼の著書『移動祝祭日』には、彼がガートルード・スタイン、エズラ・パウンド、スコット・フィッツジェラルドをはじめ、数多くの芸術家たちと交流しながらパリで過ごした日々が甘美な郷愁に満ちた筆致で描かれていて、彼にとってのパリ時代がどれだけかけがえのないものだったのかが手に取るようにわかる。
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ヘミングウェイに限らず、誰にとっても青春はかけがえのないもので、その時代の経験は重要なピースとしておのおのの肉体に深く組み込まれている。ある人が青春時代になにがしかの幸福な時間を過ごしたならば、どこへゆこうとも、その一片の思い出は祝祭のように心躍るものとして生涯ついて回るだろうーーそれがパリであろうとなかろうと。
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中嶋憲武『祝日たちのために』に収められた言葉は、それぞれに奇妙な祝祭性を帯びている。ページをめくるたびに出会う、でたらめ風を装った一句。まるで移動祝祭日のスクリーンショット集みたいに。
迷宮へ靴取りにゆくえれめのぴー
えれめのぴー、すなわちLMNOPという描写から、私は、作者が靴を取りに行った迷宮とは「文字の迷宮」なのではないだろうかと空想する。この句集の基本的構図はおおむねシュルレアリスムだから、それを「文字の迷宮」であるという風に思い描くと、全体の雰囲気ともしっくりくるのだ。
自分より孤独春風へハロー
構図がシュルレアリスムだとすれば、色彩はポップである。とりわけ切なさと軽さの二色が基調であるとおぼしい。
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17種の散文も載っている。
北の風が夜会服を身に纏い、私の前に立つ。アラベスクの低く流れる夕方。電柱の陰に宴が始まると、招待客は皆一列の楽譜だ。私と北風は南へ渡るペリカンのように、遠い星を一つ落とす。ヘミングウェイが遭遇した1920年代のパリの言語空間は、まさにこうした華麗なる錯乱そのものだったに違いない。
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中嶋憲武『祝日たちのために』もまた、混迷や錯乱を生きることが、おそらく幸福の意味を担っている。迷子になれる靴を履いて、言葉と言葉の間をさまようこと。それは人生における一つの流儀であるとともに、あの祝祭の日々のロスト感覚にくりかえし出会う方法でもあるのだ。
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